10.小人
翌朝、日が昇るやいなや、ロニは眠気眼をこすりながら庭先で奮闘していた。
奮闘には違いないのだが、傍目には片手にドリュアスことルドラクシャの実を載せ、それを見つめながら
その手のひらには、イレーネが作ってくれた特殊なインクで描いた細かな陣がある。ノーラの指示に従い、ロニが自分で書いたものだ。しかし、かれこれ三十分ほど……何か起きる様子はない。その様子を、同じく眠そうなカエルが木陰の下――ホスタやヒューケラなどの葉が開いている花壇の縁に腰掛けて眺めていた。
「おー、いいぞー、がんばれ、ロニー……」
語尾はあくびと化したカエルの応援に、ロニはうんざり顔で振り向いた。
「本当にこんなことでルドラクシャが呼べるの?」
「勘違いするでない。お前は魔力量はそこそこでも、魔法に関してはお子ちゃま以下だ。呼べる確証は無いぞ」
「……無くても、やり方は合ってるんだよね?」
「無論だ。私を信じろ。疑いは成功を阻害するが、信じる心は術の威力を高める。お前は『水』に縁が深いゆえ、『土』の者との関係性は悪くはないが、時間は掛かろう……そして『土』には他の属性の者よりゆったりしておる者が多い」
「『土』か……イレーネもそうなんだっけ」
彼女が押し花から出現するのは瞬くほど早かったのを伝えると、ノーラはあくび混じりに頷いた。
「うむ。こちらの世界に存在する為には、この世界のものを使って肉体を構築をするのだ。イレーネはディルクが残した依り代――まあ、いわば設計図と材料の両方が揃っていたようなものだな……イレーネ自身も慣れている上での再構築となれば、早くても不思議ではない。お前とルドラクシャは、それを一から作るのだから、時間が掛かって当然だ。お前の式が稚拙なのも、速度に関係する」
「じゃあ、これ……ノーラが書くわけにはいかないの?」
手のひらを見下ろすと、カエルは「阿呆」と呟いた。
「お前が呼び出すのだから、幼稚でもお前が書く方が良い。呼びたい者を呼び付けるのに、自身で声をかけるのは礼儀であろう?」
印刷機で刷ったものや代筆の手紙と、下手でも心を込めた手書きのそれを比べるような話だろうか。しかし、この喩えだと、なんだかロニの字が汚いが為に、待ち合わせ場所の解読が困難でなかなか来られないような気もする。
「それにしても眠いのう……こんな朝っぱらからやる意欲は良いが……」
「ごめんよ、ノーラ。八時からは仕事があるんだ。今日はマダムも来るし、休むわけにはいかないよ」
社会人や学生に限らず、周囲の朝は早い。誰もが、友人の部屋で呑気にいびきをかいている親友の様にはいかないのだ。――が、カエルは呆れ顔だった。
「ファウストの企みを阻止するよりも、重大な仕事なんぞ有るのか?」
「うーん……耳が痛い話だけど、こんな長閑な日に、世界の危機をわかってもらうのは難しいと思う……」
光は温かく、庭先の花は豊かにほころび、優しい香りに草や土の香りに混じる。
新聞配達の自転車が通る音や、窓を開く音、水を撒く音などが聴こえてくる。自分だって、これが一度に滅びることなど想像もできない。人々や生き物の息吹に耳を澄まし、カエルはのんびりと横に寝転んだ。
「全くのう……少し前まで此処らの連中は『灰の魔法使い』の事も知っておったし、最低限の武装も有ったぞ。あの食いしん坊が頼りにしておった、武器を扱う雑貨屋もあるほどピリピリしとったものだが、瞬く間にこのボケ具合……ある意味、逞しいものだ」
恐らく、
「そういう意味じゃ、僕らの戦場は家庭や職場なんだろうな。僕も今の仕事に就くまで色々有ってさ……クビになったら、家族に合わせる顔が無い」
「わからなくもない。ディルクも香水屋に関しては、休まなかった」
「ご先祖様か……どうして香水屋なんてしていたか、ノーラは知ってる?」
「ディルクのことはイレーネに聞け。あちらの方が詳しいぞ」
その通りだろうが、当の乙女は一足早く、リシェと共に教会に行っている。チェスターが不在とはいえ、妹の出勤を不安に思っていた兄には有難い対応だ。イレーネは力不足を気にしていたが、ロニを軽々持ち上げてジャンプしたり、あの杖を輪っかに捻じれるほどの怪力だ……なまじ、自分や警察如きが付いて行くより安心できる。
「調子は如何ですか?」
勝手口の方から顔を覗かせたのはレンだ。彼はロニが起きた頃には既に身支度を整え、両親と共に店の手伝いをしてくれていた。相変わらず左足は引き摺っていたが、彼は決して動作が鈍いということはなく、言われた以上にてきぱきと動いた。
