3.花
「もう……なんだって私がこんなこと……」
自宅の倉庫でブツブツと文句を言っていたのは、リシュエール・ソルベットだった。
兄のロニそっくりのベージュ髪を肩まで伸ばし、湖のような瞳をした娘が睨みつけるのは、部屋のあちこちを眺めているマイルズだ。急に香水屋『
人の良い父母は、子供の頃から兄と仲の良いこの男に寛大で、すぐ隣の店で作業する間は好きにしていいと言ってしまった。おまけに、教会でのお勤めから戻った自分に手伝いをするよう言いつける始末。その上、当の男ときたら、こっちに資料探しをさせておいて、本棚の中や引き出しを覗いたり、細工彫りの飾りを触ったりするだけの妙な行動を続けている。
「マイルズ? 私もう退散していいかしら?」
苛立った口調で言うが、不届き者は顔を上げてにっこり笑い掛けた。
「まあ、そう言うなよ。俺はリシェと共同作業が出来て非常にハッピーなんだから」
「下らないお喋りをするなら今すぐ放り出すわよ。探す気があるなら、あんたも真面目にやりなさいよ」
記者が肩をすくめて捜索に戻ると、娘も溜息混じりに次の本をぱらぱらと捲った。
「やっぱり、ご先祖様の資料なんて香水に関することばかりよ……魔法に関してなんて、何処にも書いてない」
業界でも、もう殆ど使わないような古い蒸留法や、途絶えて久しい霊泉の情報などを眺めて言うと、マイルズは棚の上を観ながら頷いた。
「ま、そうだろうな。手の届く場所には残していないだろう」
「あんたまさか……此処に隠し扉や秘密の金庫があるって本当に思ってるの?」
「もちろんだ。俺だって大事なことは鍵付きのモノにしまうし、信頼できる場所に預けるさ。この部屋の資料を見たって、君の先祖は真面目でしっかりした御仁だ。ロニのようにウッカリ置きっ放しにしたり、常人が安易に見つけちまう場所に大事なものは置かない」
引っ張り出した本には目もくれず、本棚の奥を覗き込む男に、リシェはうんざりと首を振った。
「じゃあ……此処には無いんじゃないの? 鍵付きの箱だって無いってのに」
見渡す倉庫は、今は倉庫の扱いだが、元々はディルク・ソルベットが執務室に使っていた部屋だ。すぐ隣の棟は昔から香水の販売店で、彼はこの部屋で調香やレシピの書留などを行っていたという。古びた本棚やチェストに囲まれ、窓際には大きな机があるだけのシンプルな部屋は、当時は大切な作業が行われていただろうが、今は参考資料を収めただけで立ち入ることも少ない物静かで埃っぽい倉庫だ。
「そいつはどうかな、リシェ。魔法使いにとっての隠し方を俺たちは知らない。開け方がわからない箱なら、鍵が掛かっているも同然だろ」
「舌だけはよく回るわね。だったら見つけたって無意味じゃないの」
「フフン、その為のリシェだ。ロニが魔法の素質が有るなら、君に無いとも限らない。或いはご先祖が、子孫にだけ触るのを許したものがあるかもしれない」
よく回る舌で囀りながら、男は何やら棚の一部をガタガタとやっている。
「ちょっと! 壊さないでよ?」
睨みつけるが、男は脚立の上――本棚の一番高い位置で首を捻っていた。手にしている本は薄いが難しそうな本だ。どうやら、棚の天板をずらしたそこに収めてあったらしい。
「なあ、リシェ……ご先祖は料理が趣味だったか?」
「料理? そんな話は聞いたことないけど……」
「じゃあ、コレは何だ。えー……『サクランボのジャム』、『オリーボーレン』、『ワーテルゾーイ』、『ハーシェ』……どう見ても料理のレシピ本だぜ。しかも手書きの。わざわざ天板の下に隠す程のもんか?」
言うなりマイルズが開いた本は、難しそうなのは装丁だけで、中は学生も使っていそうなノートに書かれたまめまめしいレシピだ。時に小さなイラストを含めた丁寧な文字をリシェは見上げ、自分が持っている香水の資料と見比べた。
「……字が違うわ。それを書いたのはご先祖じゃないと思う」
「じゃあ、先祖の奥方かな? どっちも綺麗な字だが、こっちは女っぽいぜ」
