8.火

 「あら、神父様」

夕暮れ時に通された男を見て、長椅子にもたれた女主人は「いらっしゃいませ」と含み笑いと共に滑らかに言った。ベージュ系の張りのある肌に亜麻色のウェーブがかった髪、知性を感じさせるブルーグレーの目をした人気女優テオドラ・カノンは、四十路を迎えているにも関わらず若々しい美貌を微笑ませた。

一方、通された神父も白金髪に金目のたいそう美しい男だった。白の司祭服を纏い、同色のケープと金刺繍の入ったストラを身に着けている。

「夜にお見えになるのは珍しいわね。お勤めの格好のままでどうなさいましたの?」

飲んでいたワインのグラスを傾けて訊ねる女に、神父はにこりと微笑んだ。

「夜分に押しかけてすみません、レディ・カノン」

「ま……他人行儀ね。テオドラでいいわ」

女の視線に、男はごく自然にその隣に腰掛けた。

「では、私もチェスターで」

膝と膝、肩と肩触れ合う距離に、女はクスクスと笑った。

「悪い聖職者様ねえ」

「貴女は名女優ですから。日中はお忙しいでしょう」

「わざと話を逸らしてるの?」

男は笑顔のまま、双肩を軽く上下させた。女は呆れた流し目をしたが、立ち上がってグラスを一つ取って来た。長く細いステムが優雅な印象のグラスに、今しがた自身が傾けていたワインと同じものを注いだ。落ち着いた灯りの室内で、その色は赤には見えない。ただ、ひときわ濃かった。

「ありがとう」

神父は美しい所作でグラスを掲げると、ひと口含んだ。

「私が忙しいのは間違いないけれど、貴方はどうなの?」

「貴女に比べたら、呑気なものですよ」

「ま、そうね……今は隣町で撮影も有るし、他の予定も詰まっているわ」

「ご活躍なさっていて何よりです」

「そんなおべっかを言う為に来たんじゃないでしょう?」

男の手に女の手が絡み、目は舐めるように妖しい。男は和やかな金色で見下ろしたが、薄笑いを含んだまま、すっと逸らした。

「頼みたいことが有るんだ」

明快に態度が変わった男を、女の熱の有る視線が仰いだ。

「何かしら」

「また、ファンとの交流会を開いてくれないかな」

「急ね」

「すまない」

「いいわ。私は何が貰えるの?」

「いつも通り、君が欲しいものを滞りなく用意しよう」

「悪い神父様ですこと」

そう言う女の笑みは、艶やかでありながら毒花の色を持つ。男の腕へとしなだれかかり、ルージュを綻ばせた。

「嬉しいわ……女に生まれて、これほど嬉しいことがある? 女優にとって、成功と美は一体。私が美しい程にファンが増え、ファンが増える程に私は美しくなる……なんて素晴らしい関係なのかしら」

「当然だ。君は努力も惜しまず、準備は怠らない」

「ええ、顔だけでうまく行くほど、この世界は甘くはないわ。私は完璧で居続ける為に、磨けるものは何でも磨く」

強い口調で言うテオドラの人気を支えるのは、彼女の生き方にも有る。

若い頃から、持って生まれたものに安住しなかったテオドラは、自らを磨き、鍛える努力を続けて来た。華やかだが、それはあくまで表だけなのが芸能の世界でもある。

売れるまでの数年はウェイトレスなどの副業をし、同時にボイストレーニングにダンス、筋力の為の運動もこなしてきた。売れて以降の過密スケジュールでもこれらは怠らず、更に対人関係の為のマナーや語学を学び、何かと不摂生になりがちな生活では節度を保つ――タフな美しさは、男を魅了するのみならず、女たちの憧れだ。

しかし、押しも押されぬ女優となった今……唯一、失われていくのが”若さ”だ。

高価な化粧品でも、高価な食品や医療技術でも、出来ることには限界がある。金も地位も得た今、老いと病こそが最大の敵だ。病はどんなに清い生活をしていようとも思いもよらぬ方法で蝕んでくるし、人間である以上、老いから逃げられる者は誰も居ない。どんなに可愛い顔の娘も、やがては老婆に成り下がる。

――テオドラ以外は。

「チェスター、私は今後も最高の女優で在り続けるわ。あと数年もしたら……今度は別人に”生まれ変わる”の。そして再び、歴史を作る……”貴方の為の”ファンも沢山作ってあげるわ。この次の人生も、一緒に生きましょうね?」

