9.灰

 旧時代より以前から、魔法は世界に溢れていた。

魔力はあらゆるものに宿り、ただ静かにそこに有るが、魔法という式や命令によって可視化・具現化され、あらゆる奇跡を起こしてきた。

人の世も同様である。生育、移動、製造など、様々なことに用いられた。

だが、やがてそれは争いに使われるようになる。移ろう者も移ろわぬ者も巻き込んだ、大きな争いが起きた。何十年、何百年、何千年とも続くかと思われた争いは、ひとつの魔法で終わりを告げた。

「それが、灰の魔法だ」

ノーラの厳かな言葉に、ロニは湖水のような目を瞬かせて首を傾げた。

「争いを終わらせたなら……良い魔法なんじゃないの?」

「ロニ、お前の素直さは好ましいが、それが灰の恐ろしいところなのだ」

きょとんとする青年の心を抉る様にカエルは言った。

「灰の魔法は、文字通り、”終わらせた”のだ。その時に存在した全てをな」

息を呑んだ。

全て?

「お前が言う通り、争いは終わった。同時に、多くの生命も文明も終わらせた。敵味方、善悪の区別もない。町も、人も、動植物も、全てを灰にしたのだ。あの当時、地表に在った多くは影も形も残ってはおらん。地下に在ったものはある程度の被害は免れたが、何も無くなった地表の影響を受け、やはり壊滅したと聞いておる。私が聞いているのは主に水に関わる者たちの話だが、大地より水が干上がれば、地面は裂け、植物は育たず、さしたる間もなく荒廃してしまう」

水妖の言葉に、ロニは呆然とするしかない。写真で見た、干ばつでひび割れた大地の光景が浮かぶ。それは雨が少ないが為に乾燥した過酷な地だが、それでも進み続けた先には植物が点在し、砂漠でさえ生き物は存在する。世界の全てが灰になり、生命が絶えた状態など、考えようもなかった。

「どうして……そんなことを……」

「意味など無い。それが灰の魔法だからだ。滅びを望む魔などよりも奇怪であり、理解の及ばぬ存在なのだ。世界に存在するものの一部より生まれながら、自然の摂理には属さず、ただ全てを消し去る性質を持つ。人間というものが、自らの尺度で世界を憂いて生み出し、結果として裏切った魔法――その灰の魔法を初めて使った魔法使いが、ファウストだ」

「え……でも――全てが滅んでしまうなら……使った人も死んじゃうんじゃないの?」

「いや、『灰の魔法使い』は、人間を出自としながら、我ら同様、死という概念が無いのだ」

「不死ということ……?」

「平たく言えばそうだが、奴は生命の枠から外れた者。例えば、我らは手足がもげたとて死にはせぬが、この体を構成するのはこの世界のものに由来するゆえ、落ちた腕はやがてこの地の一部に帰る。しかし、『灰の魔法使い』にそれは無い。この世界に生まれた筈が、いつまでも、どこにも帰る事ができない体なのだ」

「ちょっと難しいけど……ノーラやイレーネは、魂は別の世界に在って、今はこの世界に有るもので作った体に入っている感じ?」

おおむね、そういうことだ。人間の魂という概念も、我らの感覚とは些か異なるが」

「ロニ様、私たちの体は人間のそれとも異なるので……あまり深くお考えにならない方が良いと思います」

乙女のアドバイスは全くその通りなので、ロニは頷いた。

「話を戻すぞ。申した通り、『灰の魔法使い』は人間としての本質は無くなると聞いておる。人の姿をつくろうのは、単に”人間だったから”という利便性や慣れに過ぎず、生殖機能は持たない。お節介共が育て直した世界を、何度でも無為に破壊しようと画策するのがファウストだ。灰の魔法を使ったのは一度きりだが、それ以降も暗躍し、幾度となくその滅びに関わってきた」

「じゃあ……僕らが旧時代と呼んでいる時代より前にも……?」

「そうだ。ファウストが破壊し損ねた故にやり直すのか、単に何度も壊したいだけなのかは知らぬが、多くの歴史が滅んでは息を吹き返してきた。時には別世界に逃れる世代も居た様だが」

子供が遊ぶみたいだと、ロニは思った。砂や積み木で、こだわって組んだ城を、あっさり壊し、また建て直し、何度も壊す。作るのは目的ではなく、壊すのも目的ではない。遊ぶという過程の中で行われる、再生と破壊。子供はそれでいい。その行動は楽しんで然るべきだし、そこから学ぶこともある。

