E/N’11:“Orbital Outcome”
ルテチアは、
「ルテチア
「
「
「あゝ……
「
「いや、エヽト……
「ぢゃあ、
ルテチア
「……
「エ、
「
ルテチアは、
「——では、
「
「
「——
「はい。
一つ、
「
「
「
「……
「……
「――
「
だが、
「……
「
「……」
「ウエモン……」
セイエイの
「
「……
「あゝ、
セイエイの
「あれは
「
ウエモンの
「あゝ、
「此の
そんな
「
「
「
「
「
「
ウエモンは
「ウム、
「へえ……。
「……ハットゥシャ。
——ウエモンは、
「
「
「……
「あゝ。
ウエモンは
「
「
ルテチアと
セイエイとウエモンは、
「まるで
ウエモンの
「
「
「
「……」
「……」
ウエモンは、ルテチアに
「
「
「ニベタキですか」
「お
「……フ。
「
よって、
「『マコト』、貴方に問いましょう。貴方も『旅󠄀人󠄀』なのですか」
「たびゝと……」
セイエイは呟いたが、青年は笑顔を解いた。
「寺内情栄、貴方への質問ではありません。質問を変えましょう。『マコト』は『世界の旅󠄀行者』か、
「セイエイ、
「完全には解らない。だが、世界の旅行者とは、僕の見た……たゞの夢だ。僕は『旅行者』ぢゃない。奇妙な夢を見ただけだ」セイエイは秘密を打ち明ける。「確かに、君は僕に自らを明かしてくれた。僕が『世界の旅行者』であるか見極めようとした。然うだけど、何故、君は寺内情栄と云う人間に『マコト』なる存在を尋ねるのか。其のマコトに聞けばいいだろう」
青年は
「貴方と云う存在は
マコトの記憶が蘇る。
ウエモンが訊ねた。セイエイに対する質問でもあり、「青年」に対する質問でもある。
「何回目だ」
「二回目の筈です、元津右衛門」
「質問ぢゃない。呆れたんだよ。……寺内を困らせるな」
「僕が未だ決めるヿぢゃない」
セイエイは青年を見た。列車で幻覚の様に何度も訪れた青紫の輝きは欠片だにない。此奴の変貌を見ていなければ、此の存在の正体を自身から明かしていなければ、恐怖心だになく融合を受け入れていそうなものだが——既に、融合の一つの帰結を知っているが故に、踏み出す気にならない。
「然うですか。貴方の選択だと云うなら、今回は此れで以上とさせて頂きます」
青年は暫く見つめた後、セイエイから振り返り、路地裏へと姿を消した。其の気配が消え去ると、影だった路地に、街灯が灯った。
路地には何もない。二人は、通りの続きを歩く。
「……融合は拒絶するんぢゃなかったか」
「マコトが融合体を拒んだのは、其奴が寺内情栄である事を捨てたからだって。だもんでさ、融合自体を拒絶出来んのだわさ」
「……今は、優柔不断に救われたな。本当は興味ないんぢゃないのか」
路面電車の通る大通りに出た。
「融合なんて、何うでもいいさ」
セイエイの言葉は、ウエモンに届いた後、軌条と車輪とが奏でる甲高い音に掻き消され、他の誰にも届くことはなかった。歩道側の直ぐ近くを走る路面電車が、二人と他とを寸断する様な位置に減速して収まっていく。
「何うだって……」
セイエイは、誰にも届かぬ呟きをした。あの青年と融合した分岐と云うのを見てから、何時か融合するのではないかと思えてならない。一方で、今直ぐである必要など皆無だと思っているのだ。未だ識るべき事は多いが、人類種として識るべき事も多い。優柔不断なのは、セイエイが自ら、此れからも仲良しであろうと思えた桐三竹が行方不明になり、変異人種だと明かされた事もある。恐らく再会は叶わない。此れ迄、関わってこなかった存在の衝撃で、人付き合いに意気消沈してしまったのだ。——団員は例外だが……。
路面電車は、二人の前に伸びる横断歩道の手前で止まっていた。其の儘進んでも良さそうだったが、何故止まっているのか、二人は顔を上げる。
