4.カエル

 翌日、日曜日のよく晴れた田舎道をロニは車を走らせていた。

まだ住んでいる都を出ていないが、本来の『女王の湖マリアンヌ・レイク』が在った場所からは、かなり距離を置いた郊外まで来た。王宮パレスが健在だったとすれば、此処からも辛うじて白い尖塔が見えたかもしれないが、今は瓦解しているし、伸び放題の木々に隠れて方向もわからない。道の脇を花を付けた野草が占めている石畳は長閑だが、所々が古びて剥がれたり崩れている。

それをさておいても、ロニのミントカラーの車はがこんがこんとよく揺れる。あまり車に乗らない一家のこと、久しぶりに引っ張り出した愛車は、車検が通っているのが不思議なほど、各所にガタが来ているらしい。

「淑女を乗せるにはまずい車なんじゃないか?」

「じゃあお前が自慢の車を持ってくればいいだろ!」

発進からずっと隣席で文句を垂れる男に言い返すと、片手を振って鼻で笑った。

「生憎、車検中でね」

「去年も言ってたぞ。何年やってるんだ?」

「ロニ、お前は本当に丸くなったなあ、コイツもすっかり錆びついて……」

「は、話を逸らすな!」

「私は大丈夫ですよ。馬車より揺れません」

後部座席のイレーネは気遣ったのだろうが、ロニは気恥ずかしさに顔を赤くした。

彼女は景色を眺め、気にした様子はない。その膝には、バスケットが載っている。中には朝からリシェと作っていたストロープワッフルが缶に収められて入っていた。

妹は一緒に来たかったようだが、日曜の教会は礼拝だの寄付だの忙しい。

「……マイルズ、余計な事は言うなよ」

こっそり言うと、友人は本当に友人かと疑いたくなるような笑みを浮かべた。

「フフン、イイ子ぶって気に入られたいのか? 可愛いもんなァ」

「違う! 不信感を持たれたら、自分の世界に帰ってしまうかもしれないだろ」

「確かに、お前の過去は不信に満ちているものなあ」

涼しい顔を横目で睨みつけていると、イレーネが声を上げた。

「ロニ様、間もなくです――あの木立の向こうかと」

指さすその先は、風車小屋だった。朽ちて回っていない大きな風車が付いている為にそれとわかるが、隣の小屋も屋根が落ち、草はぼうぼうに生えて荒れ放題だ。

そして奇妙な事に、辺りに川は無かった。すぐ傍の民家に断ると、先祖の代は使っていたが、治水工事で川が動かされて使われなくなったという。

「こんなところに、水妖なんて住めるのか?」

車を降りて風車を見上げ、全くその通りのことを言うマイルズに、バスケットを抱えたイレーネも同じように風車を見つめた。

「以前は、この中でよく昼寝をしていたのですが……今は居ない様ですね」

「やっぱり……川が無いからですかね?」

「ええ、でも……近くにノーラの気配を感じます」

「近くって……」

乙女が指さす先は、鬱蒼とした森だ。山に続いているところを見ると、かつて川が流れて来ていた方向だろう。

「行きましょう」

そう言われては行く他ない。先程の民家に車を頼み、三人は道なき道へと踏み入った。草を掻き分け、木々の下に入ると、急に辺りはしんと静まり返った。

かつて川が有ったからなのか、地面はぼこぼこしていて足を取られる。おしゃれな編み上げブーツを履いているイレーネは、女性とは思えないほど健脚だ。バスケットを庇う様にしながら、ロングスカートが草葉に触れるのも、垂れ下がる蔦や蜘蛛の巣が髪に触れるのさえ気にした様子もなく、どんどん押しのけて進んでいく。

ヒイヒイ言いながら従う情けない男二人を待ちながら、乙女が進むにつれ、いつの間にか人間の生活音はすっかり聴こえなくなった。何処かで小鳥が鳴き、虫の声がする。ドリュアスが居た世界に似ているが、此処は普通の森なのだろう。

