来るは東

「いけない!」

 叫ぶと同時、体は自然と動いていた。

「セプデトさん!」

 地上の砂から瞬時に象った写し身で彼女を待ち構える。セプデトの身体はあばら屋に張られた天幕に弾かれ、慌てて移動したスェスの上に軽い音で着地した。幸い互いに怪我はなく、それを自覚したスェスは安堵の息をつく。

「ナイスキャッチ」

 セプデトが小さく頷いた。

 気遣うようにスェスが手をやんわり彼女の背に当てがうと、セプデトは抱えた麻の袋に視線を落とした。

「ご無事で何よりです。さあ、王宮に戻りましょう」

「できない」

「ど、どうして」

「すぐには」

 問われた彼女は何かを続けようとして閉口し、ただ瞳を空へと向けた。風を切る音がする。スェスも途端に頭上を仰ぎ、夜空に躍る影がル・タだと分かって身を竦めた。迷うことなくこちらに向かってきていた。

「は、早く行きましょう、とにかく彼から逃れないと」

「うん」

 セプデトはヴェールをはためかせてひらりと建物の影に消える。スェスも砂を巧みに操って彼女を追った。落日の街はあばら屋がひしめき合い、路地はさながら迷路のようだったが、セプデトは容易く細道を抜けていった。

 スェスが賞賛を口にする。

「さすがは月影の隣人」

「夜目は効く」

 と、屋根づたいに追ってきていたル・タがこちらを追い抜き、前方に跳び降りる。セプデトは瞬時につま先を蹴りあげ、巻きあがった砂にわずかに気を取られたル・タから後ずさる。もはや逃げ場はないかと思われた。

「こっち」

「ヒイイ!」

 だが彼女はスェスの裾をぐいと引き、急に進路を右に取る。露店商の小屋が立ち並ぶその道を、セプデトは突っ切ろうというのだ。

 彼女が商人や商品へぶつかる度に怒号が響き、砂の体でうまくすり抜けているスェスの方が何故か情けない声で顔を歪ませた。

 セプデトが興味津々といった様子の口ぶりで訊く。

「痛みを、感じるのか。その体」

「い、いえ。でもこういうのってその場の雰囲気じゃないですか!」

「そうなんだ」

 陽光の民はセプデトにとってみればそこらの壁と変わらない大きさの種族だが、彼女は臆せず彼らの中をかき分ける。体格差などないかのごとく彼女に体を押し退けられた何人かは、眉を吊り上げた直後に妖女まじょと慄いて悲鳴をあげていた。

 盗品だろう品物たちを、蹴り飛ばされてひっくり返されてとどんどん散らかされていく露店の小径が、怒りに騒然とする。

 人混みから飛び出したセプデトが再び誰かにぶつかり、手短に謝罪を口にしようとしたところで腕をがしりと掴まれる。

 ル・タだ。スェスは呼吸を引き攣らせた。

「ヒッ……」

「よお」

 先回りしていたらしい彼はスェスが止めに入る間もなく、衣装に施されていた飾り紐を引きちぎって手際よく彼女を縛りあげた。セプデトの手を離れた麻袋が砂地に落ちる。

 それを慌てて取り上げたスェスに対し、ル・タは笑いをもらした。

「悪あがきくらい大目に見てやるよ。最後には全部、風抜のル・タ様のもんだ」

 スェスが麻の袋をきつく抱きしめて、セプデトを見る。後ろ手に拘束された彼女はそれでも、感情の読みづらい、いつもの澄まし顔でスェスに目配せた。その意図が読めずに彼は眉間を寄せる。

 にわかに辺りが騒がしくなったのはその時だ。ハッとしてスェスが周囲を窺う。同じように鋭く飛ばされたル・タの視線も、空へと向いた。そして目を見開く。夜空がいつもより速く回っているかのようだった。流星の群れ。夜空に現れたその光景に誰もが息を呑む。

 セプデトの瞳もまた捉えていた。暁都の夜を撫であげるようなかすかな湿気の中を、光の筋が降り注いでいくのを。閃いては尾を引いて、こちらに墜ちてくるかのような錯覚に襲われる。一つではない、無数の、空を覆い尽くすほどの。それらは光をちらつかせながら、ビロードの夜空に吸い込まれていく。それはまるで突如訪れた雨季の景色のようだった。

