5.邂逅
「ああ、レヴィン、よく来てくれた」
大きな机の奥――ペンを片手に椅子に腰かけた総統に、呼び出された若い士官は規律正しく敬礼した。
「優秀な君に一つ、仕事を頼みたくてね」
「はい。何でもお申し付けください」
真四角にお辞儀をした士官に、総統は書類の山を脇に避けながら、灰色の眼で微笑み、櫛の通った灰色の髪を弄った。
「そう固くならなくてもいいさ。君と私は家族みたいなものじゃないか」
「とんでもない……何処の馬の骨とも知れない私と、閣下が家族など……」
「はは、私だってそんなに変わらないよ」
帝国などというものを率いるには不釣り合いな眼差しが、若い士官を見た。
士官は総統を見た。王国権力者の元で、誰の子かもわからぬまま扱き使われ、嬲られていた自分を助け出し、傍に置いてくれた男を。
彼は帝国の一大権力者だが、温和で聡明な男だ。確かにその出自は謎だが、それが何であろう。家柄だけは御立派な貴族共、それに
総統はそんな連中を王都から追い出し、民を
戦闘の
そんな男に頼まれるなら、何でもしよう――若い士官はそう思っていた。
「仕事というのはね、君に『悪書』を焼いてほしいんだ」
「悪書……?」
「今、新たな教育体制を検討していてね。旧時代の教育は、君のような不遇な子供たちを輩出した無能な『大人』を生み出した。我々は愚か者を追い出したが、その源たる書物――そうした本の類は、まだ各地に残っている。連中の哲学や信念は、堕落と腐敗に満ちている。我が国には不要の存在だと思わないかい?」
「はい……仰る通りだと思います」
「君ならそう言ってくれると思った」
机の向こうから回って来た総統は、親し気な笑みと共に士官の肩にそっと触れた。
「頼んだよ、レヴィン」
彼に頼られる喜びに頭を下げ、再び上げたとき――目を開いたそこは、静けさに満ちた森だ。総統はおろか、虫一匹見当たらない。
……いつの間にか寝入っていたらしい。
外とは時間経過が異なるだろう森の中、辺りはいよいよ薄暗く、鼻孔に入り込む煙と共に、陰気な雰囲気になってきた。消し炭になった樹を振り返る。
気怠そうに寄り掛かっているフーゴは軍帽を深く下げ、恨み言のようなものを吐き続けているが、意味が聞き取れないほど小さい声だ。彼の口から漏れ出る煙だけが、辺りに漂い、泥沼を広げるように辺りに満ちていく。
――間もなく、フーゴは別のものに変わってしまうだろう。
予想より早い。こちらの姿を見て興奮した為かもしれない。過去に見た連中のように……彼も異形のものに変わってしまうだろう。それはあんまりだ。
今は大きな刃物の形をしている蝋燭消しを握り、レンは息を吐いた。
彼は来るだろうか。
もし、来るとしたら……
がしゃん、と蝋燭消しを持ち上げて立ち上がった。
「まずはお昼を召し上がってから」と、イレーネが一歩も譲る様子が無かったので、まさか大きなカエルを連れて飲食店に行くわけにもいかず、途中で買って家に戻って来たロニは、自宅にも関わらず裏の勝手口からコソコソと入った。
どうせ車の音がするので、忍んでも無意味なのだが……万一にでも客に見られたら大変だ。
「女王にも認められたこの私がなんでこんな目に……」
抱えた大きな麦袋の中から不平を唱えるノーラに、ロニは謝った。
「ごめん、ノーラ様……やっぱりその……その姿は皆がびっくりしちゃうから……」
「そうそう、ノーラ様の姿は荘厳過ぎるんだ。下賤な人間には価値がわからんのさ」
上手いおべっかを言うマイルズの手には、家の裏手で見つけた大きな桶がある。
ノーラは溜息らしきものを吐いた。
「うーむ、仕方あるまい。高貴なる身には苦労が付き纏う……」
泥棒にでも入る様にキッチンを見ると、幸い、誰も居ない。桶に水を張り、袋から出してやろうかと言う時だった。
「お待たせ、ノーラさ――」
「そんな所からどうしたの、兄さん」
背後から掛かった声にぎくりと硬直したロニは大急ぎで開けかけた袋を閉じた。
何かが絞められる嫌な音がしたが、大慌てで袋を庇うようにして振り返る。
