13.怪物

 「ファウスト……なのか……?」

少年の手を握るレンの手に力が籠もり、エトは顔を上げた。見上げた先の表情は硬く、先ほどの落ち着いた態度とは別人のような動揺が窺えた。

「そうだよ、レヴィン」

ひゅ、と息を呑んだレンが緩く首を振った。

「嘘だ、顔が違う――……」

雰囲気こそ、記憶の男に合致するものの、魔力を感じない。腰の蝋燭消しキャンドルスナッファーも沈黙している。この男がファウストなら、本来の主人を前にシラを切っているのだろうか。――いや、むしろ、喜んで舞い戻るのでは……?

「ああ、これは“借りているだけ“なんだ。正真正銘、私はファウストだ。君だって、髪の色も目も変わったが、ちゃんとレヴィンだとわかるよ」

「借りる……?」

「帝国時代もそうだったんだが、あの頃は研究不足でね……すぐに”出てきてしまうから”、随分、ダメにしてしまったよ」

「……」

気味の悪い断片を聞きながら、レンは少年を後ろに押しやりながら下がる。

敬虔けいけんな部下達のおかげで、ようやく上手くいったんだ」

「……」

研究。部下達。――胸に、この手で屠ってきた者たちが浮かぶ。人間ではないモノに成り果てた軍人達のことだろう。

……ずっと、考えていたことだ。

彼らは何故、あんな……武器をねじこまれ、異形の化け物になる必要が有ったのか。

軍事力として? いや……当初は普通の人の力で王都を鎮圧し、周辺国を退けた。

その後の統治さえ上手く行っていれば、帝国ににわかに逆らうものは出なかった。

それ以上の軍事力は無くても良かった筈だが、何故、この男は人の身をいじる”研究”を続けたのか?

民衆が帝国を倒そうと蜂起した原因が、”悪書”を焼く政策なのは明白だ。

ノーラが言った通り、『灰の魔法使い』を作る為、こちらに罪の意識を持たせるのなら、『火種』の強さはさほど関わりないことだ。ありのままの人間を蝋燭として死なせるのも、むしろ弱い相手を殺す方が、心は膿む。

「まさか……その体の為に、お前は部下を……?」

「おや、私の研究を知りたいかい? 君さえ良ければ、教えてあげよう」

微笑を浮かべた男のゆっくりした足取りに、レンは厳しい目で吠えた。

「近寄るな! 私は……――お前の為に、何年も……!」

「フフフ、何年なんてとんでもない。君は長いこと頑張ってくれたよね……嬉しいよ。私はようやく、『灰』に巡り合える」

ぎくりとして頬を強張らせるレンに、にこりと笑い掛けた。

「綺麗な灰色になったね、レヴィン。私より、ずっと良い」

「……黙れ……私はレンだ。お前が知るレヴィンじゃない――」

神父は肩をすくめて苦笑した。

「レン? 懐かしい名だ……ジェラルドにくっついていた傭兵を思い出す。無理に気を張らなくても、君はレヴィンで良いのに」

――ジェラルド? それは、二人目の名か?

不吉な名に動揺しつつも、きゅ、と服を掴んだ小さな手に気付いて、レンは神父を睨んだ。

「……私がどう名乗ろうと、もうお前には関係ない。この町で何をしている?」

「はは、会わない内に随分、嫌われてしまったんだなあ……前は”閣下”やら”ファウスト様”と、日夜、私の下で身じろいで可愛かったのに」

「質問に答えろ……! 」

怒りにか恥辱にか鋭く吠えたレンに対し、神父は何処吹く風といった顔で片手の人差し指を立てた。

「そうだ、あの頃みたいに、久しぶりに触れ合うのはどうだろう? 体は違うけれど、君のことは全て覚えているから心配要らない。私は子供に見られていても構わないよ」

滑らかに述べられる下卑た提案に、レンは歯を軋らせて唇を噛んだ。胃が捻じれる気がした。まともに聞くな。考えるな。思い出すな……!

「その子、耳が聴こえないのだろう?」

「何故、それを……」

「彼は”歌”の影響を受けていない。随分、強い魔法が耳に掛かっている」

「歌……?」

やはり、何かの魔法がこの辺りに使われているらしい。だが、この町に入って以来、歌や音楽の類など聴いていない。ごく普通の生活音と、日常会話のみだ。

「聴こえないなら良いんじゃないか? 君が嫌がっているのか、よがっているのか……どちらに見えるか聞いてみるのも面白い」

「……近寄るなと言っている……! 」

厳しい目で言うと、レンは少年と共に後退した。すぐ後ろは壁だ。どうする。唯一の出口には奴が居て、背後には開口部こそ有るが、今のままでは細過ぎて子供一人通れない。蝋燭消しを刃に変えて切ることは可能だが――『大喰おおぐらいのマギア』を下手に動かしては、子供を襲うかもしれない……――

