11.図書館
「魔法を……捨てる? 女王様亡き後も、魔法は使われていたんじゃ……?」
衝撃的な一文に呟く部下に、上司は頷いた。
「いいからロニ、まずは読んで御覧なさい」
眼鏡を拭きながら言うマダム・フリーゼに促され、再び書面に目を落とした。
〈彼は言った。そうすることが、最も灰を遠ざけると。利に欲に溺れた人の力は、再び灰を呼ぶからと。だから私は、共に戦った魔法使い達に頼んだ。
その秘密を、後世に、子孫に、書物に残さぬように。
先祖の教えを引き継いできたディルクなど、どんなにか苦心したことでしょう……
でも、賢い彼らは私の願いを聞いてくれた。
後の人々を思い、平和を思い、辛い選択を受け入れてくれた彼らに感謝を。
魔法が無くても、人々は生きていける。幸福を掴む為に必要なのは、魔法ではない。
復興は順調だ。これさえ済めば、落ち着いて進められる。
身を持って教えてくれた彼の為、私たちは捨てなくては〉
固い決意が窺える文章だ。
『彼』とは、例の二人目の『灰の魔法使い』のことだろうか。
ご先祖様……ディルク・ソルベットが協力したことは、ソルベット家の現状を見れば明らかだ。強いて言えばイレーネの依り代となった押し花は残していたが、マイルズの推測通りなら、あれは子孫の為と言うより彼女自身の為……グラスワンド卿に会えるように置いて行った気がする。
今の彼女の話を聞く限り、
何となく切ない物語を読んでいる気になりつつページを捲ると、そこには女王が着々と魔法を禁じていった手順と、その経過が書かれていた。が……読み進めるほどに、ロニは変な顔付きになり、眼鏡を掛け直したマダムの顔を見る頃には、未知の料理でも咀嚼した顔をしていた。
「あの……マダム、これ……」
「女王様の手記って感じがしないでしょう?」
予想通りの反応なのだろう、苦笑するマダムにロニは頷いた。
厳かに始まった筈の文章は、二ページ目にして早くも『無理』を唱え始めていた。
出足の固い決意はどこへやら、文字こそ優雅なままだが……これは一人の女性による、思い切りの愚痴だった。
〈なんてこと。魔法を捨てるのは、戦うより厳しい。
使う者の少ない火は、難なく禁じ得た。でも、水、風、土はそうはいかない!
それなのに、ディルクったら、簡単に応じ過ぎじゃないかしら?
彼に同系統の魔法使いの説得を頼んだら、見事にこじらせて帰って来た。
これは私のミス。彼が外交には不向きだと知っていたのに頼んだのは失敗だった。
そうだった……ディルクが宮廷魔術師を辞職したのは愛想笑いさえできないカッチコチの毒舌男だったからだ……!――〉
しばらく先祖の悪口が続いて、なんだか肩身の狭い気になった。
先祖といえば、絶世の美男というほどのハンサムで、王国を自己犠牲に等しい魔法で守り、生涯、女王を助け続けた偉大な魔法使い……の筈だが、やはり後世には美談が残りやすいものらしい。女王の印象では、単に空気が読めない実力派の毒舌男だ。
〈難しい。単純な指示では裏取引が横行してしまうだろう。
ベルティナと魔法の関係はあまりにも深い。危険と便利が同居しているとしても、皆、目先の便利に慣れてしまっているのだ。戦いが終わり、この便利に浸って楽をしたい気持ちは私にもわかる。
動植物を育む土を耕し、肥やす魔法をやめさせたら、重労働に逆戻り。
夏の暑さを和らげ、剪定や木材を切るのに大工を助ける風の魔法をやめさせたら、人的被害を訴えられよう。冬場に山程の洗濯物を抱えた人から、手を傷めずに洗える水の魔法を奪う……? 私だって嫌だ。ああ、難しい……〉
「女王様の苦悩は……凄かったんですね」
「そう……魔法を捨てるのは、とても難しかった。ベルティナ王国の魔法は当時の世界では特別に優れていたそうよ。これは国内の話だけではなく、外交面でも困難だった。貴方の先祖である『花園の魔法使い』が今世で終わりなどと内外に知られるだけでも、争いは避けられないと女王は危惧なさった。旧時代の戦いで、皆が一丸となった様に見えて、その実……目の前の脅威に対処しただけの人は大勢居たのでしょう」
ロニはページを見つめた。
優雅な文字に時折、書き殴ったような一説が有る。
女王も、英雄も、人間だ。皆のことを考え、その皆のことで苦悩した。
