第13話 ベルーガ視点三
海原君が私のもとから去った後……。
私は八ビート、なんなら一六ビート並に早い心拍の鼓動をその身で受けていた。走っていく海原君の後ろ姿を見つめているだけで心臓が締め付けられる。首に巻かれたスポーツタオルから微かに香る海原君の香りは家中の微かな香水の匂いよりも断然良い匂いだった。
――あ、あれ、私、どうしちゃったんだろう。し、心臓が苦しい……。
私は鉄製の扉を開け、薄暗い玄関に入る。
ボロボロの靴を脱ぎ、経年劣化で浮いてミシミシとなる木製の床を踏んで一歩ずつ前に進んだ。
手洗いうがいをするために、小さな風呂場がある左手側の通路にそれ、突き当りにある洗面台に到着。脱衣所は無く、右手側に風呂場、左手側にトイレがあった。
とりあえず洗面台の蛇口をひねって水を出し、手を洗う。備え付けられた百円均一で買ったプラスチックのコップで鉄っぽい水をすくい、口に運ぶ。がらがらと空気を吐いてうがいを終えた。
汗が付着している顔を洗い、スポーツタオルで軽く拭く。ふと、いつもの癖で顔を洗ったあとに鏡を見た。
天井の白熱電球から照らされている顔が、いつもより明らかに赤い……。運動して血流が良くなっただけでここまで赤くなるだろうか。
『桃澤さんの表情はわかりやすいから……』
私は河川敷で言われた海原君の発言をふと思い出した。感情が表情に出てしまっているのかもしれないと思うと、さらに耳までが赤くなっていく。ぎゅうぎゅうと締め付けられる心臓は息がしづらくなるほどで、これ以上、鏡に映る自分の顔が見られなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ……、や、やっぱり、おかしい……。私、どうしちゃったの……」
時刻は午後五時二〇分ごろ。やると決めていた腹筋を一〇回する。少ないが、ゼロ回よりマシだと思い、プルプルと震えながらやり切った。
勉強机に座り、いつも通り勉強に励む。
貧乏な自分は勉強して奨学金の精度や特待生のようなお金の免除を狙わないと、大学に行けない。そう思って勉強しているが……親が親なら子は子なのか、中々厳しかった。
母を殴ったり蹴ったりしていた挙句、他の女を作って家を追い出してきた糞父は中卒だし、母も高校を中退しているし……、そりゃこうなるよねと言いたくないが勉強は苦手だ。
だからと言って手を抜きたくない。出来ないなら出来ないなりに頑張るしかないのだ。そのおかげで、成績は上の下くらい。
午後六時三〇分過ぎまで勉強したころ、夕食を作る。
料理当番はいつも私。得意と言う訳じゃないが、作れる人が私しかいないから仕方ない。
インターネットがつながる携帯電話があればもっと美味しい料理が作れるかもしれない。でも、私がそんな高級品を買えるわけがないので、テレビで流れていた料理番組の調理方法を紙に書いたりして残している。
母のためにも、少しは体にいい品を食べてもらいたい。と言っても食事に割けるお金も限られている。
今の時代、多少の値上がりでも私たちの家計の首を絞めた。貧乏人の味方もやしと完全栄養食の鶏卵、高たんぱくな肉なのに安い鳥のささみ、と言う食材を使って料理を作る。
午後七時になり、もやしマシマシのもやし卵炒め塩コショウ味と、砂糖と醤油を使った照焼き風ささみを作り、セレクトショップで買った安い炊飯器で安い古米を炊いていた。真っ白ではなく少々黄色が掛かった色。触感はぱさっとしており新米の方が何倍も美味しいがお米を買うのも結構な出費なのだ……。
「お母さん、料理が出来たよ……」
私は母のいる部屋の襖を開け、声をかけた。
母はゆっくりと立ち上がり、寝間着姿のまま、広間の食卓に移動する。
電気代節約のため、広間以外の電気は消し、今にも消えてしまいそうな薄暗い蛍光灯の明りの下で両手を合わせる。
午後七時を越えても、弟と妹は帰ってこなかった……。中学生がこの時間帯になっても帰ってこないと、毎度ながら心配してしまう。
私は携帯電話を持っていないが、母は持っているので、なにかあれば連絡がいくだろうと思うが、反抗期の二人が母に連絡するかはわからなかった。
ずっと一緒にいたのに、心境がまるでわらない。母がこんな状態なのに、なぜふらふらと夜遊びが出来るのだろうか……。
「芽生、私はもうお腹いっぱいだから、残りも食べなさい」
「え……、で、でも、まだ全然食べてないじゃん。もっと食べないと体が持たないよ」
「芽生に一杯食べてほしいの。それと、私のことはもう気にしないで……。私の父と母の家に行けば……、もっと楽が出来るはずだから……」
「な、なに言ってるの……、私はお母さんがいなくなったら嫌だよ……。こんな生活でも、お母さんと離れ離れは嫌だ……。絶対に嫌だ……」
元父と母は親の反対を振り切って結婚した。