受け取ったレシピ本を捲り、リシェは首を傾げた。
「どうかしら? 奥様のことは、あまり聞いたことがないわ。随分、古い伝統料理もあるわね……」
捲っていると、不意にはらりと何かが落ちた。
「あら、何かしら……」
リシェが小首を傾げて拾い上げたのは、何の変哲もない封筒だった。
ひどく古びた様子もない――貴婦人の肌のような紙のそれに、赤い封蝋が押してある。封蝋に押されている印は、現在もソルベット家で使用しているチューリップを模した
「ラブレターかな?」
面白そうな調子で言うマイルズをリシェはじろりと睨んだ。
「あんたはロマンチックな魔法でも探してるの?」
「わからんだろ。ご先祖はハンサムだ。ロマンが有ったか、確かめてみようぜ」
「わ、私が開けるの?」
「その為のリシェだと言ったろ。まずい話でも、子孫なら許してくれる」
しばし迷ったが、興味が無いわけではない。そっと開けてみると、中から出てきたのは手紙ではなかった。
「なんだ、押し花か?」
少しがっかりした様子のマイルズが言う通り、それは鮮やかなオレンジ色のチューリップの押し花だった。それ以外、説明書きはおろか、サインも無いが、微かに「フレイム」と呼ばれる紫のラインが入ったそれは、リシェはよく知った花だった。
「イレーネだわ」
「イレーネ? お宅の香水の?」
「そうよ。ウチで一番人気の香水の名前。殆どのチューリップは香気が薄いから、この花を含めて、香水には使われていないけれど、ご先祖はチューリップが好きだった様だから、殆どの香水にはその名前が付いているの」
「チューリップ好きは納得だけどな……お宅は表にも植えてるし、香水瓶や紋にもチューリップが描いてある。よく考えたら変な話だ」
「私もそう思うけれど、好きだから材料にしなかったという逸話は有るわね。他にも理由があるのかも」
それにしても、綺麗な押し花だ。今も息をしているような鮮やかな花を、フィルムの上から指で触れると、しない筈の香りさえ仄かに感じられる気がした。
「何も起きないな」
残念そうに言うマイルズに、リシェが諦めて本を棚に戻すように言った時だった。
誰かがドタバタと走って来て、勢いよくドアを開けた。
ロニだ。彼は何か言おうとしたが、ぜいぜいと息を切らし、何も言えない様子で、ただ血走った目で驚いている二人を見た。
「おいおい、どうした親友。あの御仁はどうした?」
「どうしたのよ……そんなに慌てて、あーあ、髪もぐっしゃぐしゃ……」
乱れた
「……イ……イレーネを……」
『イレーネ?』
声をハモらせた二人が、揃って押し花を見た。
「ちょうど此処に有るけど……まさかコレ、兄さんのなの?」
意外な趣味を見た様な妹に、ロニはいまだ整わない呼吸で、差し出された押し花を見て――砂漠で水を見た様な顔で触れた。
その瞬間、押し花の表面にずらりと異形の字が並び、強い光を放った。びっくりした三人が大慌てで飛び退く。ばさん!とレシピ本が落ち、三人がそれぞれのペースで立ち直るまでに――それは忽然とそこに居た。
若い娘が立っていた。ボブカットの鮮やかな橙色の髪と、利発そうな紫がかった黒い瞳、濃いモスグリーンのロングワンピースに白いエプロン、頭にホワイトブリムを着けた姿は、今では王朝スタイルの飲食店でしか出会わないメイドというやつだ。
「だ……誰……?」
真っ先に声を搾り出したリシェに、娘はぱちぱちと瞬きし、にこりと微笑んでから落ちていたレシピ本を拾った。
「まあ、懐かしい」
「そ、それ……貴女の本?」
「はい、私が書いたものです。……取っておいて下さったのですね」
娘は慈しむように表紙を撫でてから、はたと気付いたように顔を上げた。
「ああ、私としたことが……ご挨拶もせぬまま、申し訳ございません」
彼女は本を脇に抱え、急いで裾を払うと、それはもう文句の付けようのない優雅なお辞儀をした。
「こんにちは、紳士淑女の皆さま」
「あ、貴女は……」
