第16話 ベルーガ視点四
「まったく、あのバカ。一人で突っ走って行っちゃったよ」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
「ん……、芽生、大丈夫? どこか痛くなった?」
愛龍ちゃんは呼吸が乱れている私の背中をさすり、顔を覗き込むように話かけてくる。
私は頭を横に数回振るが、心臓の高鳴りが一向に収まらない状況に先が見えない恐怖を覚えていた。
――う、海原君の体、ゴツゴツしかった……。お、男の子ってあんなに逞しいの。
私は酔っぱらった元父に抱き着かれた経験がある。酒やたばこ、汗臭くて息が吸えたものではなかった。力が強くて私は何も出来なくて、悲鳴を必死にこらえていた。その時の恐怖はたまに夢に見る。
だから、海原君に抱き着かれた時、一瞬叫びそうになった。でも、ほんの数秒だけ、ギュッと抱きしめられただけ。
彼はすぐに離れ、何度も謝って来た。大丈夫と伝えたが、今、全然大丈夫じゃない状況だ……。
体の芯が焼き石になってしまったのではないかと思うほど体が熱い。心臓がどどどどっと鳴り響いて息苦しい。
抱き着かれた瞬間は怖かった。でも、すぐに恐怖心は無くなり優しい温もりに包まれたみたいだった。
日の光を沢山浴びた布団を体に巻き付けたみたいな優しさで、そのまま抱き着いていてほしいと考えてしまった。ちょっと事故で抱き着かれてしまっただけなのに、息も出来なくなってしまいそうなほど身がおかしくなっている。訳が分からない。
今日の朝も、
午前三時頃、妹が帰って来て第一声に「遅れてごめんなさい」と謝ってきた。いつもは、無言で私の横を通り過ぎていくのに。
その後に言った一言が、今と同じくらい訳が分からなかった。
「私、好きな人のために更生する……」と言ったのだ。
なんで、夜遊びして好きな人が出来たら更生するの? 夜遊びする男なんてゴミしかいないでしょ?
いつも母の化粧道具でスッピンの私と違って完璧な化粧を施しているのに今日見た時は化粧がぐっちゃぐちゃだった。
いったい何があったのか聞いても「超カッコイイ人に会った」とか「あんなにカッコいい人他にいない」とか「あの人にふさわしい女になる!」とか……、昨日までものすごく不良だった妹が、一夜にして改心してしまった。
恋は女の子を変えると言うが、ここまでの力があるとは思わなかった。学校に行く準備もするし、金髪は出来る限り切るし、私が何度叱っても聞く耳持たずだったのが嘘みたい。
どこかの誰か知らないが、妹をここまで改心させてくれてありがとうございます。と両手を握りしめながら祈った。
妹が改心してくれたのなら、弟も恋すれば改心してくれるかもしれない。ほんと、変わるために必要なのは小さなきっかけなんだなと再確認した。
私も、水族館で海原君と会って何か大きな歯車ががっしりと嵌り、空回りしていた人生がしっかりと回り出したらしい。
私は愛龍ちゃんと一緒に電車に乗る。自転車通学も初めのころしていたが、いつの間にかサドルが盗まれると言いう被害にあい、怖すぎて電車の定期券を買った。学割が聞いたので三年間通っても少し高い自転車くらいの値段で済み今の通学方法に落ち着いた。長椅子に座れないのはいつものことだが、八分程度で目的地につくので気にならない。
「芽生、なんか雰囲気が変わったね」
愛龍ちゃんは電車の中だと私が文字を書きにくいからほとんど話しかけてこないのに、今日は珍しく話しかけてきた。
私は首を傾げ、仕草で感情を伝える。
「成虎もね、最近、雰囲気がすっごく変わったの……。もうね、昔に戻ったと言うか、昔以上にカッコよくなっちゃった……。誰のせいかな?」
愛龍ちゃんは私の方をじーっと見てくる。まるで猫が獲物の魚を睨みつけている時のよう。そりゃあ、海原君とずっと一緒に生活している愛龍ちゃんからしたら些細な変化でもわかっちゃうんだろうな。
