第12話 シャチの貞操観念
僕がリングに上がると愛龍は軽く泣き、胸に何発もグローブを当てた後、すぐにリングを降りる。残っているのは数年前に世界を取った化け物プロボクサーの牛鬼虎珀会長のみ。
僕を睨むその赤黒い瞳は、鬼だからではなく必死に泣くのを我慢して充血した目だった。だが、大量の汗と水蒸気を吸って妙に黄色っぽくなっている天井を見上げ、息を整えた後、僕をもう一度見て言う。
「ここに、なにしに来た」
「勇気を届けに来ました」
僕が真剣に言うと、会長は大笑いして涙を流した。それは一体どういう涙だろうか。だが、すっきりした表情の彼女はミットを構える。
「会長……、僕、県大会に出ます。まだ、相手の顔は殴れませんけど……、それでも出ます。勇気を届けたい相手がいるんです。どうか、僕を強くしてください。お願いします」
僕は会長に腰が九〇度曲がるほど頭を下げる。
「つっ……、たく、ほんまによぉ……、このバカ野郎が……」
会長は僕の頭をミットでパンパンと叩いてくる。大きな平手を頭に受けているようで、脳が物凄い揺れた。会長も僕の発言があまりに無謀だと思っているだろう。バカげていると思っているだろう。だが、一言だけ……。
「わかった。今以上に強くしてやるよ。たぁー、これ以上、成虎が男前になったら、私達はどうしたらいいんだ、こんちくしょう」
会長はミットを勢いよく叩き、周りですすり泣いている猛獣たちに練習に戻れと声をかけていた。その後、僕の方を向いてミットを構える位置を肩より下につける。
久しぶりのリングの上。ゴム製の靴底がリングの板に張り付く感覚がステップを踏むごとによみがえってくる。
「スゥ……、ハァ……。行きます」
僕が会長がはめているミットにグローブを打ち付けると拳銃を放ったかのような爆音が鳴る。
ジム内に電撃が走ったかのような、近くに雷が落ちかのような衝撃で、周りの皆は口を開けていた。
会長の顔はすでに苦笑い。
連続で鳴り響く銃声音は戦場を思わせる。だが、僕の意識は深海に沈んでいく。潜れば潜るほど音や光は届かなくなり、暗くなっていく。それでも、脳は体で動きを覚えているため、視覚や聴覚がなくなっても動く。ミットさえ見えていれば、永遠と拳を振り続けた。
気づけば、息をすることも忘れ、気絶する寸前で会長に止められる。
「成虎、感覚に身を任せすぎだ。集中しやすいのは良いことだが、潜りすぎて相手を倒す本能だけで動いているただの化け物になっているぞ。あの時もそうだ。相手をぶっ倒す気持ちだけを残し、意識を捨て感覚で強烈な一撃を放った。それを意識を保ったまま打つんだ」
「あの一撃はあの時だったから出来ただけで、また出来るとは思えませんし、顔にあれを打てるとも思いません……」
「なに、お前の拳は相手の体に当たれば十分脅威だ。左打なのもデカい。相手の右脇腹下当たりにある肝臓目掛けて確実に打ち込め。それだけで相手は相当きつい。もう、胃がひっくり返るほどの激痛だ。立っていられなくなるほどにな」
「……リングの上でも『陸の鯱』に成れと?」
「そう思えばいい。相手の攻撃は守りながら躱し、こちらの攻撃を当て続ければ勝てる」
「そんな当たり前なことを……」
「お前なら出来るだろう? なんせ、そう言うふうに私が育てたんだからな」
会長は不敵な笑みを浮かべながらミットを外し、グローブに付け替える。すでにヘトヘトの中、血塗られたように真っ赤なグローブを叩きつけ、今から殴り殺すと言わんばかりの会長が攻めて来た。
会長に言われた通り、意識を残しながら戦えるようにどうにかこうにか藻掻いてみるも、会長の攻撃で無理やり意識が沈められる。女性が出していい、拳の威力じゃない。
その後、僕は何分間耐えたのだろう。何回、回避したのだろう。あまり良く覚えていない。
それでは、意味がないだろうとジム内のパイプ椅子に座り込みながら深いため息を吐いた。
時刻は午後七時、すでに練習は終わっており天井に取り付けられている蛍光灯のような細長いLEDの照明が暗すぎず明るすぎない光量で僕を照らしていた。
最近は誰よりも早く寮に戻って寝る準備を終わらせ逃げ籠るように部屋に入っていたのに、今日は僕が最後まで残っていた……。
相手を怪我させる前の自分に少しだけ戻れたような気がした。
「夕食を得てお風呂に入ってさっさと寝よう……。県大会まで、まだ一ヶ月以上ある。焦りすぎるのは禁物だ。自分の体が怪我したんじゃ鮫島さんに申し訳が立たない」
僕はジム内の戸締りを完璧に終え、寮に戻った。
食堂に向かうと猛獣たちも食事中だった。ガツガツ、ムシャムシャ、バクバク……と。ボクサーは体重制限が結構厳しい。
プロの世界だと一七階級もある。重くなればなるほど一撃の重さが増し、軽くなればなるほど俊敏性が求められる。
