第3話

 ×月×××日

 しんと静まりかえった病室に、彼の咳がひとつ、ふたつと落ちるたび、空気がかすかに揺れた。白いシーツに沈む彼の手を、僕はそっと包むように握っていた。何もしてやれないのが悔しくて、それでもせめて手だけは離さずにいようと、そう思った。

 その小さな掌は、見た目よりもずっと熱を帯びているのが嫌でもわかる。

 閉じられていた瞼が、ゆっくりと開いていく。

 その奥に宿る瞳が、ぼんやりと僕を映した。

「……君と、こんなふうに過ごせる時間がね、どれだけ幸せだったか」

 僕は、不意に心の底からこぼれた言葉を口にした。

 彼は、かすかな笑みを浮かべた。

「……僕もだよ。…ああ…君が、僕の友だちになってくれたらいいのに」

 それは、思っていたよりずっと幼い響きだった。

 けれど彼は、かすかに首を振って言った。

「……それは、無理なんだ」

 それきり、二人の間に言葉は降らなかった。

 ただ、彼の息づかいと――壁の時計が、静かに、律儀に、ひとつずつ秒を落としていく。


 その音は、遠い銀河の彼方で星がまたたく音のようにも聞こえたし、雪が音もなく降り積もる音のようにも思えた。

 彼は震える指で、僕の手をもう一度ぎゅっと握り、掠れた声でささやいた。

「……僕はね、君が大好きだよ」

 その微笑は、風に舞う白い花びらのように、どこかはかなく、あたたかかった。

 握っていた手から、すこしずつ、すこしずつ力が抜けていく。


 僕はただ見つめていた。

 彼の頬も、髪も、指先までもが、薄い光に溶けていくようだった。


「君なんて…」

 小さな声が、胸の奥から零れ落ちた。

「君なんて、大嫌いだ」


 最後に見せたあの笑みが忘れられなくて、彼を好きになったことを、どうか悔いに変えたくなくて。


 けれど、人間というものは、なんて残酷なんだろう。

 その声も、匂いも、指の熱も、きっといつか、少しずつ風のなかに流れてしまう。

 残されるのは、まるで星の死骸のような、透きとおった静けさだけだ。


 ああ、さよなら。


 どうか、天気輪の柱のてっぺんで、僕がそちらへ辿りつくその日まで、待っていてくれますように。

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天気輪の柱 adotra22 @adotra

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