うっとりと野望を語る女の目を見下ろし、男は薄ら笑った。

「そうだね。ありがとう、テオドラ」

微笑み返した女と互いにグラスを傾けると、男は物静かに言った。

「もう一つ、いいかな」

「言ってみて」

「本を見にいきたいんだが」

「なんだ、そんなこと。あれは貴方のもの同然でしょう。どうぞお好きに」

許された神父は立ち上がると、書庫に向かった。

書庫といっても、普通の部屋に本棚を壁いっぱいに設置しただけの部屋だ。洒落た格子のガラス窓が並ぶ中、小さな灯りを手に、男が入るや――静まり返っていた室内が、騒然とした。棚に収められた本の内、幾つかがゴトゴトと動き始める。

〈奴だ〉

〈奴が来た……〉

〈怖い……怖い……〉

〈帰れ……帰れ……‼〉

呻き声を上げる本の中を、神父は薄笑いを浮かべて歩いていく。

「臆病者が多いな。誰か、私を倒そうとする者は居ないのかい?」

その声は穏やかだったが、神父と呼ぶには尊大だった。

挑発に応える者は居ない。ひそひそと囁き合う声らしきものが響くが、名乗りを上げる者は出なかった。

「お前たちの中には……『灰』を知る者も居ないのか?」

本は答えない。むしろ、耳鳴りがするほど静かになった。恐ろしい者の名を聞いた様に、その場の全てが息を潜めた。

「全く、君たちは役に立たない遺物だね。かつて人々を支配し、抑圧した知識と教養も、記録のみの存在だ」

〈不敬な『灰』め……!〉

唸るような声に、神父は振り向いた。侮辱に耐えかねたらしいそれは、重厚感のある一冊だ。

「君は、他の者より勇敢の様だ。勇気が有る者は好きだよ。屈服させる楽しさがあるもの」

仮に本が何者かの姿をしていたら、怒りに震えていただろう。その声は、男とも女ともつかないが、歳を重ねた低い声で途切れながら綴った。

〈我らは不滅である――文字は悠久である――語り伝える者を失っても、記録は永遠である……『灰』の恐ろしさ……繰り返してはならない歴史……後世に残さねば、残さねば……残さねば――〉

「やれやれ、健気というか……往生際が悪いというか。どうもくたばり損ないの年寄りの印象だな」

ひょいと本を取り出した神父は、地鳴りのような声のするそれをやんわり撫でた。

「あなた方は、もう随分語ったろう。後世の者たちが、自分たちの利益や遊楽しか興味がないと知りつつも、辛抱強く語ったのを私は知っている。過去を振り返るよりも未来を見たい若者に、声が届くのが稀であるとしてもね……」

囁くのは、慈悲の皮を被った絶望だ。臆し、黙す本に尚、告げる。

「世は再び、混迷を極める。本当に人間というものは、短命に相応しいだけの思慮しか持たないんだもの。『灰』を知り、賢くなった筈の人間が死に絶えたら、学ぶことさえ、あっさりやめてしまった。どうして自ら過ちを犯しながら、平和が続くと思うんだろうね?」

男の金目が、鈍い色に霞む。

「残された知識もこの通り……古いあなた方は捨てられた故に此処に居るんだ。暗い書棚に収まって、来る日も来る日も……重苦しい警告を温めていたけれど、あなた方の言葉を読んでくれる者は現れそうかい? 女王の頃のような、英雄は見当たらないが――」

本は如何な感情にか、震えた。戦乱を耐え、存在し続けて尚、誰も開かぬままの本。

もっと大事なものがあると言う人々に、選ばれず、読み継がれなかった言葉。

彼らは本であり、文字でしかない。今、その声を聴き、本を開いて読むことができるのが、声に応えぬ者のみとは、何という皮肉だろう。

〈我らは不滅である――文字は悠久である――語り伝える者を失っても、記録は永遠である……英雄の魂は、必ず若い世代に……――〉

悔し気に、しかし呟いた本を手に、何が可笑しいのか、神父は肩を震わせて笑んだ。

「ああ、なんて健気で悲しいんだ。あなた方の願いが此処で途絶えるなんて。間もなく、『灰』が現れる。待ち侘びた『灰』が……この煩わしき愚か者共の世界を掃き清める『灰』……! 火が導く、その先に――……」