ようやっと息が整い始めたロニが呻くと、娘はきちんとした姿勢で振り向いた。
「私をお召し下さったのは貴方様ですね。お名前を伺っても宜しいですか?」
「ロ……ロナルド・ソルベットです……」
「ロナルド様……感謝いたします。再び懐かしき御方と所縁有る場に参られたこと、このイレーネ、最上の幸せ。精一杯、お勤めをさせて頂きたく――」
「ち、ちょっと待って下さい」
丁寧な口上を遮ったロニに、娘は怪訝な顔をしつつも言葉を切って微笑んだ。
「貴女は……ディルク・ソルベットに仕えたという、イレーネさんですか?」
「はい、その通りです。私はディルク様の先代より以前から、ソルベット家に仕える『花』でございます。どうぞお気軽にイレーネとお呼び下さいませ」
ロニは順に、言葉も出ないらしいリシェと、既に興味津々といった眼差しの親友を見つめ、溜息混じりに息を整えると、不思議そうにしている娘に向き直った。
「それならイレーネ、さっそくだけど、手伝ってほしいことがあるんです」
ロニの言葉に、娘はスカートを摘まんで頭を垂れた。
「偉大なる血を引継ぎし御方、何なりとお申し付け下さい」
めいめい、倉庫の各所に腰掛けると、ロニは事と次第を説明した。
イレーネは座る必要が無いそうで、起立したまま大人しく耳を傾けていたが、最も驚いたのはリシェだった。兄が魔法を使いたいという下りまで来ると、驚きを通り過ぎてポカンとしてしまった。
「兄さん、本が好きすぎてついにおかしくなったの……?」
「ごめん、リシェ。自分でも変な事を言ってると思う……でも、僕は正気だ」
いっそ、全部が夢ならば良いと思うが、白昼堂々、異世界に飛び、全力疾走した上に押し花から乙女が出現しては、もはや夢では片付けられない。
何か思案するように腕組みしている友人をよそに、ロニはイレーネに向き直った。
不思議だが、どう見ても普通の人間にしか見えないこの娘は、森で会ったドリュアスに似た雰囲気を感じた。
「どうだろう、イレーネ。僕が先祖の魔法を使うのは無理かな?」
「正直に申し上げますと、難しいかと存じます」
無理と突っぱねない辺りに彼女の気遣いを感じたが、ロニは落胆した顔をした。
それを自身の過失であるように、イレーネは申し訳なさそうに言った。
「ロナルド様が仰られる程の強い魔法は、ディルク様がご自身の代で終わりにすると仰って、記録の一切を廃棄なさったので……」
「ロニでいいよ。君は……覚えていない?」
「申し訳ありません、ロニ様。私は只の『花』です。彼の御方の魔法を使うことは無論のこと、式をお伝えすることはできません」
頭を垂れる彼女に、ロニは「気にしないで」と断り、さて口火を切って来ただけにどうしたものかと腕を組む。
すると、珍しく長いこと黙っていた親友が口を開いた。
「ミズ・イレーネ、俺も聞きたいことが有るんだが良いかな?」
「はい。何なりと――マイルズ様」
「彼らの先祖……ディルク・ソルベットは、最初から偉大な魔法使いだったのかい?」
ロニがハッとしてイレーネを見た。彼女は質問を推し量る様な顔をしていたが、曖昧に頷いた。
「ディルク様は、それ以前の先代様にも勝る、才有る御方でした。でも……ディルク様の魔法は……その先代方とは異なります」
言い辛そうな様子に、兄妹は顔を見合わせた。何やら先祖の不正を聞くような気持ちになっていると、イレーネはそっと答えた。
「女王を助ける為、本来は結ぶべきではない契約をなさって、強い力を行使していたのです」
「契約というと、誰かの手を借りたということ……?」
「はい。契約の相手はディルク様にとっては代えがたいご友人でしたから、決して悪いことではないのですが……この契約により、ディルク様はベルティナ王都を中心に王国中に『
優雅な呼び名なので、てっきり園芸に秀でた魔法使いだと思っていた兄妹は再び顔を
見合わせた。当時のベルティナは、よほど不安定な情勢だったのだろう。
