第2話
×月×日
その日、空は朝から静かに涙をこぼしているせいで、細い雨の糸が一日じゅう、町を包んでいた。その雨は、冬の入口であることを思わせるような冷たい雨だ。けれども、こうも長く降られると、胸の奥までしっとりと濡れてしまいそうだった。
年の瀬が近づくにつれ、町はせわしなく、人びとの声と足音が重なり合って、まるでどこかへ急ぎ立てられているような賑わいを見せている。それなのに、彼のいる病室だけは、まるで時間の歯車が止まったかのように静かで、パリっと整えられた白いシーツのうえに、彼は穏やかに座っていた。
「やあ」
「やあ。…今日は、雨なんだね?」
「ああ。朝からずっと」
「どうりで、外の音が静かだと思った」
「体の調子は、どうだい?」
「うん。今日はとてもいいんだ。先生にもそう言われたよ」
「そりゃ、よかった」
「来月、もしかしたらだけど、一時的に…、外へ出られるかもしれないんだ」
「ほんとうかい! それは!それは、とてもいい知らせだ。そうだな、何処へ行こうか、考えておいてくれよ」
「気が早いなあ。まだ“かも”って話なのに」
彼は、からからと、少し震えるように笑った。
僕は、なんともいえない気持ちになって、ふと顔をそらす。けれども、それよりも、「外に出られるかもしれない」という明るい予感のほうが、胸のなかで大きく広がった。
ああ、元気になったら、どこへ行こう。
いつもの図書館でもいい。学校にふらりと立ち寄るのもいい。あるいは、誰もいない海でもいいかもしれない。理由なんてなくていい。ただ貝殻を拾って、ふたりで笑えばいい。
「一時退院したらね、君に言いたいことがあるんだ」
「うん。楽しみにしてるよ」
※
×月××日
その日の夕暮れは、まるで夜の先端がほつれたような、冷たい風が吹きすさんでいた。
「体調が、あまりよくないらしい」
そんな知らせを受けて、僕は急ぎ足で病院へ向かっていた。
びゅうびゅうと吹き抜ける風は、足もとをさらいそうになりながらも、必死に歩を進める。商店街では店じまいの声やら、年末の準備やらでどこも忙しなく、あちらこちらで光が揺れていた。
けれども、大通りから一歩外れた細い路地に入ると、さっきまでの喧騒は嘘のように消えた。
空は厚い雲に覆われて、月の姿すら見えない。
街灯がぽつりぽつりと、まるで夜の道案内をするように立っている。それ以外には何もなかった。あまりにも静かなその道は、まるでこのまま歩き続ければ、どこまでも夜に溶けてしまいそうだ。
僕は思わず足を止め、喉の奥で小さく息を呑んだ。
だけれど、頭を振ってまた歩き出す。彼が待っているのだから。
――くん。
……ふと、自分の名を呼ぶ声が、雨と風のなかに混じって聞こえたような気がした。
見上げれば、そこに彼がいた。
黒い外套に身を包み、街灯のもとに、ひとり立っていた。
僕は驚いて駆け寄る。
「…どうしたんだい!?まさか病院を抜け出したんじゃないだろうね」
「ふふ、大げさだよ。ちょっとだけ、外の空気を吸いたくなったんだ」
「本当かい?君のご両親が見たら腰を抜かすんじゃないか」
「それは、困るなぁ」
「いいさ、一緒に謝ろう。ほら、帰ろう」
僕は彼の手を取った。
けれど、その手は、まるで冬の川に沈めたみたいに冷たくて、胸がぎゅっと痛くなった。
彼は少し驚いたような顔をして、けれど、いつものように静かに笑う。自分の唇が何か言おうと動きかけたけれど、結局、言葉にはならなかった。
ふたり、静かな道を歩く。
街灯の明かりのなか、白い吐息がふたつ並び、空にのぼっては消えた。風の音と、靴音だけが世界にあった。氷のような手に、どうしてか泣きたくなる。
「君の手は、冷たいね」
「そうかい?君の手は、温かいよ」
「ううん、君が冷たすぎるんだ」
僕の言葉に彼は少し眉を下げると口を開く。
「明日」
「ん?」
「明日、一緒に笑おう。明日、一緒に本を読もう。明日、一緒に、たくさん話そう」
「……なにを言っているんだい。そんなの当たり前さ。明日も、明後日も、来年も……退院したら一緒に帰ろう」
彼はそこで、ふと立ち止まった。
冷たい夜のなかで、何かを噛みしめるように息を飲み、それから、握っていた手をぎゅっと強く握り返して――ふいに、離した。
僕が驚いて振り返ると、そこにはもう、彼の姿がなかった。
闇の中、僕の手だけが、空を掴んでいた。そして僕は、光と闇のあいだの場所に、ただ一人、立ち尽くしていたのだった。
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