ふと、汗を拭ったロニは顔を上げた。

辺りの草木が風に揺れる音に混じって――ノイズのような音と、小川のような水の音がする。イレーネが除けた枝葉の向こうに、それは在った。

スポットライトのような光を浴びて、細く長い滝があった。滝の上部は空を丸く切り抜くような茂みになっていて、辺りの岩場は白く輝き、滝壺はサファイヤがちりばめられているように煌めいている。

お喋りの友人さえ、疲れを忘れた様な顔で眺めた。

「綺麗な……ところだなあ……」

ロニが疲れた息で感嘆の溜息を吐くのをよそに、イレーネが周囲に声を上げた。

「ノーラ! 居ませんか? 私です、イレーネです!」

澄んだ声がこだまするが、辺りは滝の音が響くだけだ。

――居ないのだろうか? ロニが早くも気落ちしそうになった時だった。

「ディルクゥゥゥッ‼」

大きな叫び声と共に、何処からか降って来た何かが背中にしがみついた。

「わ、わわわッ!」

悲鳴を上げてたたらを踏んで慌てるロニに、後ろの何かは尚も叫んだ。

「この色男め! どの面下げて来おった‼ この私の見舞いを断りおって!」

「み、見舞い……⁉ い、いたたたた!」

おぶさる様にこちらの背にくっ付いたそれは、何か濡れたもので髪を引っ掴んでぐいぐい引っ張る。たまらず、振り落とそうとして奇怪なダンスを踊らされたロニとそれの間に、イレーネが割り込んだ。

「ノーラ! おやめなさい! その方はディルク様ではありませんよ!」

「何だと?」

「魔力で判断しないで、降りてよく御覧なさい。早とちりなんですから……」

ひょいと飛び降りた”何か”が、そんな筈はとブツブツ言いながら、軽い歩調で足元の草を踏みながら前に来た。

痛む髪の根をさすりながら、ロニは涙混じりの目で相手を見て、ポカンとした。

「カ……カエル……?」

それは、見紛う筈もない緑色のカエルだった。

「リシェは……来ないで正解だ……」

マイルズが呻いて見やるそれは、くりりとした黒い目も、柔らかそうな指の手足も、大きな口も、確かにカエルだが――有り得ない大きさだった。三歳児ぐらいのサイズはある上、人のように二足で立っている。おまけに、洒落た金刺繍のあるシックな臙脂のマントを身に着け、頭には金の王冠をちょこんと乗せていた。

カエルはまじまじとロニを見て、どう見てもカエルの口で人語を喋った。

「ディルク、お前……」

違うと訂正する前に、彼は気の毒そうに言った。

「見ない間に、ブサイクになったな……?」

ほっといてほしいと思ったが、あのハンサムな先祖を思い出すと言い返せなかった。




 「ディルクめ、死んだのか……」

滝壺の傍に腰掛けながら、ようやくイレーネの話を理解したカエル――ではない、水妖ノーラ・マーナは、最初の剣幕は何処へやら、ひどく残念そうに言った。

顔つきはカエルなので殆ど変わらないものの、目を閉じて天を仰いだ彼が先祖を悼む様子はわかったので、ロニは少し彼が好きになった。

「本当に、人間というものはペロッと死ぬなあ……」

……何やら恐ろしいセリフに聞こえたが、まあカエルの言うことだ。だから怖いというのもあるが、カエルは人は食べない筈だ。いや、水妖というからにはカエルではないのか? ロニがナイフとフォークを持ってテーブルに腰掛けそうなカエルを見つめていると、マイルズが岩場に頬杖ついて言った。

