7.呪い
目を覚ました時、そこは自宅のベッドだった。
呆けた顔で、見慣れた自室を見渡す。二階の隅に位置する、ベッドが部屋の半分近くを占める部屋は、壁という壁を本棚が埋め尽くし、小さな窓際には先祖も使っていたという古ぼけたビューロー、先日友人が使った布団が折り畳まれた床には、読んだ本と読みかけの本がオブジェのように積み上がり、静かな夕陽に染まっていた。
辺りには誰も居ない。廊下に気配も感じない。
――夢?
そんな、まさか……
そう思ったとき、何かを握りしめているのに気付いた。
長い事そうだったのか、凝り固まってしまったようなそれを剥がすように開くと、それは何かの種らしい。親指の爪ほどのサイズの丸いそれはくすんだ赤茶色で、何かが細かく彫られたようにごつごつした表面をしていた。植物の種や球根は色々と見たことがあるが、何の種かはわからなかった。
――ドリュアスが渡してくれたものか……
ぼんやりそう思っていると、傍らにあの本が置いてあることに気付いた。
焼け焦げ、ひどい有様だが、躊躇いがちに触れたそれから苦し気な大声は――響いてこなかった。
夢ではなさそうだが、皆はどうしたろう。
半身を起こして時間を確認し、何気なく窓辺のカーテンをよけた瞬間、ガラスに巨大カエルがぺったり貼り付いていた。
「ギャアアアアアッッ!!」
いつかのリシェに勝るとも劣らぬ悲鳴を上げたロニだが、男の悲鳴なぞ何とも思わないのか、忙しいのか、駆け込んでくれる者は居なかった。
「ノーラ! そんなとこに居たら人に見つかるだろ!」
慌てて窓を開けながら注意すると、窓ガラスから手すりだけのベランダに器用に掴まっていたノーラがぴょんと飛んで入ってきた。
「”ロニ”はやかましいのう……見つかっとらんから居られたのだろうが。この家は木に囲まれておるし、お前の部屋の壁は蔦も手すりもあって目立たん。ついでにその窓はたまにオヤツが飛んできて、なかなか良い具合だ」
その発言に、以前からヤモリを見かける窓辺の環境を顧みたロニをよそに、カエルは興味津々といった具合に室内を見回した。
「本ばっかりだ。此処はディルクの寝室だったが、奴もよく寝ずに本を読んでいた」
「え……そうなの? 祖父の頃は書斎だったのを僕が気に入って――いや、そんなことよりノーラ、皆は?」
カエルは積まれていた本を一冊取って、幼子のように床で捲りながら答えた。
「お前以外は皆なんともない。珍妙な者は、下でイレーネに説教されておるが」
「せ、説教?」
珍妙な者とはレンのことだろう。ノーラは何でも無さそうに頷いた。
「うむ。あれでもイレーネはディルクさえ頭が上がらん頑固者だ。皿のものを全部食うまでは許してもらえまい」
「……皿? そ、そう……」
緊急性のなさそうな様子が窺えたので、ひとまずロニはほっと溜め息を吐いた。
「マイルズは?」
「ああ、奴なら調査がどうとか言って、書庫に居た娘と出掛けていった。お前を宜しく頼むと」
「……また、何か思い付いたのかな」
手の中の種を見つめて呟くと、ノーラはページを捲りながら言った。
「あ奴とは長いのか」
「マイルズ? うん……小さい頃から一緒だよ。いつもあんな具合で自由奔放だけど、ずっと……変わらず仲良くしてくれた大事な友人だ」
「そうか、善き友なのだな」
「まあ……長い付き合いだから」
「ロニ、時の長さは問題ではない。友情は相手を思いやれる強さで決まるのだ」
「うん……そうだね」
全く、このカエルは時々良い事を言う。微笑み返して、はたと気付いた。
「あれ、そういえば名前……」
「様は付けるべきと思うておる」
素っ気なくページを捲りながらカエルは言った。
「しかし、私とお前は主従関係ではない。友達同士になるのなら、まあよかろ」
このカエルなら従者になっても良い気がしたが、ロニは突っ込まずに微笑んだ。
一息吐いたらお腹が空いて来た。イレーネはレンに何を振舞っているのだろう。
「……ねえ、ノーラ。レンさんが持っている蝋燭消しは、本当に『大喰らいのマギア』という悪魔なの?」