……だが、世界ではそうはいかない。

「俺らが立ってる場所は、とんだ戦場だったみたいだな」

それまで静かに聞いていたマイルズが苦々しい口調で言うと、カエルと乙女に目を向けた。

「そんなに滅んじまってんのに、なんであんたらは詳しく知ってるんだ?」

「私たちが、この世界を祖としない、移ろわぬ者だからです」

「おっと、そうだった……ページの世界とか呼んでる別世界に居られるのか」

「うむ。こちらは元々、我らの世界ではない。全てを失ったこの世界も、貴様らが神だの精霊だのと呼ぶ物好きな連中が、灰と化した焦土で再び生命を根気よく育て、現在の姿に漕ぎ付けてきたのだ。特に、灰塵が降り積もって尚、下で息を潜めていた土に関わる者の仕事は大きい。ドリュアスやイレーネもそ奴らの関係者だ」

不謹慎にも、ロニは庭を思い出していた。父母がスペースが空くと何か植えたがるように、なんだか良い空き地が出来たからガーデニングを始めた様に聴こえる。

いや、そんな気楽なものでもなければ、人間のような計画性など無い事だろう。

きっと、彼らは滅んだこの世界がかわいそうだからやっているわけでもなく、どうしても元に戻したいからやっているわけでもない……ただ、そうするのが自然なこととして行うのだろう。

ふと、ドリュアスの言葉を思い出した。


〈水も、土も、風も、火も……全部、森には要る〉


人が石畳を敷こうとも、合間を突き破って草木は生い茂る。

人が流れをせき止めようとも、水はこんこんと湧き続ける。

人が火を焚かずとも、それは大地の下から命を温め、エネルギーとして吹き上がる。人が風を防ごうとも、ただただ、海を凪ぎ、森を吹き抜け、空を駆ける……

世界は息をしている。大きな一つの生命として。

灰の魔法は、その営みを、全て消し去る魔法。


「そんな魔法使いを……女王様はどうやって倒したの?」

「二人目の『灰の魔法使い』が協力し、ファウストに灰の魔法を用いたのだ」

「二人目?」

首を捻る青年らに対し、俯いていた顔を上げたイレーネが後を引き取った。

「『灰の魔法使い』は一人ではないのです。灰の魔法は一世一代しか使うことができないと聞いています。もう一度、それを行使する為に、ファウストが画策して生まれたのが二人目の『灰の魔法使い』です。彼が女王様に協力し、ファウストを本を通して別世界に閉じ込め、そこを彼ら『灰の魔法使い』の世界と見立て、灰の魔法を使って諸共滅ぼしたのです」

「君たちが慕う『灰の魔法使い』は……その人?」

「はい」

頷いた乙女とカエルの目が、尋ねたロニから、ずっと黙っていたレンに注がれた。

「二人目も、成人の男のナリをしておった。ちょうどお前らぐらいの歳のな。灰色の髪に、灰色の目、灰色の服を着ていた」

ぎくりとするのはレンだ。他の二人も思わず凝視してしまう。服こそ灰色ではないが、彼の容姿はあまりにもその特徴に一致する。

「ファウストが復活した経緯はわからぬ。だが、奴が此処に居る以上、あれはお前をしろに三人目の『灰の魔法使い』を作る気だと我らは思う」

「わ、私を……? どうやって……」

「お前の髪などは、本を燃やす内にそうなったものであろ。髪は人間のストレスとやらも関係するかもしれぬが、目はそうはいかん。火の力は『灰』と近しく、女王の血統の火は強力。その目は、お前の火の魔力が、『灰』に近付きつつある証拠だ」

「そんなことになったら……彼はどうなるんですか?」

「わからん。自我を維持できるのか、『灰』に吞まれるのか……我らはファウストは無論の事、二人目が人間であった頃も聞き及んだ事しか知らぬ。『大喰らいのマギア』を宿したマリアンネは当初は自我が勝っていたが、人を喰らう内にやがて呑まれた」