火の魔法を使うか? しかし、此処は狭い木造の塔――下手に燃やせば大火事になる。自分一人なら、最悪の事態でも構わないが、今は……

ちらと見下ろした先で、只ならぬ様子はわかるのだろう、少年は少しだけ不安な顔でこちらと神父を交互に見ていた。……今、この手を離すわけにはいかない。離してしまったら、自分は最も軽蔑してきた者たちと同じ者に成り下がる……

神父は傍目には優しい顔と声で言った。

「怖がらなくていい。『灰』は君の味方だ。誰も助けなかった君を、唯一愛し、助けるのが『灰』なんだ」

「……」

まともに取り合わないのが一番良いと見込んで、レンは口を閉ざし、呼吸を整えた。

――落ち着け。……お前はレヴィンじゃない。弱いあの頃と同じじゃない。ロニにもそう言って出てきたろう?

意を決し、ぐっと握りしめた片手を開くと、脇に下げたまま指先を素早く空中に滑らせ、最後は軽く鳴らした。刹那、辺りの塵を導火線にするように爆竹の如き火花が飛び散った。煙が弾けて辺りを覆う。神父の姿が煙に掻き消えるのを見るよりも早く、今度は開口部近くの壁に手早く見えない文字を書くと、壁がひとりでに吹き飛んだ。驚いている少年を小脇に抱え、外に出ようとした時だった。

頭上から降って来た恐ろしいプレッシャーに、レンは”それ”の姿を見るよりも早く、反射的に蝋燭消しをかざしていた。重い金属同士がぶつかり合うような音が響いた。

「……何だ……お前は……!」

明らかに神父ではない。目の前に居たのは女だ。が、その両腕は巨大な白い翼で、剥き出しの身を人にあるまじき羽毛が覆い、今、杖ほどの長さに変じた蝋燭消しに食らい付いているのは鋭い鉤爪の付いた鳥の脚だ。

――あの……落ちていた羽根はこいつか……⁉

羽ばたいているだけでも凄まじい風が起こり、あっさり吹き飛ばされた煙の向こうで神父がやんわり笑っていた。

「いけない。もう時間だったか……ごめんよ。この子達の餌の時間だったんだ」

「この子”達”……?」

重い攻撃を受けながら睨んだ視線の先――神父の傍らにもう一体、同じ翼の生えた女が居ると気付き、冷や汗が垂れた。

「時間にはきちんとしているんだが、御覧の通り、凶暴でね」

傍らの女の頭に手をやりながら、神父は優しい声で言った。

「君一人ならともかく、子供を連れて二体を相手にするのは骨が折れそうだね。私と来るなら、この子達は下がらせよう。その子も家に帰れる」

「戯言を言うな……! どうせ、私が離したら餌にする気だろう……!」

「ハハハ……酷い言い方だ、レヴィン。悲しいな――それなら、好きにすればいい。君が泣きつくのを待つのもいいさ」

弦月に割れた唇が不吉を喋るや、その手を離れた二体目が金切り声ともつかない叫びと共に襲い掛かってきた。狭い空間の中、二体の怪鳥は互いにぎゃあぎゃあぶつかり合い、羽根を巻き散らしつつもこちらに爪を向けてくる。微かに引っ掻いただけで服地ごと皮膚が裂けるそれをどうにか片手で捌き、レンはぽっかり開いた穴に後退した。塔の装飾を足掛かりに降りるつもりだったが、相手は翼の有る怪物が二体、これでは宙に投げ出された瞬間――……

「飛び降りろッ‼」

背後、いや――直下から大声が響いたと思ったとき、怪物らの顔を凄まじい放水が襲った。水とは思えぬ鋭い一撃に目を突かれたか、叫び声を上げて怯んだ怪物らから振り返ると、子供程のサイズのカエルが穴の側面に貼り付き、王冠を抑えて臙脂のマントを翻らせていた。

「ノーラ様……!」

「世話の焼ける小童こわっぱめ! 早く飛ばんか!」

カエルに怒鳴られ、瞬き程の短い逡巡を経て、レンは子供を抱えたまま勢いよく飛び降りた。内臓を突き上げる浮遊感を感じたのも束の間、地面の手前で透明な膜のようなものに足が跳ね返り、たたらを踏んで地に付いた。