「うむ。間違いない。相変わらず沈黙しているが、そもそも奴は神に口を奪われているからな。杖になっていては話もできぬ様だ」
ノーラ曰く、無機物でも話が出来る――或いは交信する方法は有るという。例えばそれは楽器などの音を発するものであったり、ぬいぐるみや人形ならばジェスチャーが可能だし、ペンや筆なら文字を書いての対話が出来るらしい。
ぱたんと本を閉じ、ノーラはすっくと立ち上がった。
「ロニ、動けるのなら下に行こう。あの珍妙な者に話を聞きたい。お前が居た方が都合が良い」
「う、うん」
まだ頭はふらつくが、種をポケットに収めて部屋を出た。ごく当たり前のようにぺたぺたと付いて来るノーラと共に階下に降り……はたと気付いた。
「あれ……そういえば、ウチの両親は君を見てないんだよね……?」
「案ずるな。挨拶は済ませてある」
「……ひぇっ……」
ここ一番の引きつった声が出た。害獣駆除業者でも呼ばれてはいないだろうか……嫌な想像をするロニだが、カエルは気に留めた様子もない。
「ご婦人に悲鳴は上げられたが、マイルズが
後で何を言われるかと思うと不安だが、マイルズの口八丁手八丁は並ではないし、上品で優しいイレーネは既に信用を得ている。窓に貼り付いていた件はバレれば論争に成り兼ねないが、ひとまず胸にしまうことにした。
「おーい、ロニが起きたぞ」
住人の如き態度でキッチン&ダイニングに入ったノーラに、二人が振り向いた。
立って給仕をしているらしいイレーネと、テーブルにずらりと並ぶ料理を前に座っていたレンだ。どちらもロニを見て顔を綻ばせてくれたが、レンの方は些かグロッキーに見えた。蝋燭消しは傍らにあるものの、今掴んでいるのは普通のフォークだ。
「ロニ様、良かった……ご気分は如何ですか?」
「ありがとう、イレーネ。だいぶ良いよ」
「何よりです。どうぞ、お掛けください」
それ以外の選択肢は許されなさそうな笑顔に、徐々にこの乙女の性質を理解し始めたロニは大人しくレンの向かいに座った。彼はフォークを手放せない呪いにでも掛かっているように持ったまま微笑した。
「起きられて良かったですね」
「ありがとうございます。レンさんは……大丈夫ですか?」
背を向けて準備に勤しむイレーネを見つつ、意味深な問い掛けをしたロニに、彼はギブアップの許されない大食い大会にでも居るように頷いた。
「大丈夫です。こんなに沢山頂いてしまって、申し訳ありません。ご両親にも――」
「いえ、ウチの両親は人をもてなすのが好きですから……イレーネもそうだよね?」
「もちろんでございます。さあ、ロニ様も沢山お召し上がりください」
「う、うん、いただきます……」
そういえば、あのサンドイッチはどうなったのだろう……
足元で水桶にとっぷり浸かっているノーラにこっそり訊ねると、彼は当然のように頷いた。
「ドリュアスに渡しておったぞ。そこの珍妙な者があんまり栄養不良に見えたそうでな、家できちんと食わす気になったそうだ」
なるほど。お腹を空かせた者を許さぬ乙女が出す料理には、あのレシピ本に載っていたワーテルゾーイも有った。サーモンやじゃがいもが入ったそのクリーム煮はニンジンや、ちりばめられた緑の香草が良い匂いを漂わせ、色よく揚がったクロケットや鱈のフライもある。
「さて、イレーネの行儀作法に反するのは気重であるが、食いながら話してもらおう、珍妙な者よ。貴様が何処の何者で、何をしようとしているのか」
「それは……構いませんが、ノーラ様――マイルズさんの言う通りなら、早く教会に行くべきではないでしょうか……?」
料理に気後れしているのか、不遜なカエルに臆しているのか不明だが、これ以上ないほどカエルに丁寧に喋った男に、先に反応したのはロニだった。
「教会って……どういうことですか?」
妹が行儀見習いを兼ねて通う勤め先に反応した兄に、呑気に答えたのはノーラだ。
「マイルズが書庫に居た娘から聞いた情報では、ドリュアスの魔法書を図書館に持って来たのは、教会のチェスター神父という男だそうだ」
「チェスター神父が……? じゃあ、あれは寄付された本だったんですね」