「カエルの方が寿命が長いなんて驚きだな」

口の減らない言葉に、ノーラは褒められたと思ったらしく、胸を張って頷いた。

「当前だ。私は仲間の中でも特に長命にして偉大なカエルだからな!」

……カエルなのは間違いないらしい。

ドリュアスやイレーネを見た所為で、水妖も水の乙女か、絵本の透き通るような美形を想像していたロニは、少々違和感を覚えつつ、王様めいたカエルに向き直った。

「あの、ノーラ……」

「おい、不敬だぞ人間。様を付けんか」

すかさずイレーネが何か言おうとしたが、ロニはそっと片手で止めた。

「えーと、すみません、ノーラ様……会いに来た理由は、イレーネが話してくれた通りです。僕に力を貸してくれませんか?」

「なんでだ?」

つっけんどんに返って来た問いに、ロニは硬直した。断られるのは想像していたが、問いで返って来るとは思わなかった。

「あの……えっと……知り合いを本の中に置いてきてしまったので……」

「それがわからん。そいつと貴様は友人なのか?」

「それは――会ったばかりですけど……」

もごもごと言い淀むロニに対し、マイルズが口を挟む。

「察するにね、ノーラ様、コイツは啖呵を切ってきちまったのさ。勢いで安請け合いした所為で、後に引けなくなってるんだ」

「ほう、とんだ身の程知らずの阿呆ということか。さすがはディルクの子孫だ」

いちいち尤もな意見に、ロニは縮こまるしかない。

「……ノーラ、あまりディルク様やロニ様をそしるのはおやめなさい」

苦言を呈した乙女に、カエルは呆れたように嘆息した。

「変わらんな、イレーネ。そ奴など、ディルクの半分にも及ばんというのに」

「その半分をディルク様と間違われたのは何処のどなたです? これ以上、失礼なことを言うと本当に怒りますよ」

厳しい語調で言うイレーネの言葉に、カエルは肩をすくめるような動きをして、マントに顔を埋めた。ロニは彼女に感謝しながら平伏するように詰め寄った。

「お、お願いできませんか? ストロープワッフルも持って来たんですけど……」

「うむ。高貴なる者を訪ねるのに手土産は必須だ。しかしな、それは賄賂というものだぞ」

何とも正論を吐くカエルだ。

「ノーラ、そんなことは有りません。これは私が……」

「イレーネ、お前が用意したものなのはわかっている。――いいかね、人間。誰かの力を借りるということは、そんなに易いことではないのだ。イレーネはディルクの家に長く仕えた者ゆえ、子孫の貴様に思い入れもあろう……だが、本来なら、彼女も非常に有能且つ力有る花の乙女なのだ。ディルクへの義理無くして、お前ような小童こわっぱに手を貸す必要はないんだぞ」

ロニはハッとしたが、イレーネはきゅっと眉を寄せた。

「またそんな意地悪を言って……ノーラ、貴方はすすんで女王様にお仕えしたでしょう?」

「当然だ。マリアンヌは我が生涯、最高の女王。相応しいと思った者に仕えるのは、我らも人間と同じではないか。人間はそこらが”ちと”チグハグしておる。単に金を持った能無しにも仕えるし、バカな権力者にも従う。心無き忠誠を誓い、隙を見せれば容易に裏切る。我らは違う。誇りも高き存在だからな。小童が契約も無しに私の力を借りたくば、それ相応の誠意を見せるべきだ。ワッフルをお前に用意させ、殊勝に頭も下げぬとは、世間知らずにも程が有る」

託宣でも受けた様な顔で、ロニはカエルを見た。伊達に王冠を被っていない。説得力のある言葉だ。イレーネを振り返ると、彼女は困り顔で首を振った。

「ロニ様、私は義理などというつもりは……」

「うん……わかってる。ありがとう、イレーネ。ノーラ様の言うことは尤もだ」

眉をひそめたイレーネの手に有るバスケットを見つめ、ロニは頷いた。

「貴方が言う通りだ、ノーラ様。僕は世間知らずで甘い。だけど、今は時間が無い……後で幾らでも言うことを聞くから、誠意だけでも見て判断して頂けないだろうか?」

ノーラは丸い吸盤のようなものがついた手で、ぺとりぺとりと自身の顎を撫でた。

「ふむ。殊勝な姿勢は悪くない。ならばディルクの子孫よ、お前の得意なことを披露して見せよ」

「と、得意なこと……?」

「種類は問わぬ。歌でも踊りでも良い。物が必要ならばある程度は用意してやろう。女王亡き後の私の退屈を紛らわせるのだ」

「そ……そう言われても……」

――何か有ったか?