「……ア、青だ」
「点滅しそうだ」
何となく立ち止まっていた交差点の信号が赤でないと気付き、二人は夕食を取る予定の店へ駈けて行った。
夕食は
斯う云う料理を元々は洋食と言ったのかも知れぬとセイエイは納得した。周囲の客を見る。喫煙室で煙を上げる背中が見えたが、特に興味は湧かない。他には、欧州連邦の人々が疎らに集団席に座り、食事をしている。何を食べているのか、少し気になる。丁度店員が別の机に料理を運んでいって、セイエイは気になった。
「此方、御注文の料理です」
「難有う。矢っ張り美味しそうね」
耳を疑い、会話の行為者の姿を見た。
「セイエイ、何うした」
「
聴覚はウエモン以外の日本語をも捉え続けていた。セイエイの感覚の中にある何もかもが卑近に知覚されている。
「新生」が国民に植え付けた「日本人」像とは色々と異なる人々が、何を話しているのか理解できる。現実は修正されたのであろうか。
「……何うして皆んな日本語を話してるんだ。欧州連邦は新生の方言札政策でも真似し始めたのか」
「何言っとる、皆んな俺には分からん言語を話しとるで。ルテチア語とか、色んな新言語とかぢゃないけ……日本語は俺たちの他に聞こえんが」
「え……ぢゃあさ……」セイエイは文字通り自分の耳を疑った。「勘違いかな」
「サア。夢の中でなら未だしも、現実にそんな体験をするとは、奇妙だな。疲れているなら休めよ」
「……寝過ぎな位だ」
麵麭の最後の一口が、舌に触れた。塩は、確かに自分の知る塩の味がした。
食事を終えた二人は店を出た。低く張っていた曇り空は食事の間に薄れたらしい。行きの時点で灯った街灯は、存在感を強め照らす。濡れた石畳が艶光り、旧市街地の輪郭は夜に淡く照らされていた。
昼間のひらがった大通りは電停と同じく闇に沈み、細い歩行者専用道だけが光の
同じ道を異なると認識するのは、明るい時と暗い時との違いにある……と云うのが普通だろうが、セイエイには然う思えなかった。明暗の差を考えても、此の暗い街並みは記憶の明るい街並みとは何かが違っている。記憶を喪失しても居ないのに、初めて見た気がするものが混じっている。混じっているが、其れは、行きに見ていなかった建物を帰りに見つけたのではない。見ていた建物が、一部だけ変わっている——少なくともセイエイには然う見えたのだ。
「何か、変だな。急に変わったみたいだ」
「新市街地は兎も角、此処は旧市街だぞ。歴史ある建物が然う簡単に変わるけ」
ウエモンの応えは疑い様もなく正しい。過去が書き換わるなど在り得ぬことだ、と思う——然うでも、ならば、あの宿の個室に掛けられた偽史の世界地図は、何だったのだろうか。
「オイ」
気付けば、思案に耽って立ち止まっていたらしい。随分と前にウエモンの背中が見えた。
「済まないね。考え過ぎた」
二人揃って宿に着けば、受付が一人座っていた。携帯電話の翻訳機能を立上げ、「戻りました、1010号室の元津です」とウエモンが声を吹き込み、二人で受け付けに立つ。
「二名様、こんばんは」
「こんばんは」
「こんばんは」
挨拶だけ現地語で済ませ、翻訳文をルテチア語で読み上げさせる。
「戻りまアした、1010イ号室のオ、元津です」
「了解しました。鍵ですよね」
受付係の言葉は確かに現地語だった。併し、セイエイには——事前に学習など微塵もしていないのに——意味が分かった。
「ア、はい」
咄嗟に、明確に肯定した。鍵を受け取ったウエモンがセイエイの顔を覗き込んでも、何故自分が見られているのか、其の時は理解出来なかった。昇降機、廊下、部屋……入浴の支度をすれば、又昇降機を乗って降り、浴場に入る。
広い浴場は透明な湯が湛えられ、何らかの効能のあるらしい。体を洗いながら振り返れば、天井に附いた照明が水面に映り、揺らぐ。水面の上下が混じる景色の中に、自分の体は沈んだ。