ただ取り上げるのではなく、許される魔法を細かく取り決め、便利な道具を輸入したり開発したりして、徐々に魔法を使う頻度を減らした。人の生活は、豊かになればなるほど、物入りだ。地道な取り組みだったのだろう、女王の愚痴は日増しに増加し、外部に漏れたら国際問題になりそうな話さえあった。
彼女は頑張った。きっと、書かれている以上に、とてつもなく。
「それでも、魔法使いを完全に取り締まるのは不可能だったのよ」
「そう、ですよね……魔法書も式も、隠されたら、簡単には見つからないし……」
現に、ドリュアスことルドラクシャの本は聖書に偽装されていた。
そう……これも妙な話だとは思っていた。レンは帝国時代、教えに関わる本は特に率先して焼いたと言っていた。と、すれば帝国時代に隠す目的で聖書に偽装するのはナンセンスだ。あれは帝国時代に施されたのではなく、旧時代の末期――女王から隠れる為の仕様だったのだ。
最後に、女王は綴った。
〈ごめんなさい。貴方の想いを私が生きている内に叶えるのは無理かもしれない。
一度知ってしまった蜜の味を、人は容易に忘れることはできない。
教訓よりも、利便性を残そうとするのは親心でもあるのでしょう。
しかし、これでは再び灰が現れてしまう。その時に何も持たないのは、あまりにも危険だわ。けれど、見える状態で置いておけば、人は容易に使ってしまう。
隠さなくては。ディルク達の大切な知識を全て。私が集めた全てを。物語と共に〉
「だから、女王様は此処を残した」
「図書館を……ですか?」
「考えてご覧なさい。
「それは……」
答えなど、一つしかない。
「この図書館に、旧時代の魔法が……?」
マダム・フリーゼは頷いた。
「図書館が火気厳禁なのは当然だけれど、此処に関しては、実はあまり意味が無い決まりね。女王様がご自身の粗相で焼かぬ様、極めて火に強い造りだから」
ロニは何気なく、本を見た。見た目の割に、やけに重い。恐らく、この手記も……
館内の殆どの本は普通の物の筈だが、当の図書館が燃えなければ、最悪でもかまどか暖炉のようになるだけだ。
「マダムは、何故それをご存じなんですか?」
「これは、代々の館長に引き継がれてきたこと。魔法と関わりある一族は、ソルベット家だけではないのよ」
悪戯っぽく笑う上司に、ロニは目を瞬かせた。
「魔法は……
本の隠し場所としては、わかりやすすぎると思った。同時に、そんなものが収められた書庫など有るのか疑わしい。
「その前にロニ、貴方がここ最近、何をしていたのか聞かせて頂戴。ファウストの名は、私の一族にも伝わっている。この名が出ている以上、遊んでいるわけではないのはわかるけれど、先日のように急に出て行くのは困るわよ」
ロニが戸惑いつつもかいつまんだ事情を話すと、マダムは眉を寄せて首を振った。
「そう。はっきりはしないけれど……脅威が迫っている様なのね。確かに、近頃のオカルト騒ぎはちょっと多すぎる気もしていたのよ……他の図書館で本の紛失や盗難事件もあったし……」
「そんなことが有ったんですか」
「昔からそういうのはあったから、それほど
まあ、有ると言えば有る。借りるからには大事にしてほしいが、注意していても事故は起こる。先程の女王の話に通じるかもしれない。本気で防ぐには、ジュースが入った冷蔵庫に鍵をかけ、本に手と繋がるカバーをかけるのが最適だが、そんなことをする者は居ないだろう。
「ロニ、貴方……もし、ファウストが何かを企んでいるとして、戦うつもりなの?」
「それは……」
いつの間にか渦中に居るが、どう考えても
「僕は……きっと力にはならないでしょう。漠然とした危険しかわかっていないだけの凡人です。ファウストに関わる彼らと知り合ったのが偶然でも、それはもう事実で、もう知らない顔はできません。僕にできることがゼロではない限り、何かしたいと思います。それに……本を傷つける奴なんて、野放しにしておきたくありません」
不安定ながらも決意を固めた眼差しに、マダムは大きな眼鏡を掛け直して苦笑した。
「面接を思い出すわね。貴方はあの時も、ガチガチに緊張しながら、本に対する一途な情熱を語ってくれたわ。リシェやブライスと楽しそうに本を開いていた子が……なんだか険しい顔で隅に座っていた頃は心配だったけれど、大人になったこと」