歌や踊りなんて披露する程の技能も自信も無い。

悩んでいると、マイルズが小突いた。

「ロニ、こういう時にハッタリは利かんぞ。お前の得意技はアレだ。アレをやれ」

「あ、アレ……?」

彼がそっと耳打ちし、ロニは仰天した。

「え、あ……アレ?」

「そうだ。最近聞かないが、お前はガキの頃から、スれてた時も上手かった」

「よ、余計な事言うな! アレ……そうか……」

短い逡巡の末、ロニはこほんと咳払いした。

「ノーラ様……僕は目立った才の無い男ですが、本が好きで……好きな物語は、殆ど暗記しているのです。その内の一つを、お聞かせしても宜しいですか」

「おお、良いぞ。つまらなくても良いぞ」

妙なエールを受けて、ロニはどれにしようかと間を置いてから、一瞬……カエルと姫の話を思い浮かべたが、やめにした。

「じ、じゃあ……『女王と魔女』の話を……」

国内では推薦図書にも必ず上げられ、初等教育では道徳の一環として習う物語だが、人ならざる二人の顔色が変わった。

「ま、まずいですか?」

イレーネが少し困ったような顔をしたが、ノーラは――たぶん、笑っているのだろう、人間で言う所の悪だくみするような顔で言った。

「構わん。それでいい。続けろ、小童」

「は、はい」

促されるまま、ロニは話した。



 昔、平和で豊かな王国に、二人の王女が生まれました。

アンヌは愛らしく賢い王女、

アンネも愛らしく賢い王女でしたが、彼女には生まれつき、大きな痣がありました。

けれど、姉妹はとても仲良し。

お勉強も、お食事も、散歩も、パーティーも、眠る時もいつも一緒。

二人が十五歳になる頃、王様は二人に良い婿は居ないかと探し始めました。

人々は噂しました。きっとアンネは結婚できまい。あんな痣があるのだから。

それを聞いたアンネは落ち込みました。

そんな彼女をアンヌは励ましました。

「誰が何と言おうと、貴女はとっても美しくて賢いわ。きっとそう思ってくれる人は居る筈よ」

そんなアンヌは、多くの相手から引く手数多。

アンネは顔を理由に次々と断られます。

人々は、また噂しました。次代の女王はアンヌに違いない!

だんだん、アンネはアンヌが妬ましくなっていきました。

勉強だって、話すのだって、私の方がずっと上手に出来る。

私の方が女王に向いているのに、顔だけで、アンヌに譲らなければならないの?

