第22話 シャチとサメの兄

 午後三時頃、松葉づえと首にコルセットを巻いた男性が牛鬼ボクシングジム内にやって来た。

 短めの黒髪で、鋭い目つきと鍛え抜かれた体格。やくざのような雰囲気だが恐怖感は無い。

 私服なのか、大学生っぽい服装だった。デニムのズボンに少しゆったりとした黒色の長袖。

 コルセットを付けているのに銀色のネックレスが見える。少しラッパーっぽい。赤茶の革靴を履いており踵をジムの床に当て、コツコツと音を立てながら歩いている。

 だが、松葉づえを使っていることからして体の動きがぎこちない。脚を骨折しているわけでもないのにカックンカックンとブリキのような動きだ。


「鮫島さん……。ど、どうしてここに……」


「久しぶり、海原君。と言っても、俺が入院中は毎週来てくれていたら、それほど久しぶりと言う訳でもないか。にしても、仕上がってるじゃないか」


 鮫島和利(さめじま・かずとし)、インターハイ三位入賞を果たした経験がある実力者。

 今年の三月、彼最後の大会でスーパーミドル級に出場していた。

 僕が決勝で戦ってボクシング人生を終わらせてしまった相手……。毎週欠かさずお見舞いに行って顔を合わせて来たので、どこか距離感が近い知り合いになっていた。

 彼の顔を見たら頭が上がらず、頭をずっと上げ下げして謝る。

 その都度、握り拳を鹿威しのように脳天に打たれる。

 鮫島さんは謝られ続ける方も面倒臭いと言い、歯を見せるほど笑っていた。僕だけの責任ではなく、自分の腑抜けた精神の結果だから、気にするなと言われるものの気にしない方が無理だと思う。


 僕は鮫島さんの手を持ちながらパイプ椅子に座らせる。


「えっと今日はどうして……」


「なに、ちょっくら偵察ってところだ。海原君は俺を負かしたんだ、県大会に当然出るんだろ?」


「い、一応……。でも、あの時の後遺症と言うか、トラウマと言うか、相手の顔を上手く殴れません……。イップスってやつですかね、顔を殴ろうとすると体が強張ると言うか」


「そうか、申し訳ない。謝らせてばかりで俺も申し訳ないと思っていたんだ。やはり、俺も謝っておく。あの時、他の大会に一切出ていなかった君を俺は明らかに舐めていた。だが、一瞬で確信したよ。この子は大海原で誰にも見つからずに漂っていた化け物だってね」


 鮫島さんは終始笑顔で話していた。どうして、そこまで笑顔でいられるのか僕にはわからない。


「そう思ってから本気で戦ったが、驚いた。拳は当たらないし、速いし、一撃が重いのなんの。俺の伸び切っていた鼻がへし折られた気分だった。あの時の左は俺のボクシング人生で最後にして最高の一撃だった」


 鮫島さんは左拳を左頬に当てる。実際はほぼ真正面からの一撃だったのだけど……。


 僕は言葉がつまり、しどろもどろになっていた。桃澤さんの声が出せない気持ちが少しだけわかった気がする。

 いったん落ち着いていると鮫島さんは僕が先ほど読んでいたスポーツ紙に目を向ける。すでに高校を卒業している彼が偵察に来たと言うのは誰かのためだろう。

 僕の方も話を聞く権利はあるか……。


「鮫島さんは鮫島昇の兄ですか?」


「お? 海原君は昇を知っているのか?」


「知っていると言うか、丁度さっきスポーツ紙に乗っていた記事を会長に見せられました。本当は見たくなかったですけど……。ただ、ものすごく怒っているのが伝わってきました」


「……そうだな。あいつは今、怒りに飲まれている。ボクシングを復習の道具に使おうとしている。今回の偵察は建前、実際は昇の件で話がしたかったんだ」


 鮫島さんは僕の顔を見ながら真剣な表情を浮かべていた。両手を膝の上に乗せ、深く頭を下げて来た。一瞬、意味がわからず、僕は困惑する。


「海原君、俺の弟の目を覚まさせてくれないか。ボクシングは復讐のためじゃなくて魂をぶつけ合うスポーツなんだ。俺が愛してやまないボクシングをあいつに叩き込んでほしい」


