第11話 シャチのやる気
僕と桃澤さんは満面の笑みを浮かべ、拳を放す。
大見え切って彼女に勇気を与えるとか言ったが、僕は相手の顔を殴らずに腰から上、首から下しか狙わず戦って試合で勝てる気がしなかった。
相手が初心者ならまだしも、県大会に出てくる者は皆、大会の規定によりボクシングを一年以上続けている。
少なくとも一年はボクシングに費やしている者達から頭を殴らずに勝つのは銃を持たずに猛獣を倒せと言われているようなもの。もちろん、頭を殴れるよう特訓もする気だが……、そう決めた今ですら手が震えている。
「桃澤さん、家まで送るよ。多分、近くでしょ」
桃澤さんは頭を縦に動かし、僕と軽いランニング……いや、ほぼウォーキングしながら彼女の家に向かった。会話は出来ない。でも、彼女は息を大きく吸い、長く吐きながら歩いている。きっと肺活量を鍛える呼吸方法なのだろう。彼女の首にいつの間にか巻かれた僕のスポーツタオルが彼女の熱った頬から生まれる綺麗な一滴の汗を吸っている。
僕はいつも猛獣たちが汗をだらだら流している姿を見ているから、別に何も感じないと思っていた。だが、桃澤さんは猛獣ではなく……女の子だった。しなやかな手足に細い首、小さな顔、柔らかそうなピンク色の唇、横から見たら驚くほど長いまつ毛。沢山涙を流して汗もかいているのに、メイクが落ちていたり滲んでいたりしてないということはスッピン……。その可愛さでスッピンですか……。じゃあ、学校に来ている時もいつもスッピンだったということか。桃澤さんって美人なんだな。
小学、中学、と猛獣しかないジムで過ごしてきた僕は女の子の可愛さを始めて知った気がする。
目を鋭くとがらせて迫ってきたり、高笑いしながら鳩尾を殴ってきたりしない。ランニング中も背後から食い殺そうと迫ってこないし、暴言も吐いてこない。これが女の子か。
何気に、ジムにいる女性以外の人と友達みたいに話せるのは桃澤さんくらい。他の女子は皆、怖がるか逃げるのに……。まあ、あの愛龍と友達になれるくらい心の広い。同じ貧乏人としての雰囲気が合うのかも。
桃澤さんとウォーキングしている間、妙に楽しかった。会話してないのに、一緒に歩いているだけで、気持ちが上がり元気が増した。ジムに戻ってからの練習も頑張れそうだ。
住宅街を抜け、木造のアパート? っぽい住宅にやって来た。地震が起きたら潰れないか心配になるほど古い木造の建物で、桃澤さんは少し恥ずかしそうに左下の扉の前に立った。どうやら、そこが彼女の家らしい。
家事情は一切聞いていないので、わからないが住んでいる場所からして厳しい生活を送っているのだろう。三食得られている僕の方がずいぶんと裕福かもしれない。
桃澤さんは両手を前に出して、そこで待っていてと言わんばかりにガチャガチャと扉の鍵を開け、家の中に入った。すぐに戻ってくると、手にメモパットがある。はがき程度の大きさなので、沢山文字を書きたくても書けないらしい。
『さっきは、タオルを貸してくれてありがとう。洗って返すね』
『海原君がボクシングを頑張るのなら、私も合唱部、頑張る。歌は心の叫びって海原君の言葉通りだと思う』
『私も、心から叫べるように県大会まで練習とか諸々頑張るよ。明日の朝も走ろうと思う』
『出来たら、一緒に走ってほしい……。凄く遅いと思うけど、一人じゃ無理かもしれないけど、海原君となら何か変われる気がするの』
僕は言葉で返せばいいのに、桃澤さんのメモパットに文字を書いていく。
『僕も桃澤さんとなら何か変われる気がする。明日の朝五時、新聞配達の後に呼びに来る』
桃澤さんは涙目になり、大きく頷いた。
僕たちは互いに互いを応援するために、出来ないことを克服することになった。一人だと怖かったのに、同じような人がいて、その相手も頑張っていると思ったら、怖さが減った。赤信号、みんなで渡れば怖くない理論……。不良みたいな考えだが、心の中だけならいいだろう。
「じゃあ、桃澤さん、また明日」
桃澤さんは深々と頭を下げる。もう、新車を納品したお客様がお店から出ていくときに見せる車屋さんの店員みたいだ。そこまで、されると逆に申し訳なく思うが、彼女の感謝の気持ちがそれだけ大きいということだと解釈し、ありがたく受け取る。
僕は牛鬼ボクシングジムまで勢いよく走って帰り、ジム内に飛び込んだ。
☆☆☆☆
「おらおらっ! どうしたどうした! 腕が下がってるぞ! もっと攻めて来いやボケ!」
「はいっ!」
リング上で会長が両手にミットを嵌め、愛龍が連続で打ち込んでいる。ときおり会長の攻撃を躱し、続けざまに拳を放つ。もちろんグローブを嵌めた状態でパンパンっと爆竹が鳴っているのかと思うほど鋭い拳が放たれていた。
愛龍のミット打ちが終わるまで、僕は拳にバンテージを巻く。
包帯のような布地の品で、拳や手首を守ってくれる大切な前準備だ。これをしておけば、壁を殴りつけたとしても手首が曲がると言った心配はない。最近は適当に巻き付けていた。だが、今日は気持ちを引き締めるために、大会前のように本気で巻く。
その間に集中力を高め、無音の海に潜る準備を始める。
ミットとグローブがぶつかる快音がジム内に何度も響く。グローブとサンドバックがぶつかる衝突音と、タイマーで時間を区切り縄跳びを飛ぶ空気を切る音。
色々な音が溢れたジムの中でバンテージを巻いていると、まるでヘッドホンを付けたかのように音が曇り出す。
音が少しずつ聞こえなくなり、ランニングシューズからボクシングシューズに履き替え、紐を結んでいると海に潜ったかのように静かになった。
後で使おうと椅子の上に置いてあった黒革のグローブを手に取り、嵌める。マジックテープでしっかりと固定し、握り具合を確認。今までと少し違う……。
リングを見ると、汗だくの愛龍と会長がロープに腕をかけ、なぜか微笑んでいた。だが、怖さはない。それよりも、リングに立つ方が怖かった。あの日以降、一切立っていない。
もう、何かしらのきっかけが無いと一生立たなかったと思う。
何かしらのきっかけ、それが今日だった。
桃澤さんに勇気を届けるという何ともカッコつけた理由だが、ボクシングをやる理由すら思いつかなかったころより何万倍もマシだ。
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