高校のボクシングは八階級でライトフライ級からミドル級まで。まあ、ミドル級でインターハイを優勝すれば高校生最強と言ってもいいと言うことだ。
僕はそこまで体重が重いわけではない。ボクシングの階級がこれだけ多く設定されているのは、それだけ身体的なアドバンテージが大きいから。大きい人はそれだけで強いし、小さいからと言ってボクシングをあきらめる必要もない。
ボクシングは喧嘩ではなくスポーツなのだ。白熱した試合を見せるのがプロボクサーの仕事で、報酬が得られる。と言ってもプロ一本で食べられる選手は日本一、又は世界一を取った覚えがある選手のみ。だから、会長はジム経営なんてしなくても生きていけるわけだが、一種の趣味だろう。僕たちをボコボコに殴るのが好きなのだ……。
「お疲れ様、成虎君。ささ、一杯食べてね」
今日もウサギのように可愛らしい顔の周りに花が舞っている卯花さんは僕の前に茶碗に山盛りのご飯を差し出してきた。加えて、レバニラ炒めや餃子、シュウマイなどが並ぶ。今日は中華の日かな……。
「卯花さん。家庭もあるのに、僕たちの食事を作ってくれてありがとうございます」
「もー、何言ってるの。ここにいる皆も私の家族よ。家の方は心配しないで、祖母がいるし、夫と万亀雄は遅帰りだから」
「そうですか……。じゃあ、いただきます」
僕は両手を合わせ、すきっ腹に大量の料理を詰め込んだ。
卯花さんの料理が美味しすぎて無理なく胃に入っていく。もう、おふくろの味と言っても過言じゃない。
実際、実の母の料理よりも卯花さんが作った料理を食べた回数のほうが多くなってしまった。まあ、実の母は料理が上手かったわけではないので味の違いははっきりと覚えている。
もう、食べられないのが残念だが、一〇年以上も前の話しだ。さすがに辛さは薄れている。でも、たまに無性に食べたくなる時があるのはどうしてだろう……。
全て平らげた後、僕はハッとした。周りを見渡してみると誰もいない。時刻は午後七時三〇分。お風呂で汗を流してから食事と言う流れが最近の傾向だった。にも拘らず、今日は皆、だれ一人としてお風呂に入っていなかった……。これなら、僕が先にお風呂に入ってから夕食にするべきだった。
脱衣所に恐る恐る行くと、古い蛍光灯が少し曇った光を放っている。壁際に作られた木製の棚に麻で編みこまれた籠がいくつも置かれていた。ところどころに脱ぎ捨てられた衣類が落っこちている。どれもこれも、汗まみれでぐっちゃぐちゃ……。
「さ、さすがに今日は遠慮しておくか……」
健全な男子高校生の僕は洗濯籠に皆の脱ぎ捨てた衣類を纏め、洗濯機にぶち込む。もちろん下着類は一切手出ししていない。
大量に汗を掻いたのに、お風呂に入れないというのは中々に辛い。だが、猛獣と言えど全員女性。なんなら、愛龍まで風呂場にいるだろう。その中に何も考えず入れるほど、僕は貞操観念が壊れていない。
「ねえ、成虎は入らないの~。皆待っているのに~」
愛龍は曇ったスリガラスの扉を少しだけ開ける。濡れた短めの黒い髪と顔だけ見れば会長と同じく美形な容姿。
顔だけなら超美男子ともとれる……が、愛龍よ、スリガラスに体を隠したところで、そんなに近づいていたら体のラインとか色合いとか、諸々わかってしまう訳ですよ。
スラッと長い脚、細い腰つき、丸っこいお尻に小さな肩……。この場に万亀雄がいたら、鼻血を吹いていたかもしれない。
高校生になったらさすがに一緒にお風呂に入るのは卒業すると思っていたのに、なぜ、彼女は未だに僕とお風呂に入ろうとするのか?
僕、男として見られていない?
こっちは健全な男子高校生ですよ。愛龍の体は会長の娘なだけあって胸も結構ある、万亀雄が持って来たエッチな本のタイトルで表すならば、ボーイッシュ巨乳少女と言っても過言じゃない。まあ、彼女の本性を知ればボーイッシュ巨龍と言うに違いない。
「皆が入っているから入れないんでしょうが。はぁ、明日の朝、シャワーでも浴びるか」
「もう、遠慮しなくてもいいのに……」
「愛龍はもう少し女子としての自覚を持った方が良いと思うよ……」
「え……、それはつまり、成虎は私を女の子として見ているってこと~?」
「いや、全然」
「むぅ……、おバカ」
愛龍は舌をべっと出してスリガラスの扉を閉めた。バカなのは愛龍の方だと思うけどね。
僕は制汗シートで体を拭き、脱衣所に設置された洗面台の蛇口から水を出して頭を洗う。
タオルで、髪を拭き顔も洗った。
多少は汗っぽさがなくなりすっきりする。ついでに歯を磨いてトイレを済ませた後に部屋に戻った。
新しい下着とシャツを着てベッドに倒れ込む。洗濯ものは洗濯機が乾燥までしてくれるので、ほっておいてもいい。
目覚ましと午前二時にセットし、午後八時頃、眠りについた。
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