E/N’10:“Freedom’s Fracture”
——
「もしもし、
——
「
「セイエイ、
「いや、
ウエモンに、「
‘This is Estwich Station, the West Laurasia-East Coast Capital Harbour·Railroad Station Airport. Thank you.’
「
「
「
セイエイが
「
「ン」
「何名様でしょうか」
「二人で……」
「二名様、此方へ」
此の茶房で二人を案内したのは、人間だった。空に変異生物が跋扈する前——空輸が一般的だった時代では、空港は其の国の技術を宣伝する格好の舞台となっていたと聞くが、此処は懐古〈
「御注文が決まりましたら、御呼び下さい」
「はい」
「わかりました」
だが、そんな
「オイ、セイエイ。お茶は決めたか」
「あゝ、
「
「
此の茶房の飲み物の一覧を見れば、
「
「オヽ、確かに安いな。ぢゃ、俺も然うしようかな……済みません、注文を」
ウエモンの拙い喋り——自動翻訳に頼り切りの現代で、一般人は外国語など、自動翻訳の誤りを認識できる程度の知識しか習得していないのだ——にも、店員は応えてくれた。小さい器械を手にする店員の前で、ウエモンは飲料一覧の
「此れを、二つ、願います」
「
「以上って……何んな意味なのか」
「此れで、貴方の注文は、終わるのでしょうか」
「ア、此れを肯定します」
「分りました。確認します、
「
ウエモンの返答に、一瞬店員が視線を逸らし咳いた。セイエイは、何故か知らないが、迚も文語的にウエモンが喋った為であると理解出来ていた。顔を赧くした店員は此の周辺地域での感謝の仕種をし、直ぐに背を向けて注文を発信した。ウエモンはセイエイに向き直り、セイエイから会話が始まる。
「時間が未だあるね。一杯で足りるかな」
「紙の新聞があるだろう。昨日の続きがあるかも知れんな」
「あゝ、ミタケの……」
ウエモンが懐から携帯電話を取り出し、其の面を映した。「自動翻訳に掛けらば、解ろう」と云う所だろうが、其の前から気になる顔写真があった。紙面には前回一人だけ載っていた桐三竹以外の顔写真もあって、細報である此の記事に、色を忘れた様な、冷徹な青年の顔写真があったのだ。
「出たぞ」
大きな見出しと、小見出しが複数と、数十名の顔写真と失踪時期や最後に目撃された場処、証言などが記されていた。記事の冒頭には、行方不明者の親族などから許諾を得た事などが簡潔に示されていた。驚くべき事に、「青年」は、半年前に既に行方不明となっていたのだった。此の人物は苗字を
「……苗字持ちか。一般人で……此の文章、何行あるのかも分からんな……エヽト」
友人の証言に拠れば鮸瀧は「温和な性格」であると記されており、失踪直前には日本の自宅に居た事が示されている。「冷徹な青年」と同じ顔をしているのに、温和。
「彼奴は何だったんだ。凍傷しそうな寒さの、冷徹を纏った彼奴は……」
「夜の沙漠みたいなね。……言うべきか迷った事なんだけど、ウエモン、聞いてくれるか。君がお手洗いに行っている間の、僕と彼奴との記憶をば、ね」
「何うして今、其れを」
「最初は、夢だと思ったから。眠気の所為だと。でも、違うらしい……ミタケに、連続失踪事件、其れを知る前から、お千代だったり、色々と不思議体験は聞いていた——否、能動的に聞こうとした。だから、不思議体験でも、今話そうと思った」
「異世界の旅とは別に、現実に近い不思議体験を、か」
セイエイは、無言の中で頷いた。
「ウエモン。僕の記憶が正しけや、君がお手洗いへ行っている間の出来事になるけど……先ずは、聞いてちょ」
最初は、青年が優しく問いかけた。セイエイは青年を信頼できると思い、悩みを打ち明けた……何故だか、今になって考えれば理由も解らん。「識る術」が欲しいかと問いかけ、答える間もなくに、青年は切符を渡して来た。個人情報だと思い、読まずに顔を上げれば、青年は上裸になっていた。人間に酷似した裸体でありながら、胴体の一部——乳首なのだが、茶房で言うべきでないと伏せた——に、青紫の目があった事。
「僕はもう一対の眼で見つめられた訳だ。だが、其れ以上の識る術を用いねば識れないと、本性を示した。僕は『翼のある使者』と呼んだが、青紫の怪物だったよ」
「青紫ネエ。物の怪が直に姿を現していた、と」
「然うらしいなア。
「エ、アヽ、マ……小さい方だったもんで、かかっとらん筈だわ」
「ン、ぢゃ、恐らく実際に引き伸びとったんだろうね」
「でも、現実だろう」一つ目の話を終えたセイエイに、ウエモンは目を細めた。「あの短時間、恐らく、彼奴は実際に
二人は、足音を聞いた。
「お待たせしました、此方……」
「ア、難有う御座います」
話し続けて要点を見失った所に、店員が飲料を運んで来た。二人は暫く其れを飲んだ。
「……続けようか」
「詰り、実際に識ろうとしていたのは本当だろう。本性を示したのも、融合を提案したのも、本心からだろう。だが、選ばなんだのは……セイエイに思う所があったからだろう」
「……然うかねエ」セイエイは、轟音と共に奧側の滑走路に着陸する大型飛行機を一瞥した。「たゞの時間切れさね」
「ンム、然うだったか。……続き、聞かしてくれ」
「もう一つだね。此れは夢だと思う。君が戻り来、彼奴が出て行き、布団に入った後だでね」