日曜のお勤めを終えて戻って来ていたらしい――リシェが訝し気な顔をしていた。
「あ、ああ……リシェ、お、おかえり、ただいま……」
「おかえりなさい。……なに、それ?」
「えー……えーとぉ……」
「おい
袋から勢いよくノーラの頭が現れるや否や、この世のものとは思えぬ絶叫が響いた。
これには傲岸不遜なカエルの王様もびっくりしたらしい。カエルであることを証明するかのような見事なジャンプで袋を抜け出ると、ざぶんと桶に飛び込み――落ちた王冠を拾った。
「驚かすな小娘!」
「な、何なのよ! このカエルは……!」
兄にしがみついて喚く妹に、兄は兄でてんてこ舞いだ。
「リシェ、大丈夫だから大きな声を出さないでくれ!」
「お前もでかい声だぞ」
揚げ足を取るマイルズに、服を引っ掴むリシェ――此処に両親まで来たら一大事だ――そう思ったが、誰かが見に来る気配は無かった。
「あの……すみません。少しだけ、周辺に魔法を使いました」
事後報告だからなのか、イレーネが頭を垂れている。
「ど……どんな?」
「軽い幻惑といえば通じますでしょうか」
三人がぽかんとしたからだろう、桶の中に寝そべったノーラが言った。
「お前らの叫び声を違うモノの声に聴こえるようにしたのだろ。鳥とか犬とか」
「小鳥に致しました。この家にはまだ、『花園の魔法使い』の陣形が残っていますから、ロニ様のお力を借りずとも、簡単な力は行使できます」
気後れした顔で礼を言うロニの傍ら、リシェは兄に引っ付いたままノーラに目を丸くしている。
「カエルが喋ってる……」
「リシェ、こちらが水妖のノーラ・マーナ……様だ。力を貸してくれるそうだから、失礼が無いようにしてくれ」
「カエルじゃないの?」
さっそく失礼千万な妹に狼狽える兄に対し、ノーラはのんびり言った。
「構わんぞ、小童。さっきの美味いストロープワッフルに一役買ったのはその小娘であろ。娘よ、大変美味かった。礼を言おう」
「……ど、どうも……」
並々ならぬ気配を感じたか、かしこまるリシェはようやく袖を放してくれた。
彼女は昼のサンドイッチを食べる兄たちと、両腕を枕に桶で休むカエルを眺めつつ、イレーネが淹れてくれた美味しいお茶を飲んで落ち着いて来たらしい。
「ねえ、私も行っていい?」
「話を聞いてただろ、リシェ。駄目に決まってる」
「なんで兄さんはいいわけ?」
「僕は――……彼と約束が有るし、多少は魔力ってものがあるから……」
疑わしき目をする妹は、つんと顎を反らせた。
「フーン、いいけど……危ない事はしないでよ?」
「し、しないよ……」
気弱そうに首を振る兄だが、妹の視線は変わらなかった。
「イレーネさん、ちょっといい?」
急に席を立った妹が、快く頷いた娘を連れて出て行くと、ノーラはぼんやり言った。
「お前も、妹には頭が上がらんのだなあ」
「……そうだけど――……”も”ってどういうこと?」
「知り合いに居たのだ。女王も多少なりとそうであったが、妹を持つ兄というものは更に気忙しいものだ」
ロニが頭を掻いている頃、廊下に出たリシェは、イレーネを前に言った。
「……あのね、イレーネさん――気付いてるかもしれないけれど、兄さんは……けっこう危なっかしい性格なの」
「はい。ロニ様は、ディルク様に似ていますから、わかります」
「えっ、ご先祖様は……もっとしっかりしてたんじゃない?」
「ディルク様はお仕えした『花園の魔法使い』で、いちばん口が悪うございました」
意外な言葉にリシェが瞠目すると、メイドはいたずらっぽく笑った。
「歯に衣着せぬ御方だったのです。良い言い方をすれば、裏表のない、正直な方でした。だからというのもあるでしょうか……人と接するのはあまり得意ではありませんでしたね。ご自身の美しさを褒められるのも苦手で、お店は勢力的に盛り立てていましたが、お客様の前に出ることは稀でした」
「そう……それは確かにちょっと似てる」
苦笑したリシェは、ちらとキッチンの方を見た。そこでは何やら意気投合したらしいマイルズとカエルがハイタッチし、ロニが呆れ顔を浮かべている。
「お兄様が心配なのですね」