「レン!」

先程の大声と同じ声に怒鳴られて振り返ると、マイルズがミントカラーの車から後部座席を示していた。驚きの余りか、硬直している少年を乗せると、レンは塔を振り返った。軽やかに飛び降りてきたノーラを目を潰されながらも追ってきた怪鳥に蝋燭消しを向ける。レンが呟く”言葉”に反応し、先端のベルが筒状に変化し、吹き上がった炎の槍が一体の翼を貫いた。おぞましい叫び声と共に燃え上がりながら落下するそれを見て、もう一体は慌てて方向転換したが、その背後から針ほどに細く研ぎ澄まされた水が幾つも突き刺さり、あえなく落ちた。地面で燃え上がり、または痙攣するそれを確認するや、地に降り立っていたカエルは蝋燭消しを下ろしたレンをじろりと睨んだ。

「おい、軽く吹っ飛んだぞ! 私まで焼く気か!」

「も、申し訳ありません……ノーラ様……」

慌てて頭を垂れた青年に、「これだから女王の血統は」とブツブツ文句を垂れながら、ノーラは時計塔を見上げた。煙が流れ落ちるが、上から見下ろす者は居ない。

黒い目をすがめてから、カエルはぴょんと車の方へ向いた。

「行くぞ、レン。此処には長居せぬが良い」

「はい」

同じように上を見上げていたレンがノーラに続いて車へと乗り込むと、マイルズが煙草を吹かしながらアクセルを踏みつける。ロニの愛車はガタつきながら発進した。

「すみません、お二人とも……」

頭を下げて詫びるレンに、マイルズは振り向かずに言った。

「その話は後にしようぜ。あの不気味な鳥はどちらさんのペットだ?」

「塔の上で、ファウストに会いました……いえ、今はチェスターと名乗る神父の男の様ですが……奴の手の者です」

「フン、エセ神父め、正体を現したか。カエル王も見たのか?」

「うむ。ちらと見たが、あの白服の男からは魔力を感じなかった。ファウストかは些か懐疑的だ」

「やはり、魔力は無いのですか……よく、それで私の居場所がわかりましたね?」

「お前が高い場所に行くとマイルズが見込み、私がお前の『火』を探したのだ。魔法を使ったのがわかった故、何らかの非常事態と解釈した」

「ありがとうございます……助かりました」

レンがようやく胸を撫でおろした時だ、何やらパンの香りがする袋を抱えさせられていたエトが袖を引いた。すっかり説明を省いていたレンがノトリアを取り出す中、マイルズが言った。

「ところで、そのガキは誰なんだ? あんなもん見て叫びもしないのは大したもんだが」

「エトという、この町の少年です」

怖い目に遭わせてすまなかったとノトリアを通じて詫びるレンに、少年は目を丸くしたまま、首を振った。彼にノーラやマイルズのことを説明しつつ、レンは言った。

「事情は後で話しますが、あの場に居たので巻き込んでしまいました。耳が聴こえない為、この町に掛けられた魔法の影響を受けない様です」

「無理もない。その子供、耳に強力な魔法が掛かっておる」

偉そうなカエルだが、言っている声が聴こえない為か、少年は面白そうな顔でカエルとレンを見比べている。

「ファウストもその様に……マギアは反応しないのですが、魔法なのでしょうか?」

「魔法にも色々ある。魔のたぐいではない故か、我らやマギアが知らぬ独自のものかもしれぬ。詳しく調べねばわからんが――」

「おっと、お二人さん――そこまでだ。何か気色悪いのが追っ掛けてきてるぜ!」

バックミラーを確認したマイルズが血相変えて怒鳴り、ロニの愛車は景気よくエンジンを吹かせてぶっ飛ばした。レンとノーラが背後を振り返るや、“それ“は地獄から響くような不気味な咆哮を響かせた。蛇のごとき長すぎる首をうねらせ、ワニにも似た鉤爪付きの短い四肢で、辺りのものを踏み潰しながら向かってくる。その首には何か刺繍の入った織物のようなものが絡みつき、目玉は白目を剥いている。皆の様子で後ろを見た少年も、仰天してレンに抱きついた。