キャロルや何者かが意図的に書庫に置いたものではないと知り、胸を撫でおろすロニだが、向かいで黙々とクリーム煮を掬ったレンの表情は硬かった。
「そうとは限らないかもしれないんです……」
「え?」
のんびりと目を閉じて、ノーラが言った。
「チェスター神父が、悪しき魔法使い……ファウストかもしれんのだ」
「は……⁉ そ、それを早く言ってくれ!」
椅子を蹴るように立ち上がったロニに、サッと手を出したのはイレーネだ。
「ロニ様、お食事の最中です。お掛けください」
「イ……イレーネ、でも――」
「お掛けください。リシェ様はご無事です。既にご帰宅なさって、お店にいらっしゃいます」
「え――……」
「妹君を大切に考えるあなた様は立派な兄上です。しかし、いつ如何なる時も、人間はきちんと食べればこそ行動できるもの。飢饉ならばいざ知らず、摂れるものを摂らずして倒れるは愚かでございます」
迫力ある正論を前に、ロニは「先に言って……」とぼそぼそ言いながら、のろのろと座り直した。クリームを纏ったサーモンを口に運び、「美味しい……!」と噛み締めるように言った。今度は友人が気になって急く気持ちと、本当に美味しい食事を前に葛藤しているらしい。その様子を見つめるレンに、ノーラが呑気な声を上げた。
「ほれ、ロニが気を揉んでおる。起きたら貴様が何者か喋る約束だ。食事が済むまでに話せばよかろ……早く喋らんか」
レンは迷った顔をしていたが、痩身ながらも健康的男子であるロニがせっせと料理を口に運ぶ様見て、自身も目の前の料理に立ち向かいながら頷いた。
「ロニさんには一部、お話ししましたが……私は、帝国時代にレヴィン・ガンズと呼ばれた軍人でした。……でも、本当の自分のことは何も知りません。この名は、総統に拾われた際に名付けられたもので、それまでの私は只のレヴィンでした……」
「レヴィン! さっさと片付けておけと言ったろう!」
さして汚れてもいない庭先を指差し、主人はいつものように怒鳴った。
もう最初からそうだったように思う生活は、痛みと罵声に包まれていた。
両親の顔は覚えていない。気付いた時にはこの屋敷の庭先を掃き、重い食料品などを運び、靴や鞄を磨き、床や窓を掃除していた。
……いや、周囲の噂によれば、今、怒鳴っている主人と、小間使いの女の誰かとの子供と言われていたが、どの女かは知らないし、下手をすると他の貴族の女中や、娼館の女、または貴族であっても不倫関係による子供――等々、レヴィンという少年に関する確かなことは何もわからなかった。
殆ど生まれながらの虐げられた生活は、少年の心を蝕み、反抗心の一つも抱かせずにじんわりと殺していく。召使いとして役立てる為、必要な知識は頭に入れられた。間違えれば鞭や拳が飛ぶので、眠気に微睡むのを堪えながら必死に学んだ。
死なない程度の食事、死なない程度の睡眠、死なない程度の虐待を繰り返し、それはちっとも良くなる気配を見せず、だんだんと凄惨さを増した。
十五歳にもなる頃、レヴィンは綺麗な顔立ちに成長していた。柔い黒髪と憂いを帯びた黒い瞳、整った容貌と大人しそうな色白の痩身。すぐに手を出す者が現れ始めた。
最初は屋敷内で働く同僚の男だ。長年勤めてもギャンブルなどでスってしまう景気の悪い男は、女と遊べなくなるや、身近にいた従順な少年に手を出した。
無論、猛然と暴れて抵抗したが、力仕事で鍛えた男には敵わない。そこからは芋づる式だ。様々な男に女に、時には数人の相手をさせられ、最終的に主人までもが手を出した。野蛮な権力が倫理観を腐らせていた時代である。彼がどんなに泣こうが喚こうが、助けようとする者は居なかった。
約三年、犯され続けたレヴィンの精神状態は、ナイフなど持とうものなら流れるように喉を突けるほど追い詰められていた。幼い頃からの隷属故に、逃げる選択や反抗心よりも、先に絶望が支配し――死への渇望ばかりが胸を占める。
主人は彼を籠の鳥のように檻に等しい部屋に閉じ込めた。舌を噛むほどの余力もないまま、いつしか、金持ちのサロンでは有名な取引材料と化していた。身なりは良くても乱暴な男、化粧の濃い女、脂ぎった中年、皺だらけの老人――家柄と金の力で魔物と化した連中の欲に、朝な夕な貪られる日々。