ずいぶん若い頃から見られていたことに、恥ずかしそうに頭を搔く青年に、往年の司書は頷いた。
「わかりました。本を
ありがとうございます、と頭を下げてから、ロニは「え?」と顔を上げた。
「探す……って……?」
「最後の一文からして、何らかの魔法が図書館にあるのは間違いなさそうだけれど、場所は伝わっていないの」
あっさり出た言葉に、決意を新たにした筈の青年は唖然とした。
「か……肝心の場所がわからないんですか……?」
「ええ。”物語と共に”という言葉は、本と共に在る図書館を指す筈だし、他に旧時代以来残っている建物なんて、それこそ貴方の実家やその界隈ぐらいじゃないかしら。ただ、蔵書の中に魔法書なんてダイレクトに書かれたものを見たことはないわね」
「そ、そうですか……」
またしても、躱された印象だ。女王様ももう少し、具体的に書くわけには……ああ、しかし……それでは隠したことにならないか……
「私は此処に長いけれど、表に出ている本に触れて妙なことが起きたこともないし、聞いたこともないわ。貴方の話からすると、人より魔力の多い貴方か、今日一緒に来ている彼なら見つけ出せるんじゃない?」
「こ……この図書館全部の本に触れと……⁉」
「読むより楽でしょ。まあ、やってみなさい。ひとまず、裏の整理は置いておいていいから。本当に世界の危機では困るものねえ……さ、もう開館時間になる。私も仕事に戻らないと」
寛大なのか適当なのかわからぬ上司は立ち上がりながら言うと、本をきちんと棚に戻した。蔵書の数を知っているだけに、言葉を失っている部下の肩をとんと叩き、その片手にこの部屋の鍵――古びた真鍮らしきそれを落とした。
「これも、女王様の思し召しかもしれないわ。『苦労無くして利益なし』よ、ロニ。この部屋は自由に使いなさい。利用者の前で変なものを晒さない様にね」
恐ろしい教訓と忠告を残し、上司は先に出て行った。
ロニはぼんやりとその背を見送り、部屋を振り返り、溜息を吐いた。
「思し召しというより……ご先祖様への仕返しみたいな気もするなあ……」
一人ぼやくと、レンを呼びに行こうと重そうに腰を上げた。
その頃、レンは図書館に入ってすぐに出会う白い石の像を見上げていた。
レン・グラスワンド卿の像だ。以前来た時は正面・中央の入口から入ったので気付かなかったのだが、この図書館には三方の入口が存在し、それぞれに違う像が出迎えてくれるらしい。まるで、三つの入口を各々の像が守るように。
中央は、図書館を設立した女王マリアンヌの若き頃の像があった。右手の入口には、ロニとリシェの先祖であるディルク・ソルベットの像がある。
そして、左手の入口には、レン・グラスワンド卿――見上げる像は等身大らしいが、それにしても背が高く、肩幅の広い立派な体躯の男だ。女王の像はドレスの滑らかなドレープや、片手に本を開き、差し伸べたもう片手の指先には小鳥がとまっている姿が凛と美しく、ディルクの像は樹の根に腰を下ろし、辺りをチューリップや多くの花々が囲う優雅な印象なのに対し、グラスワンド卿の像は身の丈ほどの巨大な火器を携え、入口を見据えて直立している堂々たる出で立ちだった。彫刻家の技量か、その精悍な容貌は話し出しそうなほど精緻であり、羽織ったロングコートは風を受けているように見える。大理石のようだが、特別な石なのかもしれない。ホールに降り注ぐ光の加減で、やんわり輝いて見えた。
レンはぼんやりとそれを仰いでいたが、ふと、像の陰に居た者に目を留めた。
猫だ。銀灰色の密のある毛並みはビロードのように差し込んだ光を反射し、うっすらと細めた金目がこちらに向いている。
「……もしかして、君が『フランソワ』かい?」
屈んで訊ねる青年を、猫はじっと見ていたが、眠そうにあくびをしてから像の足元にやってくると、ころりと寝そべり、のんびりと尾を振った。
「英雄の足元は、都合がいいのかな」
レンが苦笑して立ち上がったとき、パタパタと走って来る音がした。
「あっ! 居た……良かった……!」
ロニだ。居なくなった我が子か幼い妹でも探し出したような顔でやって来る男に、レンはごく自然に苦笑いが出てしまった。
「すみません、探しましたか?」
「い、いえ、そうじゃないけど――あれ、フランソワ……この間はごめんよ」