「ノーラ様、あれは――」

呻いたレンに、ノーラは呟いた。

「ガルグイユ――……なんとまあ、面倒なものを連れてきよって!」




 「わ、どうしたんだ、二人とも?」

顔を合わせるや、ロニはびっくり仰天して立ち上がった。館内に姿が見えなかった為、本棚に隠れた小部屋を覗き込んでみたリシェとイレーネは揃って瞬きした。

「なによ、兄さん。何か変?」

「変って……変じゃあないけど、目が赤いよ。泣いてたのか?」

近付いてきて覗き込んでくる兄に、リシェはうるさいハエでも払う様に言った。

「ああ……これはご先祖様たちが悪いの。もう平気よ」

「本当に?」

「ほんと! もう……子供扱いしないで! 兄さんこそ、その手は何なの?」

一転して怒り出す妹にたじろぐ兄が陣の説明をするのを見て、イレーネがくすくす笑った。

「お二人は本当に仲の良いご兄妹ですね」

『そうかなあ……』

声をハモらせた兄妹が互いを胡乱げに見てから、始末が悪そうに目を逸らす。

それに改めて笑みをこぼし、イレーネは言った。

「ロニ様、フリーゼ様より色々と伺いしました。お手伝いできることがあればと思います」

「ありがとう。手伝ってほしいけど……何を頼んでいいのやら。何かもう少し、手掛かりがあればいいんだけど……」

ロニの話を聞くと、リシェは腕組みして唸り、イレーネは小首を傾げた。

「ごめんよ、すぐに思いつく話じゃないよね。ルーシャが頑張ってくれている本がそうだとしたら、無駄な話だし……」

「いえ、先ほどのフリーゼ様とのお話しで確信致しました。この図書館は、女王様や英雄が残されたものを正しく継承した場所だと思います」

マダム・フリーゼとの会話と、グラスワンド卿が残した物のことを聞いたロニは驚き、リシェたちのようにちょっぴり涙ぐんだ。イレーネが差し出した小箱と中のネックレスをしげしげと眺めて頷いた。

「それはマダムが言った通り、イレーネが持っているのがいいね」

「はい……ありがとうございます」

「でも、そうか――……僕らが思う通り、女王の手記の最後に有る『物語と共に』というのが、本のことだといいんだけど……なんだか他の物にも思えてきた」

「物語と、共に……」

呟いたイレーネはロビーの方を振り返った。

「ロニ様、小鳥が出てくる物語をご存知ありませんか?」

「小鳥?」

「英雄の石像が、小鳥を見ているのです」

「え、本当?」

「はい。ディルク様は空を飛ぶものを、女王様は手元に、レ……グラスワンド卿は、外へ飛び去るものを。三人と小鳥には格別の関係がないので、気になりまして」

神託でも受けたように、あたふたとロニは石像を見に行き、辺りを一通りうろついてから頷いた。

「ほんとだ……気付かなかった。小鳥が居るね。ご先祖様が見てる鳥は、館内に向かって飛んでる感じだ。本を持つ女王様と一緒なのは、本と関わり有るのを示すのかな? グラスワンド卿は……」

「魔法の解放を意味するのかもしれません」

「うーん、小鳥か……小鳥……いっぱい有るなあ……」

そう、小鳥が登場する物語は色々ある。ルーシャを見て思い出した親指姫にも彼女を導く親切なツバメが現れるし、ナイチンゲールはその美しい声で死神を払う物語もある……幸せの青い鳥は探して近くに居たと気付く意味では有りそうだが、それならステンドグラスは青い鳥にしてほしい。

小鳥……小鳥……

「……うーん……わからない……なんだか、頭がぼんやりするし……」

「しっかりしてよ、もう」

「精霊を呼び出している影響かもしれません。無理はなさらない方が……」

じわじわと魔力を奪い取られているらしい、うかとすると眩暈がしそうな頭を押さえて、ロニはぼやいた。

「せめて、あの鳥が何なのか知りたいよ……猛禽類や水鳥じゃあないのはわかるけど……小鳥は選択肢が多過ぎる。こんなに装飾があるのに、説明書きが残っていないってことは、それも女王が警戒して残さなかったのかな……」

イレーネが、リシェと顔を見合わせた。

「あの、実はロニ様……この図書館建造に関わったかもしれない者と、教会の傍で会ったのですが」

「へ?」

「ノームという土の精霊です。職人の都・ロウぺで腕を振るった者で、顔見知りでした。女王の泉マリアンヌ・レイクの建造にも関わっていますから、図書館のことも知っているかも……」

ノームとの話を聞くと、ロニは目を丸くした。そんな者が居たのなら、庭を掘るのも彼らに頼めば良かった。やはり、女王はもう少しヒントを……と思いながら石像を仰ぐと、ふと、彼女の持つ本に目が留まった。

「そういえば、これ、タイトルみたいなものが書いてあるんだけど……ずっと何語か読めなかったんだ。イレーネ、読める?」

問われた乙女が覗き込むと、確かに石像が持つ本にはタイトルらしきものが彫られている。文字は公用語ではない。ロニやリシェには幾何学模様か装飾にしか見えない。

「ノームたちの言葉ですね……人間の言葉なら――『二人の女王』でしょうか」

「二人の女王?……女王様は一人よね?」

この国なら皆そう言うだろうリシェの問いに、ロニとイレーネは顔を見合わせた。

「僕もそうだと思うけど……『女王と魔女』の物語の最後には、『手を取り合った二人の女王が治める国は、繁栄しました』って書いてあるんだ」

「あ、そうだった。相変わらず兄さんはよく覚えてるわねえ……」

妹の感心する声に、ロニは照れ臭そうにしてからイレーネに振り返った。

「でも、事実は少し違うんだよね……?」

「はい。マリアンネ様は魔女として一度は王位につきましたが、『大喰らいのマギア』より解放された後、マリアンヌ様に王位を譲り、継承権からも退いています。その後は御静養なさっていましたが、悪魔との共生はご負担であったのでしょう。あまり長くはたず……」