自分が彼のような好青年だったら両親も楽だったろうにという想いがチクリと胸を刺したが、その生い立ちを思い出すと、培われた礼儀正しさや慎ましさに妬心よりも胸が絞めつけられた。
「いやあ……見ての通り、時間が掛かりそうです」
ロニが苦笑すると、彼はその実を幼子でも眺めるように腰を屈めて首を傾げた。
「案外、眠いのかもしれませんよ」
「ノーラと一緒かあ……こんな早くに起こして、とか思ってるのかな。――あ、それより、ウチの手伝いをありがとうございます」
「とんでもない。手伝いという程の事ではありません……何かしていた方が気が紛れます。お優しいご両親で羨ましい」
最後の一言には胸が詰まった。……そういえば、この青年はどうやって生計を立ててきたのだろう。アルス・ノトリアの呪いで、簡単には死なない肉体のようだが、その呪いの所為で普通の仕事ができるような状態では無かった筈だ。聞くのは躊躇われて黙すと、彼は不思議そうに首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ……何でもないです」
思ったより元気そうな顔に首を振ると、手の中でちょっぴり実が傾いだ。
「あっ! ち、ちょっと動いたよ!」
「おー、いいぞーロニ。風のイタズラではないのを祈る。がんばれがんばれ」
「もー……ノーラ、そこに居るならちゃんと見ていてよ」
「見とるわ。ずっと付きおうとる私の優しさを噛み締めてがんばれ」
王冠を直しながらくつろぐオッサンさながらのカエルに、ロニとレンは顔を見合わせて苦笑し合った。
「私が居ると怖がらせるかもしれないので、中に居ますね」
気を遣う青年を見送って、ロニは再び小さな実に集中した。
……眠たい、か。この実を生き物だと意識すると……じっと眺められていては落ち着かないかもしれない。静かに、自然に、そっと……
楽な姿勢で実を持った手を膝の合間に置くと、そのまま目を閉じた。
サワサワと、柔らかな風に、葉の揺れる音がする。最初に彼女の世界に行ったときも、こんな音がしていた。温かな光が微かに差し込む、深い森が見える。
草木は深い色に萌え、小川が流れ、小鳥が囀り、花が囁き、緑が香る、豊かな森……
「――ロニ、ゆっくり目を開けろ。ゆっくりだ。慌ててはいかん」
どのくらい経ったのか……先程の寝ぼけ声が嘘のように真剣なノーラの声に、ゆっくり目を開けると、言われて尚、ロニは目を見開き、息を呑んだ。
実から、輝く緑が溢れていた。それは陣の上に根を張っていたが、手には何の感覚も無い。殆ど音もなく緩やかに上へ上へと枝葉が絡み合いながら徐々に伸び上がり、手のひらにはチューリップよりも小さな木が生えたような状態になってしまった。
狼狽えた顔で「どうすれば」という目でカエルを見るが、彼は”黙れ”と言う様に首を振り、そのままで居ろと片手で宙を押さえるような動きをした。
やがて、育つ動きが止まった。
息を呑んで見下ろす中、青々と尖った葉っぱをたっぷり付けた木陰から、さんっと小さな顔が飛び出た。
「あっ!」
目が合うや、思わず声を上げたロニに、飛び出た少女は慌てた様子で枝葉の合間に引っ込んでしまった。
「これ、ロニ。でかい声を出すな。挨拶を待て」
カエル王の注意を受けて、呼吸さえ静かに待っていると、少女は様子を窺う様にそっと顔を覗かせた。注意深く辺りを見渡し、木の上から降りてくるように半身を見せた。その身は腰から下が樹に同化し、以前よりも更に小さな姿だ。ふと、ロニが親指ほどしかない姫の物語を思い出していると、白っぽい木肌のような肌、葉そのものの髪、緑と金入り混じる目が、遠慮がちな目でこっちを見た。
「……ロニさま、こんにちは。ルーシャを呼んだ……?」
小さいが確と聴こえる声に耳を澄まし、ロニはカエルを振り返った。頷くのを見てから、少女に微笑みかけた。
「君、ルーシャって名前だったんだね。来てくれてありがとう」
こくりと頷いた少女は、ちょっぴりはにかんだ様子で笑った。
「急に呼び付けてごめん。呼んだのは、この……今居る庭の下に、本が埋まっているらしいんだ。それを取るために、君の力を借りられないかと思って」
「ほん?」
「あ、こういう感じの物なんだけど」
傍らに置いていたのは、彼女の世界に行った際の本だ。焦げ跡が残るそれを見て、少女は少し身震いしたが、頷いた。そこへ、刺激せぬ様にか、距離を置いた位置からカエルが呼びかけた。