完全に無視して寝入るネズミ捕り長の傍ら、ロニが事情を話すと、レンは口元に手をやって思案顔になった。
「王立図書館の堅牢さは、帝国時代でも有名です。持ち出せる本は燃やした話は聞きましたが……被害を免れた本が有るとすれば、あり得る話ではないでしょうか」
「試してみます? でも……勝手に読まないで下さいね?」
灰の魔法使いとなるには、恐らく燃やすのが正解と思われるが、ロニは読んでも都合が悪そうだと思っている様だ。何やら「勝手にしないで」が常套句になりそうな男に苦笑して、レンは頷いた。
「ご自宅の本の件も有りますが……なるべく、人の手に触れ辛いものから始めてみましょうか」
二人はそれぞれ、古い本、難しそうな本に狙いを付けて始めた。
当初、ロニは慄いたが、触れることそのものは大変ではない。只、横に向かって指を移動すれば良い。ただし、魔法書に触れた際に声が出るとは限らないらしい。小さい声の場合もあるし、冷たさを感じるとか、風が吹くことも考えられるという。
レンは『
利用者――といってもまばらな入りだが、邪魔にならぬように静かに作業を進めるものの、一時間、二時間、三時間めに突入しても、それらしいものは見つからない。
まあ、そんなに安易に見つかるなら……やはり隠したことにはならないし、開放されている本の中にはロニ自身が過去に借りた経験があるものも多数ある。
むしろ、至る所にレリーフや模様を見つけた。全体に立派な白い石造りである図書館は、先にも述べた通り、今は無い職人の都・ロウぺの石工らが建造したという。壁や柱、天井に床、ステンドグラスの窓枠、石の部分のみならず、頑丈な木製の階段に手すり……至る所を細かな細工模様が覆っている。今も、何となく引き抜いてみた一冊の奥には不思議な模様が有った。こんな普段は見えない場所にも細工彫りをするなんて、さすがは王族――女王様のセンスはしゃれていると以前は思ったものだが……
大抵は何かわからない幾何学模様で、今朝ノーラと描いた陣にも似ていた。
ロニはちょっと悩んだが、その模様に触れてみた。しばらく右手を当て、今度は左手を当て、両手も当ててみたが……何も起きなかった。
やはり、単なる装飾なのだろうか。確かに、子供の頃に此処に通っていた際、マイルズやリシェと共に幾つ見つけられるか探し回ったこともある。高所ならばいざ知らず、床や手すりなど、誰でも触れる部分に有るものでは、いつ、魔力が多いものが偶然触れてしまうとも限らない。
軽く息を吐いて次の棚に向かい合った時、ロニはおやと目を凝らした。
書棚の合間を、そそくさと抜けていくのは、キャロルだ。
ちょっぴり挙動不審に見えるのは、既にその悪癖を知っているからだろうか。
時計を確認すると、昼休憩には少々早い程度。早めに昼に出てもおかしくない時間だが、彼女が出て行くということは、テオドラに関する何かが有るとみて間違いないだろう。こっそり後を追うと、キャロルは颯爽と書棚を抜け、迷わずロビーの方へと出て行き、殆ど振り返る事もなく出て行った。
「どうかしましたか?」
控えめに掛かった声に振り返ると、レンが居た。
「二階から、こちらに出て行くのが見えたので。先程の女性は、確か……」
「同僚のキャロルです。あの様子だと、また抜け出して何処かに行く気なのかも。女優のテオドラに関することだと思いますが、まだ隣町で撮影してるのかな……? それとも何かの予約とか……」
「隣町だとすると……妹さんが仰っていた、チェスター神父も行っている場所ですね」
レンの瞳の中で、灰色がちりりと燃えた気がした。
「私が追いましょうか」
念のため聞いてくれたのだろう、ロニはお言葉に甘えて確と首を振った。
「……一人で行かない方が良いと思います」
「彼女に、何か有るかもしれませんよ? チェスターの出入りを許しているテオドラが、彼と無関係とは限りません。貴方が言うように、単に予約に行くだけかもしれませんし」
「だ、だとしてもダメです……!」
大きく首を振るロニに、レンはすっと目を細めた。
「――ロニさん、この際だから言っておきましょう。私を妹さんのように擁護しようとする必要は有りません。貴方に守られるほど、私は弱くはない」