一方で「花園」と言う辺り、美しい国だったのも窺える。現在でも、この町は店先に花壇を設けたり、アパートのベランダを花籠で飾ったり、路地の壁に植木鉢を取り付けるなど、花と縁が深い。
「本来の人の身に余るほどの魔力を扱っておられましたから……日頃から、ご無理をなさっていたと思います。その分、お力は歴代を遥かに凌ぎ、魔の類をも
かつての主を思うのか、俯きがちに言った娘はロニをちらと見てから言った。
「マイルズ様が仰りたいことはわかります。しかし、ディルク様に力を貸した
ロニは重い息を吐き出した。彼女の言うことは全くもって正しいように思えた。
「お力になれず、申し訳ありません」
「とんでもない。貴女が謝る事じゃないよ」
慌てて手を振るロニに対し、横からぱっと手を上げたのはリシェだ。
「イレーネさん――もう一つ、聞いても良い?」
「はい、リシュエールお嬢様」
「その呼び方はむずむずする……リシェにして。――その、ご先祖様に力を貸した人以外に、誰か頼れる人は近所に居ないの? 例えば……兄さんが会ったっていう、精霊みたいなものとか……」
「おお、さすがは俺のリシェ。鋭いぞ!」
指を鳴らす親友に、ギロリと睨む妹よりも素早く兄が抗議した。
「お前のじゃないッ!」
「まあまあ、落ち着けよロニ、お前の妹の着眼点は素晴らしい。おかげで一つ思い出した。ベルティナの昔話に出てくるだろう、『
「女王の湖って……女王が精霊に造らせたっていう湖の話?」
古いおとぎ話に、ロニは首を捻った。この国の子供なら一度は聞いたことがあるような話だ。今は無い
「それは本当の話です。『女王の湖』はノーラ・マーナという水妖が、女王様に頼まれて造りました。ストロープワッフルが好きで、定期的にワッフルを貰う代わりに、女王マリアンヌ様を助けました」
「え、絵本と同じだ……!」
お菓子を摘まむ精霊の姿を思い出し、ロニは声を上げた。
ストロープワッフルは現在でもこの地域で愛される、定番の焼き菓子だ。格子模様の薄くて丸いワッフル生地二枚でシロップやキャラメルを挟んだ菓子だが、お菓子で買収されるとは、随分可愛らしい水妖だ。
「確かに、ノーラなら……女王様を慕っていましたし、ディルク様とも親しかったので、菓子を持参すれば力を貸してくれるかもしれません」
「……そ、それは無理じゃないの……?」
困った声を上げたのは、リシェだ。
「『女王の湖』は今は無いわ。王宮も帝国時代に壊れてしまって、今は遺跡として管理されているの。水が入っていたっていう大きな穴は残っているけれど、水は入っていないし……危ないからって、上に金網が張ってあるだけよ」
「そうでしたか……あんな美しい所でしたのに……」
イレーネはショックらしく、首を振って悲し気に俯いた。
「……ごめんなさい」
悪いことを言ったと思ったリシェの声に、イレーネは首を振った。
「いいえ……私は、只の花です。当時もディルク様のお傍で、行く末を見ることしかできませんでした」
顔を上げたイレーネは寂しそうに微笑んだ。
「でも、今はディルク様はいらっしゃらない……私が皆様のお力になる時なのだと思います。ノーラが居るかもしれない場所に心当たりがありますから、ご案内致しましょう」
「ありがとう……イレーネ」
なんだか古い知り合いのような気がしながらお礼を言ったロニの袖を、不意にリシェが引いた。
「ねえ、今から行くつもりじゃないでしょうね? もうすぐ夕食の支度をする時間よ?」
いつの間にか、当事者の顔になっているリシェだが、そこは兄よりもしっかりしている。男二人が何か言うより早く、イレーネが言った。
「まあ、お食事はとらなくてはいけませんわ。私もお手伝い致します。どのみち、ノーラに会うには日中の方が都合が良いですし、ストロープワッフルを持参した方が効果的でしょう」
「そっか……焦っても仕方ないか……」
急く気持ちを抑え、ロニは頷いた。それを眺めていたマイルズが、ひょいと片手を上げた。
「イレーネ嬢、もう一つだけ良いかな」