悲しみと憎しみのあまり、アンネは禁じられた魔法に手を出しました。

国で一番恐ろしい魔法使いは、彼女に力を与えました。

魔法使いは言いました。

「この力で、千の人間を食されよ。さすれば顔も、地位も名誉も思い通りになるでしょう」

アンネは言われた通りに人を食べました。

だんだん、彼女は人間の感覚を失いました。

どんどん食べて、千人食べる頃には、アンネは美しい顔になり、聡明な頭脳を持ち、素晴らしい女性に見える――魔女になってしまいました。

何も知らない人々はアンネを称え、結婚相手も決まり、王も彼女に女王になるよう勧めます。アンヌはアンネが自信を持って立ち上がった姿を喜び、祝福しました。

しかし、王位継承の前夜――こっそりお祝いしようとしたアンヌは、アンネが人を食べる姿を見てしまいます。

千人食い殺して魔女になってしまったアンネは、食べねば力が失われ、せっかく掴んだ幸福が崩れるのではと怯え、もう人を食べずにはいられない身に呪われてしまったのです。

アンネは正体を知ったアンヌに反逆者の汚名を着せて追放しますが、アンヌは恐ろしい魔女になってしまった姉妹を嘆き、呪いを解くために立ち上がりました。

魔法を調べ、魔女に食われた命を取り戻す方法を求め、各地を旅し、多くの仲間を得たアンヌは、戦いの末にアンネと、彼女に魔法を与えた魔法使いを撃ち取ります。

力を失った魔女を人々は殺すよう求めますが、アンヌは反対します。

「どうして私を殺さないの?」

痣の付いた顔で訊ねるアンネの問いに、アンヌは彼女の手を握って答えます。

「貴女はたった一人の姉妹だもの。償う為にも、一緒に国を立て直しましょう」

手を取り合った二人の女王が治める国は、繁栄しました。

二度と王国に悪い魔法が入らぬよう、二人はこのお話を本に残しました。

この物語が、末永く語り継がれますよう。

二度と悪魔や悪い魔法使いにそそのかされることのないように。

きっと、この本が守ってくれる。



語り終えたロニが顔を上げると、ぺちぺちと湿った拍手が響いた。

「良いぞ、人間。面白かった」

イレーネが上品な拍手をしながら、どこか切なそうな顔をしていた。ロニは恥ずかしそうに髪を搔きながら、彼女を見、目をくりくりさせたノーラを見た。

「もしかして……この話も現実に有った事なのですか? アンヌって……――」

「我が女王マリアンヌのことだろうが、現実とは言えんな。脚色も省略も多過ぎる」

ふんぞり返って鼻息を吐き出し、ノーラはずれた王冠を直した。

「あの戦いは女王と魔女だけの話ではないし、我らもそうだが、女王側も魔女側も、諸々の者が手を貸した激しい戦いだった。二人が仲直りをしたかどうか……それは彼女たちしか知らぬが、二人とも既に亡い。後の世がそう解釈したくばそうするもよかろう。物語とはそういうものだ」

同意するように、頬に掛かった髪を耳元にやって、イレーネが頷いた。

「そうですね……とても酷く……辛い戦いでしたが、悲しい物語のまま残しておくのは、寂しすぎますものね」

「この話は旧時代のベルティナの事実なのか。 国で一番の魔法使いって、コイツの先祖か?」

マイルズがロニを指差すと、イレーネが激しく首を振った。

「違います! ディルク様はこのような魔法使いではありません!」

らしくもなく声を荒げる娘にマイルズが硬直し、ノーラが片手でこれこれと窘めた。

「落ち着け、イレーネ。私のワッフルを割らんでおくれ」

「……申し訳ありません、私……」

静かな溜息を吐き、イレーネは頭を垂れた。

「すまんな、人間。この娘は貴様らには想像もつかぬほど長い年月を『花園の魔法使い』と過ごしておるのだ。何代も誕生を喜び、世話し、看取ってきた。契約とは、縛りでもあるが、絆でもあるのでな」

達観した物言いのカエルに、マイルズは感心した顔をしてイレーネに振り返った。

「悪かったよ、イレーネ嬢。軽率な発言を許してくれ」

「とんでもございません。お気になさらないで下さいませ」

微笑んでくれた彼女は、ノーラに視線を落とした。

「さあ、ノーラ。ロニ様は約束を果たされました。お返事をなさって」

「先にワッフルをくれ。もう我慢できん」

我慢していたらしい彼に、イレーネは仕方なさそうな顔でロニを見た。ロニが頷くと、バスケットの布を避け、缶の蓋を開いた。刹那、ソワソワしていたカエルの舌が目にも止まらぬ速さで伸び、ワッフルに吸着すると勢いよく口に運んだ。

一瞬だけ、舌に妙な紋様が描かれていたのが見えたが、何だろう。彼は缶ごと丸のみにしそうな勢いだったが、口に入れたのは一枚だけらしい。美食家のような顔――多分そうなのだろう――といった顔で咀嚼したノーラはうっとりした。

