第8章:アイドルの重荷

ミユはベッドの中で丸くなり、毛布をあごまで引き上げていた。スマホの画面のほの暗い光が、彼女の顔を淡く照らしている。もう少しで眠りに落ちそうだったそのとき、通知のかすかな振動が彼女をはっと目覚めさせた。


彼女は目を細めて画面を見つめた。


ユメ:ミユちゃん、ひま~ なんとかして~


ミユはぼんやりとまばたきし、目をこすりながらゆっくりと返信を打った。


ミユ:もうすぐ真夜中だよ…


すぐに入力中のマークが表示された。


ユメ:そう、それがポイント。退屈なんだよ。で、それを解消するのはミユの役目。


ミユは小さくため息をつき、体の向きを変えた。ユメの声が聞こえてくるようだった。どこかで足をぶらぶらさせながら、ミユがノッてくるのを待っている、そんな軽やかな調子で。


ミユ:それって、あんたの問題じゃないの。


一拍おいて、ユメから返信が届いた。


ユメ:ひどい。心に刺さったんだけど。


ミユは小さく微笑んだ。でも返事をしようとする前に、またメッセージが届いた。


ユメ:ミユ、寝なくていいの?


ミユは少し眉をひそめた。ユメがこんな普通の——地に足のついたことを聞くなんて珍しい。いつもなら、もっと軽くて、からかうような調子だったのに。


ミユ:ユメこそ。


また間が空いた。今度は少し長い。


ユメ:…寝なきゃいけないけど、寝れない。


ミユの指がキーボードの上で止まった。その返事は、いつもと違っていた。短くて、どこか余裕がなかった。


ミユ:…大変な一日だったの?


しばらく何もなかった。聞きすぎたのかもとミユは思った——深読みしすぎたかもしれない。でも——


ユメ:んー。そんな感じ。


ミユはその返信を見つめながら、胸の奥に奇妙な締めつけを感じた。ユメはそれ以上説明しようとしなかったし、ミユもこれ以上踏み込んでいいのかわからなかった。


こういうとき、どう言葉をかけたらいいのか、ミユはあまり得意じゃない。


でも考える暇もなく、またメッセージが届いた。


ユメ:でさ!今週末、なんか楽しいことしよ?


ミユは戸惑いながら、突然のトーンの変化に瞬きをした。


ミユ:え?


ユメ:反対は受け付けません。水族館行くよ。土曜日ね。ちゃんと準備しといて。


ミユはそのメッセージを見つめた。急すぎる。


ミユ:なんで水族館?


ユメ:だって私がそう言ったから。それにミユちゃんにはもっと視野を広げてもらわないと。


ミユはスマホをぎゅっと握った。そんな場所に行ったことなんてなかった。お洒落な娯楽施設なんて、自分の人生には縁がなかった。どう振る舞えばいいのかさえわからない。


ミユ:行ったことない…


ユメ:じゃあ最高じゃん!初めて、私が案内してあげる~


ミユの心臓がドクンと跳ねた。「初めて」って…それ、デートの時に言うやつじゃ…?


彼女はごくりと喉を鳴らし、顔が突然熱くなった。


でもこれはデートじゃない。もちろん。


…だよね?


彼女はメッセージを見つめたまま、どう返すかを悩んでいた。けれど、またユメからメッセージが届いた。


ユメ:あ、そうだ。言い忘れてた。


ミユは瞬きをした。


ミユ:言い忘れたって、何を?


ユメ:プレゼント買ったよ。


ミユは息をのんだ。


ミユ:え?なんで?


指がこわばるのを感じながら、文字を打った。誰かが自分に物をくれるなんて、理由もなくなんて、今までなかった。


ユメ:あげたかったから。


ミユはそのメッセージを見つめたまま、胸の奥に知らない感情が渦巻くのを感じた。


あげたかったから?


なんで、それだけで心臓が速くなるの?


ミユ:何…なの?