こくりと頷いた娘に、男はあっけらかんと尋ねた。
「君は、ディルク・ソルベットとは男女関係だったかい?」
「な……なんてこと聞くのよアンタは!」
初対面の女性になんと不躾な質問だと顔を真っ赤にして怒りだすリシェに、男は軽く両手を挙げて言った。
「だってよ、リシェ……彼女のレシピ本は、明らかにこの部屋では異質じゃないか。好きな女のものだから取っておいたってことじゃないのか? お前たちの先祖は美男だし、彼女が人じゃないのはわかるが、とびっきりの美人だぜ」
「お前なあ……いい加減にしないと叩き出すぞ!」
ロニまで物騒な口調で言うと、何故か楽しそうにクスクスと笑ったのはイレーネだ。
「マイルズ様、私は『花』に過ぎませんし、ディルク様はそう……尊敬する主人ですが、子供のようなものですわ」
そう言われて、マイルズが気付いた顔になり、ロニも手を打った。
「そっか……彼の先代以前を知っているってことは……――」
「左様でございます。私は、赤子のディルク様のお世話も託された身。泣くのをあやして、おむつを交換した相手を男性として意識するには、人間の感覚でも妙な感じがするかと思います」
「なるほど、仰る通りだ、イレーネ嬢。――と、すると、君にはかなり背の高い恋人が居たのではないかな?」
口の減らない男を兄妹が睨んだが、意外なことだったか、イレーネはハッとした。
「……恋人はいませんが……何故、そう思われるのですか?」
「君のレシピ本と呼び出す押し花がセットになっていたことと、その本が在った場所さ。本棚の一番上は、俺も脚立が無いと難しいし、この家の一族はそれほど背が高くない。この倉庫は先祖が使っていた執務室の当時から変わっていないと聞いてるし、押し花は封蝋をした封筒入り。誰かに贈る雰囲気があるのに、宛名も無く棚の上。俺が思うに、この部屋に気軽に入れる人物に、勝手に持っていけという感覚で置いていた気がするね。或いは一度は持ち出されたものを、改めて此処に戻した感じもする」
「……」
イレーネは黙ってレシピ本を眺めていたが、静かに微笑んだ。
「マイルズ様は鋭いご賢察をお持ちですね。ええ……確かに私は、背の高い御方をひとり、存じています。……ですが、彼は人間で、私は『花』。それ以上の関係はございません。強いて言えば、あの方は此処に、よくお食事をしにいらっしゃいました。とても沢山召し上がる方で……最後の日も……――」
それきり、本を見つめて黙ってしまう彼女に、リシェがそっと手を添えた。
「……ごめんなさい、イレーネさん。久しぶりに帰ったばかりなのに、この連中ったら自分たちのことばっかりで。――ねえ、一緒にキッチンに来て下さらない? そのレシピ、私にも教えてほしいわ」
兄やその親友が驚く程優しい声を発したリシェに、イレーネは寂しそうな面を改めてにこりと微笑んだ。
「私でよろしければ、ぜひお供させて下さいませ」
楽しそうに部屋を出て行く二人を見送ってしまったロニの頭を、すかさずマイルズが小突いた。
「……で、良いのかよ?」
「良いんじゃないの?……彼女も嬉しそうだったし」
「違う。お前の両親になんて説明するつもりなんだ? 急に美人のメイドがキッチンで仕事をしていて驚かないほどボケちゃいまい」
呆れ顔の親友に「あっ」と声を上げて、ロニは慌てて両親が店じまいをしているだろう表へと駆けて行った。
森は静かだった。静か過ぎた。
淡い木漏れ日は失せて暗く、今は月明かりなのか、不気味に光る靄が辺りを包む。
ロニが居た頃に辺りを浮遊していた蝶やトンボのような生き物は何処かに行ってしまい、何の鳴き声もせず、小川のせせらぎも息を潜めるようだ。木の葉のざわめきさえ、今は不安そうに揺れている。
「なあ、レヴィン……この裏切者め……少しは姿を見せたらどうだあ……?」
消し炭となった樹の根元で、酔っ払いのような調子で煙を吐きながら喋る男に、返事は無かった。辺りでは、先程の癇癪で燃えた木々が、煙と共に、痛みに喘ぐような火花を散らしている。