「そんなこと……させちゃいけない……」

呟くロニに対し、マイルズが険しい顔つきで煙草を咥えた唇をへの字に尖らせた。

「なあ、灰の魔法を使っちまったファウストが邪悪なのはわかるんだが、二人目の『灰の魔法使い』は、どうしてファウストのようにならなかったんだ?」

カエルと乙女が顔を見合わせ、先にカエルがニヤッと笑った。

「フフフ……さあな。私はあ奴が狂わずに済んだのは愛ではないかと思うておるが」

「あ……愛?」

急に飛び出た場違いにも思える言葉に、イレーネはそっと頷いた。

「私もそう思います。あの方は、生涯、ある御方を大切に想っていました。その穏やかな御心は、愛によってつちかわれたものだと、ディルク様も仰っていました」

「さては、お相手は女王だな?」

ゴシップでも掴まえたような言い方をする記者に、ノーラは指をちちちと振った。

「青いの、小童。相手はとうに死んでおる」

甘い話題を急に悲劇に叩き落としたカエルは、本人も億劫らしい顔つきで、己が膝に頬杖をついた。

「彼女が死んだ故に、あ奴は『灰の魔法使い』に”った”のだ」

「成った……?」

「人間の世界に対する絶望が『灰の魔法使い』を生む。我らはそう解釈しておる」

――絶望。

――こんな世界、こんな連中、みんな、みんな、消えてしまえばいい!

レンが険しい表情で自らの腕をぎゅっと掴んだ。それを横目に、カエルは続けた。

「我ら移ろわぬ者とて、親しい者の死は良い気分はせぬ。だが、共に在る人間の悲しみはもっと深かろう。二人目は愛しい者を奪った世界を憎み、呪った故にファウストに付け入られ、奴から灰の魔法を受け取り、その身に宿した。或いは彼女の死も、奴の計画かもしれぬ。レンの辛い過去も、もしかするとな」

「…………」

「それでも二人目は使わんかった。それはあ奴の性格も有ろうし、女王やディルク、グラスワンドの小僧を始め、偉大なる我らが傍に居たからだ。のう、イレーネ?」

「はい。ディルク様やレン様は、本当に親しいご友人でした。一人を失うことは、世界を失うも同然だったあの方の心を、孤独にしなかった……だから、あの方は再び世界を愛し、守って下さいました」

「ファウストも……そうだったのでしょうか……?」

恐怖に複雑な思慕が混じるレンの声に、イレーネはそっと首を振った。

「ノーラも言った通り……ファウストの起源を私たちは存じません……ですが、あの者もまた、辛い出来事から誕生したのではと女王様は仰っていました。そうでなければ、あれほど、世界を呪うことはできないだろうと……」

「甘いのだ、我が女王は。二人目が犠牲となった際、あんなにも泣いておったのに」

カエルの呟きは、女王をそしるよりは人となりを尊敬するように聞こえた。

「ノーラ様……あなた方が危惧なさるのは、女王様が所持なさっていた本に、『灰の魔法』が書かれたものが有るということですね」

レンの声に、ノーラは頷いた。

「そういうことだ」

「ち、ちょっと待って、僕はもうちんぷんかんぷんになってきた……」

「なんだ、ロニ。我らがこんなにもわかりやすく話してやっておるのに」

ぷうと風船ガムの様に水泡を膨らませるカエルに、ロニは肩をすくめて答えた。

「ご、ごめんよ、ノーラ……でもさ、本にそんな魔法が書かれていたら、危なくてしょうがないよ。今も何処かで、誰かが捨てて燃やしちゃったりしたら、『灰の魔法』が使われてしまうんじゃないの……?」

「本当にちんぷんかんぷんか、お前は。それは無い。話を聞いておればわかる」

あっさり答えたカエルは、水泡をロニの顔面にパンとぶつけて言った。情けない悲鳴を上げる男に、機嫌良さそうに言った。

「まあ、着眼点は良い。イレーネ、説明してやれ」

「ロニ様、理論上、魔法を行使する為に必要なものは主に二つです。一つは、魔法そのものを起こすための式。魔法書グリモワールであったり、呪文、陣形など様々です。そしてもう一つは、その魔法を起こす為に必要な量の魔力です」

これには、頭の巡りが悪い男も口を開けて納得した。

「そ、そうか……世界を滅ぼすぐらいの魔法なんて、本を燃やすだけじゃ起きないのか……」

「そうだ。そしてお前たちは、自分たちで持って来た情報を忘れておるぞ。その本、予想通りの代物しろものならば、レンが燃やす他ない。恐らく、普通の炎では燃えん。魔法の炎で燃やす行為が、『灰の魔法』を読むように引き継がれるのだろう」