「ルーシャよ。私が誰かわかるか」
「……はい。ノーラ・マーナさま……先日は、ありがとうございました」
「うむ、落ち着いておるな。こちらに顕現するのは初めてか?」
「イイエ。……でも、その……」
もじもじと困り顔になってしまうのに、ノーラは気の毒そうに頷いた。
「やはり、術式が稚拙だったか。まあ、その姿を見れば明らかだが……ロニはお子ちゃま以下だ、お前の所為ではない」
出来の悪い生徒が申し訳なさそうに肩をすくめる中、幼い姿の精霊も同じような顔つきで首を振った。本当は、もっと大きな姿で現れることができるようだ。確かに、あの世界で見た樹は、見上げて尚足りないと思えるほどの巨木だったし、最初に会った彼女は大人の女性だった。
「もしかして、此処に居るのは大変かい……?」
申し訳なさそうに訊ねたロニに、少女は慌てた様子で首を振った。彼女が首を振ると、木全体も葉を揺らしてざわめいた。
「大丈夫……ロニさまの力になりたい、です」
ノーラがうんうんと感心した様子で頷いた。
「健気なものよ。では、どうだ? かなりの深さだが、本を取り出すことはできそうか?」
少女はちょっと考える顔で周囲を見渡していたが、ソルベット家のシンボルツリーでもある桜の樹を見上げて指差した。
「ロニ様、あの根元に……お連れ下さい」
言われた通りに根元に近付くと、木はロニの手から根っこで歩くように桜へとにじり寄り、そこに生えた木のように地面に鎮座した。そのまま、しばらく静かに木陰の風に吹かれていたが、やがて少女は振り返った。
「……場所はこの子が教えてくれた。でも、此処には深い場所に行ける子が居ない……私は下りることはできるけど、掘り返すのは……」
遠慮がちな言葉以前に、見ればわかる姿だ。これには、ノーラが頷いてくれた。
「良い。場所さえわかれば私がどうにかしてやろう」
「どうにかって……」
嫌な予感を滲ませたロニの視線に、カエルは何でも無さそうに頷いた。
「ルーシャに本の位置まで下りてもらい、魔力で目印を付けてもらう。私がそれを目安に水脈から水で土を押し、本を持ち上げる。なあに、少し濡れるぐらい問題あるまい」
「一応言うけど、家の中に噴水はやめてよ……?」
頼りにしているが、節操はなさそうなカエルに言うと、彼はどんと胸を叩いた。
「任せておけ。しかし、下りるまでにも時間が掛かるだろう。お前は仕事とやらに行って来い」
「わかった。二人とも、ありがとう……無理しないでね」
こくりとルーシャが頷き、さっそく始めてくれるのか、枝葉の中に引っ込んだ。
「ああ、ロニ……その陣は消してはならんぞ。お前はまだ繋がりが弱い故、鍵のみではルーシャがこちらに居られぬ。場合によっては、お前の魔力も使うからな」
「えっ……そうか、わかった」
何か言われそうだが、手袋か包帯でごまかせるか……?
あんまり挙動不審が続くと、上司のマダム・フリーゼに何を言われるかわからない。
勝手口から家に戻ると、棚の上の救急箱から包帯を取り出し、せかせかと巻いた。包帯なぞ巻くのは久しい。
数年前は……この箱の中身にも、だいぶ世話になったものだが。
「……怪我をなさったんですか?」
はたと気付くと、レンが不安げな顔でこちらを見ていた。店先を掃いてくれていたらしく、手にホウキを持っていた。灰色の眼がじっと見るのは、ロニの手の包帯だ。
「あ、いや、これは怪我じゃなくて、陣を隠す為に……」
事情を説明すると、彼はほっとした顔で頷いた。
「お仕事に行かれるのなら、お供しても宜しいですか。開館したら、一般人が入れる場所を見るだけにしますから」
「それはどうぞご自由に……でも、休んでいなくて大丈夫ですか?」
つい、左足を見ながら言ってしまうロニに、レンは困った様に微笑んだ。
「大丈夫です。前にも言った通り、これには慣れてしまいましたから」
それに、と彼はどことなく寂しそうに付け加えた。
「あまり、此処に……この身や呪いの品を置いておくのは気が引けます」
その腰には、『大喰らいのマギア』である蝋燭消しがやや短い姿になって剣のように吊るされている。恐らく、シャツの懐にはアルス・ノトリアの書も在るのだろう。
「そんなこと――今さら、言わないで下さい」
強い口調で言い返したロニに、レンがちょっと驚いたように目を瞬いた。
