アリス恐怖症
私は落下を、或いは重力を、アリスと名付けた。名前をつけるとは、世界に輪郭を与える行為だと誰かが言った。夜、ベッドに横になると、私の身体にぴったりと寄り添う輪郭がある。私の姿によく似たその形は、私の落下を担って抑える地獄の向きへ築かれた構造だった。暗闇が恐ろしいのは、地面が剥がれ落ちたその下に、突如としてこの不安定な構造が顕になるからだ。暗闇を恐れる人は、実際のところ重力を恐れているのだ。その姿は、我々の視界には現れず、常に我々の下方に、皮膚の真下にだけあった。それがないとき、重力はより強く輪郭を翹望し、落下を生じるのだ。重力のヴィジョンは常に落下であり、落下はしばしば破壊を伴うので、「落ちる」という動詞の意味域は不気味に拡張していく。「眠りに落ちる」、「恋に落ちる」、「相場が落ちる」、「信用が落ちる」、こうした落ちていくもののイメージは、さながら落体の軌道をなぞるように、自ずと不可逆な向きへ収束し、大抵は現状の破局を比喩した。
意味域の無闇な拡張は、まさしく私の恐怖症の第一期だった。落下と心中する質量の観念は私の内的世界の曲率を歪めた。ニュートンのリンゴの上に、あらゆる質量を伴うもの、即ち時間的遅滞を象徴する全てが積み上がった。埋葬、記録、約束、後悔、読みさしの本や、公共料金の未払いの請求書。引力そのもののように形を持たない記憶は重さだけを得て私の精神に圧痕を残し、それは私の皮膚下の輪郭と、内と外からぴったり一致していた。世界そのものが重たかった。それは、我々の世界がコンクリートで作られているからではなく、こうした数々の遅滞、未回収の領域がどこまでも広がりわたっているからだった。
アリスの支配する世界では綿毛の軽やかさにさえ重税が課される。質量のあるものはみな等しく虐げられている。私は、こうした重さの全てを支えるための床があること、その床が僅かな傾きもなく水平にあることを確かめるために、朝目覚めるたびに床を撫でた。撫でるたびに、私は掌の感触が足裏の構造とは無関係であることに気づき、安堵した。私は安堵を得るために床を撫で、重力は意識的に指向され、こうした交渉の末に、彼女はアリスの名を得た。私はアリスを恐れていた。
アリスは下にいただろうか。擬人化はこうした矛盾をしばしば起こした。アリスは下にいたのではなく、アリスの手招きする方へ、下方を指示する錘が垂らされたに過ぎないのだから。駅の階段、夜の駐車場、雨上がりのスロープ、風に揺れるブランコ、涙に濡れた視界に浮かぶ逆さの十字架たち、そして、ウサギの穴。こうした表象の中で手招きするアリスの軽やかな仕草に、私の心は自然と傾きたがる向きを定め、その方へ向かうことを、辞書は落下と定義しているだけのことだった。
アリスは大抵、礼儀正しくそこにいた。彼女は普段はとても静かだった。風鳴りや虫の羽音、または冷蔵庫のコンプレッサの唸りに似た文法で、時折口を開くだけだった。
『今日のわたしは重たい?』
「スニーカーが二つ、それくらい」
『お出かけするの?』
「今日はきみに持ってもらう」
『いい考え』
私が床を敵視するとき、アリスは珍しく饒舌になった。私がグラスを床に放ると、彼女は大声で喚いた。そのくせ彼女はグラスを恐れていた。食事のとき、テーブルの上にグラスや陶器類が並ぶと、彼女は部屋の隅の方へ隠れて、怯えた目で私を見張った。そんな彼女に、不敵な笑みを返しながら食事を摂るのが、私の唯一の復讐だった。
テレビのニュースの中で、度々アリスは自身の戦利品を私に誇示した。飛行機の墜落、自殺者の投身、土砂崩れ、こうした不幸な知らせと共に、普段の意趣返しのように、彼女は私に思わせぶりな流し目を送った。
『今日は撫でてくれない』
「きみはまた雨を降らせたね」
『わたし、寂しかったの』
「おかげで床が汚れてしまった」
その夜、私は寝付けなかった。恐怖症は日に日に強度を増した。私はベッドの上に仰向けになって、頭まで毛布を被った。
『眠れないの?』
「うん」
『わたしが怖いから?』
「そうかもしれない」
『逃げられないのよ、絶対に』
「分かってる」
『私に全てを委ねるの、宇宙飛行士みたいに』
目が覚める。床を撫でる。今日は晴れている。スニーカーを履いて扉を開ける。
「おはよう、アリス」
『今日は階段を使ってほしいの』
私は頷くと、階段を下っていった。それは、彼女へと向かう足取りが落下の印象を伴わない例外だった。
世界は重い。だが形は忠実だ。忠実さを畏れ、そして少しだけ愛する。この矛盾が、少しの間だけ私を地表に留めるだろう。
思い出の中の神殿 坂本忠恆 @TadatsuneSakamoto
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