「うーむ、このサクサクと甘く久しい味わい、実に素晴らしい……パレスで頂いたものに勝るとも劣らぬ」

「それは良かったです。ロニ様の妹君と一緒に作りました」

「ほう、ならばその妹が頼みにくれば良かったものを」

男二人は顔を見合わせて苦笑いだ。やはり、リシェは来なくて正解だろう。二枚目を食べるノーラをマイルズがニヤニヤ笑いながら眺めた。

「我慢できないほど好きなら、四の五の言わずに貰っておけばよかったじゃないか」

「何を言う。これは美味いに決まっておる。食してしまったら、即座に貴様らの要件を聞いてしまい兼ねん。物事に順序が有ることを示さずして力は貸せぬ」

汚れてはいないだろう口周りをぺろりと舐めたノーラは、大儀そうに頷いた。

「ディルクの子孫よ、古い友人の頼みでもある……力を貸してもよい」

「あ、ありがとうございます……!」

しっかり頭を下げたロニに、ノーラはぺとりと顎を撫でて首を捻った。

「礼には早い。ひとつ、確認したいことがある」

「な、なんですか?」

「その『火種』とやら、人間――帝国軍人の姿をしていたと申したな?」

「はい……本当にそうなのか、僕にはいまいちはっきりしなかったんですが……」

レンがフーゴと呼んだ軍服の男だ。

彼が言うことが事実なら、二人は帝国時代に同じ軍属として存在した仲間だ。

どう見ても人間だったが、妙なのは口から黒い煙が出ていたこと。

「ふーむ。……イレーネ、お前は久しい召喚だと思うが、帝国時代はどうしていた?」

「ディルク様が去られた後は、殆ど来ておりません……偶発的なお召しはございましたが、それは別の魔法によるものです」

「そうか。私は主にこちら側で過ごしておるのでな、帝国も眺めていたが、連中を率いていた男が、ファウストと名乗っていたのだ」

「ファウスト……⁉」

イレーネが総毛立って悲鳴のような声を上げた。

「何故? ……あの魔法使いは……ディルク様たちが、確かに……!」

「さよう。我が友人たちはあの邪悪な魔法使いを確かに倒した。故に私も解せぬのだ。小童たちよ、あの総統が何者だったか知らんか?」

再び、ロニとマイルズは顔を見合わせた。先に喋ったのはマイルズだ。

「俺たちも、帝国時代は爺さん婆さんの世代の話でな……それほど詳しくない。帝国を率いたファウストって男は歴史で習ったが、魔法使いかどうかは知らんな」

友人の言葉に、ロニも歴史の授業で習った話を思い出した。

ファウストという男は、一世一代で、このベルティナを帝国として率いた総統だ。

この男の出自は様々な説があるものの、帝国時代の幕開けである、王政に反発した反乱軍の中心者という説が有力というだけで、はっきりしていない。

残っている姿も軍服に身を包んだモノクロ写真のみ。総統という役職にしては優男の印象が有り、うっすら浮かべた笑みは不気味ではあったが、女性人気は高かったとの噂だ。

「どちらかというと、あんたらの言う魔法使いの方が気になるね。ファウストってのは敵だったのか?」

マイルズの問いに、やや蒼白な面持ちでイレーネは頷いた。

「……先程の物語になぞらえるならば……女王の妹君であられるマリアンネをそそのかし、『大喰おおぐらいのマギア』という悪魔を憑かせて魔女にしたのは、ファウストなのです」

「大喰らいのマギア……?」

気味の悪い存在の名を呟くロニに、長い手を器用に腕組みさせたノーラが頷く。

「奴は食う程に力を得るタイプの悪魔。旧時代よりも遥かに昔、その暴虐を神に咎められ、その口を奪われた愚かな奴でな。故に別の何者か――特に女に憑りつき、代わりの口を得て食事をするようになってしまったのだ」