「あ、いえ……その――迷惑とかそういうことじゃなくてですね……、もう、僕たちはお互いが何者か知っているし……一応は、同じ目的の為に行動し始めた仲です。ノーラは『過ごした時間は関係ない』って言っていましたし……まあ、それは彼らが悠久を生きるからかもしれないけど、その考えは良いと思うし……えーと、なんだ……僕が言ってる意味、通じます……?」
彼はやんわり微笑んで頷いた。
「わかります。貴方が思いやりの深い人物なのも含めて」
ロニは顔を赤くして首を振った。
「僕は……そうでもないんです。昔、失敗してるから……もう、その時みたいな後悔はしたくないっていうか……――と、いけない、準備してきます……!」
時計を見てドタバタと自室に駆けあがっていく男を、静かな灰色の眼が見つめた。
「後悔……」
眩し気に仰ぎ、小さく呟いた。
その頃、リシュエール・ソルベットは説明に追われていた。
突然現れた橙色の髪の美人は、瞬く間に教会中の注目の的となってしまったからだ。
イレーネは姿を変えることも可能だと言ったが、下手に魔法を使うと、只でさえルドラクシャを呼び出しているロニが倒れ兼ねない為、リシェは余っているシスター服をこっそり拝借し、朝の御祈りが済んだところで、親戚が見学したいという名目で乙女を招き入れた。
なるべく目立たぬように……と思い、言い訳も随分考えていたのだが、想像以上に無理だった。花の乙女はあっという間に囲まれ、娘たちの好奇心や羨望の眼差しに気圧されつつも、慈母のような笑みを返している。
若い娘たちを取りまとめている年かさのシスター・エルマやシスター・ヨハンナさえ、いつもの生真面目な様子から一変、そわそわと言った。
「驚いたわ。とても素敵なご親戚ね、リシェ」
「本当ね。まあ、天然の髪なの? なんて羨ましい……」
聖職者といえど、集まった娘たちはごく普通の女性だ。リシェのような行儀見習いや、花嫁修業の一環として通う者もいれば、事情が有って住み込む娘も居る。チェスターが大らかなのも含め、今期の娘たちは皆それぞれに明るく、おしゃれも甘いお菓子も、噂話も大好きである。
二人のシスター長よりも、他の者は明らかに落ち着きなく群がった。
「髪も素敵だけど、目も綺麗だわ」
「モデルや女優ではないの?」
「もしかして、リシェのお兄様の婚約者ではなくて?」
「きゃっ、そうなの、リシェ?」
「それは無いわッッ‼」
唐突にリシェが大声で叫んだ為、一同はすくみ上がった。
「兄さんなんか、とんでもない! そりゃ、私だってこんな素敵なお姉さんができたら嬉しいけどね、あんなロクデナシで頼りない兄さんをイレーネさんになんて、とてもとても――……」
「リシェ様……あ、いえ、リシェさん――そんなことは有りませんが、どうか落ち着いて下さい」
シスター長らさえ目を丸くする中、困った様に声を掛けたイレーネに、あと一歩で兄の痴態を喋りそうになったリシェは慌てて口をつぐんだ。硬直している一同の手前、こほんと咳払いして首を振る。
「と、とにかく……この人は兄さんの婚約者でも恋人でもないの!」
「わ、わかったわ、リシェ、落ち着きなさい」
シスター長らが宥める声に、リシェは肩をすぼめて頷いた。
「その……急に身内を連れて来てすみません。訳ありで此処に来てるので……神父様にも黙っておいてほしいのですが……」
二人のシスターは顔を見合わせたが、教会は来る者を拒む場所ではない。別に報告する程の事でもない上、リシェに続けて丁寧に
リシェが口元に人差し指を立てるのに、反対する者は居なかった。
「さ、皆いろいろ聞きたいと思うけど、勉強もお勤めもしっかりやりましょうね」
手を叩くシスター長らが呼びかけると、皆、それぞれの持ち場に散った。
イレーネは後で昼食の準備を手伝うのを約束し、リシェと共に清掃がてら、館内を回り始めた。その途中、リシェはこっそりチェスター神父の執務室を開けた。日差しが入り込む慎ましい部屋はきちんと片付いていて、怪しい所などは見当たらない。引き出しの付いたシンプルな机、ごくありふれたランプ、ファイリングされた書類や本が収まった棚。部屋は言うまでもないが、机の引き出しも、ガラス戸が付いている棚にも、鍵さえ付いていない上、妙なものは何もなかった。
「なんか……気配とか感じる?」
声を潜めたリシェの問い掛けに、イレーネは首を振った。
「いいえ、何も感じません……魔力さえ、無いように思います」
乙女は周囲を見渡し、何かを試すように机に触れたが、訝しそうに付け加えた。
「昔は、教会というものはもっと魔力を感じましたが……此処は入る前から無に等しいです」