目を伏せる意味を察し、ロニは頷いた。

「物語のように女王が二人居たことは無いのか……このタイトルの本は見たこと無いし……どういうことなんだろ?」

「このタイトルの本、無いの?」

妹の素朴な問い掛けに、兄はきょとんとして頷いた。

「無い筈だよ」

「ホントに?」

「うん……多分。此処の蔵書には無い筈。少なくとも、マリアンヌとマリアンネの話では無いと思う」

「それなら兄さん――……この本は、”無い本”よ」

「へ?」

確信に満ちた変な言葉に、兄は女王の石像と妹を見比べて阿呆のように固まった。

「ど……どういうこと?」

「本じゃなくて、別の物事を示すメッセージなんじゃないの?」

「別の……」

ロニは改めて女王を見た。女性にしては凛々しい面差し。悩みなど抱いたことも無さそうな、自信に満ちた表情。だが、彼女の生涯は、双子の姉妹を悪魔に捕られ、国を追われ、幾多の戦いを経て、大切な人を失い、厳しい選択を迫られ続けた。

その身に宿した火と共に。

「王女が二人……手を取り合う……」

不意に、ロニは像の上を見上げ、周囲を見渡し、ついにはがばりと床に膝を付いた。

「ち、ちょっと、兄さん……⁉」

そのまま這いつくばって像の足元を調べ始める兄に、妹が驚いて声を掛ける。何かに憑りつかれたように、ロニは像の周囲をうろうろし始めた。

「何してるの? 誰かに見られたら恥ずかしいわ……!」

至極当たり前の事を言う妹に、兄は頷きつつも像を調べ続けた。

「マリアンネだ、リシェ……マリアンネを探さないと……」

「え?」

「きっと、何処かにマリアンネが居るんだ……上や、壁には居ない……だとしたら、下に居るんじゃないかな……? 床に何か仕掛けがあるとか……」

リシェとイレーネが顔を見合わせ、乙女の方は何かに気付いた顔でロニを見た。

その湖水めいた眼差しは真剣だった。

「あの物語の結末がマリアンヌ女王の気持ちなら、本当は、女王様は此処にも姉妹で一緒に並んでいる像を作りたかったんじゃないかと思う。……でも、それは周囲に反対されたろうから――……」

「仕方なく、床下に作ったって言うの? 見えないのに?」

「そうだよね……だけど、僕は同じ立場なら、リシェと一緒にって思うよ。見えなくても、そこに居てほしい」

「な、何言ってるのよ、そんな格好で!」

顔を真っ赤にして言うリシェに対し、兄も恥ずかしそうに頭を搔いたが、イレーネはその傍に屈みこんだ。

「イレーネさんまで……!」

「私も、ロニ様の仰る通りだと思います」

良い歳の男女が床を調べる様に、リシェは誰か来はしまいかとハラハラしていたが、ふと――グラスワンド卿の石像の方から、音も無くのしのしと歩いて来た姿に目を留めた。

「あ、フランソワ……この人たちに何か言ってあげてよ……!」

思わず猫に助けを求める娘を、銀灰色のネズミ捕り長はおっとり見上げ、その足元をすうっと撫でていくと、ロニの脚に柔らかすぎる頭突きをした。

「わっ、フランソワか……今、忙しいから後で――」

言い掛けたロニを、猫はたっぷりした体重でぐいぐい押し、情けない悲鳴を上げたそれをひっくり返した。

「だ、大丈夫ですか?」

まさか猫に倒されるとは思わなかったのだろう、駆け寄るイレーネとリシェに対し、「大丈夫……」と言いながら重そうに身を起こしたロニは、ズボンをはたいた。猫に文句を言うより早く、その視線が一点に留まった。

女王の手が、目の前だ。小鳥がとまった手。飛び立たぬ、小鳥……

ロニは無造作に手を伸ばし、小鳥に触れた。何も起きない――ように見えたが。

急にぐらりとロニが傾いで、はっとしたリシェとイレーネが慌てて支えた。ぽかんとした表情で全体重を預けてへたり込んだ男に、リシェが目を剥いた。

「兄さん……! どうしたの……⁉」

――多分、魔力を吸われたんだ。妹の声に兄が答えるより早く、それは起こった。

「お二人とも……あれを……!」

イレーネが示す方を、ふらついた視線を上げたロニも見た。女王の石像が微かに震えたかと思うと、重い何かが擦り合うような音と共に床下へと沈んでいく。穴の中――いや、床下で建付けの悪い家具が動くような軋みが響き、女王の像の代わりに何かがゴトゴトと音を立てながらせり上がってきた。