何処の景色を見ているのか、狂喜に染まった目は金ではなかった。その目も、髪も、灰色だ。一条の光さえ届かぬ灰色を細め、神父は唐突に本を宙に放った。軽いスナップで放たれたそれは、重い身のまま落ちるより早く――あらかじめ、細かな灰で出来ていたかのように脆く崩れ去った。

「ハハ、ハハハ……なんと弱い不滅だ! 悠久、永遠……人の世に在る筈もない! 」

笑い声を立てた神父が、恐れ慄く書棚を振り返る。

「さあ、『灰』を知る者は名乗りを上げろ! 私と戦うか、その身に火を受け取るか、好きな方を選ぶがいい!」

書庫を覆う密かなざわめきは、悲鳴や慟哭のようだった。

どこかの隅で、一冊が囁くような声で呟いた。

〈……あの方は……今どこに……――〉




 「おお、その通りだ。我が女王マリアンヌは火の魔力を持っていたぞ」

あろうことか、両親や妹と食卓のテーブルを和気あいあいと囲んでいたカエルは、マイルズの手でダイニングから拉致された。レンも本と蝋燭消しを手に付いてきている。当初は面倒くさそうにしていたノーラだが、女王の話と聞くと喜んで付いて来た。思えば、ロニが物語の披露に女王に纏わる話をしたのは良い選択だったようだ。

「意外だね。水妖の君と仲が良いのに」

ベッドに腰掛けたロニが首を捻ると、”仲が良い”に気を良くしたらしいノーラは隣で足をぶらぶらさせながら頷いた。

「別に、水は火の敵ではない。万物は同じ世に在る者同士、気が合わずとも互いを理解し、付き合うのが道理というもの」

カエルの為になる御言葉に頷いていると、彼は人間で云う苦笑いをしたようだった。

「何より、女王が私を訪ねたのは、火を持つが故だったのだ」

「え、女王の湖マリアンヌ・レイクの為じゃないんだ?」

「うむ。彼女はな……潤沢な魔力を持つ為か、コントロールがそれはもうヘッタクソだったのだ」

居合わせた三人の男が、揃って目を点にした。

「下手くそって……」

「レンは知っておるだろうが、火は他の属性に比べ、強く激しい性質を持つ。火として存在する限り、爪の先ほどでも火傷をするであろ? 微調整が利かぬ故、女王は姫の頃からドレスを焦げ付かせること幾数十回、庭木を焼くこと幾数十回、焼き目をちょっぴり付けようとしてパンだの肉だのを皿ごと消炭にすること幾数十回……ひどいものだった。そういえば本も大変好きだったが、本も大変焼いておる。信じられん。ただ、読んでおっただけなのだぞ?」

「それは何というか……すごく危ないね……」

驚きのあまり、とぼけた相槌を打ったロニに、ノーラは大きく頷いた。

「本は本当に好きであった。面白くて感情移入すると、やってしまうのだと。ならば本を持たなければいいと考え、眼前に吊るしてみたり、棒状のもので捲るなど試行錯誤しておった。結局、物や周囲の埃を伝わって燃やすので無駄であったが……フフフ……レンの話に置いてしまうと、我が女王も大罪人になってしまうな?」

女王マリアンヌが読書家なのは有名な話だ。ロニが勤める図書館を造ったのも彼女であり、その蔵書の中には女王が所持していたものも多数、存在する。

「ま、まさか……王宮パレスが女王の湖に浮かんでいたのって……」

「女王のミスで燃えた時の為だ」

唖然とした。真下に水があれば、火が出ても速やかに消火できるし、最悪、燃えるのは王宮だけ。おとぎ話に登場する幻想的な建物に、そんな事情があろうとは。

「無論、あれを造った頃には戦争による被害も視野に入れていた。火は性質も含め、才能ある者が少ないが為に人間社会では研究が進んでおらん様だ。結局、我が女王も使うとなれば前方をド派手に吹っ飛ばすぐらいしかできなかった。この私に万が一の際の消火役になってほしいと頼みに来て、何がそんなに危ないのか見せろと言ったら、近くの風車小屋を全焼させおった。アレだぞ、手前に生えとった邪魔な樹を狙ったくせに、大砲でも食らったようにもろとも吹っ飛ばす威力だった。女王も焦っとったが、私も焦った……あんなものを見せられたら、引き受けざるを得ない」