「うーん、ご利益が無いみたいで複雑な気分だけど……そうかも。もっと大きな教会なんかじゃあ、司祭みたいな人が奇跡を起こすとかいう話はあるけれど、此処はそういうのは一切ないもの」
「奇跡ですか。恐らく、それも魔法の
「それじゃあ、カエルさんを祭っている人たちも居る?」
他意無く訊ねたらしいリシェの言葉に、乙女はくすりと微笑んで頷いた。
「ノーラは遥か昔……人々に王として慕われた経験が有ります。――ですが、その時のことを彼は話したがりません。旧時代、女王様に声を掛けられるまで、人と関わるのは避けていました」
「え……もしかして、楽しそうに見えるけど、兄さんにもイヤイヤ付き合っているのかしら?」
「いいえ、リシェ様が仰った通り、とても楽しそうです。……言うとへそを曲げるので黙っていた方が良いでしょうけれど、本来、彼は人が好きなのです。ロニ様のように、素直で優しく、不器用な方は特に」
良かった、と、こちらも本当は兄想いの妹は胸を撫でおろす。
「リシェ様、この教会はいつ頃からこちらに在るのでしょうか。ディルク様の頃には無かったように思うのですが」
「ええと……孤児なんかが増えた、帝国時代の手前ぐらいかしら? でも、一度は焼失したって話よ。最後の戦闘で被害を受けたって」
「では、再建する以前から、教会ではあったのですね」
「うん、その筈よ。――ほら、そこの窓から墓地が見えるでしょう? お墓は動かすわけにいかないから、やっぱり教会も動かせないんだと思うわ」
リシェが指し示す先には、確かに墓地があった。柵に囲まれ、開けた印象の場所に石の墓標が整然と並び、芝生も綺麗に揃えてある。傍に立つ樹も和やかな新緑を風に揺らし、仮に夜だとしても、死者や悪しき者が徘徊しそうな雰囲気ではない。
「あの向こうは何ですか?」
イレーネが示したのは、墓地の更に向こう――小高い丘が広がる場所だ。所々に土が覗いた大きな敷地に、等間隔に葉を付けた低木が沢山生えている。
「ああ、あれは葡萄畑よ。昔、帝国総統府が在った所を開墾したんですって」
「帝国総統府が……」
「共同で管理している只の畑だけど。ウチでも世話してる木があるから入れるわ。行ってみる?」
「はい」
シスターらに断り、二人はなだらかな丘へと登った。確かに、穏やかな日差しと具合の良い風が吹く長閑な葡萄畑だ。しかし、イレーネは上がる内に表情を引き締めた。
「リシェ様……この辺りで大丈夫です」
立ち止まった娘が不思議そうにする中、イレーネは厳しい視線で地面を睨んだ。すぐ傍の葡萄の木に触れ、しばらく黙って目を閉じていたが、驚いた顔で足元を見た。
「これは……まさか……」
「ここ……何かあるの?」
「……総統府が丸ごと消えた謎がわかりました」
葡萄から手を離し、イレーネは地面を指した。
「この地下に、巨大な建物が在ります。どうやら総統府は破壊されたのではなく……そのまま地に消えたようです」
「そ、そのまま……!? そんなのどうやって……」
「正確にはわかりません。強いて言えば、埋まっているというより、空洞に据え置かれているようなので……これほどの事が可能な者は、そう多く居ません」
どんな恐ろしいものが、という顔をするリシェに、イレーネは軽くかぶりを振った。
「周辺に邪悪な気配を感じないので、悪魔や魔物のような者ではなさそうです。この大工事……多分、ノーム族――土に縁深く、一流の鉱山夫でもある一族の仕業ではないかと」
「ノーム?」
「妖精や精霊の一種です。殆どは人里離れた山に暮らしますが、旧時代はロウぺという職人の都に多く住み、ノーラと共に『
「……一応聞くけど、どういう見た目なの?」
「猫ほどのサイズの、長く尖った帽子を被った髭の老人です」
「帽子をかぶった、小さなお爺さん……?」
呟いたリシェが、不意に葡萄の方を見て、きゃっと悲鳴を上げた。
慌ててイレーネに抱きついた娘を支えた乙女も、同じ方を見下ろすと――小さな木の陰から、言った通りの姿の
自分の身長近くもある長い緑色の帽子をかぶり、顔の半分は真っ白なフサフサの髭に覆われている。だぼついた薄緑の服を腰のベルトできゅっと押さえ、大きな長靴を履いていた。
「そこにおわすのは、『花園の魔法使い』様お付きの、イレーネ様ではありませんか?」
とんでもなく小さな声で小人は問うた。リシェは乙女にくっついたまま目を丸くし、イレーネは姿勢を正して頷いた。
「そうです。貴方はもしや、ベリルですか?」