「……そうなったら、私も……ファウストと同じものになるのですね……」

自嘲気味な苦笑がこぼれる。その様子を難しい顔で煙草を咥えた親友と見てから、ロニはイレーネに振り返った。

「カンデラさんのお墓は……この家の何処に在るんですか?」

「庭の真下――かなり深い地中です」

「え……う、ウチの庭の地下?」

もう何を聞いても驚かないと思ったが、衝撃はまだ出尽くさないらしい。

「正確には、人間が使うような地下墓地ではありません。かつて、ディルク様がベルティナ王都に張っていた根の魔法に付随する形で――……」

「ご、ごめん、イレーネ……要点だけ教えてくれない?」

頭を押さえて拝むように頼んだロニに、イレーネはうっかりしたといった様子で片手を口元にやった。

「あ、すみません。ええと……人間が行けるような階段や梯子は有りません。カンデラの復活と共に、彼女の依り代である球根が芽吹く予定でしたから、埋めてあるだけです。本は彼女に必要なものではありませんから、あくまで女王がなぐさみとして傍に。彼女がそれを持って出てくるかもわかりません」

「カンデラさんの復活までは、どのくらいなの?」

「まだ、ずいぶん先だと思います。皆さまがご存命の内に叶うかどうか……」

「だったら、埋めたまんまの方が安全なんじゃないか? その本をミスター・カンデラが燃やさなけりゃ、一応は『灰の魔法使い』にならんで済むんだろ?」

親友の言葉に、ロニが全くその通りだと思っていると、イレーネが沈痛な面持ちでノーラと顔を見合わせてから首を振った。

「……私もそう思うのですが……ファウストが大胆な手段に出ないとは限りません。それに――」

「私も、そう思います」

イレーネの言葉を遮るように、どこか硬い口調でレンが続けた。

「総統府が一夜で消えたのが、此処にあるマギアの仕業だったとしても、ファウストの傍にそういう力の者が居ないとは言い切れない。可能な限り、確保した方が良いと思います」

「まあ……俺もロニの家がそっくり無くなっちまうのは困る。タダ飯食える場所が減るからな」

家主がじろりと見たが、親友は涼しい顔で無視した。

「と、なると、直近の問題は本をどう掘り返すかだ。業者に頼むこともできるが、それだけ深いと幾ら取られるかわからんな。イレーネ嬢やカエル王は、その墓まで行けないのか?」

「私は……ディルク様が居ない今、あの距離は時間を要します……三、四日は掛かるかもしれません」

申し訳なさそうに言う乙女に続き、カエルの方は頬杖ついて片手を挙げた。

「行けんこともないが、正確な場所がわからん。カンデラの魔力が回復しておれば多少なりと見当も付こうが、今は捕捉できん。構わず地下水脈を吹き上げても良ければやってやろう」

「絶対やめて!」

家の中に噴水が噴き出る様を想像したロニが腰を浮かせながら悲鳴を上げる中、イレーネが頷いた。

「魔法書とはいえ本は本ですから、水に濡れるのはあまり宜しくないと思います」

彼女の冷静な回答に、ロニは冷や汗を拭いながら、ちらとレンの本を見た。同じ魔法書であるアルス・ノトリアが水責めに遭ったのは、それが都合が悪いからだろう。

「家に水が噴き出るのは困るけど……その本を使えなくできるなら、その方がいいのかな?」

燃やすのがダメなら、水に沈めるとか、と――仮にも本を大事に扱う図書館勤めが放つパワーワードに、カエルがニタニタ笑った。

「お前の短絡思考は愉快で好きだぞ。魔法の炎で燃やす他ない本に、水がどれだけ有効かはわからんがな」

「じゃあ、バラバラに切り刻むとか」

「ほっほう~……大胆な意見だ。試しても良いが、壊れても良い刃物を使え」

「ノーラ、ロニ様をからかうのはおやめなさい」

イレーネのたしなめる言葉に続けて、マイルズがロニを肘で小突いた。

「親友よ、俺もお前の意見が通れば何よりだが、世界を滅ぼす魔法が書かれた本が、そう簡単に消えてなくなると思うか? 普通の本なら、土に長年埋めたらぼろぼろになっちまうが、そうなる可能性も無さそうだ」