その影響で母と母の両親は疎遠になり私は会った覚えがない。母が持っていた写真で少し見たくらい。
厳格そうな着物を着た母似のお爺ちゃんと、綺麗な着物を着たお婆ちゃん。何か独特な雰囲気があり、家の中で取った写真だと思うが壁に掛け軸があったり、屏風があったりと凄い和風な雰囲気だった。
「私は昔からずっと両親に迷惑ばかりかけて来た。勘当も同然で家を出たのに私まで助けを求めるなんて出来ない。でも芽生と怜央、舞だけでも、真面な生活をして欲しい。これは昔からわがままばかり言って来た私のバツなの。三人が一緒に受ける必要はないわ……」
母は自分の責任で辛い生活を送っていると思っているようだった。でも、それは違う。全部あの男が悪い。母を痛み付け、挙句の果てに別の女を作り私たちを追い出したあの男が。二度と会いたくない……。
私は母に少しでも料理を沢山食べてもらった。「お母さんに食べてほしいから作った」と言い、少しでも食べなければという責任感を持ってもらう。それでも、お茶碗の古米と盛り付けた半分程度しか食べてくれなかった。
食後、お風呂場に向って桶に水を張り、布で母の体を拭く。
もう、いつの時代の入浴ですか? と言いたくなるほど節約していた。こんな生活を続けていたら、心がすり減るのは当たり前だ。
私の声が出なくなってから、もっと悪化し、家の中はずっとお通夜状態。誰のお通夜にも行った覚えはないけれど、どんよりとした空気が家の中に立ち込めている。
私の心まで廃れてしまいそうだったのに……、海原君のことを思うと、暗い世界がやけに明るく見えた。だから、母の前でも笑っていられた。もう、感謝以外の言葉が浮かばない。いつか、恩返ししなければ気が済まなかった。
母が寝室で眠ったころ、私もお風呂に入り、ぬるま湯を桶に溜めて濡らしたタオルで体を拭く。髪も桶のお湯に浸して洗い、石鹸の溶けた残り湯で洗濯をするというのが一連の流れ。
でも、さすがに私の体の皮脂や汗が入ったお湯で海原君のスポーツタオルを洗う訳にはいかない。でも、また水を出すのは私の貧乏精神がなかなか許してくれなかった。
結果、石鹸の溶けた残り湯でスポーツタオルや下着類、制服、靴下、ジャージ諸々洗いまくった。お湯を捨て髪に付いた泡を新しく溜めた桶のお湯で洗い流し、その他の衣類もすすぎ洗いする。
「スンスン……」
――く、臭くない。ごめん海原君。私の体を洗った残り湯で洗濯しちゃった。許して。
私の貧乏精神が限界を突破しているような気がする。でも、元父におびえながら、お風呂に入っていたような前の生活に比べたら何倍もマシだ。
洗濯物を籠に入れて、私の入浴も終わった。ここ最近、お風呂のお湯に浸かっていない気がする……。
水槽の中で泳いでいる海洋生物の方が綺麗なのではなかろうか。
バスタオルで体を拭き、服を着替えてから洗濯物が入った籠を持って広間の奥のカーテンを開ける。
テラス戸を開け、物干しざおに掛かっている洗濯用ハンガーにタオルやズボンなどを挟み、服や上着はハンガーでそのまま干す。下着類は部屋干しして、盗難を防ぐ。
男がいるというカモフラージュのために男物の衣類も交え、ちょっとした防犯対策を施す。最悪、悪い人が来たら牛鬼ボクシングジムまで逃げればかくまってもらえるかもしれない。
あそこにいる人たちなら、どれだけ強面の男の人が襲って来ても震え上がると思う。
そんなこと考えていたら小学六年ほどのころ、酔っぱらった元父が風呂場に入って来た光景を思い出してしまった。
本当に自分の父親なのかと疑わしいほどに恐ろしかった。
母を痛み付ける元父が大嫌いで、睨むような視線を向けていたら髪を鷲掴みにされて無理やり引っ張り出された。思い出しただけで怖気がする。寝床を襲われそうになったことも一度や二度じゃない。
母は私に危害が向かったのを察して離婚することを決めてくれた。その時も元父は大分暴れ回った。
私は怜央と舞を守るように抱きしめながら震えていた……。警察沙汰になり、元父が逆切れのように離婚を受け入れそれっきり会っていない。
弁護士を雇おうにもお金は無い。でも、後々恨みを持って近づかれる可能性を考えたら、弁護士に頼んだ方が良いと警察に言われ、お世話になった。
そのおかげか、お金は掛かったが元父に接近禁止令が出された。でも、確実に安全なわけじゃない。いつも恐怖に怯えながら眠る日々。水族館の中で生き物を見てぼーっとしてないとストレスで胃に穴が開きそうだ。きっと、弟と妹がぐれてしまった原因もそこにあるだろう……。
二人が返ってくるまで勉強しようと思ったが、午後一一時になっても帰ってこなかった。さすがにもう寝なければと思い、部屋に布団を敷いて二人の無事を祈りながら眠る。
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