「如何にも。イレーネ様がおわすということは、『花園の魔法使い』が戻られたので?」
「……いいえ。『花園の魔法使い』は、ディルク様の代で途絶えました」
「なんと。では、女王様は如何です? 王国の復興はいつに?」
「ベリル、残念ですが、それは私の知る所ではありません……王制は絶えて久しいと聞いています。働き手でも探しているのですか?」
「左様でございましたか……いえ、逆でございます、イレーネ様」
行儀の良い小人の声は、小さく沈んでいた。落ち着いてきたリシェもイレーネから手を離し、小人を見下ろして耳を澄ました。
「我らは、仕事の報酬を払ってくれる者を探しています」
「報酬。さては……この下にあるものに関わりが?」
「さすがはイレーネ様。ええ、その通り。我らは少し前に、この建物を地の底に沈める依頼を受けましたが、賃金を踏み倒されておるのです。タダ働きなぞ、まこと、有り得べからざること。皆も怒っております」
「それは気の毒に。どなたに頼まれたのですか?」
「そこが、我らも困っておる問題でして。人づてなので、わからぬのでございます。手紙は小鳥が持って参りましたが」
――レンが名前を与えられた時と同じだ。
事情を知らないリシェは乙女と小人をきょろきょろと交互に見たが、イレーネは眉を寄せた。
「何と書かれていたか、覚えていますか」
「これに」
小人は屈んだ乙女に向け、
指先で受け取るイレーネの傍ら、リシェも小さなそれを覗き込んだが、文字らしきものが書かれていたが、妙な形にねじれた枝を組み合わせたようなもので、何が書いてあるのかさえ、さっぱりだった。誰に頼まれたかもわからないのに引き受けるとは、守銭奴という割にウッカリ者の小人たちだ。イレーネはしばし黙ってそれを見ていたが、彼にそっと返却すると、彼女にしては厳しい表情で言った。
「ベリル、申し訳ありませんが、私には送り主のことはわかりません。今、こちらには私の他にノーラが居ます。彼に訊ねておきましょう……ひとまず、皆と待っていてはくれませんか」
「おお、ノーラ・マーナ様がいらしているのですか。ありがたい。しばらく何も音沙汰無しからの吉報でございます。いや、貴女様の気配を感じて来てみて良かった」
ぱちぱちと瞬くリシェに、イレーネはそっと目くばせすると、ポケットから古い金貨を一枚取り出し、喜んでいるらしい小人に差し出しながら声を掛けた。
「ベリル、私からも幾つか訊ねたいことがあるのです。お願いできますか?」
「これはこれは、旧時代のベルティナ金貨ではありませんか。前払いとは、イレーネ様は実にわかっていらっしゃる。どうぞどうぞ、何なりとお訊ね下さい」
彼には大きすぎるサイズのお金を貰ってほくほくする姿に、リシェは驚きも忘れて小さく笑った。ベルティナ硬貨は金貨に限らず高価だが、今は通貨ではないそれを貰って、彼らはどうする気なのだろう?
「ありがとう、ベリル。今、貴方の仲間は何人こちらに居るのですか?」
「私を含め、ほんの七名ぽっきりです。最近の人間は我らに仕事を頼みませぬし、昔は勝手にやっておいても支払いを置いてくれたものですが――それも無く、商売にならんのです」
「難義ですね……住まいはこの辺りに?」
「はい。地下のばかでかいものをすっかり収めた後、皆、この周辺にねぐらを持ち、それはもう、つつましく暮らしております」
”つつましく”の辺りを強調する小人に、リシェは笑いを堪えた。身近に、こんな面白いおじいさんが七人も住んでいたとは。
「仕事に関わった皆と、支払いを待っているのですね。では……この辺りで、ファウスト……或いは強い魔法使いを見ませんでしたか?」
小人は首を傾げた。
「はて……見掛けておりませぬ。この建物を地下にやる前は、どうも騒がしかったですが、あの頃に見たのは話の通じぬ異形の暴れん坊ばかり。魔法使い自体、もうしばらく見ていません」
「……そうですか。わかりました。――ところでベリル、こちらのお嬢様はリシュエール・ソルベット様です。ディルク様の子孫ですよ」
「な、なんと!」
小人は急にサッとこちらを見て、平伏せんばかりに帽子をとって頭を垂れた。
「只ならぬ雰囲気とは思うておりましたが……
ちっとも気にしていなかった気がしたリシェが困惑気味にイレーネを見ると、彼女は小人が見ていない隙にリシェに別の硬貨を握らせ、にこりと笑った。
「彼女はこの近くの教会に居ます。この辺りで悪戯はしていませんか? 正直にお答えなさい」