きっぱりと言われた言葉に、ロニはぐっと押し黙った。
「そんなつもりは……」
「いいえ、貴方は優しい人であるのも含め、私に対して慎重になり過ぎています。弱い部分を見せてしまったのは、不徳の致すところですが……私はお話しした過去の自分よりもずっと強くなりました。たとえ、その頼るものが魔に由来するとしても、自分の身は守れます。これまでも、そうしてきました」
「それは……そうですけど……」
何度言ったか知れない言葉を呟き、頑なに首を振った。
「確かに、僕に貴方の行動を制限する権利はないです……心配するにしたって、会ったばかりで違和感が有ると思う。だけど……一人はダメだ。一人で居続けると……悪いものに囚われるんです」
「悪いものなら、とうに傍に居ますよ」
「……茶化さないで下さい」
苦笑するレンに肩をすくめ、ロニは逡巡した。彼が言う通り、その戦いは見ている。かつての仲間が化け物と化した姿を前にしても、彼は冷静で、俊敏だった。こっちが悩んだり迷う間に、事態を打開する力がある。だが……それだけではいけないと思う。ではキャロルを放っておいていいのか。仕事を投げ出して行こうとする身に災厄が降りかかるのは自業自得かもしれないが、無視してしまったら……かつて、目の前の青年を助けなかった大勢と同じだ。
「じゃあ……一つ約束してくれませんか……!」
苦肉の策と言わんばかりに言葉を搾ったロニに、レンは訝し気な顔をした。
「……何でしょうか?」
「ちゃんと、夕飯までにウチに帰ってきて下さい」
「……」
「お願いです。できればお昼もちゃんと食べて下さい。それを約束してもらわないと、僕がイレーネに埋められちゃいます」
あの乙女はそんな乱暴はすまいが、彼女の食に対する真剣さはレンも身を持って経験済みだ。仕方なさそうな笑顔で頷いた。
「……わかりました。善処します」
言い残すと、レンは外へと出て行った。置いていかれるような気持ちで見送ったロニは、ふと……そこが右手の入口で、据えられた石像が先祖だと気付いた。悪罵など吐きそうにない、ディルク・ソルベットの優美な姿を、子孫は恨めしそうに見つめた。
――いっそ、叱咤してくれたらいいのに。
女王さえ手を焼いた毒舌で、このちっぽけな子孫を叩きのめして欲しいくらいだ。
当然、先祖は一言も囁かない。子孫の視線を避けるように上を向いている。それは今のロニにとって、何より薄情な仕打ちに思えた。
きゅ、と唇を噛み、なるべく早足で事務所に戻ると、廊下の電話をとった。
「……あ、母さん? 僕だけど……え? ノーラが庭を掘って……う、うん、ごめん、それは大丈夫……ちゃんと元に戻すから……――それより、マイルズ、まだ居る?」
親友は程なく出た。どうやら起きてから、庭の作業を眺めていたらしい。
〈よお、親友。お嬢ちゃんとカエル王は頑張ってるぜ〉
「……お前は、仕事はいいの?」
〈おいおい、俺はやることはちゃんとやってるぞ〉
「まあ、良いならいいや。実は……」
話を聞いたマイルズは、ちょっと待ってろと言って電話を切ると、数分と経たずに掛け直してきた。
〈ロニ、テオドラが隣町でゲリラ・イベントをやるそうだ。隣町に隣接した地域に住むファンクラブ会員だけに通知が来たらしい〉
「ゲリラ・イベント? チェスター神父もそれに行ってるの?」
〈リシェは新しいチャリティーの相談じゃないかとか言ってたが、どうもクサイな。俺が見てくりゃいいんだろ?〉
「待って! 車を使っていいから、ノーラにお願いして来てもらってよ。お前だって何か有ったら――」
食いつくように言う耳に、呆れ声が返って来た。
〈俺の事まで心配なのか……しっかりしろよ、ロニ。こいつがヤバいイベントなら、潰す方法は色々有る〉
「潰すって……」
〈俺が誰なのか忘れたのか。エクスター・ハウス社の敏腕記者だぞ。中止を促す情報を流すのなんか、ちょちょいのちょいだ〉
「それは敏腕記者の仕事なのか……? 頼りにしてるけどさ、とにかくノーラに頼んでよ。もし、魔法使いが相手じゃ、レンさんを助けられないだろ?」
〈フフン、そこまで言うならカエル王に平伏してやる。お前もせいぜい、頑張れよ〉
「ありがとう……ついでにもう一個いい?」
なんだなんだと面倒そうにしながらも友人は頼みを聞いてくれた。