「星降る夜だ」

 囁いた影はセプデトだった。彼女は手を挙げてみせ、声を上げかけたスェスを急いで制する。いつの間にすり抜けたのか、手首を何度かぐるりと回して。

「空を、見上げる。みんな星図が乱れる時に限って」

 呆れているらしく、彼女の目はわずかに細められていた。スェスはそっとル・タを盗み見、彼がまだセプデトの脱出に気がついていないようだと判断すると、行きましょうと小さく彼女を促した。派手には動かず、ゆっくり、そっとその場から遠ざかる。ル・タは身じろぎもせず、流星群に目を奪われている様子だった。

 落日の街を抜けた二人は大通りへ出た。都最大の出入り口である南門の直線上に延びる開けた場所だ。まっすぐ北に向かえば問題なく宮殿に帰ることができる。そびえる王宮殿を見上げ、スェスは肩の力をわずかに抜いた。しかしセプデトが大通りを横切ってさらに東へ行こうとするので、再び脚を強張らせた。

「ど、どこ行くんです」

 麻袋を慎重に手渡しつつ、足早なセプデトの顔を覗く。

「戻りましょう、いくらル・タでも王宮までは追いかけて来られないはずです。衛兵もたくさん待機してますし、任せた方が安全ですよ。我々だけで彼を相手にするのは分が悪すぎます!」

「……風抜とは。なんだ」

 セプデトは進む足を緩めることはなく、スェスに尋ねた。

「ル・タのことを、そう呼んだ」

「風抜は。赤い土地デシエルト一帯に蔓延る盗賊団の同盟を指す呼称です。暁光の都の南西部…落日街ですね…先ほどまでいたあそこを本拠地としています。それまで手を組むことなどなかった盗賊たちが、十年ほど前に彗星のごとく現れたル・タによってまとめあげられ、名乗ったのが風抜です。どうやら暁都の執政官の中に、彼らから賄賂を受け取って落日の街での一切を黙認している者がいるようですね。恥もいいところだ」

「つまり頭領か」

 都はどこも通りに人がひしめいていて、一様に顔を上げていた。途切れることなく歓声があがる。黒いヴェールを夜風に紛れさせ、すり抜けていくセプデトは彼らにも空にも目をくれない。漆黒の双眸はただ前を見据えていた。

 スェスの髪が砂煙となって煌めく。

「ボクも一つ、ずっと気になっていたことがあって。我が王がどうして貴方を王妃に迎えたのか」

「……」

「あっあっごめんなさい、決してその、セプデトさんを貶める意図ではなくて。ただ単に不思議だったんです。我が王は人の心の中にある情というものを表に出さない御方。王宮殿には彼の心を射止めんとする多くの女性がいますが、彼女たちの誰にも、我が王はそういったそぶりを見せなかった。それが突然、婚儀を行うと聞かされた時…喜びもありましたが…信じられないというのが率直な意見でした。もし彼を婚礼に踏み切らせた、その理由が貴方なのだとしたら」

 口を噤んだのは、背後に殺気を感じ取ったからだった。背筋を凍らせて振り返ると、恐ろしい形相をしたル・タが音もなく頭上から襲いかかってきていた。砂の身を挺してセプデトを庇う。

「ヒイイー!」

 攻撃を受けて崩れ去っても、再びスェスは写身を形成することができた。幸い、砂なら足下にいくらでもある。セプデトの足を止めさせてはならないという思いから、スェスは屋根づたいに飛びかかろうとするル・タから彼女を守り続けた。

「暴力反対! 暴力反対!」

「どんだけ無尽蔵なんだよお前の力は……!」

 忌々しげにル・タが歯噛みする。

「最高神官にしても無茶だろ」

 スェスの意図を知ってか知らずか、セプデトは直線的ではないめちゃくちゃな道を選んだ。それが先回りしようとするル・タの意表を突く形となって、すんでのところで危機を脱することもちらほらあった。

「クソ、埒あかねえ!」

「イヤーッ!」

 曲刀シミターで幾度と玉砕されようと、そのそばから砂像となって現れるスェスに対し、ル・タが苛立ちを募らせる。

 攻防を繰り返しているうち、彼らはあっという間に都の東まで駆け抜けた。

 咳き込んだセプデトがするりと足を止める。めちゃくちゃな針路のように見えてセプデトは初めからここを目的としていたらしく、開け放たれた東の門の向こうに広がる地平が見えると、上がった息のまま、麻の袋を地面に置いた。