「こ、これは……」

掠れ声で呟いたロニが瞬き、よろよろと自重に耐えるように身を持ちあげた。

仰いだ先に現れたのは、何百年かの埃か汚れかにすすけた……女王ではない、しかし顔はそっくりな女性の石像だ。顔の半分をウェーブがかった長い髪が覆い隠し、どことなく憂いのある表情は高貴にも見える。優雅なローブを纏った姿は魔女というよりは物語に登場する女神のようであり、その片手には女王と同じように小鳥がとまっていた。……いや、こちらはとまったというより、羽を伸ばして今にも羽ばたこうとする姿に見えた。

そして何より、ロニ達の視線はもう片手――持っている本に注がれた。

女王が持つ石造りの本ではなく、紙を束ねた本だった。

「マリアンネ様です……」

イレーネが呟いた。

「本当に居たんだ……」

呆気にとられたリシェが呟くのを聞きながら、ロニは立ち上がった。かつて王国を不安と恐怖に陥れた魔女だった女は、拝礼したくなるような高潔な姿で穏やかな視線をこちらに向けている。何となくご機嫌伺いをせねばならないような気持ちにかられながら、ロニは本に手を伸ばした。

「……すみません、マリアンネ様。お借りします」

石像は答える筈も無かったが、埃を被ったそれを慎重に引き抜くと、すんなり取れた。立派な装丁だが、思ったより厚みのない本の表を見て、三人はきょとんとした。てっきり、『魔法大全』とか『ベルティナ魔法全集』などのいかめしいタイトルを想像していたのだが。

「『鳥籠とりかご』……」

改めて読むのも馬鹿らしい名の本にロニは唖然とした。

「鳥が描いてあるだけじゃないでしょうね……?」

不穏な想像をリシェが呟くが、開いてみて更に目を丸くした。

「ほ、本当に鳥ばっかり!」

彼女が言う通り、そこには生きたまま収められたような綺麗な小鳥が何羽も描かれていた。籠に収められた姿ではないが、白い鳥、青い鳥、黄色い鳥、赤い鳥……捲るページ毎に描かれたそれは、ざっと見ても百は居そうだ。だが、図鑑ではない。名前はおろか、説明書きが何も無く、ただただ多くの鳥が描かれている。イレーネが紙面に手を差し伸べてから訝しそうに顔を上げた。

「微量の魔力を感じますが……魔法書グリモワールと呼べるほど強くはありませんね」

試しにロニもページに触ってみたが、今度は何も起きず、ふらつくこともなかった。

「マリアンネ様が小鳥好きだった、なんてことは……?」

「さあ……私は聞いたことがありません」

乙女も困惑したように首を捻り、石像を見上げた。

「魔力を得て石像が動く仕組みでしたから、隠されていた物なのは確かですが……」

「これも魔法そのものじゃなくて、手掛かりなのかな」

「なんか、見たこと無い鳥ばかりね。空想の鳥?」

不思議そうに本を覗くリシェが、ふと裾を引かれて足元を見た。猫のフランソワだ。金目を煌めかせ、尾を緩く振っている。

「フランソワ、貴方も見たいの?」

引っ掻かないでね、と言いながらリシェが猫を抱え上げると、彼は本には目もくれず、マリアンネ像の小鳥に触った。

「ふふ、それは石よ」

猫の手がぽんぽんと小鳥を叩く内、何か変な操作でも起きたか、がこんと音を立ててマリアンネ像は床に沈み、再び歯車が回るような軋みの後に女王が戻ってきた。流れるような一連の動きを見守るしかなかった一同をよそに、羽ばたかぬ小鳥に首を傾げた猫は娘の手から飛び降り、ひとしきり一同の足元で八の字を描くと、奥へと行ってしまった。勝手に事後処理をしていった猫を見送った三人は、再び本を見た。

「……ひとまず、これを調べようか。図鑑と、伝承系の本も見てみよう」

「はい。あの、ロニ様……お加減は大丈夫ですか?」

遠慮がちに訊ねたイレーネに、気付かなかったとばかりにロニは頷いた。

「ん? うん、大丈夫。さっきはくらっとしたんだけど、今は何ともないよ。ありがとう」

「大げさなんだから。遅くまで本を読むのは控えた方が良いわね」

ベージュの髪を搔く兄に、妹が日頃の生活についての文句を垂れ流し始める中、イレーネは笑顔を浮かべていたが、ふと物言わぬ女王の石像を見上げ、思案顔で猫が去った方を見た。

