第15話 シャチの好きな匂い
「思ったよりも時間を食っちゃったな……。早くしないと、午前五時に間に合わないぞ」
僕は新聞配達をいつもより全速力で回った。三時間が経ち、午前五時頃、約束したとおりに桃澤さんの家の前にやって来た。新聞を配り終えたら、すぐに直帰していいと言われているので問題ない。
桃澤さんは午前五時頃に扉から出て来た。昨日とほぼ同じジャージ。手もとに僕が渡したスポーツタオルがある。
「おはよう、桃澤さん」
僕が挨拶すると桃澤さんはメモパットを取り出し『おはよう』と微笑みながら返してくれた。まあ、僕はもう三時間前に起きているんだけど……。
『タオル、ありがとう。一応洗濯したんだけど……。洗濯用の洗剤とか、柔軟剤とか芳香剤も使ってないからいい匂いはしないと思う』
「ありがとう。別に気にしないよ」
僕は桃澤さんからタオルを受け取る。首に巻くと、ほのかに桃澤さんの匂いがした。ミルク石鹸の匂いかな? 清潔感があって爽やかな気持ちになる。タオルを鼻に押し付けて嗅いでみても、やはりすごく良い匂いがする。
これで芳香剤を使っていないなんてすごい良い石鹸で洗ってくれたのかな?
「桃澤さん、このタオル、腰が抜けそうなくらい良い匂いなんだけど。何か良い石鹸を使ったの? 桃澤さんと似た良い匂いがする。すっごい好きな匂いだ。この匂いの石鹸、僕も使いたいんだけど、どこのメーカーか教えてくれない?」
僕が聞くと桃澤さんの顔がみるみる真っ赤になってメモパットに『海原君の変態! エッチ! スケベ!』とデカデカと書かれてしまった。
発言した言葉を思い返してみると、確かに気持ち悪いかもしれない。やはり、思ったことをすぐ口に出すのは危険だ。
話すのが苦手な僕は筆談の方が向いているな。
頭を深く下げて謝ると桃澤さんは『……許す』とメモパットを使って伝えてくれた。でも、使った洗剤の種類は一切教えてくれなかった。『絶対に秘密!』とのこと……。ものすごく気になるが、絶対に秘密なら仕方がない。
河川敷の方に向って走っていると早朝から努力している若い男性や痩せようと奮闘中の女性、犬の散歩中のご老人たちと行き交う。不良が最も苦手な時間帯が朝だ。そのため、夜の殺伐とした雰囲気は一切無い。
あの少女は無事に家に帰れただろうか……。帰れていたら爆睡中だろう。もう、夜に合わないといいな。
朝はとてもエネルギッシュで、空が明るくなっていくと言う視覚的な刺激が気分を向上させてくれた。桃澤さんも空が明るくなっていくのを見て、目をグワっと開き、口を開けている。おはよう世界! と叫びたそうだが、言葉は出ない。
桃澤さんはランニングと言うより、ウォーキングを一時間しっかりと行っていた。
僕は脚を細かく動かしながら心拍数を上げ、体力をつける。目指している目標は全く違うが、二人で早朝からの練習を経験した。
「はぁ、はぁ、はぁ……。お疲れ様、桃澤さん。じゃあ、僕はジムでトレーニングをしてくる。えっと、今の時間に寝ちゃうと遅刻する可能性があるから、起きていた方が良いよ」
桃澤さんは一度だけ頭を縦に動かした。下たる汗が彼女の頑張りを表していた。
彼女の表情が、バンジージャンプ前に飛ぶ覚悟が決まったときのような物凄く本気だった。このままだと置いて行かれるかもしれないと思い、気合いを入れる。好敵手とはまた違った感覚。でも、彼女がいるから頑張ろうと思える節はあった。
ジムに戻る間もタオルの匂いを嗅いでやっぱり良い匂いと感じる。桃澤さんの隣を走っている時も髪からふわりと漂う石鹸の香りがとても良い匂いだった。って、僕、こんなに匂いフェチだったっけ?