「とんでもない。しておりませんとも。お庭のハーブやジャムをくすねたりなんて、全くしていませんとも。クッキーが消えたのなら、私ではありません……シトリンに決まっております」
咄嗟に仲間を売ったが、イレーネは苦笑しながら言った。
「安心なさい、リシェ様はディルク様よりも寛大な御方です。現に、シトリンがクッキーを盗み食いしていても、罰は受けていないでしょう」
「仰る通りでございます、ええ、おかげさまで皆、息災でございます」
「何よりです。さあ、正直な貴方にリシェ様がご褒美を下さいます。ソルベット家の皆さまがお困りの際は、手伝いを頼みますよ」
「おお、なんと偉大なリシュエール様。我ら七人はノームの中でもとりわけ、仕事が早くて丁寧でございます。お困りの際は、地の底からでも駆けつけましょう、どうぞ、今後とも御贔屓に」
最後は業者の宣伝文句みたいなことをのたまう小人に、リシェが躊躇いがちに金貨を手渡すと、彼は賞状を受け取るみたいに押し頂いた。
イレーネが満足そうに頷いた。
「宜しい。では、
「かしこまりました、是非に是非にお願い致します」
小人は葡萄の木陰にのそのそと後退すると、金貨もろともフッと消えてしまった。
「私たちも戻りましょう」
促されたリシェが角ばった調子で頷き、二人は丘を教会に向けて下りて行った。
「もう……普通に喋っても平気?」
「はい。申し訳ありません、ノーム族にはなるべく尊大に接した方が得なのです」
「途中から何となくわかったけれど……金貨を喜ぶなんて、人間みたいね」
「そうですね。人間以外でも金銀宝石を好む者は居ますが、彼らはひときわ、その傾向が人に近く、言葉にも精通した不思議な種族です。ノーラが居ると聞いて喜んでいましたが、本当はあの王冠を密かに狙っているのです。でも、彼らは土に縁が深いので、あまり水が得意ではありませんから、あんな態度を取っているんですよ」
「見るからに嘘っぽかったものね。マイルズの適当な話に似てる。魔法使いを見ていないっていうのも……嘘じゃない?」
「可能性は有りますが……嘘をつく意味があまり無いでしょう。もし、地下の施設を隠しておきたいのなら、もっと早く私の前に現れた方が効果的ですし、ファウストと関与している場合も、教会で物をくすねた件は喋らない方が良い筈です」
「そっか、確かに」
兄によく似た顔で納得する妹に苦笑してから、イレーネは真剣な顔で言った。
「顔を出してくれたのは感謝しましょう。おかげで、色々わかりました」
「あの手紙も読めたの?」
「はい。やはり差出人の名前は無く、魔力も感じませんでした。いくらノームが迂闊でも、手掛かりがあれば探すことはできましょう。彼らは私やノーラに比べて魔法を使うことそのものは不得手ですが、取り立てには真剣に取り組みますし、私の魔力に気付く程度には鋭敏です」
「よく私なんかに頭を下げたわねえ……」
可笑しそうに笑うと、リシェは肩越しに葡萄畑を振り返った。
「あんなところに大きな建物が埋まってるなんて、ちっとも知らなかった。でも、よく見たらあそこだけ盛り上がっていて、他の木は生えていない変な丘だわ。誰だか知らないけど、どうしてそんなことお願いしたのかしら」
「……わかりません。ファウストの指示にしても謎です。何かを隠す為なら、ただ埋めておくよりも、それらしい手が有りますし……」
近付いて来た教会を見つめ、乙女は鋭く目を細めた。
「魔法を知る者で、ノームの取り立てを知らぬ者は居ない筈。あのしつこさをこの距離に住んでいてかわすのは難しい。彼らが自由に出入りし、魔力も感じないあの場に結界の類は無い……現状のファウストには、一切の魔力が無いと思うのが自然かもしれません」
「悪い魔法使いに力が無いなら……安全ってこと?」
イレーネは戸惑った顔つきで首を振った。
「マイルズ様も仰っていましたが、何を目的にするかわからない点が不気味です……力を取り戻すための行動なら、適した悪魔を手放しているのが解せません――杞憂ならばその方が良いのですが……この世界はあまりにも魔法を忘れてしまっていて……不安に感じます」
「ご先祖様も、貴女に伝言を残せば良かったのに」
「……ふふ、そうですね。私がこの時代にお召しを受けるとは思わなかったのかもしれません……」
話す途中で、立ち止まって差し俯いた乙女を、リシェが振り返った。イレーネは俯いたまま、祈りを捧げるように目を閉じていた。
「ご先祖様が――ううん、グラスワンド卿が居ないと……不安?」