私から見たら彼はそんなに変わっていないような気がしない。でも自分の変化はよくわかる。彼に感化されてしまったのは明白だった。
「成虎ね、私のことちゃんと女の子として見てくれてるんだよ~。昔から男子は私のことをゴリラとか熊とか、虎とか、何なら龍って言ってくるのに、私をちゃんと女の子として見てくれている。私より断然強いんだよ。もう、ミット打ちの音が拳銃みたいなの」
愛龍ちゃんは自覚していないかもしれないが、彼女の話しはいつも海原君の内容ばかり、明らかに好きなんだろうけど、本人は全然自覚が無いと言うか、家族の自慢話をするように満面の笑みを浮かべている。
――どうしよう、一年生のころは聞けたのに、今じゃ耳に全然入ってこない。
その後も、海原君の手料理が美味しいだとか、全身バッキバキだとか、案外ムッツリスケベとか、私の知らない海原君の話を親友から聞かされると言う地獄が八分続いた。
そりゃあ、出会ってまだ一ヶ月程度の私と一〇年以上一緒に生活している愛龍ちゃんじゃ海原君について知っている内容の差が大きく出るのは仕方がない。
学校の近くの駅で降りて百メートルほど歩けば学校に付く。その前に、一言だけ愛龍ちゃんに伝えておきたい。
愛龍ちゃんの肩を叩き、後ろを振り向かせる。頬に付けた絆創膏が何とも少年っぽい。でも、やっぱり大きな目とか、整った鼻立ちとか、小顔なのも相まって宝石箱の中に綺麗な品を全部詰め込んでしまったかのように可愛良い。
『私、県大会までに声が出せるようになる』
「……芽生。よく決心した! それでこそ、私の親友だよっ!」
愛龍ちゃんは私にぎゅっと抱き着いてきた。身長は私と同じくらい。ただ、胸がやけに苦しい。美少年顔に似つかない大きな胸が私の胸に押し付けられていた。
制服の上からじゃ彼女のがっしりとした体のせいでわからなかったけれど、思った以上に大きいものをお持ちで……。どこか対抗心を燃やし、私も背をぐっと反らせた。がっしりと抱き合い、親友に今の目標を伝えられてよかった。
駅の待ち時間と電車の移動時間で、ジムを出てからちょうど二〇分ほど経っていた。背後の方から男子と半分の女子から怖がられ、残り半分の女子から尊敬の眼差しが送られている同級生が走ってくる。
「二人共、仲が良いね。じゃあ、愛龍、お先に失礼! 先に学校に付いたほうが勝ち!」
「あっ! ちょ、まてえぃいっ!」
愛龍ちゃんは私を放し、海原君の背後を勢いよく追いかけていた。ものすごく仲良しで、やっぱり羨ましいと思ってしまう。
「なあ、桃澤。お前、愛龍と仲良しなのか?」
背後からいきなり声をかけられ、身を跳ねさせて驚いてしまった。さっきまで後ろにいなかったのに、どこから出て来たのかわからない。裏路地から出てきたのかな……。
黒の短髪で身長が一七五センチメートルを超えている長身の男子。黒い制服のボタンは全て外し、白いカッターシャツの裾はズボンから完全に出ている。なんなら、首元のボタンは外していて、ものすごくだらしない。
ただ、着崩された制服は弟の姿で見慣れているので、たいして違和感はなかった。
でも、全く面識のなかった男子から話し掛けられて困惑してしまった。彼の質問を早く答えようとメモパットに文字を書く。
『愛龍ちゃんは親友だよ。えっと……明神万亀雄君』
「万亀雄で言い。そうか、親友か……。じゃあ、シゲ……、成虎の方はどうだ?」
万亀雄君から海原君と仲が良いかと聞かれた。海原君の名前が出されて、顔がちょっと熱くなる。
『多分……、女子の中では仲が良い方……かな?』
万亀雄君は猫のように鋭い瞳を細め、沢山の痣がある頬が膨らみ口角を少しだけ上げて不気味に笑っていた。
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