被害の程は甚大のようだが、楽しい思い出らしく、ノーラは笑った。

風車小屋とは、イレーネがノーラの居場所として最初に案内した所だろう。燃えた様子はなかったので、女王はきちんと再建したようだ。ちょっとのつもりが丸ごと吹っ飛ばしてしまった女王の焦る姿や、慌てて放水するカエルが見えるようで、ロニは微笑した。英傑と詠われた女王の意外な一面を暴露したカエルは、レンに振り向いた。

「お前はどうだ」

問われた彼は頷いた。

「似たようなものです。片手に灯すのが限界ですね……それ以下にしようとすると、飛び散ったり、炎が上に長く伸びてしまいます」

「ジッポーには不向きだな」

残念そうなマイルズをよそに、ノーラは頷いた。

「良い方だ。先祖よりマシだ」

唐突な発言に、わかっていても三人は驚いた。

「先祖って――ノーラ、気付いてたの……?」

「無論。我らは容姿よりもまず魔力を見てしまう。会ったときにわかったぞ、レン。お前には我が女王と同じ魔力が継承されている」

「私が……」

そんな筈はないと言いたげな顔に、カエルはどっしり座って言った。

「魔力も私も嘘は吐かぬ。マリアンヌに子は二人居た。どちらも賢い子だったが、あの姉妹同様、賢い故に色々有った……私は彼ら以降の子孫と付き合いはない。ディルクが魔法を継承せず、『花園の魔法使い』を自分で終わりにすると言ったとき、私も人との関りは頃合いだと思った。女王は戦いの後も茶飲み感覚で私の元に来たが、彼女が歳を重ねて亡くなる頃には、やって来るのは力を求める者ばかり。女王は遺言だの何だの、死の準備を整えていたが、守られたかどうか――……お前が言う通り、何代か後には王国の腐敗が進んだ故、王族からも認知されぬ子が誕生していてもおかしくはない」

黙したレンを、ロニは気の毒そうに見た。

そう、見れば見る程、この青年は何処か品があるのだ。この国で最も高位の血統でありながら、不誠実の子故に捨て置かれたか、王位継承のいざこざで家を追われたか……どのみち、当時の王政は滅んで然るべきだったのかもしれない。

「ファウストも……気付いていたのでしょうか?」

顔を上げたレンに、ノーラは頷いた。

「有り得る。マリアンヌもそうだが、過去、ファウストを退けてきた中心人物は、皆が火に関わりあったそうだ。奴は火を持つ相手にこだわり、執着する。自ら破滅を呼び込むに等しいが、奴にとって滅びを見るは望むところ。危険と知りながら、火遊びをやめられぬ子供と一緒だ」

火に、執着。レンは背筋が冷えた。

――君の魔力は実に良い……

酔いしれるように言った言葉が、耳朶にねっとり絡みついているようだ。

一度触れ合うと、征服せんばかりに執拗に肌擦り合わせて来たのを思い出し、レンは口元を覆った。それを不安げに見守りながら、ロニはノーラを見下ろした。

「マイルズが言った事、どう思う?」

「面白い推測だ。理屈も通る」

「だろ? 教会は奴の条件に合ってる」

彼がポケットから出していた写真や手書きの資料は、女優テオドラ・カノンの家――かつて帝国総統だった頃のファウストが住んでいた家だ。

同僚の記者に、「大女優の優雅な暮らし」と銘打って記事を書かないかと持ち掛け、テオドラの大ファンであるキャロルを同行させ、失礼の無いように、それでいて撮影不能なところまで、その恐るべきオタク魂の集中力で”記憶”させたのだ。

「この家はあんまり立派な豪邸だったから、壊すのも一苦労、かといって高額過ぎて買い手も付かないっていうんで、テオドラが買うまでは空き家だったんだと。空き家だって、維持管理には金が掛かる。だから歴史資料の扱いで、見学者から料金を取ったり、映画の撮影なんかで使って、どうにかやっていたそうだ。テオドラも撮影で見て気に入ったらしい。その掃除だの入場料や寄付金の管理をしていたのが、不動産会社とタッグを組んでいた、すぐ傍の教会ってわけだ。教会はボランティアと言いつつ、布施を期待する布教と宣伝活動、イメージアップってのもあるかもな」

