「友人」

 私には現在のところ、友人と呼んで差し支えないだろう人物はこの世に一人としていないのだが、今回はそういう友人の話ではない。

 ある種、もう一人の自分の事である。

 彼、若しくは彼女は、名前を持たない。或いは私に教えてくれない。それ故私は常に彼、若しくは彼女のことを「友人」と呼称している。

 友人はとてつもなく口が悪い。私が「死にたい」と言えば、友人は即座に「じゃあ死ねばいいじゃん」と返してくる。しかし、その口調とは裏腹に、私の良心と理性の象徴である。友人は私が生きていることによって他人に与える迷惑と悪影響の大きさを鑑みて、このように返事をするのだ。

 友人は私に優しくない。私が何かしたいと思っても、友人が起きていれば即反対される。そんなことにお金使っていいのかとか、そんな時間はないとか、それを買っても置き場所がないとか。そういうところはまさに理性の化身である。たまに友人が寝ているのか何も言わない時があるが、後で困ったことになると「それ見たことか」と言わんばかりに私を責める。私もよくやる「言っても聞かないなら、敢えてやらせて大変な思いをさせてやれ」という荒療治なのかもしれない。訊いても教えてはくれないが。

 私と友人は完全に乖離している。そのため私には友人の考えはわからない。友人は一切表へ出てこようとせず、私の頭の中で声を発するのみである。稀に私がSNSで投稿している時に口を、というより投稿を挟んでくることがあるくらいだ。もっともこれは、私が頭に浮かんだ言葉をそのまま直ちに入力しているからだという考え方もある。兎も角、私では友人の真意を完全に理解するのは不可能なのである。

 一方で、私にもわかることがある。

 友人は私を無知無能と罵り、虚弱貧弱と嘲り、何かにつけ「死ね」と宣う。それでいて、彼乃至彼女の本質は自己愛である。

 友人の言は大抵の場合「私自身も誰に言われるまでもなくそんなことはわかっていて、ただ目を背けていた」というようなことだ。それを友人ははっきりと眼前に突きつける。それは私に多大なる精神的ダメージを与えるが、少なくともそれを他人に指摘されるよりはマシである。友人と呼称していても、結局は自分でしかないから耐えられる。

 私に自死を促すのも、私の失敗を口汚く罵るのも、結局のところこの無能の身が他人に損害を及ぼすことを、というより寧ろ、損害を及ぼしたことによって非難の嵐に晒されるのを未然に防ぐための、友人なりの提言なのだ。耐えられなくなったから逃げるのではなく、耐えられなくなる前に途中棄権リタイアしてしまえばいい。この世に偏在する苦痛に沈む前に、もっと深い「死」の虚無へ溶けてしまえばいい。歪みきった極論だが、私が外から攻撃され苦しむことを避けるための方法なのだ。

 こういう時の友人は基本的に「死ねば?」としか言わない。具体的にどうだから死ねとは滅多に言わない。しかし、畢竟自分の一側面であることに変わりはない。憎たらしいまでの自己愛が、巡り巡って彼若しくは彼女をこのようにしたのだ。先にも述べた通り、他人の迷惑を鑑みてではなく、自分が(少なくとも生きていてそれを認識出来る状態で)非難されないために、あくまでも自己中心的な死を提案する。そういう奴なのだ。

 友人とは本来、一緒にいて心地よい間柄であり、互いに支え合う存在であろう。私の友人はそれには当てはまらない。どちらかといえば嫌悪感を抱く対象だ。けれどもその本性が私の自己愛であるなら、それを否定する権利があるのは、私以外に誰一人としていないと思うのだ。

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Attendre et espérer! 竜山藍音 @Aoto_dazai036

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