セイエイの意識に久々に現れた、旅人の記憶には、
「夢の中で、僕はマコトと云う名の旅󠄀人󠄀だった。ずうっと然うだ。昨夜見たのは、人工智能と共に鉱害を受けた町を訪れる夢だった。何故か、二人はメヂアの取材班になっていた」
「コウガイね。大気汚染とかだっけ」
「否……鉱物だ。同音なのを忘れとった」
セイエイが「マコト」として体験した其の世界に於ける鉱害は、全く異なる性質のものだった。病は物理的な症状でなく精神的な症状をもたらしていた……。其の鉱物を産出する鉱山は閉山され、廃鉱が進んでいた。だが、時系列を追う内に、奇妙な事象を思い出す。寝床の上に安静にしていた患者が突然出血し、同時刻に処理を待って放置されていた貨車が自壊したのだった。
「セイエイ、夢みたいだな」
「だから夢だと言っているでしょう」
取材班として二人は貨車が走っていた鉱山内の軌道を調べる人々に同行したが、坑道を出ると、世界は冷たくなっていた。極寒の雪の中、人工智能はもう一度鉱山を見たいと言い出す。最早為す術もないならばと、マコトは提案に同意してもう一度入った。だが……。
「而て、マコトの五感は分裂した。触覚では圧死しても、四感は他の儘で……世界の狭間の中で、五感が別々に、違う安定点に転がり落ちて行った感じかな」
「……成程ね、そりゃあ奇怪だな」
ウエモンは想像も出来ぬ状態に追い込まれた夢中のセイエイを思い浮かべたが、生れた時から結合した五感は想像で分裂する様なものではなく、具体的な思案に纏める事だに出来なんだ。
セイエイの曰く、マコトの分裂した五感は
「俺が年老いた感じの男だって」
「然うだけど。何うかしたっけ」
「否……続きを聞こう」
其処から見た夢は、セイエイの夢だった。ウエモンと共に観測の旅をするのだが、選択肢が現れれば、全ての選択の先が続いた。而て、昨夜、セイエイがウエモンと共に乗り込んだ寝台夜行列車に続いた。現実と同じく、青年——此の、鮸瀧と同じ顔をした異類——と出会い、奇妙な体験をした。
「夢の中の僕の中には、彼奴の切符の、部屋番号を読んだ分岐もあった」
「……」
「だが、全ての分岐で、夢の中の僕は、僕達の記憶の通り、ウエモンと一緒に、部屋から出る彼奴を見送った。而て、眠りについた——だが、一つだけ、狸寝入りした奴がいた」
「自分を奴と呼ぶなんて……」ウエモンは文の途中で、発声を打ち切った。「——然うか。察したよ」
「奴は融合を選択した僕。人間を捨てた分岐だった。人間として識る事を忘れ、扉を開けて部屋の外に待つ彼奴の部屋へ向かったんだ」
「……成程。其れで……」
「僕は拒絶しようとしたが、追体験は外から制御できるものでもない。が、融合が進む内に、『融合を選択した分岐』と、マコトの五感とが分離していった。理由は知らんが、融合体……と呼ぼうか、奴と、僕が夢として見るマコトとの二体が同じ空間に現れた」
「其奴と居た空間は、精神的な空間……」
「だね」
思い返して……融合体は、マコトの眼前で変貌していった。人間以上の知識と能力とを得、人格を統合し、人類に貢献する為と云う知的好奇心の大義名分を失った。融合体はマコトを誘った。だが、マコトは拒絶した。今のセイエイが語りながら、此れは何故だろうかと思案すれば、其の分岐には、セイエイへの青年からの問いが一つ欠けている事に気付く。「
「総合するに、最初のは現、最後のは夢だな。あの青年は、夜中に出て行く時、俺たち二人が確かに見た。で——」
「僕はお手洗いに行っていない」
「決まったな。其れと、一つ……」
飲み終えたウエモンが、容器を床に置いた。音はしないが、重量が変って机が傾ぐ。
「不思議な体験に否定的だったのは、顔を見て勘づいていたろう。だがセイエイ、気が変った。此れは科学的な探求ではないかも知れんが……夢を見たのは事実だろう。其れを探求してもいい気がして来たんだ。幻覚剤か、『彗星』と云う特殊な状況下の所為か……お前の見た夢と、話してくれた事は受け止めるよ」
「……」セイエイは、ウエモンを見つめたが、其れは感動ではなく困惑だった。「今迄、話半分に聞いてたの」
「マア、ねエ」
「然うだったのね。でも、信頼してくれたならいいや」
「ウン。ぢゃ、お勘定にしようか」
お勘定に行ったセイエイを待ちつつ、ウエモンは新聞を捲った。気分転換にしようと別の記事を探せば、丁度、昨日の路線名が目に入った。自動翻訳にかけて黙読すれば、内容は昨日、青年が言っていた事に似ていた。
「トゥイッセルピーク鉄道は、貨物専用鉄道だった。だが、数年前、環境負荷の少ない『新鉱物』が、沿線に存在していると判明、交通転換などの後押しで莫大な利益を上げ、新規に旅客鉄道を開業、以後、観光需要を取り込んで経営は好調……か」
お勘定を終えれば、二人は搭乗手続きへ進んだ。手荷物検査は、予想以上に早く進んだ。手荷物検査の後は、指示に従い、携帯電話の電源を切る。然うして、開放的な空港から狭い通路への入り口は開かれた。
憂える心持ち。磁気浮上式高速鉄道——マグレヴ——の搭乗口に似つつも長い搭乗橋を渡り、セイエイとウエモンとは飛行機に乗り込んだ。機首に向かって右側の座席に、セイエイが窓側、ウエモンが通路側で座る。手荷物を荷棚に上げれば、其れだけで、自主的にする事はない。