「それはそうだけど……本が有ったままだと、レンさんが困るじゃないか……」

遠慮がちな一言に、名前を呼ばれた当事者が困った様に微笑んだ。

「お気を遣わせて、申し訳ありません」

「あ、いえ……気を遣うとかじゃなく……」

何故かばつが悪そうに頭を搔くと、ロニは「ちょっと甘いものでも持ってくるよ」と立ち上がって出て行った。

その背を見送ると、当たり前のように煙草に火を点けた親友が、紫煙をくゆらせて溜息を吐いた。

「……さて、皆の衆。あいつはバカじゃないんだが、一本気なもんで気付いてない様だ。来ない内に聞いておくが、その本は完品で”要る”んだろ?」

「ミスター・ブライス……貴方は賢い御方ですね」

「あんたも、気の毒な賢人だ。”そういう”察しが良いのは、感心しないぜ」

煙草で示す男に、レンは煙を見つめながらやんわりと苦笑した。その灰色の眼は、黙しているカエルと乙女に向いた。

「私は、その書を燃やし、『灰の魔法使い』に成る必要が有る。――そうですね? ノーラ様、イレーネ様?」

ノーラはどっしり胡坐をかいて腕組みし、イレーネは両の手を膝に揃えて俯いた。

「結論を急ぐな、小童共。ファウストがレンを『灰の魔法使い』にしようとしているのは違いあるまいが、成らなかった場合の行動が見えぬ。今世の奴に、旧時代程の力が無ければ、前回と同じ方法を取る必要は無いであろ?」

「ノーラが言う通りです。私たちは万一の為にファウストの脅威を語りましたが、それはあくまで過去のこと。ノトリアの件を含め、最悪の事態のみを想定なさらずとも宜しいかと」

二人の言葉に、レンが何か言うより早く、マイルズが二本目の煙草に火を点けた。

「……俺もお二方に同意したいんだがな、その――ファウストが何をしようとしてるかって辺りに嫌な予感がしてるんだ」

「ほう? 憶測あらば申してみよ」

「逆に聞きたいんだ、カエル王サマ。旧時代のファウストを女王が倒そうと動いたのは、姉妹が『大喰らいのマギア』に憑かれて魔女になっちまったからだろ? 身内が手当たり次第に人間を食っちまったら、そりゃあ退治しなけりゃなるまいし、そんなもんを飼ってるイカレた魔法使いをブタ箱か地獄にぶち込むしかないのはわかる。帝国時代の行動が、ミスター・カンデラ――いや、レンを『灰の魔法使い』にする布石なのも納得がいく……だが、今世は本を喰うペットをレンに預けて……奴自身は何をしてるんだと思う? 俺が知る限り、チェスター神父としての奴は教会の業務をせっせとやりながら、本を集めちゃあ寄付してるだけだぞ。修道女が消えたとか、信者がおかしな行動に走ったとか、それこそバケモノが出たなんて話も無い。せいぜい、何も無い部屋から声を聴いたとか、火の玉を見たって言うオカルトぐらいだ。もし、力が無くて人任せにしてるんならともかく……これまでやってきた悪行に比べて大人しすぎる。おとぎ話の魔女みたいに水晶玉でこっちの様子を見て面白がってんなら別だが、気味が悪くないか?」

「ふうむ……お前の考えは筋が通る」

顎を撫でた拍子にズレた王冠を直し、カエルは改めて腕組みした。

「旧時代のファウストも、例の『火種』であり蝋燭である化け物と似たものを多く作っておった。ああいうものをどこぞで作っておるにしろ、閉じ込めておくにはそれ相応の設備が要るな。私としては本集めの方が気に掛かる。レンに焼かせる本を探しているだけならば良いが……魔法書を集めておると厄介だ」

「例の病院といい、何かしらコソコソやっていそうだな……」

重苦し気に紫煙を吐くと、マイルズは携帯灰皿で煙草を揉み消した。

「ロニが戻る前に言っとくが、いざ戦うことになっちまったら、俺らは何の役にも立たんぜ。あいつは乗りかかった船に乗るだろうが、見ての通りの空回りするだけのお人好しだ。――わかってるだろうが、この国の殆どの人間は魔法を信じないし、司祭だの宮廷何たらだのは本当に魔法に精通してるのかもわからん。お偉方ってのは一般人の呼びかけにその場で応じるほど寛大でもない――どうせ、何日後、何カ月後かに予約を入れろとか、要らん会議をした挙句、予算がどうとか言い出すだろう。魔法やバケモノ相手には、あんたらに頼る他ないと思う」

「……私なら、覚悟はできています」

決意するには重すぎる内容を物静かに述べたレンを、イレーネが心配そうな目で見た。

「力及ばぬこと、申し訳ありません……」

頭を垂れる乙女に、レンは首を振った。

「いいえ……もう、十分に良くして頂いています。あなた方にお会いしなかったら、きっと何も知らぬまま、『灰の魔法使い』にさせられていたと思います。……同じ一矢報いるならば、あなた方の為と想うことができる方がいい」