「え、えぇ……」


 鮫島さんが言うに、鮫島昇は僕を倒すためだけにボクシングをしていると言う。同じ左利き、階級もミドル級、兄から見て弟の方がボクシングを楽しむ才能があったと言う。

 だが、ボクシングを楽しむ才能を捨て、修羅を突き進むように憎しみを糧にして僕をリング上で叩きのめそうと、兄と同じ目に会わせてやろうと考えているらしい。


「今の昇がこのまま海原君を倒したら、燃えカスになってしまう。ボクシングをきっぱりと止めてしまうかもしれない。俺を倒した実力は本物だったと、また、こいつに挑んで勝ちたいと思えるような試合をして欲しい」


 鮫島さんは頭を下げ続けながら言い切った。

 今の僕に鮫島昇を改心させるほどのボクシングが出来るとは思えない。顔も殴らず勝つと言うことすら普通無理なのに……。

 それでも僕は勇気を与えたい相手がいるんだ。いつ鮫島昇に当たるかわからないけれど、その時になったら全力で戦うだけだ。

 恐怖の相手に立ち向かう時こそ、勇気が必要になる。必死に戦っている姿、どれだけ殴られても堂々と立っている姿、勝者が手をあげる姿。

 勝っている者だけが勇気を与えられる訳じゃない。強敵に立ち向かっていく姿や不利な状況から決死の一打を放つ姿、ボロボロになっても立ち上がる姿。

 ボクシングは敗者勝者、どちらでも周りの人を勇気づけられる。まあ、桃澤さんに言われるまで気づかなかったけれど。


「僕は……、対戦相手と全力で戦うだけです。鮫島さんの臨む結果になるかどうか、わかりません。でも、鮫島昇が相手になっても手加減をするつもりはありませんから、安心してください」


「その言葉が聞けて安心した。やはり海原君は強者と弱者の面を持っている。弱者と言ってもそれは弱さじゃなくて、さらなる高みへと昇ろうとする推進力になる。強者しか持ち合わせていない者はいずれ奢れる。それで化け物みたいなやつに食われるんだ」


 鮫島さんは僕や愛龍の姿を観察した後、立ち上がった。


「じゃあ、俺はもう行く。あまり長居すると、あの超怖い会長に締められそうだ。海原君、試合会場でまた会おう。イップスのこと、昇に伝えないでおくよ。あいつ、そう言うの気にする奴だからさ」


 そう言って鮫島さんは手を振りながらジムを後にした。

 彼が来た時は緊張で口から胃が出そうになったが、彼が帰ると無性に練習したくなった。もう、ヘロヘロのはずなのに……。もしかすると、少し楽しみなのかもしれない。負けたくないと言う気持ちが恐怖心を上回っているのかも……。ほんと、僕は調子が良い奴だな。


 手の平を見ると、すでに震えている。恐怖からではなく、僕を倒したいと思っている相手が首を狙っている事実を知ってわくわくしてしまっているのだ。


「勝つか負けるか、戦ってみるまでわからない。体力の枯渇した中でどれだけ戦えるのか。長い戦いに耐える体力がいるよな……。こんな所で休んでいる場合じゃない」


 僕は鮫島さんが帰った後、汗だらだらになるまで拳を振るい、筋肉が痙攣しそうになるまで筋力トレーニングに励んだ。

 ふらふらな状態で、今にも倒れそうになりながらプロテインを飲む。

 もう、眠ってしまいたいが僕は夕食の買い出しに行かなければならず、いったんシャワーを浴びてから服を着替えた。

 愛龍は仕事中~と言いながら僕に雑用を押し付けてくる。そう言われたら、僕は何も言えずお金とエコバックを持ち、大増量で安い品を求め業務スーパーに向かった。

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