リシェが顔を覗き込むように訊ねると、乙女は首を振った。
「……いいえ。自分の力が足りないことが、気に掛かるだけです。いざとなったとき、皆さまをお守りできなかったら、と……」
俯きがちな乙女の両頬を、娘の両手がきゅっと手挟んだ。驚いた様子で顔を上げた薄紫を、ロニとよく似た湖水色の目が見た。
「昨日の話、覚えてる? 私たちのことばっかりじゃなくて、自分のこと、考えなくちゃダメ」
「で、でも……私は……――」
「ご先祖様の時はそうだったかもしれないけど、私たちは、イレーネさんの御主人じゃないのよ。もし……怖いことが起きるとしたら――確かに私たちは頼りないと思うけど、貴女だけに頑張らせたりしない。一緒に頑張るから、一人で抱えないで」
「リシェ様……」
「そんな顔してたら、皆がびっくりしちゃう。元気を出して。ちょっと早いけど、厨房に手伝いに行きましょ」
台所仕事が得意な乙女の元気が出ると思って言ったのだろう、ぱっと手を離すや、スカートを翻して小走りに駆けていくリシェを、イレーネは真剣な眼差しで見つめた。
〈イレーネ、いつまでも俺のお
胸に甦るのは、かつての主人の言葉だ。
「ディルク様……」
そうだ、悩んでいても仕方がない。彼らの為に、できることをしよう。
ロニが困っていたらノームに頼む都合も付いたと思い直し、乙女はリシェの後を追い掛けた。
「ロニ、ちょっといい?」
図書館に出勤するなり、マダム・フリーゼに声を掛けられたロニは総毛立った。
入口に残ったレンに、「絶対に一人で何処かに行かない様に」と再三言ってからの出勤である。先程の威勢は何処へやら、急に蛇に睨まれたカエルのように縮こまった。
「マ……マダム、その、先日のことは――」
いきなり弁明を唱えかけた部下に、マダムは怪訝な顔をした。
「その手はどうしたの?」
「あ、ああ……これは――ち、ちょっとインクをこぼしてしまって――」
「それならいいけれど」
「は、はい、それでですね、先日の件は……」
尚も答弁しようとする部下に、上司は今度は軽く片手を掲げた。
「怒るわけじゃないから、付いて来なさい」
「え、ハ、ハイ……?」
一般の館内を通り――辿り着いた先は巨大な本棚と本棚の間に造られた、小さな書庫だ。この部屋はロニも記憶に新しい。司書になる前、面接した部屋だ。
隠し部屋のように扉も本棚になっているそれを前に、子供の頃はこの先にどんな空間があるものかとわくわくしたが、面接時は怯えた子羊さながらで、今はだいぶ気まずい。背後でそわそわする部下を余所に、マダムは鍵を開け、それを開けた。
中は、柔らかな色を灯す間接照明の下、机を取り囲んで古びた本棚がある。棚には本のみならず、火は灯っていない燭台の蝋燭に、何に使うのかわからない瓶に収められた乾いた植物、旧式の地球儀や、凝った装飾や宝石がちりばめられた小箱などが並んでいた。どことなく、魔女の部屋を思わせる小部屋だ。
「座って」
扉を閉めたロニが、どぎまぎと椅子に座ると、マダムは手袋をはめ、棚から一冊の本を引き出した。それを開きながら、彼女は事も無げに言った。
「ロニ、ノーラ様とイレーネ様が来ていたそうね」
「ひぇっ⁉ ど、どうしてそれを……⁉ 二人を知ってるんですか⁉」
素っ頓狂な声を出した男は、ガタガタとアンティークめいた古い椅子に引っ掛かりながら大急ぎで立ち上がり、動揺も露わに身を引いた。
「マ、マダムはまさか……ファウストの――……」
「つくづく失敬な部下ねえ、貴方って人は。ファウストの手の者が、あの二人に敬称を付けると思う?」
マダムは苦笑混じりに、部下の前に見た目の割にやけに重そうな本を置いた。
「これは、女王の手記よ」
「じ、女王……マリアンヌ様の?」
頷いたマダムが開いたページには、優雅なペン字が整然と並んでいた。
「読めばわかるわ、ロニ」
諭すような口調に、敵意は感じない。ロニは恐る恐る椅子に座り直した。
レンを呼んでこようか――そう思ったが、もし、この本が探している本だったら大変だ。少し確かめてから……
開かれたページに目を落とすなり、ロニは再び驚いてマダムを仰いだ。
「マダム・フリーゼ……これは一体……――」
「読んで御覧なさい。貴方は、ディルク様の子孫。読む資格がある」
美しいペン字の出だしは、こうだった。
〈魔法を、捨てる時が近付いている〉
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