男のお喋りを黙殺し、レンは蝋燭消しを抱き、樹を背に座っていた。
〈貴様も燃えればいいのに〉
背後の樹から、呪いのような囁きが漏れた。顔を覗かせるのは苦しいのか、木に開いた細い
〈悪しき罪人め。お前など消えてしまえ。灰になれ。灰になれ。灰になれ……〉
「ドリュアス――……静かにしていないと、この樹も燃やされてしまう」
〈本が呪われたのはお前の所為だ。お前が焼いた。お前が燃やした。お前が灰にしたんだ……!〉
「ッ!」
不意に、根に置いていた手にぶすりと何かが刺さった。縫い針よりも細い針のような棘は、一突きするのが精一杯だった様子ですぐに脆く崩れて消えてしまった。
手に残った点のような血を見つめ、レンは物憂げに頷いた。
「その通りだ。貴女が正しい……」
〈忌々しや……人の身で生意気な……我が同胞を無惨に焼くとは……‼〉
憤怒は掠れて消えた。彼女も既に、喋ること自体が苦しいようだ。
「貴女の言う通り、私は焼いた。此処で尽きるのは、皆の願いなのかもしれない……」
先程、手のひらを刺し貫いた痛みなど、どうということはなかった。
最初の罰である左足は、ずっと痛む。水をかけようと、砂をかけようと、常にそこで火が燃え滾り、煮えるような熱を感じる。
だが、自分が燃やしてきたものは、殆どが灰になった。
今思えば、彼らは悲鳴を上げ、痛みを訴え、泣き叫んでいたことだろう。怨嗟も命乞いも、あの頃は聴こえなかった。美しい物語を、優しい言葉を、燃やし尽くした。
……それだけではない。
歩ける程度に抑えられた、引き摺って歩けと命じる火傷がある左足を見つめ、レンは細い溜息を吐いた。
この町で、『花園の魔法使い』の子孫に会ったのは、運命かもしれない。
もし、彼が『火種』を消せる程の力を手に入れて戻ったのなら……その時は……
「レヴィン、お前が去った後の話をしようじゃないか? 蜂起した民兵共が、仲間を寄って
――やめろ。
左足の膝を掴み、レンは頭を垂れた。嫌な汗が出る。じくじくと痛みが広がる。
「俺たちは追われ、食うものも無く、石をぶつけられ、自害する奴も、崖に身を投じる奴も居た。捕まれば拷問を受け、最期は血反吐を吐いて殺される」
――仕方が無いんだ。みんな、みんな……私たちもやったことだ……‼
「出てこいレヴィン……‼ 何故逃げた‼ この俺の前で申し開きしてみろ‼」
怒りに任せた炎が爆ぜる。燃える。木々が薙ぎ倒され、火の粉が舞い散る。
〈熱い……熱い……! 罰当たりな罪人め……罪人め……‼〉
――仕方ない。仕方ない。わかっている。わかっているんだ。自分が悪いことは……
「……」
耳を塞いだ。動悸に震える呼吸を吸っては吐き出した。
「眠れないのですか?」
ランプの照明ひとつで店に座っていたロニが振り向くと、イレーネが立っていた。
眺めていた香水瓶から手を放し、ロニは苦笑した。
「友人のイビキがうるさくって」
半ばジョークだが、結局、夕飯まで
「仲の良いご友人で羨ましいです」
微笑んだ彼女は、古いマホガニーが昔のままの店に良く馴染んでいた。もうずっと、我が家に居た様な気さえする。両親は驚きはしたものの、そこは先祖が魔法使いというのをよく知っている為か、深くは追及しなかった。しかも、彼女は『花』と名乗った通り、人間の食事を必要とせず、グラス一杯の水を所望しただけ。それでいて、作る料理はとても美味しく、どこか懐かしかった。
「リシェは?」
イレーネをありのまま両親に紹介した妹は彼女が気に入ったらしく、夕食後は部屋に招いて楽しそうに喋っていた。
「先ほど、お休みになられました」
「そう。付き合ってくれてありがとう。姉さんが欲しいって、よく言っていたから」
「光栄でございます。……でも、お二人はとても良い御兄妹だと思いますよ」
「うん……叱られてばっかりだけどね。リシェのおかげで、僕は夢を叶えることが出来たから、一生頭が上がらない」