「神様も余計なことするなあ」

要らんことを言うマイルズに、ノーラはにいっと笑った。

「ま、そう言うでない。神は目の前の事にしか奇跡は起こさぬ。それによって起こり得る事象だの代償だのをいちいち検証するのは、貴様らの様にか弱く短命な者のすることよ」

「あんたはいちいち尤もだ。崇めたくなってきた」

崇める態度ではないマイルズだが、気を良くしたらしいノーラは「存分に崇めるがよい」とふんぞり返り、ズレた王冠を直した。

「ノーラ……ファウストは、今どこに?」

「そこなのだ、イレーネ」

王冠をちょいちょい整えながら、ノーラは唸った。

「帝国時代は、我らの感覚では瞬き程度で終わった。今度は民衆による反乱が起こり、総統含む軍人はあちこちで捉えられ、殺されたり野垂れ死んだと聞く。私もここらで、帝国軍人らしきものが棒だの石だので打ち殺されるのを見た」

「……うん、僕らが習ったのも、ノーラ様が言う通りだ。帝国は、当初は王政時代に贅沢していた貴族階級や、利益を独占していた商人や業者を取り締まって人気を得たけど……だんだん、只の絵本や物語を『悪書』と呼んで大量に焼いたり、治水工事や区画整理と言って町の景観を変えたり、古い建物を壊したり、諸外国とのいさかいに国費を割いてしまって、財政難になったんだ……国内全土で飢餓や、薬の不足による死者が増えて……国民の怒りは瞬く間に沸騰したそうだよ」

厳しい目でバスケットを抱えていたイレーネがきりりとした目を持ち上げた。

「嫌な予感はしていましたが……パレスの現状や、先ほどの風車小屋を見ても確信致しました。ノーラ……帝国時代とは、ファウスト本人、又はそれと名乗る何者かが、今日こんにちに行動を起こす為の準備と感じましたが、如何ですか?」

「全く以て、そうであろうな。――かつて、ベルティナ王国内に『花園の魔法使い』が配した花壇の陣形は崩れ、私が女王に頼まれ造りし湖は、この水源からの水路みちを絶たれて今に至る。今、この国には女王も居なければ、国を守る魔法使いも居ない。非常に乗っ取り易い状態だ」

大分、話の規模が大きくなってきたことにロニは狼狽した。マイルズもちゃらけるのを控えて真剣な顔で口を開いた。

「と、すると何だ……帝国ってのは、ファウストって野郎が捨て駒に使った国ってことか?」

「或いは支配よりも、飼っている悪魔に餌を与える為とも考えられる。奴が今も同様の魔法使いとして存在しているならば、悪魔との契約は切れていまい。力を借りる為には契約を続行し、続行する為には飼わねばならん」

「大喰らいのマギアを、ですか? まさか、その為に人を……?」

「それは無いな、小童。お前が話した物語の通り、マリアンネがマギアに憑かれて魔女となり、千もの人間を食ったのは事実だが、何故それで力を得られると思う?」

「え……? 人間に、栄養があるからかな?」

ロニの無造作な答えに、ノーラはおろか、イレーネも、ついでに友人まで目を丸くした。ノーラがぶるると身震いした。

「小童、貴様は人間のくせに恐ろしいことを言う……」

顔を赤くしたロニに慄いた様子のノーラは、ニヒルにチッチッチと指先を振った。

「美味の基準を別のものに置き換えれば小童の言う通りだが、要は魔力を欲したのだ。旧時代までは魔法が日常に有ったゆえ、魔法使いは無論のこと、今とは比べ物にならんほど、魔力を持った人間は大勢居た」

「そうか……だから食べると力を得られたんだ……」

――もしや、先祖が魔法を残さなかったのは、この日を見込んでいたのだろうか。

「旧時代以降――帝国時代辺りからの世の中は、魔力など微塵もない人間の方が遥かに多い。そんなものを食らってもなんにもならん。そこで代わりに食い始めたのが……」

「本……ということですか」

「そう。生物とは異なり、本は存在する限り、込められた力は変わらぬ。賢い私が察するに、ドリュアスの世界に通じる本――それは聖書とやらを装った魔法書グリモワールであると思う。旧時代の魔法使いが、後世に残そうとしたか、或いは意図せずして残った一冊と見て間違いなかろう。マギアは喰って力を得る。今の奴にとっては美味且つ栄養価の高い食事だ」