〈ロニ、お前……イレーネ嬢の調子まで移っちまったみたいだなあ〉
「い、いいだろ別に……悪い事じゃないんだし。お前もそういうとこはちゃんとした方が――」
〈ハイハイ、了解だ。ちゃんとレンの分も買って行くから安心してくれ〉
そこで電話は切れた。胸騒ぎは靄のように居残ったが、何もしないよりはいい。
ロニは両手で頬をパン!と叩き、気合を入れ直して再び作業に戻った。
夕飯、か。
妙な約束に思い馳せながら、レンは昼時の街中を歩いていた。
キャロルの姿はとうに見えなかったが、今は追い付き、数メートルほど先に居る。魔力が殆どない彼女を補足できるか不安だったが、彼女が身に着けるソルベット家の香水・『イレーネ』の香りをマギアが覚えているらしい。その反応はどちらかといえば嫌悪に近い様子で、しぶしぶ行く先を教えてくれている感じだった。
この蝋燭消しが言葉を発することは無いが、微量に伝わって来る感覚では、「あんなものを追うなんて」という文句が聴こえて来そうなそれだ。この悪魔が如何に『花園の魔法使い』に嫌な印象を抱いているかが窺える。
辺りは昼食に出たり、家に戻る人が増えていた。キャロルは店に入る素振りも無く、まっすぐに駅に向かった。茶色い煉瓦とアーチ状の屋根が可愛らしい印象の駅は、朝ほどは混雑していないのだろうが、人々の出入りが多く見られた。
キャロルはスタスタと駅に入り、予想通り――隣町までの切符を買った。その頃には間近に居たのだが、何か興奮状態のようで、目的以外は気にならない様子だった。
列車に乗る手前、彼女は顔見知りと偶然会ったらしく、二人で嬉しそうな歓声を上げ、互いに飛び跳ねるようにした後、意気揚々と乗り込んだ。同じ車両で会話に耳を澄ますと、やはりテオドラに関わるようだ。急なイベント告知が有ったらしい。
「ねえ、私”コレ”に参加するのはじめてよ。キャロルは?」
「私もゲリラは初……ほんと、住まいの近くに引っ越してきてラッキーだったわ」
彼女の為に引っ越したのか。そんな風に、誰かに夢中になったことはないなと思いながら、若い娘たちの熱意にわけもなく感心した。
どちらかというと……会いに来られる側だった。一人旅に出る前は、いつもそうだ。
誰かの足音がする度、ドアを叩かれる度、喉が震え、胃がつかえ、身が強張った。
……ロニが言う通りだ。一人は急に悪い予感が降って来る……今まで、あまり気にしたことがなかった筈なのに。
隣町の駅には、すぐに到着した。気を取り直し、楽しそうに下りていく娘たちに続いて列車を降り、駅を出た。そこは、ロニ達が住む町よりも小さな町の様で、こじんまりとした駅の規模や、駅前の商業施設の少なさを見ても、たった一駅ながら急にさびれた印象を受ける。
――何故、こんなところでやるのだろう? ……芸能には疎いが、ロニ達の町の方が栄えていてやり易いのではないのか? 小人数に仕向けるイベントなら……この方が都合が良いのだろうか?
それにこの町……なんだか妙な気配がする……邪悪と言うより、何か……沢山のものがひしめいているような……
辺りを見渡すと、キャロルらと同じ目的らしい若者らが、同じ方向へ向かって歩いていく。腰に吊っている蝋燭消しが、微かに震えていた。……彼らはどう見ても普通の人間だ。魔力も感じないのに……何に反応している?
レンは眉を寄せ、懐に収めていた本――アルス・ノトリアを取り出した。
「ノトリア……この周辺に、人間以外の何かを感じるなら、教えてくれないか」
本はサッとひとりでにページを捲った。ノーラに水責めに遭って以降、この本は妙に聞き分けが良い。じわりと浮き出るように仰々しい文字が並んだ。
〈火がある〉
「火……?」
〈蝋燭 火種 火 まだ弱いが、火だ 火 火 火 火 火 火――〉
後は火の文字が狂ったように連続して十、二十、三十と浮かび上がり、ぞっとしたレンは思わず本を閉じた。密かに礼を述べ、青い顔でノトリアを収める。
――何十本……いや、百を超える蝋燭? 辺りに数えられるものは人間ぐらいだ。
同じ方へと向かう、同じ目的に心を高揚させた何人もの人間。女に男、幾多の人々。
まさか……彼らは……
胸に、灰となって消えたフーゴが浮かんだ。ノーラは、彼を蝋燭と言った。
……彼ら、全員? そんな馬鹿な……!