にこりと微笑み、彼女は周囲を見渡した。
「ロニ様は、此処で何をしていらしたのですか?」
「特に何も。……この店先が、何となく落ち着くんだ。子供の頃から、勉強なんかも此処の作業台でやる方が
イレーネはその呟きの意味を知っているかのように、何も言わなかった。チューリップの花模様が描かれたステンドグラスの照明を見上げ、棚に並んだ色とりどりの香水瓶や、自分の名が付いたひと瓶、作業台の脇に並ぶロール状のリボン、紙袋が納められたケース、年季の入ったカウンターなどを眺めた。
「君にとって、此処は懐かしい?」
「はい、とても。あの頃と、殆ど変わっていません……違うのは、そこに居る人々ですが、皆さまには懐かしい面影を感じます」
「似てないけどなあ……ご先祖様はすごいハンサムだよね」
「ロニ様は似ていらっしゃいますよ」
とても気を遣われている気がしたが、自らを『花』と名乗り、魔法に関わる彼女には、魔力の方が判断材料なのかもしれない。
「君は、自分の事を『花』だって言うけれど……人の姿をしているよね?」
「はい。その方がお仕えしやすい為にそうしています」
「じゃあ……あの押し花は?」
「あれは、私の本体ではありません。魔法で言う所の、式や媒介と呼ぶものです」
ロニが首を傾げると、彼女は丁寧に説明してくれた。
「ロニ様は、
「じゃあ……今のイレーネは僕が呼び出してるの?」
「正確には、ディルク様が残された式を瓶、そこに注がれた香水がロニ様の魔力、そして『イレーネ』の香水瓶として成り立つのが私です」
「そうか……僕は何も感じないんだけど……だんだん力を取られてるのかな?」
「いいえ、私が此処に居るだけなら、最初の一度、必要量を吸い上げただけですからご安心下さい。ただ……私が力を使いますと、改めて吸い上げることになりますので……」
どこか申し訳なさそうに彼女は俯いた。
「なるべく、前以てお知らせいたしますが……危険な事態ではその……お断りする間が無いかもしれません」
その深刻そうな様子に幾らか動揺したが、ロニは慌てて手を振った。
「いや……ウン、危ないときは事後報告でいいよ。僕じゃあ、判断する間もなくやられてしまうだろうし」
ドリュアスの世界で見た様な攻撃が飛んで来たら、避けるのさえ精一杯だ。レンが居なければ、とっくに足の一つくらいは燃えていたかもしれない。
足……あの焼けたままの足が、頭の片隅にちらついた。
「あ、一応聞くけど……君が僕の魔力を吸い尽くしたら、僕はどうなるんだい?」
「魔力が無くなっても、すぐに倒れたり、命の危険はありません」
ホッとするロニに、イレーネは変わらぬ調子で言った。
「ですが、魔力の許容量を超えて奪おうとしてしまうと、生命に関わります。当然、私がロニ様から無理に奪うことはありませんが、貴方が何も知らずに私の式に触れて呼び出したように、”何か”をきっかけに吸われてしまうことは有ると思います。見るからに怪しい道具や、見たことのない文字などにはお気を付け下さい」
「う、うーん……気をつけようにも、僕は自分の容量はよくわからないんだけど……」
首を捻ると、イレーネはぱちぱちと瞬いた。
「あくまで目安ですが……普通の方がグラス一杯なのに対し、ロニ様は浴槽に溜めた程度か、それ以上です」
「え……それは……多い……のかな?」
「はい。かなり多いです。生半な使用では、お体に障ることは無いと思います」
つまり、これまでにもウッカリ何かに触れて使っている可能性があるかもしれない。
気をつけようと反省していると、イレーネが言い辛そうな声を出した。
「あの……ロニ様、先程のお話にあった御方について、もう少し詳しく伺っても宜しいでしょうか?」
「あ、ハイ……レンさんについてですか?」
名前を聞くと、イレーネは微かに表情を強張らせて頷いた。
「僕もお会いしたばかりなのですが……もしかして、お知り合いですか?」
彼の話が本当なら、見た目よりもずっと長く生きている。彼女と会っていてもおかしくないと思ったが、イレーネは首を振った。