周囲を見回す。誰も、セイエイ以外に、此の鐵の巨鳥が飛ぶ事を疑う者は居ない。飛行機で落ち着いた時を過ごせるかと、セイエイは思っていた。併し、窓から見える羽—―
——「大西洋横断自動車所属、九千百四十一号、射出」
其のカーナビの言葉が、体験の始りだった。而て、機内に操縦室からの音声が聞こえた。人間の声だった。
「御搭乗難有う御座います。機長の——です。当機は間もなく離陸いたします。準備を今一度確認の上、
此の
空調の効いた飛行機は、空気の薄い上空へ飛び上がる。もっさりした動きで、其れでいて速い。宙へ向かう宇宙往還機よりは遅かろうが、揚力を発生させるには十分に速く、雲は流れ、開けた上空は藍に染まる。子の如く関心を外に向けるセイエイを見ていたウエモンは、其の視界の中で何かを見た。其れは、恐らくは地球の昼に移動してきた、「彗星」だったのかも知れない。「彗星」は既に近日点を過ぎ、地球の夜側を掠めて太陽へと向かっていたから……だが、北半球で見える筈もないのだ。
「ウエモン……」セイエイの顔は、此方を向いていた。「お手洗いに行きたいから、いいかな」
「あゝ」
ウエモンは頷き、セイエイの通る道を開けた。此の飛行機は然うしなくてもいいのだが、ウエモンはセイエイを見送り、戻り座った。
セイエイはお手洗いの扉を支った。個室の中は揺れず、窓もなく、上空に居る事を忘れさせる。便座に座り、催す生理に従えば、其れで終わる筈だった。
携帯電話が、震えた。思い返せば、搭乗前、電源を切る前に、機内モードに変更もしている。普通の電話で、着信に応じて電源が入る事などあるだろうか。
「……」
予め電源を切ったのは、非電波自由区を飛ぶからである。何粁かの足元、海中に巣食う海獣を呼び寄せ、異常事態を引き起こしかねないからである。
——「『
然う聞いた事がある。人類の内紛である「先の大戦」により生じた変異生物とは、
扨、取り出した携帯電話の画面には、機内モードに設定している事が示されていながら、電話の着信を示していた。振り仮名もなく表示された「栫井八千代」の名は、知っている。セイエイ・ウエモンの二人の今日の目的地である、
何を思ったか、セイエイは此れをとった。
「はい、寺内情栄です」
「——御免ね、こんな時間に……」声は、確実にお千代だった。夢の様な濁流ではなく、
「うん……」
セイエイは、前の通話——北太平洋上の第四円愛丸での映像通話――からあった出来事を並べ、順番に伝えた。一つ目は、ナラヒア諸島の南部、マヒラ島で、夜中、「マコト」がAFNFの神々と出会った事。
「セイエイ……具体的な神名は覚えてるか。神様の名前」
「一番係わってくれたのはテサノタさんだった。ナルアッヺンさん、アルノワーさん、ネルチャガンさん、クハベズルヴさんとかが居たかな」
「何か儀式はしたのか」
「何も。深夜にお手洗いに行って、帰り道に気付いたら『切り替わってた』と云うか、そんな感じ。次の日、昨日の朝にウエモンと行ったら、昔は儀式に使われてたらしいけど、『先の大戦』が終わった頃に島の宗教も廃れてまったもんで、有志が整備してる状態だったわ」
二人は気付いていないが、其の時、マコトとお千代とは通話を一回だけした。セイエイの思い出せるマコトの記憶にはなく、幻覚を見ていたお千代の記憶にも残っていないが、マコトは、お千代の実家の神社の祀る神が文字たるテサノタであると知っている。……携帯電話の向こうのお千代は、其れに気付かず思案しているらしい。
「マ、以前繋がりのあった場所ならば、繋がり易いかも……でも、其の位だったら、経歴はあまり関係ないかも……ね。次は」
セイエイの語る二つ目は、ナラヒア諸島の北部、カナモア島に向かった時の事と、其処から乗った大陸間隧道で見た「マコト」の夢とである。
「二人の人間と出会う夢だった。内容は——」一瞬、セイエイは食人を告白すべきか迷った。併し、其れは、セイエイの知らぬ間に、「マコト」がした事である。だから、関係ない。「カナモア島とはあまり関係のない様に思えた」
「夢だでね」
「然うね。カナモア島の凄惨な歴史を知った現。死に行く『地球』にて、『知り過ぎた男』鮫少女マーデと、『知りたがりの女』イハと出会い、イハを喪った事……二つの間に特に関係はなさそうかな」
「然うね……地球と云う歴史の初期で分岐した、遠く離れた並行世界と云った所かしらね」
「マ、其の通りだね。あ、其の夢の世界の月だけど、地球に向いた面が、現実の裏側だったよ」
「マア、然う云う事もあるでしょう……次」
三つ目は、其の日の午後、西ローラシア大陸を横断する寝台夜行列車に乗った事である。其処で出会ったのは、「冷徹な青年」を纏った——世の理の外からの探求者、「翼のある使者」だった。融合を提案して来た話と、夢で見た話は、セイエイとウエモンとが既に話し合っているので、内容は其方を確認して頂きたい。
「人に擬態した、非人間的存在か」
「地球人を名乗ってはいたけど、何処かの——僕らの常識からかけ離れた世界の『地球』ぢゃないかと思う」
「うん。夢の方は、本筋から逸れて別の分岐の、融合体が出て来たなら、本筋は何うだったの」
「鉱害を受けた町の取材班として、僕と二人で行く夢だった。夢らしい奇妙な現象が起こったけど……理性的に考察してたね。鉱害を齎す鉱物の正体は、超世界生物の死骸で、適応できない人間は暴露して、並行世界との同一性が崩れてしまって、自分でも制御できなくなるんぢゃないかって仮説を立てた」