「レンさん達、大丈夫かな……」

思い出した様にぼやいたロニに乙女は振り返った。

「先ほど、マイルズ様とノーラにお願いなさったと仰っていましたね」

「うん。あの二人なら上手くやってくれると思うんだけど、キャロルも戻って来ていないみたいだし……」

「ノーラが居れば、大事には至らないと思います」

「そうだよね。ノーラは無敵って感じだもの。どんな相手だって……」

「? 無敵では、ありませんよ」

不穏な発言に、ロニは硬直した。イレーネはただ、正直に言っただけらしい。

「ノ、ノーラは無敵じゃ……ないんだ?」

「はい。仰る通り、火や風をつかさどる者は、高位の実力者でも彼には苦戦しましょう。土の者は属性の上では水より優位ですが、戦い慣れている点でノーラがおくれを取ることはまず考えられません。問題は水です。水を司る者同士では、ノーラの魔法は殆ど効果がありません」

はっきり出た不安要素に、ロニは表情を強張らせて停止した。

水。考えてもみなかった。もし、水に関わる敵が現れた場合……ノーラのみならず、火を持つレンも苦戦を強いられるのでは?

悪気のない正論を述べた乙女に、ロニは引きつった笑みを返した。

「だ……大丈夫だよ、きっと。ホラ、今は魔物が居たっていう旧時代じゃないんだし、そんなピンポイントの怪物が現れるわけないし……マイルズはあれで機転が利くし……――」

つらつらと述べ始めたロニに、サッと手をかざしたのはリシェだ。

「……兄さん、心配な時にその手のことは言わない方が良い気がするわ」

「う……」

「確かに、あのロクデナシはやる時はやるわよ。万一の時には役に立つと思う」

珍しく評価するような意見を言ったが、次には呆れた調子で言った。

「自分で言ってたもの。逃げ足だけは、天下一品だって」




 幼馴染に逃げ足を評価されているとも知らず、当のロクデナシは天下一品の逃走に全力投球していた。

「怪物とカーチェイスなんて聞いてないぞ! ありゃ何だ⁉」

運転手マイルズの叫び声が一瞬で後方に行くほど、ロニのミントカラーの車は爆走していた。その後ろからは長首の不気味な竜が、重い咆哮を響かせながら短く強固な四つ足で、道路に街灯、標識などをぐしゃぐしゃに押し潰しながら追って来る。

助手席の窓から顔を覗かせたカエルは、王冠を抑えながら後方を睨んだ。

「あれは、水竜ガルグイユ。先程のハーピー同様、”まがい物”やもしれんがな」

「――はあ……⁉」

耳慣れぬ話を聞き返した時、屋根に何かがドン!とぶつかった。後方の怪物が弾き飛ばした石か何かのようだが、強かに凹んだ屋根をちらと見て、マイルズは舌打ちした。

「俺が悪かった、王サマ、解説はいいから何とかしてくれ!」

「無理だ」

「オイ、聞きたくない一言が聴こえたが……⁉」

カーブにハンドルを切るや、バックミラーの怪物は眼前の建物を丸ごと無視して突き破った。煉瓦がガラガラと崩れる中、土煙を立てて進む勢いは生きた戦車だ。乱暴な運転に左右に振られつつも、カエルは王冠を抑えながら続けた。

「水竜に水の魔法なぞ餌をやるも同然だ。しかも、あの様子――正気ならばやり様も有るが、あれでは怯むことはあるまい。倒れるまで向かってこよう」

「ンなこと言ったって、あんなもん連れて帰れねえぞ! レンはどうにかできないのか⁉」

後部座席でエトを抱えながら、レンは言葉だけは冷静に言った。

「あれがノーラ様が言う通りの水竜ならば、火を吐くのでは――」

「火……⁉」

マイルズが嫌な情報に頬を引きつらせた時、怪物がスピードを緩め、代わりに気味の悪い地鳴りめいた音が辺りに響き渡った。

「おいおいおい……!!」

「落ち着け、マイルズ。お前はできるだけぶっ飛ばせ」

言われなくてもそうする――マイルズが返事をするより早く、大きく息を吸った水竜は前方に向けて強烈なブレスを吐いた。一直線に出たそれに対し、カエルは窓から地面へと水を吹き出し、車を軌道から弾いた。わずかに逸れたブレスは前方の木々を薙ぎ倒し、地面を火に至る間もない高熱で抉る。