器用にストロープワッフルを舌で口に入れ、美味そうにパリパリやってからノーラは言った。

「帝国時代とやらで本を焼いたのは……そのような魔力の籠った本を探していたのではないか? 若しくは、何か特別な、目当ての本を探していたか。その『火種』とやらが居残れば尚のこと、そいつを目印に探しやすくなるだろう」

「探す……か」

呟いたマイルズが、ロニを見た。

「なあ、ロニ。ちょっと気になることがある。お前の同僚のキャロルのことなんだが……女優のテオドラ・カノンに傾倒していたようなんだ。俺が話したオカルトは覚えているな?」

「テオドラの屋敷で火の玉を見たって話?」

「そうだ。俺はキャロルの部屋で、テオドラにまつわる物を集めた棚を見た。そこに本が収まるサイズの茶封筒と、テオドラがモデルを務めたメゾン・ダリアの空の紙袋が大量に畳んでしまってあるのを見た。これがどういうことかわかるか?」

「……どういうこと?」

「単細胞め。キャロルは図書館勤めで、日常的に本に触れる。しかも最近までの担当は悪書として焼かれた経験のある本のレスキューとチェックだ。そこで見つけた魔力の有る本を、そいつを探している相手に届けているとしたら? 相手は誰だ」

「そ、それって……!」

「フッフッフ、私はわかったぞ!」

割り込んだノーラがふんぞり返り、王冠がズレたまま言った。

「その”じょゆう”とやらに『大喰らいのマギア』が憑いておるかもしれぬのだな? 或いはそ奴自身がファウスト!」

威張ったノーラが王冠を整える傍ら、ロニは困り顔を浮かべた。

「キャロルが魔女って可能性は無いよね……?」

仮にも同僚を疑うのは気詰まりだ。マイルズは虚空を見ながら唇を尖らせていたが、首を振った。

「俺は無いと思う」

「……どうして?」

「彼女の部屋に、お前の店の香水が有った。一番人気の『イレーネ』だ」

思わずイレーネと顔を見合わせると、彼女はそっと頷いた。

「あの香水のレシピは、変わっていないのでしょうか?」

「その筈だよ。ご先祖様は、香水に関する資料だけは山ほど残してくれたし、僕が知っているだけでも、あの香水はおじいちゃんの頃から変わっていない」

イレーネは嬉しそうに微笑んで頷いた。

「それなら、マギアやファウストが進んで身に着けることはないと思います。旧時代なら、疑われぬよう装うこともあるでしょうけれど、今は疑う者が傍に居ません」

胸を撫でおろすロニを厳めしい顔をしたマイルズが小突いた。

「呑気にホッとしてる場合じゃないぞ、ロニ。女優のテオドラが魔女か魔法使いだとしたら、大いにまずい。キャロル以外にも信者は大勢居るんだ……ファンに本を集めさせているとしたら、デビューから十年は経ってる今、かなりの本を喰っちまってるんじゃないか? しかも、テオドラは今、俺たちが住む町に住み、隣町でロケをしているんだぞ。あの男が現れたのは偶然じゃあない気がする」

ロニが何か言う前に、ノーラがずいと身を乗り出した。

「あの男とは誰だ?」

「さっき、ノーラが友人かどうか聞いた人のことだよ」

「ああ、別世界に残された奴か。イレーネが気になる道具を持っておる奴だな……ほうほうほう……」

つるんとした黒い眼玉を瞬かせ、ノーラは言った。

「まずはそいつに会わねば何ともならんな。よし、行くぞ小童ども!」

声高らかにばさっとマントを翻したカエルは、ズレた王冠をちょいちょいと直した。

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