ユメ:ナイショ。明日になったらわかるよ。


ミユは指でスマホをとんとんと叩いた。


ミユ:ずるい。


ユメ:人生ってそういうもんだよ、ミユちゃん~


ミユは小さく、呆れたようにため息をついた。


ミユ:…わかった、待ってる。


ユメ:いい子~


ミユは顔を真っ赤にして、すぐさま枕にうずめた。

ミユは水族館の入口付近に立ち、落ち着かない様子で足をそわそわと動かしていた。建物はスタイリッシュで近代的。巨大なガラスパネルの向こうには、深い青の世界が広がっていた。家族連れ、カップル、友達同士——通り過ぎる人々はみんな、自分よりずっと場慣れしているように見えた。


彼女はスマホを10回目くらいに確認した。


新着メッセージはない。


ミユはごくりと唾を飲み、バッグのストラップをぎゅっと握りしめた。


ユメ、もしかしてからかってる? いや、そんなこと…しないよね?


疑念が心に忍び寄ろうとしたそのとき、聞き慣れた声が響いた。


「うそ、時間通りに来たの?ミユちゃんにそんな能力あるとは思わなかった~」


ミユははっとして振り返ると、コートのポケットに手を入れたまま歩いてくるユメが見えた。


変装は控えめ——ビーニーと大きめのサングラスだけ。でも、それだけでも十分だった。ラフな格好でも、彼女は自然体で目を引く自信に満ちていた。


その一方で、ミユは自分が場違いに感じられて仕方なかった。


彼女は眉をひそめて言った。「遅い。」


ユメはにやりと笑った。「おしゃれの一環ってことで。」


ミユは頬を膨らませ、腕を組んだ。「準備しろって言ったの、あんたでしょ…」


ユメは小さく笑った。「あれ?ミユちゃん、怒ってるの?」


ミユは言い返そうと口を開いたが、ユメのからかうような口調に思わず言葉を飲み込んだ。


そんなふうに言われると、自分が子どもっぽく聞こえる気がして。


でも、ユメの笑い方が、胸にチクリと刺さった——まるで笑われているみたいだった。


彼女は視線を落とした。「…もういい。」


ユメの表情がすぐに変わった。「ねえ」と、今度はやさしい声で言った。


ミユは顔を上げなかった。


肩にそっと触れる軽いタッチ。


「ごめん、ごめん。馬鹿にしてたわけじゃないよ。ミユちゃん、拗ねてる顔が可愛かっただけ。」


ミユはまばたきをした。


顔に一気に熱がのぼる。


「な、なにそれ…!」


ユメはまた笑ったが、今度の笑いは軽やかで、どこか素直なものだった。「ほら、ちゃんと埋め合わせするってば。お魚見に行こう。」


ユメの言葉にまだ動揺しながらも、ミユはされるがままに手を引かれ、かすかに頷いた。


ユメに手を引かれながら、ミユは水族館のガラスのドアをくぐった。館内のひんやりとした空気と水の流れるやさしい音が、外のざわついた世界とはまるで別の空間のようだった。


中は柔らかく拡散された光に包まれていた。通路の両側には巨大な水槽が並び、深い青の中をきらめく魚の群れや、ゆっくりと漂うエイたちが泳いでいた。二人の足音がリズムよく響き、周囲のささやき声と混じり合っていた。


ミユの目はあちこちに動き、すべての光景を吸収しようとしていた——彼女にとってはすべてが新しく、まぶしかった。笑い合う家族や、静かに寄り添うカップルの姿は、少し切なく、そしてどこか自分とは無縁に思えた。それでも、ユメの手のぬくもりを感じて、無意識にぎゅっと握り返していた。


一方のユメは、いつものように自然体で落ち着いていた。彼女の軽快な雰囲気はそのままだった。「見て、あの水槽」と言って、静かに泳ぐエイたちがいる広い展示の前で立ち止まった。「きれいじゃない?」


ミユは無理やり笑顔をつくって頷いた。「すごい…こんなの、初めて見た。」


しばらくの間、ふたりの間に静寂が流れた。ミユがその光景に見とれていると、不意にユメが口を開いた。その言葉に、ミユの心臓が跳ね上がる。


「ねえ、あとでサプライズがあるって言ったよね」と、ユメはサングラス越しに目を輝かせ、いたずらっぽく微笑んだ。「お楽しみに~」


ミユの頭の中には疑問が渦巻いたが、聞き返す勇気はなかった。ただ静かな水族館の空気に身を任せながら、胸の奥でざわめく期待と不安を感じていた。


展示を見て回るうちに、水槽の青い光がユメの顔に反射し、普段人前で見せる自信に満ちた表情をふっと和らげて見せた。ミユはその一瞬の脆さに気づいたけれど、それを深く読み取っていいのかはわからなかった。


やがてふたりは、水族館の奥にある静かな一角にたどり着いた。そこには大きなクラゲの水槽があり、光を放つようにゆらゆらと漂うクラゲたちが夢のような空間を作っていた。床にはその光が反射して、幻想的な模様を描いていた。外の世界はまるで存在しないかのように、ふたりだけの静けさに包まれていた。


ユメは立ち止まり、一瞬だけ沈黙が流れた。そして、いたずらっぽい目をしたままスマホを取り出し、何かを打ち込んでミユに向けて掲げた。


「そうだ、もうひとつ忘れてた…」


そのメッセージと同時に、彼女はスマホを置き、コートのポケットから小さな包みを取り出した。


ミユの目が驚きで大きく見開かれた。「ユメ…それ、何?」


彼女の声は自然と小さくなり、空気は急に親密なものに変わっていた。


ユメの声はいつも通り軽やかだったが、その視線はまっすぐで誠実だった。「ちょっとしたもの。あげたかったから、買っただけ。何かはね、あとで開けてからのお楽しみ。」


ミユは震える指で小さな箱を受け取った。その重みは控えめなものだったけれど、気持ちはずっしりと伝わってきた。クラゲの青い光の下で、ミユの世界が少しだけ変わった気がした。これがただの親切なのか、それとももっと特別な何かの始まりなのか——ミユにはわからなかった。でも、胸の奥があたたかく締めつけられるような、不思議な気持ちが残った。


ふたりは並んで立ち、青い光の中で静かに照らされていた。ほんのひととき、ふたりの複雑な日常は姿を消し、ただその場の優しさに包まれていた。ユメは心の奥に抱えた秘密に沈黙し、ミユは目の前のささやかな優しさを心に刻んでいた。


クラゲの水槽の青い光の記憶が、次の展示へ向かうミユの心にまだ残っていた。水族館の中を歩きながら、外の世界がどこか遠くに思える。


そのとき、ユメのスマホが震えた——突然の、歓迎されない中断。彼女は一瞬ためらい、画面を見た。


送り主はマネージャーだった。


「ユメ、ごめん言い忘れてたけど、医者の診断結果出たよ。あんまり良くないって。しっかり休まないと、スケジュール調整する必要があるかも。」


ユメの心臓が止まりそうになり、目を見開いたまま、急いでスマホを隠そうとした。ミユはその表情の変化に気づいていた。心配と戸惑いが入り混じった目で彼女を見ていた。


「ユメ、大丈夫?なんか…」


ミユが聞き終わる前に、ユメは手早く返信を打ち、軽い調子で話題をそらした。


「んー、なんでもないよ。仕事の話。ねえ、あっちの新しい水槽見てみて!」


ミユは少し眉をひそめながらユメのスマホをちらりと見て、それから水槽へ視線を戻した。「…大事な話じゃないの?本当に大丈夫なの?」彼女はそっと問いかけた。


ユメは無理やり笑って、まるで嫌な夢でも振り払うように首を振った。「大丈夫だってば。今は忘れよ?あっちにすごいネオンの魚がいる水槽があるんだよ、見せたいの。」


ミユはまだ不安な表情をしていたが、次第にネオンの魚の光に心が引かれていった。ふたりで次の展示へ向かって歩くうちに、ユメの不安は少しずつ遠ざかっていった。けれどその目には、まだ消えない影がわずかに残っていた——抱えている秘密と同じように。


やわらかい光に包まれた水族館の中で、ネオンの魚たちがガラス越しに踊っていた。その幻想的な光に包まれながら、ふたりの間に流れる空気も少しずつ穏やかなものに変わっていった。ほんの少しの動揺を抱えたユメの横で、ミユのまなざしは変わらず静かであたたかかった。それがユメにとって、騒がしい日常の中でのほんの一瞬の安らぎだった。


そして、ミユはまださっきのメッセージが何を意味しているのか気になっていたけれど、それでも——今だけは、目の前の美しい時間に集中しようと決めた。その時間は短いかもしれない。でも、偽りの中にあるほんもののような、そんな気がしていた。


※あとがき:すみません!間違って9章を8章として先に公開してしまいました。こちらがこの時点での正しい8章です。9章は来週(6月6日)に、10章はその次(6月13日)に公開予定です。また、今後の章で内容が一部変更される可能性もあります。まだ試行錯誤中ですが、ぜひこれからも見守ってもらえると嬉しいです!


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