言いながらマイルズが捲るメモは、チェスター神父についてだ。

この街に赴任したのは十年ほど前。白金髪に金色の目の若くて穏やかな甘いマスクはたちまち周囲を魅了したが、彼の出自は全く謎だった。確かに当初、犯罪歴があるのではと噂は立ったが、彼の素晴らしい人となりに皆疑うのをやめた。当然、テオドラが住む前の屋敷にも、堂々と立ち入っている。

「レンさんやノーラが言うファウストの外見と違うけど、魔法でどうにかなるものなの?」

「やり方は色々有る。イレーネの幻覚を見せる魔法や私が使う水による虚像以外に、実体を変化させられる者も居る。ファウストの場合は後者に近いだろうが……人間以外の形をしている姿は私は見たことが無い。自由自在とまではいかぬと思うが」

確かに、自在に姿を変えられるなら、帝国を率いる際も、神父より地位の高い人間に成りすます方が都合が良さそうな気もする。

思案顔になるロニの手前、マイルズが膝を打った。

「ま、考えてもわからんことはさて置いて、だ。――テオドラの家には地下病院なんて怪しいものがあったわけだが、こいつは設計上、壊せなかったから、リフォームしてワインセラーになってるそうだ。区画を分けて、何社かが共同で借りてるらしいぜ」

「その……地下に在った病院っていうのは何なの?」

寒気がするような顔のロニに答えたのは、こちらも渋い表情のレンだ。

「フーゴや、他の者を異形に変えた場所だと思います。ノーラ様のお言葉を借りれば、”混ぜられた”場所かと」

「ミスター・カンデラは行った事ないのか?」

「有りません。薄々、そんな場所があるのではと思っていましたが……」

ワインセラーとなった地下の写真に怪しいところは見当たらないが、それを覗き込む彼は何処か悪いかのように蒼白だった。

「ノーラ様がフーゴを『蝋燭』と表現なさいましたが、過去に私が『火種』として処理した彼らの殆どは、体に火器を植えられていました。私はずっと、呪いの類と認識していましたが、あの火器が、蝋燭における火だったんですね……」

「憶測だが、まあそうであろ。あの軍人自体、内側で火が燃えていたようだからな。普通は使わずに済む魔力・或いは生命力を燃料とし、攻撃の度に火を使い、人の身が持っていたものを使い尽くすと、火器の方が吸い上げる魔力を求めて勝手に動き始める仕組みだろう。火器の類は、喰うほどに強くなる『大喰らいのマギア』の特性を真似て作ったのやもしれんな。ファウストが考えそうなことよ」

そのマギアに喰わせる為に、魔法書の力を吸う蝋燭に人間を変える……ファウストという男は、何故それほどまでに残酷になれるのだろう。今は蝋燭消しの姿をしている『大喰らいのマギア』と、文庫程の小さな魔法書『アルス・ノトリア』をレンは振り返り、ふと首を傾げた。

「なんだか……濡れていますね?」

革張りの装丁に、茶色い革を更に濃く見せる染みがある。ノーラが世間話の調子でぼやいた。

「ああ、そうそう――貴様らが居ぬ間に、そ奴らとは少々話をさせてもらった」

「話が出来たんですか?」

「うむ。小生意気なことを言いよるから、マギアは一度イレーネが輪っかにしてやり、ノトリアは私が水桶に突っ込んだ。乾かしてやったつもりだが、まだ濡れておったか」

信じ難い荒くれ者の行動に、一同は硬直した。ノーラもノーラだが、イレーネもイレーネだ。ロニがちら、と見た蝋燭消しは変化があるようには見えない。あれを輪っかにしてから戻すとは……如何なる怪力で可能なことなのだろう?