 軍事設備が集中していて民の居住区がほとんどないこともあり、東門の辺りはこれまでとはうってかわって、人通りは無いに等しかった。静かな中で、賑やかなのは空模様だけだった。

「慌てなくても。最後には全部お前のものだ」

 忍び寄るル・タに、セプデトが振り返りもせず言った。ル・タの延ばした腕が止まる。足元の麻袋を庇う形で彼女はル・タの影に入った。手出し無用、とばかりセプデトはスェスに目配せ、彼も頷いて不安げに足指を緩慢に動かした。

「まぶしいな、やっぱり」

 セプデトの身じろぎが、ちゃらり、と纏っている金属を擦れさせた。彼女はまっすぐにル・タを見上げた。しかし厳密にいえば、彼女が見ていたのはル・タではなかった。彼の影の中で、セプデトが瞬きをした。

 彼女と交差しない目線にル・タも違和感を覚え取ったらしく、訝しげに首を傾げる。しかし次の瞬間にはセプデトは視線を落としていた。

 セプデトの骨張った灰色の手にあるのは星時計だ。スェスには、それが醸し出す存在感が、先ほど塀の上で見た時よりも増しているように思えた。古めかしくも鈍い光を放つ星時計に対し、神威にも似た迫力を感じた。

 睫毛を揺らして、セプデトは両手いっぱいの星時計を胸の前に掲げる。

「譬え空が墜ちようと、天文盤に刻まれた星図が、今宵、星のあるべき位置を映す。これは夜空の羅針盤……星鑑」

 それが暁光の都で至宝と名高い星時計の、正式な名前らしかった。

「“圧倒の来るは東”」

 セプデトはぶつぶつと言った。

「“眩き光は眩さ故に誰も真っ直ぐ見られない”」

 それから立ちはだかるル・タに、ずいと己の身を寄せる。

「ネブラトゥムの

 彼女が首を傾げると、金属音と共に、関節がコキと音を立てた。

「スェスの神託」

 光のない目にふいに絡め取られたスェスの背筋がぞわりと粟立つ。ル・タから感じた殺意とはまた違った恐怖を覚えた。思わず逸らした視線でスェスは、彼女の薄い手のひらにもう一つ、何かが握られているのに気がついた。星鑑よりも小ぶりで、それもまた、羅針盤めいた形状をしている。彼はそれを指し示した。

「そちらは?」

「これはわたしの方位磁針コンパス。星を見る時、いつも使っている」

「壊れてるじゃねえか」

 ル・タが即座に反論し、セプデトの額を指で突いた。

「北はそっちだ」

 見ると確かに彼女の方位磁針コンパスはル・タの立っている側、南の方向を指し示していた。あちらは陽光の通り道。疑いようのない正南だ。

「そうだな、北は指さない」

 セプデトが頷く。

「この方位磁針コンパスはわたしの望む星の在処を教えてくれる」

「望む星の在処?」

「わたしが今望む星。即ち、この空で最も偉大な星」

 息を吐くように絞り出される彼女の声がル・タの視線を絡め取った。

「“圧倒”」

 彼がたじろいだ隙を見逃さなかったセプデトは軽い身のこなしで地を蹴ると、ル・タの身体を跳躍し…方位磁針コンパスを握っていたその手で…頭部を覆っていたル・タの艶のある布を思い切り引き下ろした。その拍子に方位磁針コンパスが砂地に転がる。勢いをつけたセプデトの拳は、ル・タの鎖骨あたりに着地した。衝撃に少しばかり眉を跳ねさせたものの、彼女の目がル・タから離されることはなかった。

 スェスの足先が砂を削る。

「やはり……!」

 露わになったル・タの顔面と頭髪を見た彼は、驚嘆に身体を震わせた。

 ル・タがすかさずセプデトを突き飛ばす。

「離れろ!」

「もう遅い」

 宙に飛ばされたメルセゲルは、自身が落下していくのに逆らうことはせず、しかし抱えた星時計を気遣うようにその身を捻る。セプデトが彼から空へと視線を移し、降り頻る流星群に目を輝かせた時、スェスには星鑑そのものだけが、時間の流れに沿わず、浮かんでいるように見えた。