「――あの……失礼、」
今しがた、次の列車から降りて来た娘たちにそっと声を掛けると、思いもよらぬハンサムに声を掛けられたと思ったか、二人連れは愛想よく立ち止まってくれた。
「テオドラさんのイベントは、あの方向で合っていますか?」
丁寧に訊ねたレンに、娘たちは同志かと嬉しそうに頷いた。
「貴方も行くんですね! 私たちもなんです」
「たぶん、合ってますよ。あっちはロケ地にもなっているから」
知らない男に対して笑顔で答えてくれた娘たちに、レンもこなれた笑みを浮かべた。
「そうでしたか。お二人は初めてですか?」
「私は前に一回。この子は初めて」
友人を指さす娘に、レンは静かに訊ねた。
「私も初めてなんです。どんな具合でしょうか。粗相が有っては申し訳ないので」
礼儀正しいファンに娘たちは好感を抱いた様で、いっそう親し気に話してくれた。
「心配しなくて大丈夫ですよ。難しいことは何も無いから。以前の通りなら、案内の人に従って並んで進むと、テオドラに会えるんです。時間は短いけれど、握手やサインをしてもらえるの」
「彼女、読書家でしょ? 古い本や珍しい本を持っていってサインを頼むと、喜んでくれますよ」
そう言う彼女たちも各々、持参しているようだ。「これでもいいかな」とレンが何気なくノトリアを取り出すと、その如何にも古めかしい出で立ちに娘らはぱちぱちと手を叩いた。
「すごく良いと思います」
「良かったら一緒に行きません?」
レンはノトリアを収め、にこりと笑い掛けた。
「ご親切にありがとうございます。折角ですが、知り合いを待っていますので」
娘たちは残念そうにしつつも、笑顔で手を振って歩いて行った。周囲にはまだ、続々と人が行き過ぎる。
――古本の類か。
マイルズの話では、キャロルは資金繰りの為に書庫の本をくすねていた様だが、まるきりそれだけが目的では無さそうだ。テオドラの熱狂的ファン故に、彼女に妙な疑いを掛けられてはと黙っていたのかもしれない。
さて、どうするか。まっすぐ行っても、招待を受けているわけではない為、案内に止められるだろう。火の魔法にも
周囲を窺い、レンはそちらに向けて足を速めた。
教会の厨房で散々に腕と知識を振るってきたイレーネは、昼食の後片付けで勤めが終わったリシェと共に図書館を訪れていた。リシェは行儀見習いに通うだけなので、他の娘より帰宅が早い。というのも、彼女は帰宅後は家の仕事を手伝うのだ。
「すみません、リシェ様の貴重なお休みの時間を」
「いいのよ。父さんと母さんは良いって言ってるし、私も気分転換になるわ」
イレーネとしてはソルベット家の庭が、穴か噴水だらけになっていないか不安だったが、リシェが楽しそうなので良しとすることにした。
王立図書館は、旧時代の戦い後に造られた施設である為、馴染みはない。
前回訪れた際は、ゆっくり見上げる間の無かったそこを眺めると、やはりロウぺの職人の技を感じた。あの都が無くなった今、もうこれほどの建造物は造れないだろう。
ノームたちは、これが残っているのを知っているのだろうか……
リシェに伴われて左側の階段を上がると、懐かしい姿にイレーネは立ち止まった。
「ディルク様……」
入口から入ってすぐに、当時の姿そのもののディルク・ソルベットの石像が出迎えてくれた。花に囲まれた台座に腰を下ろし、斜め上を見上げる容貌の美しさは、美しさよりも懐かしさで乙女の心を打った。
「こんな風に、上を見ていることは少なかったですね」
子供か弟でも眺めるような目で乙女は苦笑すると、「どこを見ているのでしょう?」と同じ方へと視線を向けた。その先には、遥か高い天井を覆うステンドグラスの内の一枚――チューリップが描かれたそれに小鳥が一羽飛んでいるものがあった。
「ご先祖様は、下ばかり見ていたの?」
リシェの素朴な質問に、イレーネは視線を下ろして頷いた。
「どちらかといえば、机に向かって難しい顔をしていることが多かったです」
「そっか……こんな美男が先祖だから、よくからかわれたけど、実直な人だったんだろうなあ……」
「リシェ様はとても愛らしいですよ」
「ありがとう。私より、兄さんが困ってたわ。中でちゃんと頑張ってるかしら?」
兄の事になるとリシェは一言付け加えずにはいられぬらしい。中央入口の方を見て言った。
「あんまり考えたこと無かったけど、この図書館は三人の英雄が入口を守ってる感じがするわね」
「はい……そうですね」
ディルクの像に別れを告げ、二人は中央にて女王を見上げた。