ジムに戻り、意識を保ちながら強力なボディーを放てるように、練習を重ねていく。
午前七時まで練習したらすぐに脱衣所に向かい、服を脱いでシャワーを浴びる。昨日、真面にお風呂に入れていなかったので、汗汚れだけでも落としておきたい。
さっぱりした後、新しい下着と制服を着こみ、洗濯機に突っ込む。まだ、満杯じゃないので、そのまま放置して食堂に向かった。
「はぁ……、万亀雄、また夜遅くに帰って来て顔中ボロボロで……。ほんと、何度叱っても駄目なのよね……」
「万亀雄はバカですからね。バカに何度叱ってもバカなだけですよ」
「そうよねー。ほんと、私に似て頭が悪いんだから。私の頭がもっとよかったら、あの子もマシな子だったかもしれないと思うと、申し訳ないわー」
卯花さんと愛龍が万亀雄を完全にバカ扱いしていた。
いや、卯花さん、あなたのお子さんをバカ呼ばわりされて怒らないんですか? 親公認のバカって……。万亀雄は学校内の試験で上位に入るくらい頭が良いんですよ。それなのにバカ呼ばわりされたら、万亀雄もイラっとするだろうな。
「卯花さん、万亀雄がボロボロって本当ですか?」
「ええ……、もう複数対一人で喧嘩したんじゃないかって言うくらいボロボロだったわ」
「そうですか……」
僕が俯いていると、近くを通った会長のヘッドロックを食らった。
「バカな考えはするなよ。私との約束を忘れたわけじゃないだろうな?」
「り、リングの上以外で人は殴りません……」
「もし破ったら、一生大会に出させない。なんなら、この場から追い出してやる。一生一緒に風呂に入ってやらない」
「さ、最後のは別にどうでもいいこと……、あだだだだだだだだっ!」
鬼に頭を潰されそうになりながら、間一髪耐えてヘロヘロになりながら朝食を得る。ご飯に味噌汁、漬物、鮭と言った栄養価の高い料理ばかり。どれも美味しい。
残っている食材を使って弁当を作り、通学鞄の取っ手を握ってジムを出た。すると、通学前の桃澤さんが立っていた。
『愛龍ちゃんと通学することになったの。通り道だし、丁度いいかなって』
桃澤さんはこの場にいる理由をメモパットに書いて教えてくれた。
「そうなんだ。愛龍と一緒にいれば桃澤さんに誰も指一本触れられないと思うから、安心していいよ。僕が思うに、最強の番犬だから」
「だれが、番犬じゃボケっ!」
愛龍は背後から後頭部をどついて来た。
あまりの威力にバランスを崩した僕は目の前にいた桃澤さんに抱き着くようにして止まる。桃澤さんの小さな肩、石鹸の優しい香り、皮膚のほのかな熱が腕の中にとどまっている。
――お、女の子ってこんなに柔らかいんだ。会長なんて胸以外金属なのに……。
「だぁあああああああっ! 成虎のバカぁああっ!」
僕は誰のせいでこうなったと思っているんだと言いたくなるのを堪え、ガチコチに固まっている桃澤さんから離れる。精巧な銅像かと思うほど動かない。
愛龍が桃澤さんの頬をパシパシと叩いて桃澤さんの意識がようやく戻って来た。
「ご、ごめん、桃澤さん、倒れないようにするので頭がいっぱいで……」
『大丈夫、大丈夫……。ちょっとびっくりしただけだから』
桃澤さんは苦し紛れの笑みを浮かべながらメモパットで伝えてくれた。どう見ても、大丈夫そうじゃない。力強く抱きしめすぎて体が痛くなってしまったのかもしれない。臭くはなかったと思うけど……、男にいきなり抱きしめられて良い気はしないだろう。
僕は何度も謝り、学校まで走って向かった。
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