リシェはそちらを見たまま頷いた。
「……兄さんは今はこんな感じだけど、昔ちょっと色々あって。”若気の至り”とかじゃなくて、色々上手くいかない自分に腹を立ててた。今回のこと――兄さんは本の中に残った人に、昔の自分を重ねてると思う」
「ご自分を……」
「兄さんね、この店を継いでほしいっていう両親の期待に応えようと必死だったの。でも、誰だって向き不向きはあるでしょう? 自分はこの家の子なんだからできるはず、頑張らなくちゃって、すごく空回りしてた。……きっと、本心を聞いてくれてたのはマイルズぐらいで……ある時、急に限界が来て爆発しちゃったの。兄さんにとって、その時の記憶は結構なトラウマなのよ。だから目の前に似たような人が現れて、かなり意識してると思う。無鉄砲なマイルズと違って、普段の兄さんはこんなに行動力無いんだから」
当時、乗り回していた愛車――トラウマの品の一つを引っ張り出すぐらいだ。
リシェは少し背の高いイレーネを仰ぎ見た。
「助けようとして、無理をするかも。私の代わりに注意して貰えませんか?」
乙女は片腕を体の前に、優雅なお辞儀をした。
「かしこまりました。私にとっても大事な御方です」
「ありがとう」
きちんと頭を下げたリシェは、不思議そうに言った。
「貴女が会ったばかりの兄さんをそんな風に思えるのは、ご先祖様の所為?」
「お召し頂いた手前というのもありますが……ノーラも含め、私たちは本来、この世界の人々が好きなのです」
「え……どうして?」
「悠久に等しい私たちの世界は、移ろわぬものです。変わらず在り続けることは安定していますが、繰り返される日常にノーラの様に退屈に感じる者も居ます。私は退屈とは思いませんが、こちら側に呼ばれて以降、魅せられてしまった一人です。悩んで、迷いつつも、あなた方は成長する。それは私たちには無い物ですから、つい、その行く末を見たくなってしまいます」
「無い物かー……」
壁に寄りかかり、兄の方を見ながら、妹は笑った。
「そう言ってもらうと、失敗も素敵に聴こえるね」
「ディルク様だって、完璧ではありませんでしたよ。ロニ様がそうであったように、ご自身の無力さに腹を立てていたこともあります」
「でも……ご先祖様はすごい魔法使いだったでしょう? 兄さんも魔法が使えたら……あの頃、悩まずに済んだのかしら」
「いいえ、リシェ様。魔法は所詮、力であり、それ自体は倫理を持ちません」
かぶりを振ったイレーネの声は静かだったが、確信と厳しさに満ちていた。
「魔法は使う者の心次第では便利ですし、何かを救うこともできましょう。しかし、強すぎる力は判断を鈍らせ、誤りを気付かせない。ディルク様はお心を鍛える為に、よく、書に触れ、各界の賢人の言葉を学ばれました。それでも間違えることはあり……昨晩、ロニ様がお店の内で考え事をなさっていたように、物思いにふけっている姿は幾度となくお見掛けしております。努力家で、ひねくれていて、独りを好まれるのに、いつも誰かのことを考えている御方でした……」
廊下の奥――店の方を見つめながらの言葉に、リシェは同じ方を見ながら頷いた。
ちょうど、仄かな光が差す廊下には家族の写真が飾ってある。幼い頃からの兄妹の歩みが並ぶ廊下で、リシェは呟いた。
「……そう言われると、私たちは兄妹で良かった気がする」
「ええ、その通りです。ロニ様は、リシェ様が居て、本当に良かったと思っている筈です」
娘はキッチンを振り返り、何やらうんざり顔をしている兄を見て、気恥ずかしそうに頷いた。
日曜の図書館は、平日とさして変わらぬ雰囲気だった。
強いて言えば少しだけ子連れが多く、少しだけ勉強する若者が増える程度。
ぞろぞろと入っては怪しまれる上、ロニやマイルズはスタッフに顔が知られているし、イレーネは少々珍しい恰好に加えて、レンが腹を空かしているのではとサンドイッチを詰め込んだバスケットを持っている。ノーラは図書館に必要とは思えない小麦袋……これ幸いだったのは、マダム・フリーゼが休みだったことである。