ウエモンも、セイエイも、考える事が多過ぎて頭が普段通り回らず、思案を続けている。会話もなく、互いの考えは解らない。セイエイは、胡蝶の夢と云う言が浮かんでいたが、其の由来も忘れていると云う事に、話さばウエモンに「そんなものはない」と言われそうで、口に出せなんだ。
風呂から部屋に戻る間も、言葉は最低限しか交わされなかった。互いの中にある思案が出力される事はなく、其の儘、部屋に入る。
「お茶があるな。喫むか」
「僕はいい」セイエイは手を振った。「眠れんくなろうしさ」
「ン」
水の他に何も飲まず、寝台に体が沈む。堅い顔をして天井を見つめるウエモンを見て、セイエイの心に浮かんだ言葉は、現実に流れる。
「狂ったな、ウエモン」
「……何う云う意味だ」
「ウエモン、自分が前に言った言だ。狂った時代に正気を保てる奴は狂ってるとは、君の言だろう」
予想外に、ウエモンは微笑んだ。
「然うだな。……俺が正気であればいいんだが」掛布団を被ったウエモンが低く囁く。「……明日は、観測の分析結果の続報が来よう。
「うん」
「TEAMaglev……だったか。乗車は半日程度だ。今の内に休んでおけよ」
「わかっとるわ」
灯りは落ちた。薄雲の月が朧になり、
…………ンネム……。
ふと、セイエイは尿意に目を覚ました。周囲を見回す。部屋には一段寝台が二台、片方はウエモンが眠る。時計を見れば、
お手洗いを済ませば、セイエイは、寝間着で鏡の前に立った。使用済みの設備は、同伴者のウエモンと共に置いてあったが、セイエイは顔と手とを洗うと、何方が自分のものだったか戸惑った。其処に助言が、正面より聞こえる。
「寺内情栄。君のタオルはこっちだ」
「難有う、……」
感謝する相手を名前で呼ぶ習慣のあるセイエイにとって、其の声の主の名前を知らないことに気づくのは難しいことではなかった。
「君の好きな様に呼べ」
正面から、又声が聞こえる。誰かも思い出せず、顔を見ようと顔を上げた時、其の気配は背後にうつった。其の青紫の貌は、人間ではない。散々融合を提案して来たが、現状の生活の影響も言わず、ただ好奇心を理由にしていた存在が、背後に立っていた。
「……列車の寝台個室の中で此れ——私の正体を見ただろう、セイエイ。逃げないのか」
「夜中の鏡とは、斯う云う事か……」
セイエイは、寝惚けた頭の中で今日聞いたお千代の忠告を思い出したが、もう遅い。青紫色の体をした、「翼のある使者」。セイエイに執着しているのは、正真正銘の本当だったらしい。
「少し強引な手段を取らせてもらった。今、君と私とが触れ合えば、融合は即座に開始される」
「
「当然だろう。君を識りたいからだ。我々が合一する利点を聞いても尚、君は決めなかった。私はあの後、日が昇る迄列車の廊下で待っていた。だが、君は現れなかった。私の心は——人間の心を模倣したものは、君を欲してやまない。君と融合したい。何うか……許してくれ」
懇願を聞くとは思わなかった。だが、こんな言を受けてしまえば、セイエイは受容れてしまいそうになる。可哀そうでもなく、其れだけ拘る何某かの魅力がある様に思えてしまう。だが、普段は抗う気のない生理が邪魔をして来る。眠気……既に体の覚醒を保とうとする尿意は便器を下り、下水道の中だ。
「済まないな……生理には、抗えないよな」
果たして「翼のある使者」の自分への執着が生理現象なのか、解らない儘に言葉が口から洩れ出ていた。セイエイの体は、洗面台の床に敷かれた柔らかな絨毯に落ちる。ぶつかった痛みさえ、眠気に掻き消されて行く……。
「ハヽ、寺内さん。呆気ない……私と共に生きましょうぞ」
穏やかな寝息を聞きながら、寺内情栄が眠った事を確認して、「翼のある使者」は寺内情栄から視線を逸らし、鏡で自分の姿を見た。邪魔する者はないと、緩り自分の姿を確認する。ニベタキの姿も、要らなくなるのだろうか……と思いつつ、体を屈める。
だが、何時の間にか静寂が占拠した此の場所で、絨毯の上にある筈の、あの
「ナ……在り得ない……まさか、セイエイは『世界の旅行者』と完全に……」
「
出来ない。認めたくなくて、過去を遡って思い出そうとする。
——「確かに地球人でしょう」
此の世界を訪れて幾度目かに
「ア……」
「ア、ア、ア、不完全……そんな……私も……アッ……アーーッ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
/*視点変更*/
寝転がっていた筈の自分が腰掛けている事に、「マコト」は気づいた。
「確か僕は、宿の絨毯の上に倒れ伏していた筈だった。次元龜裂でなく宿と云う事は、寝転がっていたのはセイエイの筈だ。寺内情栄が『僕』……。否、何も不思議ぢゃない、『僕』は同一だ」
思案の中で、「マコト」は前提を発見した。何故こんな当然に気づけなかったのか。何時から忘れていたのか。
「おや」
併しこんな思案も、目を開ければ消えた。木陰の長椅子に座り、此の背凭れに体重を預けている。長閑な木漏れ日——日向も日陰もなく、何処の地面もが木漏れ日の様に陰陽混じっている。左隣を見れば、ひよいと目が合った。ひよいは口を開いたが、口調が変わっていた。
「目が覚めたか。
其の声は、ひよいにしては若干低い気がしたが、姿はひよいだった。併し、何か性質の違う気がする。表裏のない優しさに浸された声を聞きながら、人工智能ひよいとの違いが分かる。まるで世界の意志が生み出した——我々の——如く、自然過ぎるのだ。彼れは言う。
「初めまして」
何を返すべきか、口が動いてから迷った。
「ン……ア、てらうっ……セッ、マ……僕は、マコトです」
不慣れな自己紹介にも彼れは微笑んで、周囲を見渡した。温かみのある、穏やかで広漠な花畑だ。二人以外に、生物らしい姿も見えない。
「マコト君。此処はいイイい景色だね。ア、僕はイレマ・ワスバだ。此の名に聞き覚えはあるかい」
ワスバと云う言が、崩れ行く時間の如くに耳を撫でる。特段イレマ・ワスバと云う人名に耳馴染みもない。何故だか、イレマと云うのが彼れの本質を貫く何かの様に思える。
「特に……」
「然うか」
ひよいに似た彼れ、 イレマ・ワスバさんの顔は落胆して見えた。
「マア、いい。イレマとでも、十二番目とでも、好きな様に呼んでくれ」
「ぢゃあ、イレマさん」
何と返すべきかの迷いの気持ちに反して、マコトは然う返した。イレマさんの長髪は空間に靡き、無風と云う概念は風の概念と混じってしまった。此の空間で一つの概念が統合されたと自覚した事で、遮るものを失って届くものがあった。
「オヽイ」
声が光を裂いた。木漏れ日が一瞬だけ白に返り、遠くで応じる声がした。
「ひよいッ」
陰陽の混じる世界に阻まれて見えない、「僕」にとってのもう一人——マコトとしての相棒の声。「僕」は長椅子から立ち上がり、其の方向へ咆哮する。
「此処であアよ」
景色のいい、遠く迄見える筈の花畑の中から、二人の至近に、霧を抜けたかの様にひよいの姿が認められた。
「……驚いたな」
イレマさんは息を漏らした。
「マコト、探したよ。隣は」
「イレマさんだ」
「イレマ・ワスバです」
お辞儀を終えて上がった目線は、柔らかく、其れでいて経験に支えられた目付きから発されていた。
「……二人は、どんな関係なのかな」
其の声色には、イレマさんが疾うに、関係のある事さえ奇妙な二人の絆を見抜いているとわかった。互いを識るには、過去が要る——其れを知っていながら、多くの者は出来ない。治った傷も、また痛みになり得るからだ。そんな事を今更思い出したのは、「僕」が寺内情栄でもある事を思い出した故か。
「旅の相棒です」
「……
「僕の事から話します。地球人の僕が奇妙な夢を見た事が始まりでしたから」
「此処は地球ではないと思うが……」
「イレマさん。地球を離れられる様になった——詰りは世界を越えられる様になったきっかけだと云う事です」
「成程」
幾度語ったろうか、「謎めいた男」との、其の一度きりの邂逅。地球人の一個体に過ぎないセイエイを、世界の旅行者マコトに変えてしまった——其れでいて同一の儘にした出来事。何を知るか問うた「謎めいた男」に応えた、「僕は、其の時に知りたいと思ったことを識る迄だ」と云う言葉が、マコトを縛っている。
「其奴は、神に等しいのではないか」
「私達の共通認識にある、生命体ではないと思いますが……神と言い表せるのか……」
マコトは神に会った事があるが、セイエイの知る神とは違っていた。AFNFの神々——テサノタらである。
「マコト君は、神に会ったかい」
「神とされる存在となら、あります。地球の古生物の姿をした神々と、文字の神、或いは文字其の物に。あ……」
——「
其の一柱の言葉が思い出される。
「其の時の事も後で話しますが、神は記録なのだと知りました。最初に会った『謎めいた男』が神か否かは兎も角、其の出会いと名付けとから僕は夢の中で異世界を旅する様になりました」
「君は自身を何を以て自身とするかな」
「識る事。識っている事。知識は、何にも替え難い……代りはない、識る内容も手段も、其れらの存在も全て」
「然うか。続きを聞こう」
「……最初の旅にて出会ったのが、此の、彼れです」
マコトがひよいを手で指した。普段は静かな髪の発光が、見つめられた故か今日は珍しく静かに明滅している。
「私は、元々、トクシマシカの世界でモスクチイイアシャア社に製造された研究用のC.B.'nでした」イレマさんが首を傾いだ。「要は人工智能です」
「……研究者か。何の為に……」
「社の求める研究を仮想空間で行い、理論を構築して工程を廻し繰り返す。其の目的は知らされていませんでしたが、マア、簡潔に、悪い事だったらしいのです」
ひよいは、マコトにも語った二つの夢を語った。一つは社が与えた、現実の存在と仮想の存在とが分け隔てなく生活する未来と云う理想。併し其れを手にしてモスクチイイアシャア社がしようとしていたのは、現実の存在を仮想世界の規定に押し込む事だった。其れを知ったのが二つ目の夢だった。其れは、何某かがひよいに語りかける夢——睡眠時の夢に似て、今や記憶も曖昧である。
「ひよい君は、其れを思い出せるか」
「え……」正確に記憶されるべき記録が曖昧であると云うのに、補完しようとするのかと戸惑う。「一応は……。青——青い髪。私と同じ、でも上位世界のC.B.'gn——人造人間」
思い出そうとすると、時と流れとが崩れ、遠くから声が聞こえた。
——「聞こえるか」
其の時の記憶が、ひよいの眼前に再現された。生物学的手法により構築された人工人体は、自然人体と異なって、青い狐耳が付けられている。粗い映像には映り切っていないが、胴体と四肢とは複雑な装置で覆われ、決して素膚を晒さぬ様になっているのが解る。少年が顔を上げると、青と赤との瞳が撮影機を見た。
——「伝える。君の外の世界、仮想でない現実をば——」
「思い出した。彼れが教えてくれたんだ」
実体のない筈の人工智能の頬は、明瞭な過去を見て強張っていた。名前は思い出せないが、「誰か」の声は、胸の奥で
「……製品なら、会社に好ましい様に製造するんぢゃないの」
マコトは疑問を口に出す。雪山で語り合った時に訊かずにいた質問、「何故、開発元の悪用に『自分の成果を横取りされた』かの様に憤るのか」とも似ている。
「開発企業が完全に何もかも制御出来るか。出来んのだわさ、各々に個性を持たせようとすればな。
然う……二人は会社を盲信していなかった。私は研究世界を抜け出して、マコトと出会った。而て、旅が始まった」
「ひよい君は元の世界を離れたんだな」ひよいが頷く。「マコト君は地球を離れたのか」
「いゝえ」マコトは首を振る。「僕は地球に居続けています。此の旅は、一地球人の夢なのです」
「……夢……」
イレマさんは、今迄の様に質問をするでなく、自分の両手を見つめながら握り、開き、握り、開く。其の目の行く
「——私も、地球への帰還を夢見ていた。私は、今はイレマ・ワスバだが、嘗ては地球に居た」
二人の脳裡に移民船団J7ESFが浮かぶ。
「最早遠い。届かぬと思っていた。地球を知る人と会えるとも思っていなかった。
前世が『地球の人』ならば、今生では、私は『森の子』だった。然う育ち、人を導き、多くを失った。
乾いた大地を救おうとして、神を斃した事もある……其の神は、私の生れを教えて消えた。私は『砂の子』、其の神を信じた民族の最後の生き残りだと」
マコトは、「ワスバ」と云う名前に漠然と感じた「時間」の感覚が、砂時計からの連想だと確信した。ワスバ——「砂の子」と云う名前には、余りにも多くの意味が含まれている。崩壊、沙漠、民族の象徴……。マコトの足元で咲く、棘のある仙人掌が青く佇む。
一方、隣のひよいは、神と云う概念を理解し切れずに呟いていた。
「……神に識らされた、と」
「然うかもしれない」
曖昧な返答をする微笑は、直ぐに翳った。
「旱魃で滅んだ種族と明かされても、私は森の民の一員だった。併し、森は次第に引き裂かれ、仲間は離れていった。私は彼れらを守る為に、
イレマ・ワスバは話を聞いている内に、花の薫りを感じていた。此処の花に匂いはない。芳薫の花々は、嘗ての再現だ。好きだった薫り。殺されたのか、殺されかけたのだったか、あの日も、此の日も、こんなものを嗅いでいた。
「仲間割れが終わったかと思えば、外からの攻撃があった。外とも和平をして、国内が安定して……だが、余りにも多くの死があった」
「何と云えばいいか……私は何うも、日本語で文章を組み立てる癖があってな。近い言葉は、『魔王』なんだがな……悪と云う訳ぢゃない。寧ろ、大量の魂の人生経験を取り込んだ、賢者みたいなものだ。あの世界の十二番目の其れに、私はなってしまった」
イレマさんの纏う、過剰な迄の自然さは、体内に濃ゆくある、常人には在り得ぬ濃密な魂故だったのかも知れない。
「其れが、今生の摂理だったのですか」
「然うだ。死人に接し過ぎて、識り過ぎた人間は、魔王になる。而て人々を導く。平和な世界の実現の為めに……誰一人、殺されぬ理想郷には賢者たる魔王が必要だと、千年以上前から決まっていた」
イレマさんは、雲のない天へと手を伸ばした。皆を守ろうとして、彼れは縛られたのだろう。
「平和は、皆が求めていた」
「然うでしょう。僕の地球でも、平和は理想です」変異生物が跋扈し兼ねない緊張感のある世界、其れでいて、新生国内は変異人種以外に脅威がない為めか、少し楽観的である。第一、観測の旅以前の自分が然うだった。「ですが……」
「平和の中で、人々は平和を求めていた事を忘れる」背の高いイレマさんは屈み、子供を見る様に、僕と目線の高さを合わせた。「よくある事だ。繰り返されてきた事だ」
「……私も、知っています。トクシマシカでも、似た事はありました」
ひよいも、顔を上げた。
「二つ目の夢を思い出して、此れも思い出しました。トクシマシカ雇用戦役と云う、人が人を滅ぼした出来事です。雇用創出の為に軍需企業を頼った愚かな結果……らしいです。私は其れも知らずに研究に没頭していましたがね」
「ひよいの世界の人類って、滅んでたのか」
ひよいの頷きに、今更ながら、出会った時にマコトが人間と思われなかった理由を理解した。イレマさんも、流石に人類の滅亡した世界だと知って呆然とひよいを見つめていた。