「こちらも素晴らしいですね。いつも生き生きとなさって、皆を励まし、鼓舞する才女であられたマリアンヌ様を思い出します」
「カエルさんはしょっちゅう火事を起こすって言っていたけど……本当?」
「本当です。御本人を困らせることも多々有りましたが、あれほど美しく強い火を持つ人間を、私は他に知りません。火の精霊さえ、驚いていました」
「あら……じゃあ、あんなところに小鳥を乗せたら危ないかも」
指先にとまった小鳥を見てクスクス笑ったリシェに、イレーネは小首を傾げた。
「そういえばそうですね……本は焼くことはあれど、よくお持ちでしたが、動物の類は
「本当は、こうして
そうかもしれない、とイレーネも思った。女王は高揚する時ほどウッカリ火を点けてしまう為、愛らしい小動物には特に注意していた。庭を散策する際、風下に蝶が飛んでいるだけで、両の手をしっかり押さえて注意していたぐらいだし、犬猫や赤ん坊にはなるべく近寄らぬ様にしていた。そこへ行くと……火は他の属性よりも孤独だ。
属性としては相反するノーラと親しかったのも頷ける。
あのレンの寂しげな目と、女王の英知に溢れた目は対照的だが、二人は同じ孤独に身をやつしていたのかもしれない。
ようやく、左の入口に辿り着くと――その堂々たる石像を目にしたイレーネが、息を呑むのがわかった。レン・グラスワンド卿の石像は、天窓から差す、ひときわ明るい光の下に有る。今はちょうど、正午を過ぎた光が優しく降り注ぐ中、リシェは何度も見上げたことのあるそれと、隣の乙女を見比べて首を傾げた。
「……似てる?」
「はい……とても。ロウぺの職人の技量でしょう……生前の御姿そのものです」
その姿は、時を超えて彼の人を見ているようだった。
「やっぱりそうなんだ。ご先祖様もそうだけど、歴史で習うときの肖像画より、この像は若いのよね。この姿は戦いの頃ってこと?」
「はい。でも……レン様――グラスワンド卿はこのような華美な軍服ではなく、いつもくたびれたトレンチコートを着ていました。傭兵団に居た頃、育ての親だった方から頂いたものを大切になさっていて……たまに、お洗濯して、ほつれを繕いました」
「素敵な話」
リシェの言葉にイレーネが仄かに頬を染めていると、像の足元で何かが動いた。
「あ、フランソワ。ごきげんよう」
気付いたリシェが声を掛けたそれは、猫だった。銀灰色の柔らかい毛並みと、金目の猫はリシェを認めると、こちらにやって来て、差し伸べた娘の手に頬を押し付けた。
「リシェ様は、仲が宜しいのですね」
「私、動物とは相性がいいの」
「土の魔力が影響するのでしょう。地に縁あるもの、地に足つく生き物は、貴方様の魔力に安らぎを覚えます」
「え、そうなんだ……それは初耳。もしかして、兄さんがフランソワにあんまり仲良くしてもらえないのは、猫は水が苦手だから?」
「水は万物の母に等しいので、嫌われはしない筈ですが……動物毎の事情はあるかもしれませんね」
微笑んだイレーネは、猫に向けてそっと頭を下げた。
「先日はお騒がせ致しまして、申し訳ありませんでした」
人間相手だとしても丁寧な応対に猫はかしこまるように座り、そっと目を細めた。
「怒ってなさそうよ」
「良かったです。ネズミ捕り長にお勤めと伺いましたが、彼は長いのですか」
「子供の頃から居たから……もう十年にはなるかしら」
「左様ですか。猫としては高齢ですね」
「そうねえ……猫って、年齢不詳だわ。可愛いおじいちゃんねえ、フランソワ」
大人しく撫でられる猫を眺め、イレーネは改めて石像を見上げた。
火器を堂々と置いて立つグラスワンド卿の視線は、まっすぐに入口を見ている。
そこからどんな悪が入るのも許さぬ立ち姿だが、表情は生前の彼らしい穏やかなものに見えた。リシェが言う通り、敵の侵入を許さぬ守護者のようにも見えるが、それならもっと、厳しい視線の方がそれらしい。
実際に彼は敵と対峙する時、そうした表情も浮かべた。
――この顔は、むしろ……
「イレーネ、また会おう」
低くも優しい声を思い出し、何気なく入口を見ると、扉の上部にしつえられたレリーフに、館外へ羽ばたいていくような小鳥の後ろ姿が有った。
小鳥。『花園の魔法使い』の頭上を飛び、女王の手にとまり、グラスワンド卿に見守られて、外へと飛び立つ鳥……
「さ、イレーネさん、約束の時間だわ。マダムに会いに行きましょ」
立ち上がるリシェに、夢から覚めたような顔で、乙女は頷いた。
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