永劫続くかと思われた呪われた日々は、突然終わった。
王政に反発した反乱軍が蹶起し、王都に攻め込んだからだ。
「……私はその時、後の総統になるファウスト様に助け出されました」
レンが呟くと、イレーネの眉がぴくりと動いたが、彼女は何も言わなかった。
壮絶な過去に、フォークに刺した鱈のフリットを食べるのも忘れていたロニが、ショックのあまり愕然と言った。
「酷い……この国で……そんなことが有ったなんて……」
「……後世の貴方が責任を感じることは無いと思います。あの頃の王国は、近隣諸国の情勢も落ち着いていたそうで、それまでは戦いに身を投じていた勇敢な家柄も、魔法が与えた豊かさに浸かり過ぎたんです。平和故に、富める故に、何もしなくなった人間の心が膿んだ結果だと総統は言いました。増えすぎた資産を失うのが怖くて更に掻き集め、あくせくせずとも暮らせるが為に退屈を欲望にて紛らす……王侯貴族がそう在る為には、陰で働き、涙を呑む人たちが大勢居た。帝国は来るべくして来た時代だったんです」
「……貴方の話が本当なら……
我が事のようにロニは呻いた。子供の頃に習った歴史では、帝国は乱暴で恐ろしい連中による圧政であり、二度と出現してはならない悪であると断定している。
だが、これでは王政も殆ど変わらない。平和を享受しながら、何食わぬ顔で罪なき弱者を傷つけ、辱めるなど――同じ人間として、これほど恥ずかしいことは無い。
「……いいえ、ロニさん。帝国も所詮、人間の作った組織であり、暴力による統制を謀った点では、本質は変わりません」
「でも、貴方を救ったんですよね?」
レンは薄ら笑った。
かつて黒かったというその髪も目も、今は灰色。……いつ、そうなったのか?
痛ましい記憶の重みに耐えかねてか……辛い旅を続ける間にか……いずれにしても、この青年には、心安らげる瞬間なんて、只のひと時も無かったのかもしれない。
「帝国時代、私は末席に据えて頂き、戦功に合わせて次々と階級を上げて頂きました。徴用の際に調べて、火の魔力を持っているとわかり……火器を扱う帝国にとって重宝したので」
聞いていたノーラが思惑有り気に顎を撫でたが、何も言わずに目を閉じた。
「帝国時代も、私は総統始め、多くの仲間の捌け口でした。……思えばそれも目的の徴用だったのかもしれない。ただ、王侯貴族の屋敷に居た時よりも扱いはマシでした。気色の悪いことだと思いますが、総統は私に手を出しつつも、擁護する唯一の味方でもあった。のさばっていた悪魔のような連中を追い出し、粗野な連中を指揮し、改革を進める姿は眩しくもあった。彼に必要とされるのは本望であり、周囲に嬲られようとも、彼の役に立てば良しと思えました」
「……」
平和の陰にあるものの暗さは、経験した者にしかわかるまい。昨今の若い世代は戦乱の世を知らず、他国間の戦争にも、自国が経験したそれにも無関心だ。過去を忘れ、平和のままに、気楽に謳歌している点では――王政末期の頃と何ら変わらない。
「一連の国内掃討が済んだ後は、総統に命じられ、『悪書』を焼くために国内を回りました。この件に関しては、あなた方の知る歴史の通りです。有るべきではないと思って、私は焼き続けました。子供の手からも取り上げ、逆らうものを力でねじ伏せ、山積みにして火を放ったこともあります」
焼いて、焼いて、焼き続けて。何度も何度も、灰を見た。
「この行動が、危険であるのは気付いていました。もともと、力で奪った国です。反乱で帝国と化した国にも、反乱の火が
――まるで、本を焼くことが、国の行く末よりも重要であるかのように。
「焼き続けた末に、ある日……一冊の本から、私は呪いを受けました。その本は自らを神と名乗り、ドリュアスの本のように私を
そこで、眠るように静かに閉じていたノーラの眼がゆっくりと開いた。
「そいつは、『アルス・ノトリア』だな?」
静かに呟かれた一言に、レンが少し驚いた顔をした。
「ご存じだったのですか」
「貴様の足の火傷について考えていた。あの軍人と戦った際、私の魔法で足に触れた際に、あの本の気配を感じた。あれは旧時代にも問題を起こし、王国の外れに封じられていた筈だが、何処でまみえたのだ?」
「最北端の町です。土着の宗教の書として存在していました……当時、”教え”に関するものは積極的に対処していたので……」
「まあ、ファウストに仕組まれたのであろ……お前が奴を焼くように。あの書以外でも
賢いカエルの物言いに、ロニはレンと顔を見合わせた。彼もまた、訝し気な表情に不安を滲ませてカエルを見た。
「ノーラ様……どういうことですか……?」
「書を焼かせたのは、お前に呪いを掛ける為だということだ」
レンの表情が強張る。それを見上げながら、ノーラは事も無げに続けた。
「魔法書は数少ない例を除き、神ほど高貴な存在など宿ってはおらぬ。ノトリアも、我らと同様の移ろわぬ者だ。しかし、奴は大昔、さも世の真理のように書かれた上、信仰された経験を持つ故に、言葉が力を持った……いわば生きた書物に近い。お前が焼いたが為に、真理を侵されたものと判断したのだろう」
「……火の力がある魔法書ってこと?」
そっと問い掛けたロニに、ノーラは片手を振った。
「単なる高慢な奴なのだ。あれの得意技は『写し』。自身が焼かれたから、焼いたのだ。ふむ……ファウストの目的にはまたとない書ではある。『アルス・ノトリア』は今、何処にある?」
「此処に……」
レンのコートの内側から普通に出て来たそれに、ロニが目を見開く。文庫本ほどに小さく薄いが、革と思しき表装は如何にも魔法が込められていそうな謎の文字が型押しされ、古びた感じは貴重な本を思わせる。さすがは神だと自負する魔法書か、焦げ跡こそあるものの、火に巻かれた印象はない。
「これ……喋ったりするんですか?」
「いえ、この状態では話しません。用が有れば勝手に開いて、文字を表します。『火種』や『灰化』などの言葉も、この本が記したことです」
「不敬な奴め。この私を前に黙しておるとは」
水をぴしゃぴしゃさせながらどうでもよさそうに言うノーラに、レンは切なげな眼差しを向けた。
「ノーラ様、私に呪いを掛ける目的とは一体……?」
「お前はな、ファウストとノトリアの両方に
「……?」
「その蝋燭消しをお前に与えたのは、ファウストではないか?」
「それは……わかりません」
「む?」
首を振ったレンは、当時を思い出すように難しい顔付きで答えた。
「……ノトリアに左足を焼かれた後、私は総統府に帰還しました。ですが……既に、総統府は丸ごと無くなっていたんです。総統邸宅は無事でしたが、中はもぬけの殻で総統の行方はわからず……私は外部に居た者に説明を求めましたが、誰一人、何が有ったか見た者は居なかった」
「本当にそうだったんだ……竜巻なんかの可能性が説になっていますけど、やっぱり魔法なの?」
ロニがノーラに振り返るが、彼は首を振った。
「私は帝国時代には干渉しておらん。連中は
治水工事などの話を知っているのだろう、レンが申し訳なさそうに頭を垂れた。
「まあよい。して、所払いをしたファウストは消えたわけか」
「……はい。この蝋燭消しは、残された邸宅に手がかりが無いかと思い、探した際に有りました。それを見つけた時、アルス・ノトリアが呪いを解きたければ持っていくよう指示したんです。『火種』を消し、魔を狩るには最適だと」
「ほうほうほう、そういうことか」
ぽんぽんと自身の顎を叩き、ノーラは傾いた王冠を直して頷いた。
「いいか、珍妙な者よ。我らが戦った軍人は、つまりは蝋燭なのだ。それを『大喰らいのマギア』が宿る蝋燭消しで消す――それが一連の呪いを生むのだ」
レンとロニがぽかんとし、改めて顔を見合わせた。
「おお、呑み込みの悪い奴らめ。つまりだ、まず、『悪書』と称した本を焼かせたのは、レンに罪の意識を持たせるため。その後、レンが焼いたかどうかもわからん本に蝋燭を置き、『火種』を作る。何も知らんお前は自身の過失と思い、神気取りのノトリアに従い、魔が宿った蝋燭消しで火を消す。罪を償うつもりが、関与のないばかりか、異形の者となった仲間の命を魔によりて消す――……お前の行為は、単にマギアに上等な餌をやっているだけだ」
蒼白な面持ちになるレンを見ながら、他人事ながらロニも青くなってきた。
「じ、じゃあ……レンさんが過去にやってきたことは……」
「多くはレンが焼いたことで生じた火種ではないのだから、ファウストが仕組んだ罪――『ファウストの書罪』とでも呼ぶべきことだな。本にとっても迷惑な話であろう。突然、『火種』を植えられ、自身の世界にずかずか入られ、大騒ぎをした後に火傷が残るようなものだ」
「ノーラ、少し抑えなさい。レン様のお気持ちも
イレーネの優しい声に、レンは沈痛な面持ちを伏せ、首を振った。
「……私は大丈夫です。――ノーラ様、私が呪いを受けると、ファウスト……にとって、どんな得があるのでしょうか」
「得? ファウストはそんなものには頓着せぬだろう。『火種』となり、本から力を奪って肥えた奴らを、燃え尽きる前にせっせとマギアに喰わせる――この一連を、お前がノトリアの神託を受けたかのように信じ、せっせと行う無為な『呪い』……これを眺めて楽しむと言うならば如何にも奴らしい。或いは、マギアに力を付けさせ、再びこの国で争いを起こすか、もっとおぞましいことを企むか……」
「……」
レンはフォークを置いて押し黙ると、何か耐えかねたように急に立ち上がり、左足を引き摺って勝手口から出て行った。思わず腰を浮かせたものの、掛ける言葉の無かったロニに、イレーネがそっと声を掛けた。
「……少し、お一人にしてさしあげましょう」
「何処かに……行ってしまわないかな……」
「大丈夫。この家に居る限りはわかります。出て行かれるようならお声掛け致しますから、ロニ様はお食事を続けて下さいませ」
レンが去った方を見つめ、ロニはこくりと頷いた。
彼が置いて行った魔法書と蝋燭消しは、何も喋らず、何もしない。
恐ろしい力で一人の人生を狂わせておきながら、何の力もない静物のような二つ。
「どうして……彼らはこんなことを……」
「ロニ、こいつらに人間の倫理なぞ求めてもムダだ」
「だって……同じ移ろわない者でも、ノーラやイレーネは優しくて親切だ。会ったばかりの僕を助けてくれて、彼のことも気遣ってくれている」
二人の人ならざる者たちは顔を見合わせた。
「それはな、ロニ……人間が千差万別であるのと同じだぞ」
諭すような口調のノーラに、ロニは息を呑んだ。イレーネが物静かに頷く。
「ロニ様、以前ノーラが話した通りです。極端に申し上げると、心の赴くまま、気に入れば助け、気に入らなければ害する。それは私たちの性根と申しましょうか……移ろわぬ故に変わらぬことなのです。遥か昔から人ではなくなったファウストも、マギアも、アルス・ノトリアも同じです。たまたま、その好ましい方向が違うだけです」
彼らは話を聞いているのだろうか。沈黙したままの彼らを振り返り、イレーネは続けた。
「でも……人間は千差万別でありながら、一律ではありません。善から悪へ転じることもあれば、悪から善に転じることもあるほど、あなた方は変化に富む。あの方も、絶望を希望に変えられれば良いのですが……」
「ロニが行くしかあるまい。そいつらは私が見ておいてやる」
桶を脱し、タオルに足を乗せながらノーラは言った。
「え、僕……?」
「最初にレンを救うと言い出したのはお前なのだろ。小童と
それは少し違うのだが……言い返そうにも言葉は出てこなかった。ロニはしばし料理を見つめていたが、さっとフォークやスプーンを翻すと、もりもりと食べ始め、自分の皿を空にするや、ごくごくと水を飲み、ナプキンで乱暴に口を拭った。
「ごちそうさま!」
立ち上がった男が勝手口からドタバタと出て行くのを見るや、ノーラは二つの道具を見た。
「さーて、邪魔は消えたぞ。久しきクズども。”優しい”我らと、少し話をしようではないか」
勝手口から出たレンは、ソルベット家の庭でぼんやりと星を仰いでいた。
暗がりにも、良い庭だとわかった。さほど広くはないとはいえ、芝や石畳が敷かれた庭はチューリップがそこ此処に花をつけ、今は夜の闇にひっそりと閉じている。立派な桜の樹がシンボルツリーとなった下にはベンチがあり、プランターや低木も綺麗に整えてあった。
呪われた足で歩くには躊躇われる芝を避けて壁に寄りかかると、枝葉が揺れる音に混じり、店先や近隣の生活音が微かに聴こえた。
気付いたその時から……どんなに近くに有っても、いつも別世界に感じる音だ。
「大丈夫だよ、レヴィン」
脳裏に去来する総統――ファウストは、執務室の机の前、手を後ろに組んで、
「君が『悪書』を焼いていけば、みんな正気になっていくさ」
「閣下が仰るなら……ですが、市民の不満は膨張し始めています――」
「そうだね。君が言う通りだ」
気にした風もなく言いながら、男は穏やかな表情で振り向いた。淡い灰色の髪が揺れ、知性を思わす灰色の眼が、若い士官を見据える。
そのまま、彼は机を避けて真っすぐに近付いて来た。靴先が触れる程の距離まで来る男にたじろいで、士官は一歩、また一歩と後退した。
「閣下……――あの――」
「レヴィン、心配要らないよ。君の火で、『悪書』をたくさん、焼きなさい」
壁に追い詰められ、狼狽に震える喉元から首筋にかけて、黒手袋に覆われた指が舐めるように触れた。
「か、閣下……」
「私が怖いかな? レヴィン」
軍帽の下の顔を覗き込むように言われて、士官は目を逸らした。
「……そ、そんなことは……」
「そうかい? それにしては、震えているね」
耳元で囁かれて、レヴィンは身を強張らせた。その通りだ。立っているのが辛い。
「君の魔力は、実に良い……」
殆ど耳朶に口づけて、悦に入るように囁く。
「閣下、……誰か、入ってきたら……――」
それ以上下がれない壁に背を押し付け、士官は苦し気に呻いた。総統はそんな忠告は
もはや諦めたように大人しく壁に身を預けた士官の首に、耳元に、幾らか強引に寛げた鎖骨の辺りに唇が這う。それが細い吐息を零す口に宛がわれた時、掬い取られるように舌が攫われ、士官は上気した顔で喘いだ。視界が滲み、四肢が痺れる。鼓動は早いのに、思考はどんどん鈍り、抱擁に身を任す他無くなった。
「……焼くんだ。何が起きようと。いいね?」
密かな声に、体を這う手に支配されて頷いた。
今、その顔を我が手で覆って――レンは俯いた。
なんと浅ましく、愚かだろう。
何年も何年も何年も何年も……騙されていたことにも気付かず、何なら
「……レンさん」
不意の声に驚いて振り向くと、ロニが立っていた。
幾らか気まずい笑みを浮かべつつ、彼は隣に立った。そちらを見られずにいると、彼は虚空にぽつりと言った。
「お腹、いっぱいですね」
唐突に場違いなことを言うロニを、灰色の眼が見た。
「……そう、ですね……」
「はは、ノーラも凄いけど、イレーネも凄い。僕は大人になったつもりだったけど、まだまだちっぽけだったなあって……思い知らされます」
「……あちらの方たちは皆……優れた御方ですから」
「貴方は二人のことや、僕の先祖のこともご存じでしたね」
「帝国に居た頃……知識程度に学びました。今思えば……敵となる可能性を踏まえて、与えられた情報だったのでしょう……」
「そうだとしたら、貴方は偉いですよ」
「偉い……?」
「はい。敵になるかもしれない二人に、最初から礼儀正しく接していたから」
言葉に詰まるレンに湖水を思わす瞳で微笑みかけ、ロニはポケットから何かを取り出して眺めた。赤茶色の丸い塊は、何かの種だろうか。
「レンさんは……これから、どうするんですか」
ロニの問いに、レンは同じように虚空を見つめた。
「わかりません……何も……わからなくなってしまいました……」
「……そうか……そうですよね」
小さく溜息を吐いて、ロニは黙していたが、急に言った。
「この国の、女王の物語を知っていますか?」
「あの姉妹の物語ですか……?」
「そうです。読んだことがあるんですね」
嬉しそうに言うロニに、レンは気後れした顔で頷いた。
「本は……嫌いではありませんでしたから……――」
そう呟いた瞬間、小さく涙がこぼれた。……嫌いじゃない。好きだった。買ってもらえる子、読んでもらえる子が羨ましかった。