「結論は急ぐな、レン。現状の整理は付いておらぬ。奴の真意を知ってからでも遅くはない」

「ありがとうございます、ノーラ様。……しかし、当時の戦力でも、ファウストを倒す方法は、灰の魔法を使う他なかったのでしょう?」

「その通りだが、私は自身を軽んじるなと言っている。お前がそう成ったとて、奴とて経験したことだ……同じ手に乗るほど甘くはなかろう」

「しかし……」

「良いか――お前はノトリアの呪いの所為で人の域を超えたが、まだ人間だ。ロニがお前を助けようとした気持ちを裏切るは、人が行くべき道に反するぞ。『灰の魔法使い』になることは未知の闇に入るも同然。踏み外せば、今のお前が抱く気持ちさえ、自身を裏切るやもしれぬ」

カエル王の厳しい口調に、レンは灰に染まった目を瞬きつつも、そっと頷いた。イレーネが膝に乗せた繊手で、エプロンドレスのスカートをきゅっと掴んで言った。

「ノーラ、古い馴染みに声を掛けてみるのは如何でしょう……? 当時の皆様に恩有る者も居ますから、もしかしたら……」

「イレーネよ、お前の気持ちはわかるが、契約まで行かずとも、約束が無くば難しかろう。あの時も、我が女王が報酬を支払った者、交換条件や利害の一致で動いた者は多い。強者であるほど扱い辛いのは、我らの馴染みも同じ。こちらに顕現したいが為に、ロニ達に不利な契約を迫るなどの更なる厄介事を持ち込まれては事だ」

「……それは……そうですが、でも――……」

「おっと、イレーネ嬢、そこで終いだ。うるさいのが戻ってきた」

戻って来た”うるさいの”は、扉を開けるや、「あっ!」と叫び、クッキーを乗せた盆を取り落としそうになりながら湖水のような目を剥いた。

「こらっ! マイルズ! 此処で煙草はやめろっていつも言ってるだろ!」

「本当にうるさいヤツだ。俺が吸った証拠があるのかね?」

「お前以外居ないっ!」

口の減らない男を怒鳴りつけながら座った拍子に、ロニのポケットから何かがころりと転がり出た。慌てて拾おうとした青年の手前、びゅんと伸びて来たのはカエルの舌だ。ストロープワッフルの時のように目に留まらぬ速さで丸いものを吸いつけると、口の中に――行く前に、手の中に落としてしげしげと眺めた。

「ノ、ノーラ、それは食べちゃダメだよ……!」

つい、本物のカエルに対するように言う青年に、カエルならぬ水妖は鼻を鳴らした。

「たわけ、誰が食うか。これは――ドリュアスに貰った物か?」

狼狽えたままのロニが頷くと、カエルはイレーネの方に手渡した。

「イレーネ、見てやれ。例の本の件、こやつの力が借りられるかもしれぬ」

「ロニ様、拝見いたします」

彼女は両の手で丁寧に受け取り、仔細に眺め始めた。親指の爪ほどの丸いそれはくすんだ赤茶色で、胡桃よりも細かくごつごつした表面の不思議な形をしていた。

「これは……種ではなく、実ですね。中に種が入っていますが」

「実? こんなの見たことないけど……別の世界の植物?」

「いいえ。この辺りでは見かけませんが、これはこちらにも有る樹木……ルドラクシャの実です」

「ルドラクシャ?」

イレーネは頷きながら、木の実を回しながら見つめ、何かを読んでいるようだった。

「恐らく、それが彼女の真名まことなだと思います」

再びちんぷんかんぷんに陥ったロニは返された実を受け取ったが、眺めても文字らしきものは何も見えない。

「真名って……あの子はドリュアスじゃないの?」

「ドリュアスは種族名です。ウンディーネやシルフなどと同じで――」

乙女は言い掛けたが、パンクしそうな顔を見て口をつぐむと、改めて言った。

「普通、こうしたものは真名を伝えてから渡すものですが、これは彼女がロニ様と契約を結んだ証です」

「それは、彼女が僕に力を貸してくれるってこと……?」

「はい。その実は、こちらの世界と彼女の世界とを繋ぐ扉の鍵です。私が押し花を鍵にこちらに顕現している様に、貴方様がそれを使うことで、彼女をこちらに呼ぶことができます」