昨日の今日で顔を合わせたら、何を言われるかわからない――心底ほっとしつつ、ロニはスタッフ向けのエリア付近で、イレーネに例の幻惑魔法を頼んだ。
こちらの姿が見える範囲の人間は、ロニを含むスタッフ二名が書籍と思しき荷物を持って奥に入った様にしか見えないようにしてもらった。
スタッフは表の貸し出し手続きや整理に集中しているので、奥には誰も居ない。
扉を抜けると、ロニは微かに眩暈を覚えた。
「大丈夫ですか?」
不安げに声を掛けたイレーネに、額に手をやりながら何とか頷く。
「お、思ったより倦怠感があるんですね……」
「すみません。しばらく使わずにいれば、調子は戻ります」
労わる調子のイレーネに頷いていると、担いでいる小麦袋の中で嘆息がした。
「情けない小童め。……だが、仕方あるまい。お前とイレーネはディルクの術を間に置いての仲だ。絆が弱い分、燃費が悪いのは否めん」
「まあまあノーラ様、こいつがイレーネ嬢にチップを弾むと思えばいいさ」
マイルズの要らん励ましに溜息を吐くと、ふと足元で何かが動いた。
「あ、なんだ……フランソワか」
一体いつからそこに居たのか、当図書館のネズミ捕獲長――今日も銀灰色の毛並みが美しいフランソワは、前足を揃え、ロニを見上げて金目を爛々とさせた。
「どうしたの? 僕に寄って来るなんて珍しい――」
屈んで声を掛けたロニは、ウッカリしていた。自分が”何”を持っているか忘れていた。刹那、素早い身のこなしでフランソワは飛び掛かって来た。
ロニが抱えた小麦袋の中身――大変大きな
「わわっ! ダメだよフランソワ!」
慌てて袋を持ち上げた拍子にそれは遠心力で宙を舞い、例によって驚いて飛び出たノーラこと、カエルに猫が肉薄する。
「なんだこのケダモノは!」
王冠を押さえ、マントを翻らせたノーラが叫ぶ。ぴょんぴょんと廊下を逃げる姿を、慌てて他の二人と追いかけながらロニは叫んだ。
「ノーラ! 奥の部屋だ!」
そのまま飛び込め――と言いたかったのだが、カエルに扉を開けることはできるのか? あ、いや、それより鍵は自分が持っている!
おまけにさっきの魔法でクラクラして――……
フランソワの爪がカエルのマントに掛からんとしたとき、不意に目的の扉が勢いよく開いた。
「きゃっ⁉」
当然といえば当然の悲鳴を上げて尻もちを付いた相手を見て、ロニはびっくりした。
「キャロルじゃないか……!」
床で痛そうにしているのは、確かに同僚のキャロルだ。すぐ傍に彼女と一緒に倒れたキャリーケースが転がり、その上をノーラが飛び越え、フランソワが脇をすり抜けて追っていく。
「だ、大丈夫かい? なんで君が此処に……」
怪しい件の相手だが、そうと決まったわけではない。同僚に膝をついて尋ねるロニに、キャロルはばつの悪そうな顔で答えあぐねた。
「わ、私は……ちょっと、忘れ物を……」
「忘れ物? キャロル、君――」
「おい、ロニ! 呑気にしている場合じゃない!」
マイルズが勢いよく肩を掴み、開いた扉の方を指差す。ロニは目を剥いた。机の上で、本が業火に燃えていた。前日の比ではない――机ごと丸焼きにしそうなそれを見て、イレーネがロニを女とは思えぬ力で引き起こした。
「行きましょう!」
「でも、キャロルが――……」
呻いたロニの背を、誰かがドンと押した。肩越しに振り返った先で、マイルズがニヤッと笑ったのが見えて、ロニはぐっと唇を引き締めて頷いた。
「ノーラ! 参りますよ!」
イレーネの呼びかけに、本棚の上からノーラが飛び出した。そのカエルの口から、体の中に有ったとは思えない量の水が勢いよく吐き出され、炎に包まれた本に噴射する。突然の水に驚いたらしいフランソワが飛び退くのを視界の端に、辺りは爆発するような噴霧に包まれた。ロニがカサカサと乾いた何かに触れたと思ったとき、そこはもう書庫ではなかった。
「こ……これは……」
同じ場所に来たとは思えないほど、そこは様子が変わっていた。
まるで、戦争の後だ。