すると、絶妙なタイミングで控えめなノックが響いた。

扉を開けると、お茶とカップが載った盆を捧げたイレーネが立っていた。

なんとなくしゃちほこばって迎え入れたロニに、彼女はきょとんとしつつも、にこやかに入って来て皆にお茶を配った。彼女の髪のように赤みがかった橙色が美しいお茶は、さわやかな渋みに仄かな花の香がした。

「少し、顔色が良くなられましたね」

イレーネに微笑まれて、レンは気恥ずかしそうに微苦笑を浮かべた。

「……お食事と、足を診て頂いたおかげです」

そういえば、とロニはイレーネを見た。勝手口から出て行く時も、レンの足取りは少し軽いように見えた。

「あの火傷、治るの?」

そうであればいいという顔に、イレーネは眩しそうに微笑んだ。

「アルス・ノトリアと話したので、『体が燃える』という条件は解除できました。本を救う行動を怠っても、レン様のお体に発火は起きません」

さて、それは本当に”話し合い”だったのかが気になるところだが、ちらと見たノーラは何故かくるりと首を回して目を逸らした。イレーネは全く気にした様子は無い。

「ですが、完全な解呪の為には、ノーラが申した『ファウストの書罪』をノトリアに認めさせる必要があります」

「認めさせる……?」

「レン様の一連の行動が、ファウストによるものだと正確に認識させるのです。ノトリアの場合、記録させるという方が正しいでしょうか。それさえ適えば、レン様は人間としての命の流れに戻ることができます」

「人間としての寿命を全うできるの……?」

使い切ってしまっているのではと不安な顔をするレンに、イレーネは首を振った。

「大丈夫です。過ぎ去ってしまった年月はノトリアが提供したものですから、レン様の時は呪いを受けた日から止まっている状態の筈です。その様に記録していますから、間違いないかと」

どうやら、この魔法書は生きた書物にふさわしく、行ったことをきちんと書き残しているらしい。それによると、自身の存在した頃の話から、レンが呪いを受けた年代や日付まで書かれている上、罪状と受けるべき罰、それに対する文句まで日記のようにつらつらと述べているという。平たく言えば、本当の罪はファウストにある、レンは被害者だとノトリアに記録させれば、その時点で呪いは解呪となり、再び、レンの止まった時間が動き出すというわけだ。

「左足に関しましては、少しだけ治癒の魔法を使わせて頂きましたが……やはり時が戻らないと効果が薄い様です。解呪の後に、お医者様にきちんと掛かれば良くなりましょう」

「そうか……じゃあ、何としても……ファウストに罪を認めさせなくちゃ」

我が事のように言うロニに、皆が少しだけ表情を和らげた。

「さてと、そんじゃ……これからどうするんだ?」

場を仕切る口調でマイルズが煙草を出したが、目にも止まらぬ早業でロニが箱ごと取り上げた。彼は肩をすくめると、ノーラとイレーネに振り返った。

「俺の推測が正しけりゃ、ファウストって野郎は何かの本を燃やしたがってる。それが燃えちまうと、なんかマズイことになるんだろ? その本に心当たりはないか?」

顎をぽんぽんやりながら考えていたカエルは、ぽんと手を打った。

「わからん」

「わからん時のリアクションじゃないと思うが、まあいいか。イレーネ嬢は?」

「そのお話に通じるかと思いますが、一つ……気になっていたことがあるのです」

思案顔の乙女がレンを見つめ、気遣うような口調で言った。

「ファウストがこの地に再び現れたということは、ある本が壊されたか、不具合が生じた状態になっている筈です」

「え、ファウストは……ご先祖様たちが倒したって言ってたよね?」

「そこから話さねばならんのか。なあんと面倒な」

ぶつくさと文句を言い始めるカエルに対し、乙女は申し訳なさそうに頷いた。

「ロニ様、ファウストはかつて、ドリュアスの世界のようなページの世界に閉じ込められ、その中で倒された筈なのです。この本は王宮パレスで大切に保管されていたと私は記憶しておりますが……王宮が機能を失っているということは……」

最初に目の合ったレンが首を振った。

「……わかりません。機能していた頃の王宮に行ったことはありませんし、ファウストは本そのものは焼く目的も含めて、多数を所持していました」

残る二人が顔を見合わせ、ロニが首を捻り、マイルズがどでかい溜息を吐いた。

「悪いが俺らも祭り上げられるような本は見たことが無い。要するに、その大事な本はどっかの阿呆が持ち出すか、売ったか、盗まれたわけか。確かに、帝国時代が始まる前の王侯貴族は物騒で、だいぶヤクザな状態だったみたいだぜ。身の危険を感じて国外逃亡する奴らも居たって言うしな」