軽いステップを踏むようによろけた車の中、運転手は生きた心地もせずにアクセルを踏むしかない。

「なんつうヘビーなドライブだ……!」

「大丈夫だ。この乗り物は優秀だ。容易く追い付かれまい」

カエル故か、ぴょんぴょん跳ねる走行なぞわけもないらしいノーラが王冠を支えつつ言うが、マイルズは苦々しく言った。

「俺もロニの愛車を信じたいが、車は燃料切れってのがあってだな――」

「いいから走れ」

「ええい、言われんでもやる!」

前席の揉め事を聞きながら、後部座席で声にならない悲鳴を上げる少年を片手で支え、レンは肩越しにおぞましい追跡者を見つめた。その周囲では、今しがた道路脇に居た若者らが急に壊れた石塀に仰天し、怪物の姿は全く見ていない。

――そういえば、先ほどの時計塔ですら、大声のやり取りに誰も現れず、今はこんなものが喚きながら町を蹴散らしているというのに、警察はおろか、騒ぐ民間人すら皆無である。家々の煙突からは長閑な煙さえ出ている始末だ。

「クソ、ここの連中のイカレ具合は決定的だな……!」

同じく気付いているらしいマイルズが苦々しく呟くのを聞き、レンは言った。

「……私さえ降りれば……追ってこないと思います」

「停める気は無いぞ!」

すかさず怒鳴る運転手の声が響くが、レンは首を振った。

「このままでも構いません。この子のことを頼――」

「ちぇっ! ふざけるな! 誰の為に来てやったと思ってる? アイツを倒せねえなら黙って座ってろ!」

「マイルズの言う通りだ、レン。容易く自分を切り捨てるな」

叱咤と諭すような声の双方に黙すが、破砕したれきでも飛んできたか、再び何かが後部にぶつかった。ぎゅっとこちらの腕を掴む少年を抱え、レンは蝋燭消しを握りしめたが、前席からビュンと伸びてきたカエルの舌がその腕を押さえた。

「今、考えておる。早まるでない」

お役御免にした小麦袋に座っていたノーラの睨みに、レンが反論を唱える手前、マイルズが乱暴にハンドルを切った。先程より細いブレスが道を薙ぎ、辛くも躱した車は町を飛び出し、差し掛かった悪路を蛇行しながら走っていく。このガタつく中、カエルはどっしりと腕組みしていたが、尻に敷いていた小麦袋を引きずり出して言った。

「よし、この手で行こう。マイルズ、あれを貰うぞ」

言うなり、ノーラの舌はレンを離れ、勢いよくマイルズの上着のポケットを狙った。

「あっ! おい!」

首尾よく吸い付けて引っ張り上げたのは煙草の箱だ。

「そいつは泥棒だぜ、王サマ!」

「ケチケチするな。命には代えられまい」

抗議を無視してぽいと放り投げる先はレンだ。箱を受け取った青年の訝しげな顔に、ノーラは言った。

「レン、そいつにお前の魔力を移すのだ。やり方はわかるか? できれば一本一本に血を含めよ。少量で構わぬ」

カエル王の意図に気付いたらしいレンは素早く蝋燭消しの柄の先で指先を軽く突くと、煙草の一本一本に血を染み込ませ始めた。窓から後方を確認しながら、ノーラは冷静に指示した。

「可能な限り移したら火を灯せ。枯渇するほどが良い――倒れても案ずるな、我らが無事に運ぼう」

頷いたレンが瞑想するように煙草箱と向き合った後、例のジッポーには向かない”ギリギリの弱い火”を指先に灯した。それを浴びた煙草は、およそ煙草とは言い難い――ばちばちと燃え上がる火の玉となり、車内にもうもうと煙を上げ始める。隣の少年が目を丸くした。

「ど、どうするんだ、王サマ!」

狼狽えるマイルズを無視して、ノーラは小麦袋を差し伸べた。

「それで良い。こいつに入れろ」

レンがふらつく手でそこに煙草箱を落とすと、どう考えても危険すぎる袋をぎゅうと閉じたカエルは、ぽいと外に投げ出すや、勢いよく水を浴びせて後方へと吹き飛ばした。刹那、水竜はぐるりと首を巡らした。地べたを石鹸水で滑るようにばたついて方向転換したかと思うと、飛んでいった小麦袋へと殺到した。もうその頃には袋は紅い火の塊と貸していたが――それを見届けることなく、ミントカラーの暴走車は突っ走っている。

一呼吸後、後方で鈍い爆発音がしたが、振り返らずに一目散に駆け抜けた。

――火を吹く生物には、それ相応の器官が存在する。当然、燃焼性の物質が溜め込まれたそこに炎が引火すれば、規格外の爆発が起きる――……

窓から爆炎を見届けたカエルは、ズレた王冠を直しつつ、満足そうに言った。


「ようやく、あの窮屈な袋を始末できたわ」

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