以前見た様な立派な木々は鉛色に染まり、葉は煤にどす黒く汚れて枯れ落ち、不思議な動植物は虫一匹、花一輪見えない。小川は干からびて底はひび割れ、白茶けた地面を覗かせている。薄い靄のような煙が立ち込める辺りを見渡し、ロニは呆然とした。
「違う本の場所に来たんじゃ……?」
思わずそう呟いたとき、傍らで支えてくれていたイレーネが沈痛な面持ちで首を振った。
「……いいえ、此処はドリュアスの森で間違いございません。とても弱いですが、気配を感じます」
「そ、そんな……じゃあ、彼女は今どこに……」
「姿は見せまい。ドリュアスは森との繋がりが深い種族。森がこれでは、顕現できるほどの力が無かろう」
ぺたぺたと歩いて来たノーラは、マントを翻して鼻息を吹いた。
「そんなことより小童! あんなケダモノが居るとは聞いておらんぞ!」
「ごっ……ごめんよ、まさかそのサイズのカエルまで追い掛けるとは……」
フランソワの勇敢さは我が図書館の誇りになりそうだが、目前のカエル王の怒りは当然だ。こればかりは平伏する他ないロニが地に膝付いてひとしきり謝ると、ノーラはマントを確認し、王冠を直しながらプンプンと憤慨した。
「まったく、私ほどの者でなければ危うく喰われておった。気の利かぬ奴め!」
「で、でも凄いよ、ノーラ。その小さなお腹のどこにさっきの水が入ってるの?」
「様を付けんか不届きもの。あんな量、入っとるわけなかろ……この舌先の陣と我が泉は繋がっておる。あの場が枯れぬ限りはどうにでもなるのだ」
褒められたことに多少なりとノーラが機嫌を良くしたところで、ロニは辺りを見渡した。此処はどの辺りなのだろう? 以前は案内をしたのはレンなので、樹木の有る無しに関わらず、場所は見当もつかない。
「イレーネ、奴の気配を感じるか?」
ノーラの問いに、イレーネはある一方向を見据えていたが、首を振った。
「……いいえ、近くにそれらしいものは感じますが、あのファウストが、こんな弱い気配の筈がありません」
「うむ。『大喰らいのマギア』の気配も感じぬ」
「ええ、でも……ノーラ、確かに
二人の様子を交互に見ていたロニは、「あっ」と声を上げた。
「なんだ小童。おどかすな」
「いや、その――まさかキャロルが魔女だったら、マイルズが――……」
「安心して下さい、先程のお嬢様は魔女の気配も感じない、普通の人間でした」
「そうだ。お前の友人は見込みがある。上手くやるだろう」
そう言われると、今度はキャロルが気の毒に感じたが、マイルズのことだ――口八丁での尋問はお手の物だろう。
「では行くか。話の通じる相手ならば良いが」
ぴょんと飛び上がったノーラがおぶさるように肩に掴まって来る。
傍らを歩くイレーネが、心配そうにこちらを見た。
「お加減は如何ですか? ノーラを降ろして頂いても――」
「あ、うん……大丈夫。何だろうな、もうそんなに辛くないよ。この間は本に入った後に気を失っていたんだけど……君たちが居るからかな?」
「簡単だ。貴様は水に所縁ある者。我が力とは相性が良い」
どこか満足そうにノーラは言う。
「前回は初めての転移であろ。火で招かれた故に体が驚き、身を守ろうと一度に魔力を使用したのだろう」
「ノーラはなんでも知ってるんだなあ……」
「様を付けろ!」
顔面にぴゅっと子供の玩具から発したような水鉄砲を食らい、ロニが悶えるのをノーラはけらけら笑った。嗜めようかと思ったイレーネだが、ロニが水を拭いながら笑っているので同じように微笑んだ。
「イレーネよ、お主にはキツイ環境ではないか?」
「確かに……大丈夫?」
光も水もないカラカラの世界を『花』が闊歩するのは厳しいだろうに、イレーネは落ち着いた様子で首を振った。
「ありがとうございます、大丈夫です。サンドイッチの方が心配ですわ」
持ち上げて見せるバスケットには、今度もリシェと一緒に詰め込んでいたお弁当が入っている。それを見下ろし、ロニは首を傾げた。
「君はなんていうか……食べることにきちんとしているんだね」
「人間は、それが最も効率的な栄養なのでしょう? 私は人間的な食事は必要としませんから……少し、羨ましい気持ちもあるのです」
「羨ましい?」