「つ、使う? 植えればいいの?」

狼狽えるあまり、素朴なことをのたまった男に一同が思い思いに吹き出し、カエルと親友に至ってはひっくり返って笑い出した。

「お、おい! 笑い過ぎだぞ!」

「わはは、しょうがないだろ。全く、お前は面白い親友だよ」

「うう……じゃあ、どうするんだよ? マイルズはわかるのか?」

「さあてね。俺も魔法はサッパリだが、使えんものを渡す程、野暮じゃないだろうよ。お前が受け継いでる、水の魔力とやらで何とかなるんじゃないか?」

回答を求める湖水のような目が、腹を抱えていた水妖にサッと向いた。カエルは人のベッドに大の字になって笑っていたが、ひょいと起き上がって王冠を直した。

「フフフ、マイルズは魔力はスカだが察しは良い。どのみち、明るい場所の方が良い。朝を待つが良かろう」

「此処では出来ないの?」

「お前の部屋に木が生えても構わんのならやれんこともない」

「……やめておく……」

再び苦言を呈したロニだが、ふと、表情を曇らせているイレーネを見つめた。

「イレーネ、どうかした?」

「……いいえ、何でも有りません。私も、お茶を淹れ直して参ります」

スッと立ち上がった乙女はポットを手に、声を掛ける間もなく出て行った。




 「あ、イレーネさん」

階段を下った廊下で鉢合わせた娘に、乙女はメイドの格好がぴったりのお辞儀をしてから微笑んだ。

「リシェ様」

「兄さんたち、まだ喋ってるの? そろそろお風呂に入って休まなくちゃ」

既に湯を使ったらしい娘は寝間着を纏い、肩に届く髪をゆるくまとめていた。

「カエルさんも入るのかしら?」

「ふふ、ロニ様となら入るかもしれません。もうじき、お話も済むかと思います。遅くなりまして申し訳ございません」

「あら……いいのよ。兄さんがマイルズと夜な夜な喋っているのはよくあることだもの。ウチは親戚なんかも来ることが多いから、両親も慣れっこよ」

そう言いつつ、リシェは片手を添えて小声で話し掛けた。

「ねえ、兄さんが連れて来たお客様のお部屋を用意したのだけど……足が悪いのよね……? 普通のベッドで大丈夫かしら?」

「……レン様ですね? 大丈夫だと思いますが、何かございましたら私が対処致しましょう。リシェ様は先にお休みくださいませ」

「うん……」

何か気になることでもあるのか、リシェは階段を見上げてから小声で言った。

「イレーネさん、ちょっと話があるの。すぐに済むから」

言いながらリシェが乙女の手を引いたのは、先日、ロニがぼんやりしていた店内だ。毎日、店じまいすると整然と片付けられた空間はひっそりと静まり返り、微かに花の香りがする。店の隅の長椅子に並んで腰掛けると、リシェはそっと切り出した。

「さっき、下りて来た兄さんに、チェスター神父のことを聞いたの……急に真剣な顔で教会に行かない方が良いとか言うから、何事かと思ったわ。なんだか魔法使いとか帝国総統とか……ちんぷんかんぷん。本当なの?」

よく似た兄妹にくすりと微笑み、イレーネは静かに頷いた。

「会わずして確証は得られませんが、ほぼ、間違いないかと。当時のような危険な力は感じませんが……ファウストは油断できるような者ではありません」

乙女の意見は素直に聞けるらしく、娘は難しい顔で頷きながら店内を眺めた。

「穏やかで優しい神父様が、本当は恐ろしい魔法使いなんて……信じられないわ……兄さんの気がヘンになっちゃったっていう方が信憑性があるわよ」

「リシェ様……本当に信じられるものは、笑顔が上手い御方よりも、本心を隠せない御方です。温かく優しい言葉ばかりが、その人を想うとは限りません」

「本心を隠せない、か……――うん……そうね……兄さんは昔から隠し事は苦手よ」

娘が頷くと、イレーネもほっとしたような顔をした。

「お二人は、ディルク様より聞き分けが宜しくて助かります」

「イレーネさんを困らせるなんて、困ったご先祖様だったのねえ」

柔らかな笑い声が響くと、店内には小花が花開くような空気が満ちた。どこかで、あの口の悪い先祖がくしゃみをしている気がした。

「明日、どうなさるのですか?」

「明日はもともと、チェスター神父は休みだから行こうと思ってるの」

「大丈夫でしょうか」

「だと思うけど。いつもはお勤めが無くても教会に居たり、出掛けてもすぐに戻って来るけど……明日は隣町に出掛けるって仰ってたわ」

「隣町に……?」

「今、隣町で映画の撮影をしているの。この町の端の豪邸に住んでる、テオドラって女優が出てるんだけどね、彼女は寄付金を募るチャリティーイベントなんかもよくやってくれるから、教会と縁が有るのよ。何かまた新しいことの打ち合わせに行くんじゃないかしら?」