「す、すみません、嫌な事を思い出しましたか……?」
間近に覗き込んでくる、月明かりにも湖水のような目に、レンは目元を拭って首を振った。
「……すみません、違うんです……ダメですね……なんだか――……不安定になっている……構わず、続けて下さい……」
ロニは心配そうな顔をしていたが、意を決した顔で言った。
「あの最後の文が、気になっているんです。『二度と王国に悪い魔法が入らぬよう、二人はこのお話を本に残しました。この物語が、末永く語り継がれますよう。
二度と悪魔に唆されることのないように。きっと、この本が守ってくれる』」
「よく……覚えていますね」
「はは、唯一の特技です。だからって、難しい数式だとか、法律なんかは覚えられないんですよ。暗唱できるのは、物語ぐらいなんです」
頭を掻きながら言うロニは、幾らか自信無さげに言った。
「『きっと、この本が守ってくれる』って……何か特別な本がある気がしませんか?」
レンも目を瞬かせた。一見、物語のことを指すかと思うが……確かに、唐突な文句ではある。
「もしかしたら……ファウストが本当に焼きたかったのは、この本なんじゃないでしょうか?」
「どうして……そう思ったのですか?」
「えーと……僕がちっぽけだって思い知ったからです」
「……?」
先程と同じことを言う男に、再度目元を拭ったレンは首を捻った。
「つまり……?」
「ファウストが、恐ろしい魔法使いなのは、物語やイレーネ達の話から何となくわかります。でも、それなら彼は自分で動けばいいと思いませんか? 『大喰らいのマギア』にしたって、自分で餌をやる方が……ああ、それは面倒なのかな……? とにかく、回りくどいんです。えーとつまり、僕が言いたいのは……」
「本当は燃やしちまいたい本があるが、ファウストは自分では燃やせない」
異なる声が響いて、ロニとレンが驚いて振り返った。
玄関の方からつかつかと石畳を踏んできた男は、うっすら輝く街灯と月明かりにニヤリと笑っていた。
「マイルズ! 無事だったんだね!」
「無事かだと? それはこっちのセリフだ、ロニ。図書館じゃあ、くたばったようなツラだったんだぞ」
親友の軽口に頭を掻く男を見てから、レンはマイルズに振り返った。
「ミスター・ブライス……今仰ったことは……」
「ちゃんと仕入れて来たネタですとも。キャロルもまあまあ使えた」
煙草を咥えた男に、ロニがウチは禁煙だと鬼の形相で詰め寄ると、記者は口端に咥えたまま言った。
「なあ、我らがカエルの王様は居るかい? あんたのことで確認したいことがある」
「私のことで……?」
「そうとも。さあ行こうぜ。俺は前々から愛しのリシェと親しくしやがるあの神父が気に入らなかったんだ。悪党なら容赦なくケツを叩ける」
先に勝手口に向かう、親友どころか悪友のアウトロー丸出しの発言にロニが呆れ顔で吹き出した。レンの肩をそっと叩いて促す間も、くすくすと笑った。
「何笑ってやがる、ロニ。俺が掴んだネタを話してやらんぞ」
「ごめんごめん、どんなの?」
「フフン、小童如きに話すのは惜しいな」
「もう、ノーラの真似なんかしないで教えろよ」
振り向いたマイルズは勿体付けた笑みを浮かべて言った。
「ベルティナの長い歴史上、一番最初に禁止になった魔法が何だか知ってるか?」
「……火です」
自身も火の魔力を持つレンに、「ご名答」と答えて、マイルズは頷いた。
「触れを出したのはカエル王が愛する女王マリアンヌ。これに続いて他の危険な魔法が取り締まられるわけだが、火を危険とみなして禁止するコイツはあんまり必要のない法だった。何故なら、火の魔力を持つ子供は、特定の一族にしか生まれなかったんだ。その一族ってのが……」
あっとロニが声を上げる手前、シュボッと良い音を立ててジッポーの火に煙草を当てた男は、睨む親友の前で夜空に紫煙をくゆらせてから言った。
「女王の血統さ」
指差されたレンの前で、煙が緩やかにたなびいた。
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