「人間の食べることへの工夫は目を瞠るものがあります。満足に材料が無くても、より美味しく食べようとする意欲は、私たちには無縁のもの。せっかく楽しいお食事ができるのに、食べずに済まそうとするのは何だか許せません」
「なるほどねえ……」
「ディルクはよく叱られておったな。あの黒くて苦い汁ばかりガバガバ飲みおって」
「苦い汁って……コーヒーかな。そうか……働き者のご先祖様がそれじゃ、体に悪いね。イレーネが居て良かったよ」
自然に言ったロニに、娘はちょっぴり頬を赤くした。
「さよう……人間は食ってこそ、まともに動ける。しかし、程ほども肝心だぞ。その飽くなき意欲が『大喰らいのマギア』を生んだのだからな」
ノーラの言葉に、ロニがイレーネを振り返ると、彼女も神妙な顔で頷いた。
「正確な起源は不明です。しかし、悪魔は人有ってのもの。私たちは移ろわない為に、人間が求める程の欲望や絶望を持ちません。マギアがとめどなく喰らおうとする欲は人が持つそれと一致しますし、マギアが求めるものを与えられるのは人だけです」
「いわば人の陰なのだ。故に魔は滅びぬ。何度でも甦る」
彼らの言葉を聞いていたロニは、ふと立ち止まった。その足元で、草だったものが脆く崩れて灰となって飛んで行く。
「それじゃ……本来、君たちには関係のないことなんじゃないの……?」
それなのに危険に付き合わせては申し訳ない――……顔をしかめるロニに、二人は可笑しそうに笑った。
「小童の癖に、生意気なことを言いよる」
「失礼ですよ、ノーラ。ロニ様はお優しいだけです」
お茶の最中のような楽しい調子で言い合うと、ノーラが肩をポンポンと叩いた。
「良いか、小童。我らは移ろわん。仮に戦いで消滅しても、やがて復活する。この永遠、この悠久を巡る中――退屈こそが手ごわい敵なのだ。無論、我らとて関わり方は選んでおる……貴様のように卑小なる者が、我らの心配なぞ千年早いわ」
「ロニ様、今の私たちは何かに縛られて此処に居るわけではありませんし、もし、本当にファウストやマギアが関わるのなら、これは魔法を知る私たちの方が縁あること。……貴方の方こそ、所縁なき危険に足を踏み入れること、お気を付け下さい」
「うん……わかった。でも、僕たちは会ったばかりなんだし――」
「うむ? 過ごした時間は関係ない。我らからすれば、お前の先祖のディルクと過ごした時間も、今過ごす時間も殆ど変わらん。私はそれなりに貴様のことも気に入り始めておるぞ」
「私もです」
ロニは赤くなって頬を叩いた。こんな自分のどこが良いのやらと頭を掻きつつはにかんで、「ありがとう」と言った。
辺りに、煙が立ち込め始めている。ただ火を燃やすだけの煙とは明らかに違う――おどろおどろしいそれは、触れただけで纏わりつくような存在感と熱を感じた。ノーラはマントで鼻先を覆い、イレーネは迷惑そうにバスケットを上に掲げている。
「なんか……気持ち悪い煙だね……」
袖で口元を覆ったロニが軽く咳込みながら言うと、ノーラがくりくりした目をスッと細めた。
「あまり吸わぬほうが良さそうだ」
彼にしては低く言うと、フッと何かを吹いた。輪のような形の霧が幾重にも連なり、目の前の煙を押し退けていく。開けた視界の先に、それは在った。
「……なんだ……あれ……」
呻いた額に、嫌な汗が浮かぶ。開けた視界の先に、塔のように背の高いものが立っていた。あの消し炭になった黒い樹かと思ったが、そうではない――もっと不気味なものだ。それは大地にねじくれた根を穿つように立ち、木だとすれば幹に当たる部分からは枝かと思いきや――真っ黒な骸骨の手が何本も伸びている。上に向かって開いた手のひとつひとつに炎が燃える不気味な姿は、悪趣味なキャンドルタワーだ。
「この炎が発する煙の様ですね」
眉をひそめてイレーネが言う通り、ぶすぶすと燃える炎からは重たげな煙がたなびいている。
「何を燃やしているのでしょう……? 燃える物の類は見えませんが……」
近付いてみて見上げるが、不気味な手の上には薪の類も、燃料らしきものも見えない。荒野と化した世界で、ぽつんと立った塔で、炎が音もなく燃えている……