「……向こうでは、道理があると云う事ね。其れで、何うして融合体は現れたの」
「原因の廃鉱に入った。そしたら、五感が分裂して……滅茶苦茶な感覚になった。気付けば、其の分裂した感覚が、旅󠄀人󠄀ぢゃなくて現実の並行世界を知覚する様になっていて……で、融合の分岐は、深夜だった。深夜、他の分岐では皆んなセイエイは寝静まってたけど、其れだけ狸寝入りで、お手洗いに行こうとしたら、融合をする羽目になったかな。
僕も、最初は没入的に体験してた。でも、融合が進むにつれて、其れは人間ぢゃなくなっていく。感覚が分離したんだ。何だか能く分からない精神世界みたいな所に降り立った。其処には十字架に磔にされた処刑人みたいな、其の分岐の自分が居て、変貌の様子を眺めた」
「其奴は何か言ったか」
「あゝ、夢の自分と、其の分岐の現の自分、再び相補的になれるとか言って融合を提案して来たけど、拒絶したよ。其の分岐の自分は、寺内情栄である事を捨てたからね」
「フウン……でも、青年と云うのは、未だ
其の沈黙の間に、セイエイはお手洗いの目的を終える。立ち上がり便座の蓋を閉じ、水でなく、空気が処理を始めた。
「超世界生物、と云うのが何う云うのかは知らんけど、超自然的存在として……思いついた対処法は——正直、非科学的だもんで、言うべきか……」
「識るだけなら、別に構わない」
お千代は直に物言う性格と感じていたが、今回は然うでないらしい。
「今みたいな深夜なら、夜中の鏡を見るな、とかね……呪術的でしょう。もう少し具体的なものを思い付きたかったけど、今は此れだけ……だね。効能のある
——深夜。
「……鏡、か。神聖なものだと聞いたけど、そんな事があるのか」
「神聖だからこそ、と云うべきかな。私の専門ではないけど、異界との境界と云うか、然う云う役割も果たすらしいから」
セイエイは、気持ちを落ち着かせようとして、自らの片手が胸飾りを触ろうとしていた事に気付く。だが、手は其れに触れる事はない。あの四次元超立方体の三次元投影――今思えば、何故超次元の「影」が胸飾りに固定できるのか、全く分からない——は、「マコト」のものだからである。自分は寺内情栄で、マコトは夢での出来事に過ぎない……其の筈だ。其の一瞬の思案でも、セイエイはマコトの記憶を思い出す。マーデが、胸飾りの使い方を叮嚀に教えてくれた記憶……だが、夢の中での出来事である。「地球」を侵掠した「闖入者」など存在しないし、此の現実での変異生物は「闖入者」によるものではない。原因は明かされていないが、「先の大戦」の末路と云う自業自縛である。
「呪わしいね、寺内」
「ア……」
「抑々、私の所の神様は、テサノタさんなんだけど……文字だもんで、縁とかは、専門ではない……筈なんだ。一応、他の巫に聞いたり、
「『かしいでみる』いうのは、傾きか」
「ア、ントネ、お伺いする感じで、しとくからさ……。新宗派は、具体的な外からの脅威は、同等の文明等級の異星人位しか考えとらんかったもんで、絶倫な一個体はあまりね……」しどろもどろなお千代の言だったが、途中で口調が切り替わる。「あのさ、セイエイ、新宗派の神々さんの噂、耳にしたかな。『神々は、ただの異星人』だって。神託も、
「聞いた事がある——飽く迄噂としてだけど……お千代なら、助言の効き目も解るのか」
「場合々々で変るから、ある程度迄ならね。セイエイの状況を確認しつつならば正確に助言できるけど、わしもテサノタも
「然うか、其れでも凄いよ、かんなぎさんは」
「姉さんは絶倫だったけどね」
「然う……話は以上かな」
「然うね」
「
「然うらしいね。特に、
「明日……其方は夜か」
「うん。深夜だよ、何を言うか、セイエイ、——」
「もしかしたら、時間が捻じれ——ア」
ルテチアは時差があると雖も深夜は数時間前であり、既に日の出の時間であろう。携帯電話の向こうのお千代は、深夜のルテチアに居る——時系列は捻じれている。併し、其の事にセイエイが気付いた途端、通話は切れた。見れば、画面は電源が切れた様になっている。否、携帯電話の電源は最初から切れていた筈だから、元通りになったと云うべきかも知れない。履歴にも残っていない、謎の時間。洗面台の鏡には、困惑する自分の顔が映るのみだった。
お手洗いを出、通路を通り、セイエイは座席に戻る。乗り心地は悪くない——乱気流に呑まれたら激しくなるらしいが、天候は安定しており、振動も特に感じない。窓を覗けば、暗い空が浮かぶ。上の宙は永遠の夜だが、下の空は昼間である。其の狭間の群青の空をば、此の飛行機が浮き飛んでいる。
「変異海獣が気になるか」下を眺めていると、ウエモンが問うた。素直に頷く。「然うだろうが、新ベーリング地峡があれば暫くは問題ないさ」
「然うか。でもウエモン、人類は甚大な災害予測に対して、最大級も考慮して対策をして来たぢゃないか。数十米もある防波堤に、耐震の高架橋とか。其れでも、変異海獣に対する政策は新ベーリング地峡で充分なのか」
「大西洋の南北で……『先の大戦』の時に何があったかは、言うまでもないだろう。だでさ、北極海以外とは繋がっとらん」
「然うだね……」
ウエモンの言葉に思い出す。新ベーリング地峡は、北大西洋と北極海とを、他の海から切り離した。結果、変異海獣は太平洋へ移動する事は出来なくなったのだ。
暫しの沈黙の間に話題を探せば、天井から下がる画面に新聞報道が動画で流れていた。飛行機が非電波自由区を飛んでいる為め、今朝の新聞動画である。
「字幕付きで見たいなら、其処で見れるぞ」
ウエモンが指した前の座席の背凭れには、黒い板が付いていた。座席に付いているものと云えば普通は机であろうが、此れは画面であるらしい。ウエモンはセイエイと違って、飛行機の設備も一通り把握してる様子だ。
「……聞こうか」
セイエイの言に、ウエモンは椅子の中から「消毒済」と記されたイヤホーンを出す。「消毒済」を剥せば、線が伸びる。片耳分をセイエイに渡して、ウエモンは画面を暫く弄り、新聞動画を流し始めた。イヤホーンより、音の聞こえる。音声は日本語であったが、画面の口の動きとは合っておらず、吹き替えてあるらしいと解る。
「只今、午前零時をお知らせしました。引き続き、西アヷロニア放送局がお伝えします。連日、世間を賑わせます恒星間天体『彗星』ことユゴス。併し其の一方で、煽動の材料にもなっている現実があります。先日、大陸棚平野にて、暴動が発生しました」画面が切り替わり、視聴者提供の映像になる。様々な腕が挙げられた先に、黒煙が昼の陽を遮らんと立ち上ぼる。「死傷者は既に五十人を超え、百棟の家屋が破壊されました。其の背景には、『彗星』に対する誤解と、誤解を利用した悪質な煽動がありました」
画面の中では、放送局内の記者や専門家が順番に登場する。セイエイもウエモンも、今では「彗星」の具体的な数値や可能性を把握しているから、予測される出来事と其の起こり易さも或る程度は判る。併し、然うではない人間もいる——現に、二人が、時針の無関心な噂を直ぐに確かめる事が出来ない様に、「彗星」をただ、鵜呑みでなくともなぞり知るだけの人間もいるのだ。番組の意図としては、正しい知識を身に付けて、冷静に行動してもらいたいのだろう。「彗星」――正式名称が「ユゴス」と云うのも災いしてか、此の恒星間天体は必要以上に恐れられているらしい。気になって、セイエイはウエモンに問うた。
「ユゴスの由来って何だっけ」
「H.P.ラヴクラフトの小説だ。『闇に囁くもの』だな。ユゴスから、恐ろしい菌類が来るって内容だったかな」
「読んだ事ないな……ウェルズの『宇宙戦争』みたいな感じなの」
「ユゴスよりのものは、主題と云うか、あまり表立っては登場しない。研究者の話だった筈……随分と昔に読んだから、覚えてないが」
ウエモンの応えを聞けば、恐れられるのも無理はないかとは思える……だが、名前は名前に過ぎない。神話の登場人物の名を冠した小惑星など幾らでもあるが、其れ自体が英雄なのではない。が、世間から注目されると云う事は、熱狂に然う云った思考を阻まれると云う事でもあるのだろう。「大陸棚平野」での暴動は、其れ故のものなのやも知れない。だが、話は終わらなかった。
画面には続いて、現地当局の記者会見の映像が映し出された。記者が問いかける。
「暴徒に対して、何らかの規制措置を講じるお考えは」
壇上の役人は一拍置いて答えた。
「我々の建国の理念は、個人の自由意思を最大限に尊重することにあります。恐怖や誤解に基づく行動であったとしても、其の意思を頭ごなしに否定することは、我々自身の歴史を否定するに等しいのです」
然う述べる彼れの背後に、ふと目が移った。綺麗の一言が似合う、鮮やかな海面と美しい砂浜とである。画面の中の背景へとセイエイの眼が動いた時、セイエイの顔は横を向いた。視線が逸れて、窓の外を一瞥すれば、幾層か重なる雲海の隙間から、海が覗く。セイエイとウエモンとが旅の中で見て来た海の中で、一番濃い海の色だった。一瞬だけ見た青鈍の海面だが、セイエイの視界には確かに、巨大な潮吹きが見えた。普通の鯨類も巨大ではあれ、今の潮吹きは、低い雲を突き抜け、雲海に影をつくった。
「変異海獣の脅威を、感じていないんだな」
「あゝ、其れが俺達の求めた事だ」ウエモンも、セイエイの様に窓に顔を向けた。だが、其の視界には雲海しか映らない。「変異海獣を閉じ込め、変異人種を表社会から消去し、戦前と変らないと、然う思える
二人の視線が交わった。「先の大戦」は太陽系内を大きく変えた事は何度も聞いた。太陽系の惑星の数を半減させ、宇宙開発にも大きな遅れを齎したばかりか、地球環境も激変させてしまった。だが、変化と惨状とを見て来たウエモンの視線を、寺内情栄と云う人間はあまり理解出来なんだ。
「雲海は理想郷の在る所とも考えられていたんだったか。だが、実在するは理想ではない」
「雲海でさえ、雲間から海が覗けると云うのに」
「セイエイ。俺にとって自由は、『先の大戦』を終えてやっと手にしたものなんだ。だもんでさ……他人と共に自由に生きて欲しい。独り善がりでなく、な」
「……自由は、当然でないとは知っている、けどが、実覚はせえせん。出来いせん」
「其りゃ、然うだわさ」
画面は既に、暗くなっていた。新聞動画は終わり、動作が一定時間なかったことで、電源が落ちたのだ。
自由に就て話した内容が気がかりでありつつも、セイエイは体重を座席の背凭れに自らの体重を預け、ウエモンも窓も見ず、顔を逸らして据えた。不安や心配は尽きねども、斯う云う体制になってしまえば意外と、睡眠と云うものは早く降りて来る。目を閉じ力を抜いたセイエイだったが、普段と違う、奇妙な感覚があった。其れはまるで、電脳空間に潜り込む時の様な、自らの臓器を浸す様な、物理実体を離れ、仮想実体に降りる感覚………………。
/*視点変更*/
「で、
「マコト」は
「
「
「
マコトの
——
「お二人共、大丈夫ですか」警備員らしき人が駆け寄り、声を掛けた。何時の間にか知らねど、二人の後ろに居たらしい。「あゝ、Mさん……絆創膏を持ってきますね」
膝立ちするマコトと駈け行く警備員とを見ながら、Mさんとはマコトだろうか、と私は思う。併し痛みが強い——痛みと云うものを初めて実覚した気さえする。心の痛みとの喩えのみ知る私が……。
「ひよい……」
マコトの声を聞きながら起き上がる。右腕、右手を地面に、左手を左前頭部に当て、視線を水平に戻していく。
「
普段通りに発言しようとしたが、違和感があった。マコトから血は出ておらず、負傷も特にない。ならば、Mさんとは誰か。
痛む箇所を押さえた自らの左掌に、赤きもの。血があった。人工智能の精神部分しかない自分に血が流れているとは信じ難かった。モスクチイイアシャア社は抑々、仮想現実内でのみの体として此れを創った筈である。私は人工智能
「何だ此れは、本当に血なのか。マコト、判別はつくか」
「ヘ」マコトの間抜けな声は、マコトの思考が止まっていたと示すに充分なものだった。「……若しかしたら、前回気付いた『役割』と僕らの呼んだものが、ひよいを人間にしておるのかも。嬉しい誤算だけど……」
「嬉しいか。わしはな、元から人間ぢゃア——」
「お持ちしましたよ」
警備員、乃ち此の二人の関係を知る由もない人間の登場で、会話は中断した。だが、頭を強く打ったと云う事実を使って、一つ知る方法を思いついた。此の世界に就て知る方法をば。
「今から貼りますね」
「あの……少し強く打ったので、改めて、此処に就て教えて頂けますか」
「えゝ、構いませんが……貼り終えてからにしますね」
警備員の曰く、二人は審査なるものに合格し、此の急崖の谷を越える事を許されたのだと云う。此の向こうには、「人」が住む町があり、生活をしているのだと。
「お二人には、是非、彼処での、FLTの生活を実際に体験して頂きたいものです。『人』は、素晴らしいものですから。自由があるんですよ」
「……」
聞き慣れぬ言葉を
「行き方は、覚えてますか」質問に首を傾げば、警備員が続きを話す。「吊り橋を越えても、歩き続けて下さい。歩くのを止めずに、決して振り返ってはいけません」
送り出されたマコトとひよいとは、強固に其処に在る吊り橋を渡り歩き始めた。下を覗いても、霧に底は隠れ、何が潜んでいるやも知れぬ。心の奥底だとか、深宇宙だとかと同じである。分かり易いところもあれば、全く分からないところもある。
進めば、霧は濃くなる。音をも吸う、無に立っているかの如くに思えてくる。感覚が狂わぬ様に、情報を整理する。一寸先は霧である。前が分からぬと云う状況は、暗闇でなくとも成立するのだ。
「此れなら、簡単……と、普段の私なら言うけどね」
「今のひよいは、普通の人間なのか」
「普通の人間を知らんもんで、分からんわ。
軽々と世界を超える人間を普通とは呼ばない。マコトは意思通りに頭を振った。
「然う云えば、目って何が言いたかったの」
「貴方の目に、『現実』が見えたから。先刻、次元龜裂で見た時よりも、寺内の記憶が増えている様に見えたから……。
次元龜裂も都合のいい存在だよね。わしっちの旅しとる時に急に出てきて、都合よく拠点になって、都合よく色々な世界の狭間にある。サ、まるで途中からの思いつきみたいだね」
対話をするのは、文字通り五里霧中の中に居る心細さを和らげ、体感する時間をも短くした。霧は晴れ、白い建物が目に入った。
煉瓦の白壁の建物は、堀の向こうにあった。見惚れたのか、ひよいは建物の頭へと徐ら目線を上げていく。呼吸にも感嘆の呼気が混じる。
だが、マコトの視界に真っ先に飛び込んだのは、空堀の底、草叢茂る様に見えた存在の正体だった。汚れた体と服と、煤けた壁。深過ぎて、嗅覚では捉えられないが、目は誤魔化せない。
「我々の街へようこそ、適格者。——此処では誰も、他人の自由を奪わない。それが我々FLTの信条です」
「FLT……」再び聞いて思い出す。FLTとは、
「此処に来れた人間に、我々を知らぬ人間は居ませんよ。扨、橋が降ります」
堀の上から、何かが降りて来る。橋桁――乃ち、此の橋は昇開橋であると云う事らしい。マコトが上を見れば、確かに美しい景色がある。緩りと降りて来る橋脚も、不動に見える橋脚も、無機物然として美しい。金剛石の結晶構造の様に、単純で、ただ法則に従っただけの様な姿であるのだ。——だが、僅かな時間に見た下層の景色も、心に燻っていた。
「サア、此方へ。適格者」
マコトの足は動かない。
「マコト、何うかした。見惚れたか」
「違う。下に何があるか見たか、貧民街があるに。目以外でも感じられる、ひよいになら解ろう」
「ア、本当だ……」
歩き始めて、目に映る景色全てが常識を破壊する様なものだとわかる。橋桁は、自由を象徴するかの如く欄干もない。沈下橋でもあるまいに、殆ど風を遮らずにある。風の少ない今は、下からの空気も、浮き上がってきていた。空気は透き通っていた一方で、空気感は濁っているのだ。其れが見せるのは、確実に人でありながら、不自由な生活を強いられた様子の感覚。だが、今二人を先導する此の人間は、楽しそうにしている。狂っている様にも見えた——まるで知識を得た時の自分を見ているみたいだと、マコトは
「扨」橋を渡り終えた所で、
「我々FLTは、自由こそが秩序であると信じています。各々が己を律する限り、他者を律する必要などありません。其れが、最も高潔な精神です」
「聞くに、僕達は未だ自由を与えられていない様だが」
「不満ですか。説明を聞きすぎて頭の理解力が目詰まりしましたか」
「……」
「精しくは覚わらんよ、
「あゝ、適格者は文字を知らないんでした。でも安心して下さい、我々の指示に従っていただければ、暮らしにも慣れましょう」
其の言に、マコトは立ち止まって体を捩る。頷くかに思えた下がった首も、一回転して戻り、最早承諾でないと明らかになる。広場には、十人程度の集まりが見えた。歓迎か、或いは——。然う思案しつつも、マコトの喉は震え、意味をなした。
「……何を知るもよいと言ってもらわねば、困る」
上層の人々の顔色が変った。鬼の形相、禁忌に触れたらしく、集団で駈けて来る。烏合の衆もいい所だが、皆が二人を狙っていた。
「落ちよ」
此の言を耳にして、マコトの脳裡にひよいに似た人間の顔が浮かんだのは内緒だ。だが、人々は、誰のかも分からぬ声に、動き始めた。命令のない命令に人々は、二人の足場、即ち橋桁に乗り出して周期的に足踏みを始めた。
「衆愚ッ。自由を盾に、橋を毀す奴が居るかっ。適格者は未だ反抗的ではないぞ」
「落ちたな……
重力の感覚が唐突に打ち消され、息が詰まりそうな中、踠く私を掴む腕があった。私以上に実在感のある両手は、感ずるだけで分かる——マコトの体だった。
「——聞こえるか、ひよい、今は人間なんだから息をしなかん。オイ」
崖に思えた峡谷も、簡単に上がれる場所のある。二人は流される儘に何時しか岸の近い淀に着いていたらしかった。マコトは私を抱えながら、陸に上がった。
「——寒い」
素朴な呟きは震えていた。
「エ、大丈夫か、ひよい」
「寒い、寒いよマコト、凄いよ、此れが寒さか、マコト——」
「お二人さん」老いた声に興奮は凍り付いた。「何うした。訳ありみたいだな……ホレ、着いて来な」
二人は時折互いの顔を見ながら周囲を見回し、言葉通り老人に着いて行く。急崖からは、最早上は見えなかった。桁がずれた橋が辛うじて見えたが、まるで蓋の様だった。
少し前、二人が橋を渡った時、下は寂れてはいたが陽を受けている街並みに見えた。だが、此処は上から見た「下」よりも深い。川も流れているのに、ずっと薄暗い。此処の狭い青空は、夜空の天の川、或いは、天球に生じた龜裂に見えた。撮影機に映せば、此処の青空は白飛びしてしまいそうだ。其れだけ此処は暗い。
洞窟を抜けるような風の音がして、息が戻った。老人の背を追いながら歩くたび、足の裏が湿って鳴る。ひよいは其の触覚にも興奮しているが、身の震えは濡れ鼠を撫でる冷たい風もある筈だ。
「此処は、何処なんです」
「何って、現実、下の下だよ。陽の当たらん所さ。お前さんは太陽、信じてるか」
「太陽を……」
発言の意味を理解する前、質問する前に、老人は応えた。
「上にはそんな世界があるらしい。俺の若い頃から聞かされて来た話さ。でもな、誰も見た事がねぁんだわ」
其の声は諦めにも祈りにも聞こえた。見渡せば、煉瓦の代わりに煤を塗った様な家が並び、
「
ひよいが溜息交じりに何かを呟いたらしかった。其処に混じる風音も、老人の声には勝てず、耳迄貫く。老人は、濡れ鼠の二人を見かねて乾かすと言い出したのだ。
「服を乾かすには、少し時間が必要だね。其れ迄、表で遊ぶか部屋に居るかしておってくれよ」
まるで『注文の多い料理店』の冒頭の様に身包み剥がされたが、調味料をかけられる事も無い。乾くを待つ迄に黙り切る訳にも行かなくなってくると、マコトの頭の中に、ロボットと云う言が浮かんだ。
「知ってるか。僕の世界の話なんだが、人造人間をロボットと呼んだ」
「造語に聞こえる」
「実際然うだ。労働者だったり、強制労働だったり、そんな語からロボットは生まれた。詰り人間とは別種として定義されたんだ。元は『R.U.R.』って作品の用語だったらしい」
「ロッスモヸ・ウニヹルザールニ・ロボティ……何のことだか」
「題名だよ。カレル・チャペック作の、戯曲……だったかな」
何故か、此の作家の情報は疑い様もなく正確な気がしてくる。
「私の世界にも、然う云う話はあった。トクシマシカではないけれどね、私ができる前、嘗てあった西の低地では粘土の自動人形があったって噂だった。ゴーレム……然う呼ばれていた」
「人が粘土で、其れをつくったのか」
「然うなるね」
「……女媧と云ったか、プロメーテウスと云ったか、神話には土で人間を創ったと云うのもあって、其れを思い出したわ」
「ヘエ。結局、私たちも
「ン。マア、或る面では然うなるな。自然界の被造物と、被造物の被造物と」
会話に区切りがつくと、ひよいは新しく話題を振った。
「其れにしても、太陽を目にした事が無いとはね。まるで前の私みたい」
「前とは、昔……出会う前か」
「然うだね。知ってると思うが、私は仮想世界に閉じ籠ってた」ひよいは今回負った頭の傷を撫でた。「出る体もなかったでさ」
「うん……」
話の区切りが付いたのか付かなかったのか怪しい所に、洗濯が終わったとの言が耳に入った。服を身に纏えば、互いに見慣れた普通の姿になった。外を見歩こうかと取っ手に手をかけ部屋を出れば、先刻にも見た顔があった。
「お疲れさん」
「あ……はい」
二人を此処に案内した老人だ。返答が直ぐに出来なんだのは、手の煙草を見て驚いた故だ。マコトの、否、「セイエイ」の価値観では、今や健康を害する——存在の許されないものと云う扱いだった。だのに、此の世界では当然の様にあるらしい。
「喫むか」
「いえ。控えてますので」
「然うかい」
「セイエイ」ならば堪らず咳き込みそうな程、近くに立って煙草を見ている。老人は片手に箱を持ち、片手は何も持たぬ儘、何うやってか火を熾し、喫んだ。箱には文字が書かれていたが、老人は気にかけていない様に見えた。
「其れ、読めますか」
「読むって何だ」
無知に接して、ひよいの目が煌めいたのが分かった。二人の好奇心は、善意のみから成る——併し、結果を保障しない——慈しみ擬きを湧き上がらせた。二人の口は、まるで知識を吐き出すかのように、其れでいて分り易く、文字から、読み書きまで、つら〳〵と語っていく。ひよいは兎も角、マコト自身でさえ、自分が何故にこんな事が出来るのか驚きながらも、好奇心の儘に語っていた。
「然うだな……俺みたいな奴より、彼奴らに教えてやってくれ」
握られた煙る煙草の先が、泥で遊ぶ少年に向いた。示し合わせたかのように、少年らはマコトとひよいとに駈け寄った。
「聞いとりました。兄さま、教えて」
マコトと少年とは、泥の上に「文字」――意味や音声を持つ記号を書き始めた。其の交流の様子を、ひよいと老人とが傍から眺めていた。
「誰も、そんな事教えに来た者は居ねえ」
「知らない儘で良かったと思いますか」
「若人。サア、俺には分からんさ。知らん方が楽ってこともある」老人は煙を吐き出した。「大嘘をこく人間とか……上の事とかな」
「知っているのですか」
「サア。幾つシキがあるかなんて、言えんことだわさ」
老人は、灰皿に煙草を捨て、マコトらに背を向けて平屋へと入って行った。話し相手の居なくなったひよいは、マコトと少年らのする会話に耳を傾いだ。彼れらは、知識に感嘆し、具体的な手段として取り込んでいる。少年の一人が、「記録」と云う概念に辿り着き、燥いでいる。一歩距離を置こうと下がれば、建物の薄い壁が背中に張り付いた。
「あんなもの、所詮は子供の遊びさ」
背中越しに、老人の声が聞こえた。壁は音を漏らさぬ筈であるのに、意味を成さぬ程に薄いらしい。
「皆んなに広めよう」
誰かが言った。其の
——
「そんなものを
ひよいの
「
「
「……」
「マコトっ」
ひよいが駈け寄って初めて、マコトは他人の存在を思い出したかの様に顔を見合わせた。
「他は狙いませんよ、最初のは逸れてしまっただけですから」
二人は走った。何を意図していたのかも、正確に知る事は叶わないが、抑々、あの
「夢らしい展開だ」
「然う云う元気があるなら、走りなさいよ」
「飛べないのか」
「人間だって確認したぢゃないか。でも、知識はある。先導するから、真似よ」
ひよいが走りの動きを変えた。丁度、マコトの様な人間に最適化された、速く走る姿であった。振り返る迄もなく、
「……見失いました。適格者に知識があったとは、盲点でした」
周囲で泣き叫ぶ人々を無視して、独り言つ
「何故……。あゝ……其の通りです」
「上」から、一人、緩りと降りて来た。
「次はない、と言いましたよね。哀れな同志です」
其の上から、次々と武装に身を包んだ黒い人間が降りて来た。新たな
「……前任者の様な失敗はしない。追え、逃がすな。適格者を失格者として、適切な処理を行え」
あの
「何処へエ——行くか」
「此方にしよう」
再び駈け出す直前に、又声が聞こえた。
「こんな所にまで来るとは。適格者、好奇は自らを滅ぼしますよ」
「貴方は自由を与えた。だが、其の自由は意味を与え過ぎたのです。我々は、意味のない自由を護る者です。故に——」
辻の一方向から現れた
「数々の失格者を処分して来ましたが、皆、此の新型の前に抵抗は出来ませんでしたよ。貴方の様な愚鈍な適格者は、自由を乱した結果、斯うされるのが関の山です」
武装した人々の姿が明瞭になり、体にFLTの徽章が見えた。逃げ場はない。
「——次元龜裂に呑み込まれて消えなさい、失格者」
意外な言葉に、マコトは一瞬動きを止めた。飛べぬならば行き場もないと、ひよいでさえ動かず、却って的になろうとする。だが、FLTは知ってか知らずか、二人に逃げ場を与えたのだった。然うではあるが、二人が動きを止めたのは拠点に戻れると気づいたからでもなく、単純な驚き故だった。帰還の道が提示されたと気付く前に、二人は時空間に生じた龜裂に呑まれた。だが、此の世界では、其れは確かに死に等しいらしかった。人体の直ぐ
こんな感覚の中で、マコトは前回見た、セイエイに接触した「冷徹な青年」——「翼のある使者」との歩まなかった分岐を思い出した。あれは
「さようなら。——全員撤退せよ」
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「ルテチア
よく
ウエモンも
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