第3話 ニュージーランドへ
長く艶やかな黒髪を持つ女性の腕の中で無垢に笑う赤ん坊の姿が彼女の深緑の瞳に映し出される。
「あああ、可哀想な子・・・」
女性は、喉を震わせながら小さく呟くと、足元に打ち寄せる波打ち際に赤子を下し、躊躇いも振り返る事もなくその場を去って行く。
赤子は起き上がる事も、母を追いかける事も出来ないまま、波に捕らえられ海へと消えた。
そんな親子の様子を遠くから眺めていた少年は、無慈悲に赤ん坊を置いていった母親に向かって必死に声を掛けるが、その声が彼女の耳に届く事はなかった。また、周囲には見えないバリアが張られているかのように、赤子に近づく事さえ出来ぬまま、ただその子が海に沈んでいく姿を見送るしか出来なかったのだ。
「ちょっと、待ってっ・・ 赤ちゃんを置いて行かないでっ・・ お願いっ! 赤ちゃんが、赤ちゃんが海に流されるよっ! イヤだっ・・ あああっ」
ベッド上で飛び起きた少年は張り裂けそうな自身の胸元を掴みながら荒い呼吸を整え必死で涙に堪えた。
「カイ・・ また怖い夢を見たのかぁ?」
「兄ちゃん・・・」
5つ年上の兄、ランギがカイのベッド脇に座るやいなや、彼の胸元に飛び込んだ少年カイを両腕で優しく包込む。安心感に包まれながらも涙が留めなくカイの頬を濡らした。ランギは自分の腕の中で泣きじゃくる弟の頭を温かい手で何度もなでた。
「俺がついているから、もう大丈夫、大丈夫」
「兄ちゃんっ・・・・」
幼いカイは、ランギを掴んでいた手に力を籠めると、しゃくり上げながら兄を何度も呼んだ。
肩を震わせる弟を優しく慰めながら、ランギはふと目線を窓へと向ける。
カーテン越しからでも分かる明るい月明かりがカイの部屋を照らす。
ランギの眉間に小さなシワが刻まれる。
【満月・・】
心で呟いたランギの耳に廊下を駆ける誰かの大きな足音が近づいてくると、眉間のシワは消え視線を再びカイへと戻す。
「カイ、怪獣が来たぞ!」
兄の胸に埋めていた顔を上げると瞳に溜まった涙を手の甲で拭う。
「アハハハ、本当だ」
「カイっ! 無事か?」
「父ちゃん」
「親父の足音うるせえよ。夜中だぞ」
「あ、すまん。いや、しかし、カイの叫び声が聞こえたから、居ても立っても居られずに、つい」
カイとランギの父、義海は自身の頭をゴシゴシと掻き恥ずかし気にランギとカイに歩み寄ると、抱き合う息子達を大きな腕で包み見込んだ。
「また、こんな時間に二人を起こしちゃって、ごめんなさい」
悪夢の余韻を心に抱きながらも、健気に二人に詫びを入れるカイの姿に、義海とランギの胸奥が痛むと、カイを抱いていた腕に力がこもる。
「何言ってんだ。可愛い弟のピンチに駆け付けないなんて、兄貴失格だろ? ・・・そんな事より、親父ぃっ、もう離せっ、暑っ苦しいだろ・・ って、え? 寝るなっ!」
ランギにぶっ飛ばされた義海は、カイのベッドから転げ落ちると目を覚ます。
「いや~ 二人の温もりについ癒されちゃって・・ こんな機会じゃなきゃ、もうお前等を抱っこ出来ないだろ・・ アハハハ」
ベッドから落ちた反動で床に尻餅をつきながらも、嬉しそうに満面の笑顔をカイとランギに向ける。
「父ちゃん・・ ブっははは」
「まったく親父は・・ アハハハ」
毎満月の夜に交わされる親子のワンシーン。
「カイ・・ カイ・・ 駄目まだ寝てる・・」
「疲れてるんだよ・・ じゃあ、私が食べちゃおうかな?」
「え―― 姉ちゃんずるい。 このチョコレートアイスすっげえ濃厚で超うまい!」
「ニュージーランドのカピティアイスだよ。カイの好物なんだから、ダメ」
「カイ寝てるし、とけちゃったら勿体ないよ」
「問答無用!」
機内で配られたカイのアイスクリームに背後から伸ばす結月の手をレイノルドがはらう。
「レイノルド、痛いっ! もうっ!」
「二人とも食いしん坊なんだから・・ アハハハ」
「僕は凛と半分こするつもりだったよ、ヘヘヘ」
「アハハハ」
遠くで響くエンジン音と、聞き慣れた声がカイの意識を父と兄から引き離して行く。
「兄貴・・ 親父・・」
頬が涙で濡れている気がして、手を当てると現実に戻される。
夜間フライトで消灯された機内は暗く、所々から人々の寝息が聞こえる。
成田発オークランド行きへの機内には、カイとレイノルド、そして短期間のニュージーランド留学が許された結月、壮星、凛が搭乗していた。
「レイ、また変な侍言葉使ってる。はあぁぁ」
欠伸をしながら、カイが目を開いた。
「あ、カイ起きた」
「うわぁっ! 冷めてっ!」
「死守したよ!」
レイノルドが目覚めたカイの頬にアイスクリームを当てると誇らしげな笑顔をおくる。
「おお・・ サンキュ、レイ」
「そういう時は、大儀である。でしょ!」
「ああ、ああ、そうだったな・・ 大儀大義」
カイにそう言われ、満足そうなレイノルドからアイスクリームを受取った。
ニュージーランド旅行のガイドブックを眺めながら楽しそうに会話する結月達の声を背に、カイはふと視線を徐々に明るくなっていく窓外の景色に移した。
【久し振りに見たな・・ あの夢】
カイは幼い頃、よく同じ悪夢にうなされた。
綺麗な黒い髪と美しい深緑の瞳を持つ女性が、憂いな表情で赤子を置き去りにするのだ。
カイには女性の正体と赤子を捨てる理由を知る由も無かったが、ただ心の何処かを抉られるような恐怖心で目が覚めるのだった
愛おしい父と兄の姿が脳裏に浮かぶと胸が押しつぶされそうになる。そして同時に喪失感に襲われアイスクリームを持つ手に力がこもる。
【俺、一人でどうしたらいいんだよ・・ 兄貴・・ 助けて・・】
「カイ? 大丈夫?」
レイノルドの優しい微笑みがカイの視界に飛び込んでくると少しだけ気持ちが軽くなった。
「レイ・・・」
「ランギがさ、こんな可愛い弟を放っておくはずがないよ。きっとカイの元に帰ってくる」
心を読まれた気がしてカイは驚いた表情を見せる。
レイノルドはカイだけでなく、自分自身をも納得させるように何度も小さく頷いた。
「夢を見てたんだろうね・・ うなされてた・・」
「そっか・・」
「ニュージーランドにはポパ(祖父)も居るし、もしかしたらランギもひょっこり現れるかも」
レイノルドが軽くウィンクしてみせると、彼の優しさにカイの胸が熱くなった。
カイ達を乗せた飛行機が朝焼けの中、目的地であるオークランド空港への距離を縮めていく。
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