畏怖を抱いて塔を見上げていたロニの頭を、不意にノーラのぬるっとした手が掴んで無理やり動かした。
「そこの奴に聞けばわかるんじゃないか?」
されるがままに示される方向を見たロニは、「あっ!」と悲鳴を上げた。
塔の根本――絡み合う根のようなそこに、地味な茶色のコートの裾が翻っていた。
「きっと彼です!」
ロニは慌てて走り寄り、正面に回り込んで息を呑んだ。
確かにレンだった。――が、何が有ったのか、彼の体は塔に生えた腕にがんじがらめに押さえつけられ、立ったまま塔に縛り付けられたようになっている。気を失っているらしい顔には灰色の髪が掛かり、蒼白だった。
「レンさん……! 一体、何が……助けないと――」
骸骨の黒い手を掴もうとしたロニの腕は勢いよく割って入った繊手に止められた。
「慌ててはいけません、ロニ様。私にお任せください」
イレーネは骸骨には触れず、レンの周囲を仔細に見つめ、すぐ傍で燃えていた炎をじっと見た。
「ノーラ、この炎に水を下さい」
「承知した」
強力な水鉄砲が狙い違わず炎を消す。刹那、それはもうレンの姿をしていなかった。
どろどろと彼の顔は黒い蝋のように溶け、即座に作り直すように別の姿に変わった。
軍服の男は、軍帽の下の死人のような顔を邪悪に歪めた。
「これはどうしたことだ――……力有る者が居るなァ……」
忌々しそうな目が、ロニの前に立つイレーネに移り、肩に乗ったカエルを見た。
「貴方は……フーゴと呼ばれていた――」
ロニが呻く。レンが帝国時代の仲間だと言った男は、塔に溶け合う様に半ば同化した体で喉の奥で笑った。掠れ声の口から、灰でも掻き回したような煙が出た。
「誰だ……? 俺たちを殺そうとする敵か……?」
「敵には違いあるまいな」
目を細めたカエルの言葉に、イレーネがそっと頷いた。
「相手に合わせた幻覚を見せる――……この煙の作用ですね。何者ですか」
静かなイレーネの声が問う。
「微かに人の気配が致しますが、殆ど違う。あの男の気配も少しします」
「何者かって? フフ……ヒヒ……俺は何者だろうなあ……わからん、わからん、脳天ぶっ潰されちまってから、あの頃のことしかわからん……ヒヒヒヒ」
言いながらも、男は何者かを証明するように軍帽を脱いだ。ロニは思わず一歩引いた。帽子をかぶる筈の頭部は殆ど”無かった”。何かに齧り取られたように、脳の半分は抉れ、それでいて黒い何かがどろどろと詰まっていて、悪夢のような有様だ。
「その体……なんと禍々しい呪い。ファウストか?」
ノーラの問い掛けに、男は軍帽を被り直しながら笑った。
「ファウスト? はて――総統閣下はもういらっしゃらないが……フフ、フフフ、外野は引っ込んでくれまいか。今は旧友と遊んでいるところだ」
「旧友って――」
ロニが声を上げたとき、何処かから降って来た何かが、風を唸らせて凶器を振った。
塔に同化していた男は”それ”を認めるなり、狂気の笑みを浮かべつつ、塔にドプンと沈んで消えた。一歩遅れて振り下ろされた刃が塔の黒い表面――辺りの骸骨の手もろとも薙いで火花が散る。
「……本当に、力を得て戻って来るとは思いませんでした」
呆気に取られていたロニに、巨大な刃物――否、蝋燭消しであるそれを手に、か弱い笑みを浮かべたのはレンだ。
「レンさん……ご無事だったんですね……!」
ホッとした顔で言うロニに頷くと、レンは自身を見つめる乙女とカエルを振り返った。
「あなた方は……『花園の魔法使い』所縁の方々でしょうか?」
「はい。イレーネと申します」
ロニと出会った時よりも固い調子で腰を折るイレーネを余所に、ノーラの方はロニの肩に乗ったまま、黒い両目でじいっとレンを見た。
正確には、その手に有る蝋燭消しを見つめて、高名なるカエルは言った。
「そういうことであったか――杖に化けるとは考えたな、『大喰らいのマギア』よ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます