第25話 黒い影

 大型フェリーの傍らを海鳥の群れが甲高い声を上げながら激しく翼をバタつかせ、時折船上に降りたとうと試みるが、強い警戒心から再び船との間に距離をつくる。動揺を露にする鳥達とは真逆で誰もいない甲板を無言で凝視する結月を黒い影が覆う。呆然と立つ結月の背後に紅色の口元を持ち妖艶な笑みを浮かべる怪しげな姿があったが、前触れもなく突進してきた大鷲に襲われたため一瞬にして消え去ると、その場には鷲の羽だけがヒラヒラと舞った。

「結月こんな所に居た・・・うわっ鷲? 大丈夫か?」

 カイの呼び掛けにハッとした結月は、自身の頭上に見た事のない巨大な鷲が飛翔しているのに気付くと小さく悲鳴を上げ仰け反ってしまう。

「ポウカイ?」

 カイの意思と共に鷲の名前が彼の口から零れる。

 テ・パパで会ったマウイ神のペットである大鷲は、名を呼ぶカイに応えるように大きく翼を羽ばたかせながら頭を垂れた。

『マウイ様、怪しい気配があります。ご用心してください』

 以前に聴覚を介さず直接心に届いたウルタプの声と同様、マウイ神の身を案ずるポウカイの低い声が響く。

『そのようだな』

 今度はカイではなく、彼の中に住むマウイが短く応えるとカイの右腕が無意識に上がりポウカイに合図をおくった。

「カイ?」

 カイの不思議な行動に素に戻った結月が怪訝な表情を浮かべる。

 暫く上空に留まっていたポウカイを見送ったカイは、視線を下げると結月に苦笑いで誤魔化した。

「トイレに行ったきりで、なかなか帰ってこないから心配したぞ」

「あ、ごめん。外の空気が吸いたくなって」

「船酔いか?」

「かなぁ?」

 結月は胸元に手をあてると首を傾げた。

「そういや、ウルタプを見ていないか?」

「え?」

 結月は心の奥を抉られるような痛みを感じると胸元に置いた手で拳をつくり強く握った。

「カイってウルタプちゃんの事、好きなの?」

「え? 好きって・・・ そんな風に考えたことなかったな」

 唐突な結月の質問に戸惑いながらも正直に答えたカイは再び苦笑する。

「ごめん、私・・」

「いや、こっちこそ、突然現れた怪しい奴だもんな。ちゃんと説明できなくてごめん」

 カイは真剣な表情になると結月に頭を下げた。

「カイが謝らなくていいよ。確かに変な子だよね・・ア、はははっ」

 厳しい面持だった結月に本来の明るさが戻ったのか、口元を手で覆いながら大笑いをする彼女につられてカイも吹き出すと心でホッとする。

 そんな二人の傍らには未だ複数の海鳥が上下に飛んでおり時折高い声を響かせ、カイの意識を誘う。

「クジラ?」

 大きな生物の背が水面に浮かび上がると勢いよく潮を噴き上げる。

 クジラの登場に気付いた他の乗客が声を上げると、船内でもアナウンスが流れ静かだった甲板が急に賑やかになった。

 クジラとともに勢いよく飛脚するイルカの群れも現れると、アザラシも彼等に続いた。海洋生物のオンパレードに乗客は声を上げると、興奮気味に誰もが柵に張り付いた。

「今日はすげえなぁ」

 人々の意識がクジラに集中している中、突如カイの鼓膜に犬の唸り声が聞こえ後ろを振りかえる。そこには巨大な黒い犬の様な動物が2匹、そうウルタプから聞かされた月狼が、涎を垂らしながら尖った牙を剥きだしに今にもカイを襲う体勢をつくっていたが、2匹の間に現れたモノに頭を撫でられると可愛いくお座りをした。

「ふふん・・・ 今度は貴方なのね。かわいい顔しちゃって」

 腰まで届く長い黒い髪と青白い肌に真っ赤な紅を、小さな顔にはアンバランスな大きな唇にさす女が現れたため、カイは咄嗟に結月の前に出ると身構えた。

「誰だっ!」

 女は、彼女の両側に座る月狼の頭を両方の手で撫でながら眉を上げると危険な笑みを浮かべる。

「TIKIをくださらない」

 そう告げた女は人差し指を2度くるくると回すと、首を傾げながらカイの胸元を指差した。

「TIKI?」

 以前の襲撃の目的が自分のポウナウ石だと悟ったカイは、Tシャツの下にあるTIKIを握り締めた。

「これは父さんの形見だ。渡すわけないだろっ」

「お願いしてるのよ。ダメ? 貴方を傷つけたくないわ」

「脅しても無駄だ」

「カイ・・」

 結月がカイの背後から怯えた表情を見せる。

「結月、もし、アイツ等が襲ってきたら直ぐに逃げろ」

「そんな」

 頭を左右に何度も振る結月にカイは真剣な眼差しをおくる。

「アリに知らせに言ってくれ」

 カイの身を案じる結月だったが、助けを呼びに行くのが懸命な判断だと理解すると、恐怖で震えていた身体を止め強い表情を見せる。

「サンキューな」

 カイがウィンクを1つ結月に送った瞬間、先程まで大人しく座っていた2頭の月狼が立ち上がり再び低い唸り声を上げる。

 月狼は一見大型犬だが、尻尾がその身体よりも長く付け根から2本に別れている。また突き出す牙は下の方が長く、赤い眼をしており、カイは改めてこの世のモノではないのだと再認識した。

 狂暴な姿に唾をゴクリと飲み込んだ結月がカイのTシャツを掴むと、彼女の激しい鼓動が耳元に届いた気がしてカイは振り返るとニコリと笑って見せる。

「大丈夫だ。合図をしたらあの階段に向って走るんだ」

 結月は意を決したように強く頷いた瞬間、結月の視線に動物が襲ってくる姿が入った。

「カイっ」

 結月に焦点を合わせていた視線を前へと移すと、結月の身体を階段へと押し出した。

「走れ」

 カイは、大きく叫ぶと自分に向ってくる月狼を迎え撃つ。

 カイの上半身に飛び掛かってきた一頭の脇腹に蹴りを入れると、もう一頭には肘鉄砲を喰らわした。カイの反撃を予測していなかった月狼は、容姿とは異なる可愛い声を出すと、腹を見せるようにヒックリ返った。

「あら、素敵」

 体勢を立て直し頭を何度も振る2頭の獣を眺めながら、妖艶な笑みを浮かべた女は両手を広げると彼女の脇から恐ろしい容姿を持つ獣が更に2頭現れた。

 カイはツバを飲み込むと一歩だけ後ずさりをする。

「カイっ!」

 声がする方へ顔を向けたカイは、頭上に浮かぶ長い棒に手を伸ばす。

「レイっ!」


 幼い頃から、兄ランギと共に武術を叩き込まれたカイは、体術よりも棒術が得意であった。

 4頭の獣を前にして一瞬怯んだ自分を嘲笑うと長い棒を身体の左右で上手に操って見せ獣に対して挑発する。4頭はそれぞれに間隔を取るとカイの前を封じ込め、その内の1頭が攻撃を仕掛けた。

「キャンっ」

 カイが持つ長い棒で強烈な一撃を受けた最初の獣が、持ち主の足元まで打っ飛ぶ。攻撃を受けた仲間を見送った残りの3頭が同時にカイに飛び掛かる。

 カイは、棒の先で動物の腹を突いた直後、2頭目の横腹に反対側の棒先を入れる。そしてカイの左脇を襲ってきた4頭目には棒全体で甲板の端まで放り投げた。

 カイの周囲から獣が居なくなった隙に長いハンマーを持ったレイノルドとアリが加勢するためにカイの隣を陣取った。

「デッカイ犬だね」

「だなぁ。こんな道具をよく見付けたな」

「アリが車に積んでたんだよ」

 強力な味方を得たカイの心に余裕が出来ると、自分達をただ観察する女に対して笑って見せた。

「ちっ、こうなったら」

 先程までの悠然とした態度から一遍、厳しい面持を浮かべた女が、再び両手を広げようとするが、大群の海鳥を引き連れたポウカイが彼女と獣を襲う。それとともに、甲板に出ていた人々がカイを取り囲む事変に気付くと騒ぎ始めた。

「ピーっ」

 口笛の合図で月狼が後ろに下がると、女とともに忽然と姿を消す。

「カイっ」

 物陰からカイの安全を祈っていた結月がカイに抱き付いた。

「皆サンキュ―、あと無事で良かった」

「無事でって、それはこっちのセリフだよ」

 レイノルドが大きなハンマーを右肩に載せると苦笑いを見せる。

「とりあえず下に行くか」

 多くの注目を集めてしまったカイ達は、何事もなかったように平静を装いながらその場から立ち去る事にした。

「ウルタプは何処に行ってしまったんだ」

 アリの素朴な疑問にカイも同調すると憂慮な面持ちをする。

「先に南島に行ってしまったのかな?」

「いや、それは無理だと思う。海の上では飛べないし、泳げないって言ってたからさ」

「そうなんだ」

「海の上では戦力外だって言ってたから、どこかで休んでんじゃないか? それとも何か食べててこの騒ぎを知らないだけだろ、全く・・アハハハ」

「自由人だなぁ。ハハハ」

 カイとレイノルドの会話を聞いていた結月の背中に冷たいものが走ると歩を止める。そして、ウルタプが姿を消したデッキを固い表情で暫く見つめた。

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