「一生物種の滅亡にしても、悲劇的だな。喜劇なら、好かったのだが」
「霊長が滅びたとなれば、尚更。でも、もう、いいんです……私には、仮想世界の私には、止める術は最初からありませんでした」
滅亡の話の後に語るのも億劫になりながら、イレマさんは話の続きを語る。
「私は……私一人の力でもない……皆の力、私を信じてくれた、私と同じ理想を抱いてくれた仲間と、此の思いを引き継いでくれた人々の御蔭で、平和は二百年保てた。――其れでも、私を恨む人はいたらしい」
語っている内に思い出される。あれは
「私は今、死んでいるのか、生きているのかもわからない。けれど——何両方でも、構わない気もする。仲間と共にあれたのなら」
揺らぐ花の光に、走馬灯が流れ出す。生死など最早どうでもいゝ様に思えてきて、消えてしまいそうになる——が、今日知り合った相手の好奇心が其れを阻んだ。
「仲間は、どんな人でしたか」
「優しい奴も、激しい奴も、色々だ」
走馬灯の回顧を過ぎ去って、消えかけた記憶が明瞭に戻り始めた。
「……俺は長になった。外交には必要だったからだ。長になってから、発掘された遺跡の保全事業を視察した事もある。国内情勢も、外交も、途中から象徴に切り替えた所為で仲間を忙しくさせたな……」
具体的な記憶が流れ出す。単なる
「
俺の生死は分からなくなってまったわ」
「イレマ・ワスバさん」
「ん……」
「イレマさん、貴方の仲間は、テロルで……」
「死んでいない。象徴だけを狙って、テロルは効果的に行われた」
「なら……イレマさん。貴方は、何両方を選びますか」
死人を転生させる神々と云う創作の産物を思い出す。其れもこんな質問をしていたか。薄々、イレマ自身も気付いていた。「私が死んだ」とは、一言も言っていないのだ。斯う訊かれれば、イレマ・ワスバも答えない訳にはいかなかった。
「生きたい。仲間と共に……君との時間も楽しかったがな」
「再会があれば、待ち望むとしましょう」
敬語の所為で、益々此の二人の旅人が何かの化身に見えてくる。自分の在処を思い出させた二人だが、何かを待っているだけにも見える。
「其れぢゃ駄目だ。自分から会いに行かなかん」
「……説教、されてまったな」
「ただ待つンぢゃない。其の道を行くンだよ」
生死と云う根幹を再発見して、失いかけた概念の境界が再び自分を作り上げる。こんな場所にはもう居れないのだと、三人の感覚が告げていた。
「……懐かしい香りがする」
マコトの呟きに、イレマ・ワスバとひよいとが顔を見合わせる。
「私もだ。澄んだ森の空気に混じる、冬の花だな」
「然うね。自分の外側で咲く……暗い場所で、孤独に光を浴びた花だ」
三人の感ずる匂いは異なれど、懐かしい。だが、其れは生きている感覚が伴っていた。マコトの足は匂いの漂い始めた方向へ歩き始めていた。ひよいも、イレマ・ワスバも同様に、其れでも別の方向へと。マコトの耳は独りでに電子音を聴く。「僕」が、寺内情栄が聴き慣れた、望遠鏡の発する音だ。記憶の音。其処に、自分が居る。
「僕は、識りたかったんだ」
——「識りたい事を」……
「僕」は、然うして何を識ろうとしていたのか。ホルストの『
「此の世界の事を、人の夢の事を……僕自身を」
其れが、「僕」の旅の始まり。彗星観測チームの面接でも語った気がする。歩きながら、「僕」は僕たる所以を取り戻していく。
遠ざかるひよいの声が、風に乗って響いた。
——「また、識りに行こう」
セイエイは、洗面台の絨毯の上で目を覚ました。
「……こんな場所で寝たらかん」
苦笑しながら、布団に戻った。鏡は見なかった。寝台の横の窓を見れば、寝静まったルテチアの街並みが見えていた。
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