「……いいえ、レンという名の御方を存じていますが、レヴィン・ガンズという方にはお会いしたことはないと思います。私は帝国時代には、こちらには殆ど来ていませんから……」
鈍いロニでもわかった。どうやら彼女が想いを寄せていた相手の名は「レン」という背が高い人物だ。何処かで聞いた名の気もするが、すぐには思い出せなかった。
「気になりますのは、その方が所持しているという杖です」
「ああ、蝋燭消しだと仰っていましたが……なんだかランタンみたいな役目もしましたし、大きなナイフみたいにもなりました」
「その方は、形を変える際に呪文を唱えたり、何か特別なことをなさっていましたか?」
「うーん……咄嗟のことでしたが……無いと思います。何も言わなくても彼の思った通りに動いている……そんな感じに見えました」
「そうですか……」
口元に手を当てて考え込むイレーネは、しばしランプの光を見つめた後に言った。
「私の杞憂ならば良いのですが……」
「?」
「ロニ様、その蝋燭消し……持ち主にとってリスクの高い道具かもしれません」
「負担になるということですか……?」
「そうです。如何に魔法でも、無から有を生み出すのは神の技でも稀なこと――高位の精霊でも、式や媒介を介するように、万物には流れや工程があるものです。土で育つ植物は土に植えなくては正しく芽が出ないように……魔法も、この世界の決まり事に準じて行われます。金属らしきものが、勝手に形を変えることはできません」
「……何でも出来ると思うのは間違いなんですね」
「はい。何かを行使するには力が要りますし、限界は存在します」
店の壁に掛けられた時計を見上げてから、イレーネは静かに言った。
「その方が人間であるならば、若い姿のまま、何十年、何百年と生き続けるには膨大な力と、それを可能とする『何か』が必要な筈です」
「『呪い』だって仰っていましたけど……」
「呼び方が異なるだけで、呪いも魔法の一種です。仕組みは些か異なりますが、呪いならば尚のこと――対象に働きかける為の『何か』が傍に有る筈です」
「それが、あの杖……?」
「力の出所が『呪い』だとすると、その杖は危険な道具である可能性が高いです」
そこまで言われて、ロニはようやく気付いた。
彼女の薄紫がかった黒い瞳が、不安そうな色に揺れていることに。
「貴女は……僕が彼を助けに行くのを、心配してくれているんですね?」
「……はい。ディルク様は私に後のことは何も頼みませんでしたが……こうして、あなた方にお会いできたのは、その御意志による御縁だと思います。お傍に来た以上、危険が及ばぬよう、お力になりたいと存じます」
「ありがとう、イレーネ。僕は貴女に会えたのを先祖に感謝したい」
初めて会う気がしない彼女に頭を垂れてから、ロニは苦笑した。
「危ない事はしないように心がけるよ。それに……僕はそんなに危険な事は、出来そうに見えないだろ?」
少々情けない発言でおどけてみせると、イレーネは笑ってくれた。
「どうでしょう? ロニ様はどことなくディルク様に似ていますから、油断はできませんわ」
あのハンサムな大魔法使いには似ても似つかないと思ったが、彼女はお世辞を言っているわけではなさそうだった。そうかなあと頭を搔くと、乙女は静かに言った。
「長くお引止めして申し訳ありませんでした。夜更かしは明日に響きます。どうかお休みください」
先祖もこんなことを言われていたのかな、と思いつつ、ロニは立ち上がった。
「そうするよ。おやすみ、イレーネ」
「おやすみなさいませ」
お辞儀をした彼女を残して店を出ると、振り返った先で彼女は背を向けて、店に立っていた。月明かりに照らされる姿に、何十、いや、何百年前の光景を見た気になりつつ、ロニは部屋への階段を上がった。
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