「じゃあ……ファウストは本の中で生きていたってこと……?」

「ま、不思議ではない。奴は我らとは異なる意味で不死だ」

「では……”あの方”も共に……」

イレーネがぽつりと呟いたが、彼女は首を振って顔を上げた。

「話を戻しましょう……その本が失われているのなら、他にファウストが狙う可能性があるのは、”あの方”が書いた本ではないでしょうか」

カエルの目の色が変わった。

「あ奴が書いた本だと? 他にも有ったのか?」

「はい。当時で言えば子供向けの魔法指南書です。女王様は火の魔法のコントロールが不慣れでしたので、大人になられてからも、こっそりチェックなさっていました。勿論、”あの方”が書かれた本だからこそ、大切になさっていたと思いますが……他人に見られたら恥ずかしいからと、いつも聖書の装丁に隠されて所持なさって……」

あ、と全員が気付いた。

それが狙いか。ファウストがチェスター神父を名乗って教会に詰めていたのは。

「その魔法書は……いま何処に?」

「あれは……その――……ある者と一緒に埋葬されました」

「墓地? じゃあ、教会じゃ――」

「いいえ、教会には有りません。あれは、この家に有る筈です」

これには殆ど全員が声を上げて驚いた。

「こ……この家にお墓なんてないよ?」

真っ先に狼狽えた家人に、イレーネは幾らか困り顔で頷いた。

「私の姉妹――女王陛下のお傍付きをしておりました、カンデラの墓にあるのです」

「カンデラ?」

ロニが思わず、レンの方を振り返ると、彼も驚いた顔をしている。

「そうなのです。レン様は、私にとって旧知である二人の名を掛けわせたものを名乗っておられて……」

そういえば、ノーラもレンが名乗った際、「懐かしい名前が二つくっついておる」と言っていた。

「これが、英雄の名だとは後に知りましたが……”レン”はともかく、カンデラという方については名しかわかりませんでした。どなたなのでしょう?」

レンの問いに、イレーネが言い辛そうにちらとノーラを見たが、カエルは片手を振った。

「話してやれ。お前の方が縁が有るだろう」

「……カンデラは、私の姉妹です。同じ『花』としてディルク様にお仕えし、戦いが始まって以降は女王様の傍仕えをしておりました。女王様の為に力を使い果たし、本来の世界に戻る力も失せた為、土中にて死に近い眠りに付いております。記録が無いのは、私たちの存在をなるべく静かに留め置こうとするディルク様のご配慮かと。もう一人は……広く知られていると思いますが……」

何故か気恥ずかしそうに髪を弄い、初恋の人の名でも呟くようにぽつりと言った。

「レン・グラスワンド様です。人間でしたが、火器の扱いに長け、女王の為に生涯戦われた勇敢な御方です。ディルク様のご友人でした……」

「やっぱりそれ、物語に出てくる騎士団・団長のグラスワンド卿なのかい?」

ドリュアスが呟いた時から気になっていたロニに、イレーネは頷いた。

「はい。……尤も、私たちが交流していた頃は、属していた傭兵団を解散した直後で、身分を持たない一人の青年でした。当初は単独で女王に力を貸し、騎士団・団長を賜るのは、戦いが終わった後です」

「英雄と言うには、ぼーっとした男だったがな。稀に見る食いしん坊でもあった」

ニタニタ笑うノーラの覚えも良いらしい。ロニが本で見た英雄の姿は、背が高く、均整取れた体格の凛々しい男だった。巨大な火器を携えた姿は物々しく、精悍な顔の表情は厳しかったが、どこか優しい目をしていたように思える。

「女王様に縁ある御二人の名を用いたのは、両者に縁有る者に向けた伝言だと思うのですが……」

「この名は……ある方に名乗るよう勧められました」

視界の端で、カエルの目がきらりとしたように見えた。

「レヴィン・ガンズの名は、軍に居た頃――書を焼いていた頃の名なので、国を巡るには都合が悪く、一人になって以降は別の名前を名乗っていました。あれは何処だったか……偶然、会った方が、レン・カンデラと名乗ってはと仰ったんです」

「そんな怪しい奴の言うことを聞いたのか?」

幾らか呆れた様子のマイルズだが、レンは曖昧に頷いた。

「正確には、会っていないんです。市街の子供を通して手紙を渡してきて……だから、初めは総統……ファウストではと思っていたのですが……それでも、これが何かの手掛かりになればと、今日まで使わせて頂きました」