「──汝、星散のうちにその軌跡を」

 セプデトの声に紐解かれるようにして、星鑑がゆっくりと回り始める。ル・タは彼女に向かって突進し、星鑑に向かって手を述べた。やめろ、と怒りに満ちた叫びが轟く。星鑑とル・タの間で閃光が瞬いた。

 放たれた光が辺りを真っ白に覆い尽くし、熱を持った光線が暁都を包む。重みを感じる明るさのあまり、悲鳴や喚き声が遠く暁都の中心にどよめいた。視界は眩んで頭痛がした。

 砂から伝わってくる大勢の足音。崩れたり、壊れたりといった物音。スェスはぐらぐら揺れているような感覚に陥った。

「セ、セプデトさん?」

 そろりと瞼を上げた。眩しさはもう感じない。頭上では相変わらず、流星が降り注いでいる。セプデトは体を起こしている最中だった。

「スェス。なんとも、ないか」

「あ、ありがとうございます。ボクはそもそも砂人形ですからご心配には及びません……セプデトさんこそ、お怪我はありませんか」

 尋ねられた彼女は顎で小さく頷いた。近寄ると、セプデトの傍には星鑑とル・タが、横たわっていた。

「……暁光の都に翳りをもたらすは」

「都の象徴にして頂点」

 ぽつりと言ったスェスの言葉をセプデトが引き取る。星空の中に立ち上がった弾みでさらさらと砂が舞った。

「明けの王の身体に宿りし太陽そのもの」

 スェスは倒れているル・タに歩み寄った。

 きっちりと着込んでいたル・タの服は、胸の辺りが大きくはだけていた。褐色の上裸に刻まれた、青い紋様。ところどころに目を思わせるような、不気味で魔術的な刺青。そして何よりセプデトの剥いだ布に覆われていた顔と髪。見紛うことなどない、暁光の都を治める、明けの王その人だ。

「我が王」

「ネブラトゥム」

 二人が呼びかけても彼は眉間に深く皺を寄せるだけだった。本当に眠っているのかと疑いたくなる仏頂面をしていた。彼の手にそっと触れ、ようやくセプデトは安堵にも似た和らいだ表情をかすかに浮かべた。

「いつもの熱さ」

 セプデトの細い指が彼の首筋をさらりと撫でる。

 スェスは星鑑を手に取った。心なしか真鍮の輝きが増しているように見えた。やまない流星群は遥か東の空からだった。

 セプデトは自身の頭にかけていたヴェールを外して、ネブラトゥムの顔に巻きつけた。雑な手捌きにスェスが目を白黒させる。

「な、何をしてるんです」

「顔を。隠さないと。明けの王がここにいるのを、知られたくない」

「それはそうですが……」

 道沿いには人の気配もない。

「でも、ここから王宮殿に戻るなら、誰にも見られずになんてこと無理ですよ。早いとこ衛兵に助けを求めましょう」

「だめ」

「なんでですか」

「それを、ネブラトゥムが望まないから」

 セプデトはゆらりと星鑑を指差した。

「太陽を…ル・タを…閉じ込めた。星がそれを示せと。ネブラトゥムの前に。それを、ネブラトゥムが望んだから……だからわたしを、星詠みをそばに置いた」

 彼女の拙い言葉にスェスは考え込む。

「それに。ちゃんと織り込み済みだ」

 何を、と彼に訊かれる前にセプデトは砂地を裸足で掴むようにして、静かに門に向かっていった。

「酔いどれ星の昇る時間の違いを、大まかに十に分けて一つの期間とし。それを、なぞる。星みたいに。ちょうど十日」

 彼女が門の外を確認して、当然のことのように頷いた。

「だからここの門番は、おまえ」

 セプデトが指差した陰から出てきた彼に、スェスが警戒の意を込めて姿勢を正す。しかし門番はどちらかというと萎縮しきっているように見えた。ゆっくりと動いているのも、隙を窺うというよりはおそるおそるといった調子であった。

「協力を……アム」

 セプデトの耳飾りが鈍い金属音を立てた。彼女がほくそ笑んでいたのに驚いて目をこすると、いつもの無表情だった。揺らめく松明の影のせいだろうか。

 錯覚に腕を組んだスェスの脳裏に思いがけず、妖女まじょという文字が浮かんだ。

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