リシェの話に頷きながら、イレーネは薄紫色の瞳を店内に据え、静かに呟いた。

「リシェ様、教会を問わず……しばらく私を行く先々にお連れ下さいませんか?」

「えっ……ど、どうして?」

「チェスター神父の身辺を調べたいというのもありますが……リシェ様が心配です」

「イレーネさんまで……? これまで、何とも無かったわよ……?」

「ええ……私がお傍に居ることで、むしろ気を引いてはと思っていましたが、彼がファウストならば、ソルベットの名を知らぬ筈が有りませんし、リシェ様にもディルク様の魔力の一端は引き継がれています。魔法を使う程ではないとわかっているが為に見逃している可能性は有りますが……それはあの男らしくない行動です」

優しい乙女の雰囲気にひやりとする棘を感じ、リシェは微かに息を呑んだ。

「私も危ないってことは、ファウストって人はソルベット家を恨んでるの?」

「少なくとも、ディルク様のことは快く思っていないでしょう。旧時代、彼の計画が失敗したのは、ディルク様やレン様が居たから……」

「レン……?」

「あ、すみません……同じお名前なので――今のはグラスワンド卿のことです」

「ああ、本で見たことあるわ。格好は物々しいけど、背が高くて、渋くて、素敵な人よね」

「そ、そうですね……」

何故か狼狽えた様子で言うと、乙女は無意味にせかせかとスカートを払ってから言った。

「と、とにかく油断は禁物です。自らが撒いた種にロニ様が関わっていることぐらい、とうに知っていると思います。その上で行動を起こすとしたら……女王様の姉妹のような、嫌な予感をせずにはいられません……」

「それ、『女王と魔女』の話ね。子供の頃、兄さんがよく読んでいたっけ……実話だとは思わなかった」

「はい……有ってはならぬ物語だと思います。後世の皆様には幾らか耳障りの良いお話に仕立ててあるようでした。あのような旧時代の物語は、他にも有るのですか?」

「うん。兄さんに聞いたら喜んで教えてくれるわ。グラスワンド卿の話も有ったと思う」

ぱっと顔を赤くした乙女が、小さく笑うリシェから顔をそむけた。

「……からかわないで下さいませ」

「ごめんなさい。恋する乙女って感じが可愛くて」

「恋……ディルク様にも言われましたが、これは恋なのでしょうか。私の感情は、人ほど匠ではありませんから、よくわかりません……ただ、レン様が当家にお越し頂く度、私の料理を所望され、沢山召し上がられるのを見ていると、心が温かくなるようでした。あの方もあまり感情を表に出されない方でしたが……『美味い』と仰る時の笑顔は、なんだか胸が一杯になります」

「わっ、それはもう恋に違いないわ。グラスワンド卿ってお堅いイメージだったけど、実は罪深い食いしん坊だったのね。ちょっと親近感が湧いちゃう」

さして歴史に詳しくない者でも、グラスワンド卿と言えば質実剛健と名高い戦士の中の戦士だ。確か、生涯独身とされているが、その理由はこの乙女なのだろうか。どうやらロマンはハンサムと謳われた先祖ではなく、忠実な花の方に有ったらしい。

「グラスワンド卿といえば……図書館に等身大の像が有ったはず。見なかった?」

「いえ……先日は急いでいましたので」

「もう、兄さんもマイルズも気が利かないわね。明日、お勤めが終わったら行きましょうよ。これでも私、館長のマダム・フリーゼとは親しいの。何か彼の資料を見せて貰えるかも」

危険な魔法使いの話を聞いて尚、明るい娘にイレーネは微笑んだ。

「ありがとうございます。リシェ様が行きたい場所にお供します」

「ンー……私がって言うより……イレーネさんも自分のことを考えてね」

「私のこと……ですか」

「そうよ。せっかく懐かしい場所に来たんでしょう? カエルさんは楽しそうだし、貴女もやりたいことがあったらした方がいいわ。兄さんは魔法使いじゃない、単なる新米司書なんだし、無理に付き合わなくてもいいのよ」

ロニとよく似たことを更に踏み込んで言う娘に、乙女はぺこりと頭を下げた。

「私は……ディルク様の子孫であられるお二人が、優しく健やかであるのを何より嬉しく思います。縁あるこの場所に舞い戻れたことだけでも幸せですが……の人の面影を見に行くこと、お許し頂ければ幸いです」

リシェはにっこり笑うと、両手で乙女の手を取った。

「もちろんよ。行きましょ。……その為にも、呑気な人たちをお風呂に突っ込んで、ベッドに放り込まなくちゃ」

荒っぽい言い回しにかつての主の面影を見つつ、イレーネは微笑んだ。

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