「なるほどのう、マイルズが言う通り、非常に怪しい。ファウストの入れ知恵にも思えるし、我らの知り合いのような気もする」

「それは……その魔法書を書いた人……?」

ロニの問い掛けに、ノーラは大きく頷いた。反対に、イレーネは思案顔で目を伏せた。

「ファウストが現れた以上、”あの方”もこちらに居る可能性は有ると思います。だとすれば、レン様のお名前は私たち……先の戦いに参加した者に呼びかける為かもしれません……ファウストの場合でも、私どもへの復讐か、争いを再び起こす為の狙いがあるかもしれませんが……」

「レンが女だったら、女王の名やイレーネの名を使ったかもしれんな」

「その回りくどい事をしやがる奴は誰なんだ?」

マイルズの呆れたような声に、二人の移ろわぬ者は顔を見合わせた。

「”あの方”の御名みなは……聞かぬ方が宜しいかと存じます」

「おお、呪われし名だからな。あ奴である確証も無い。仮にそうだとしても、あ奴が復活しては――……」

言い掛けたノーラがはたと目を瞬かせた。

「おい、イレーネ……もしや、ファウストの狙いは……」

乙女が信じ難いものを見る目で振り向いた。薄紫がかった黒い瞳が、驚きに瞬いたまま、何故かその目はレンを見た。

「ノーラ……それは……」

「おお、それならば合点が行くではないか。単にマギアに餌をやるならこの国では無くとも良い……数が少ないとはいえ、火の魔法が使える者はレン以外にもおる。わざわざ女王の血統の者を用い、呪いを与え、おとしめんとする行為。私と王国の関係を断ち、奴の力が宿った魔法書を焼く――焼いた後に残るのは”灰”だ!」

――灰?

何故か、ロニは胸の内がざわざわした。自分の内側に眠る何かが、その言葉に反応するようだ。奥にしまい込んでいた何かに火がつき、燃え広がり……煙草よりも煙たいものが胸中にはらはらと舞った。

「『灰の魔法使い』……」

ぼそりと呟いたロニに、はっとしたカエルと乙女が振り向いた。

「ロニ、貴様どこでその名を……!」

「え? いや、二人の話を聞いていたら、急にふっと浮かんだんだけど……」

「ほう……伊達にディルクの子孫ではないか……」

苦々しく呟いたノーラは、くるりと背を向けて溜息を吐いた。

「退屈しのぎには、少々重い大仕事じゃ……全く、ディルクめ……何も残さんと死におって……」

ずれた王冠を直しながらブツブツ言い始めるカエルの王を、イレーネの不安げな眼差しが見つめる。三人がそれぞれに訝し気な顔をした。

「イレーネ……顔色が悪いよ。大丈夫?」

「はい……いいえ、……私は大丈夫です」

か弱くはにかみ、乙女はさし俯いた。

「ノーラの予想通りならば、私たちはその魔法書を断じて守らねばなりません。それが燃えることで、”あの方”の魔法が世に放たれるとしたら……魔法の本質を知らず、魔力を持たぬ今世の人々に戦う力は殆どない。旧時代や帝国時代よりも、ひどいことが起きるやもしれません……」

「たった一つの魔法で……?」

「『灰の魔法』……」

禁忌を呟くように、イレーネは言った。

「全てを灰に帰し、善悪の呼び名の付かぬもの……」

マイルズがぼんやりするロニから煙草を奪い取り、火は点けずに咥えた。

「イレーネ嬢、俺には何のことかサッパリだ。その『灰の魔法使い』ってのは何者なんだ? おとぎ話の大魔王でも復活するようなもんか?」

「阿呆め。いま、イレーネが言ったろう……善悪の呼び名の付かぬものだと」

壁に向かって悪態を垂れたカエルがくるりと振り向いた。

その目がマイルズを見、レンを見、不安げなロニの目を見て、大きな溜息をこぼした。

「致し方あるまい。もう貴様らは渦中にある。無知な者どもよ、聞かぬが幸せだろうが聞かせてやろう……人間から生まれた、最も危険である『灰の魔法』の話を」

カエルは王冠を直し、語り始めた。

それは彼が言う通り……知らずに過ごす方が幸せであろう、滅びの記憶だった。

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