風抜のル・タ

「“眩き光は眩さゆえに誰もまっすぐ見られない”」

「はは、んだそれ」

「なんだと思う?」

「答えられなかったら喰うつもりだろ」

 笑う合間に酒を呷ると、唇から数滴落ちて首筋を伝った。

「謎解きは嫌いじゃねえが。褒美はあんのか?」

 腕の中の痩せ細った女が視線を空に釘づけたまま首を傾げる。

「報酬だよ、報酬。よくできましたってな。開けごまの先に宝が眠ってなくっちゃあ張り合いねーだろ」

「なるほど」

 女は喉を鳴らして笑った。その腕には星時計が抱えられている。

「お前らしい」

「どーも」

 口角を上げ、女とは真逆、地面に顔を向けた。杯に注いだ酒には夜空が覚束ない星図を描いていた。酔いどれ星は天高くを目指し始め、夜はこれからとばかり都の賑わいを徐々に増していく。

 それを一番高い場所から見下ろすのがル・タの趣味だった。きらきら映る眼下の街並みは宝石箱にも引けを取らず、夜景を肴に呑みながら、その日の成果を弾き出す。いい商売だ。

 彼らが腰を落ち着けている暁都の一番高い場所からは、恵みの河も、その果ての砂漠も、戟塵の城塞圏ですら視認できた。ル・タはそっと地平線をなぞった。誰にも行けない場所へ行く。夢物語ではないのだと、己の体で証明できる。

 これだから盗賊稼業はやめられない。

「もう十日くらいになるか、お前に初めて会ってから」

 鞣した袋に金貨を均等に詰め替えようと、ル・タが身じろぐ。

「早いもんだ。月を見て分かるくらいにはなったぜ、俺様も」

 どうだと言わんばかり得意げに見やると、そこでようやく女の顔はこちらに向いた。相変わらずぎょっとするほど大きな双眸が焦点を合わせてくる。

「覚えが早いな」

 次の瞬間には彼女の目は空に向き、沈みかけの月を捉えていた。その仕草が気に入らない。

 ル・タは女の名を呼んだ。

「セプデト」

 星明かりと酒場の灯にぼんやりと浮かび上がる影を濃くしたかのような容貌の彼女が、返事の代わりに金属音を擦り合わせた。彼女の身につける装飾はル・タがざっと見ただけでも高価な物ばかり。癖で延ばしかけた手を、慌てて逸らす。行き場のなくなったのを誤魔化すために、彼女と肩を組む。セプデトは少し窮屈そうに眉尻を下げたが、何も言わなかった。

 手つかずの杯を彼女に寄せる。

「俺様んとこ来いよ、よっぽどでけえ稼ぎになる」

 ル・タは彼女の持つ星時計を指した。

「一人でそれ盗めるくらいのお前だ、特別待遇で迎えるぜ」

 神殿に秘された暁光の都の至宝。それを手にしているのは王でも神官でもなく、異邦の女だ。暁都には吹かない冷えた風を纏っている。見惚れるのとはまた違う、目を奪われるの方が正しいだろうか。どちらにせよ悪くない気分だった。

「好き放題しようじゃねえ、俺様と一緒に。楽しくやろうぜ。毎晩歌って踊って酒飲んで。最高だろ?」

「夜に歌ったり踊ったりする暇はない」

「酒は?」

「興が乗ればな」

 彼女の瞳は夜空から一向に戻ってこなかった。ル・タの手にした杯がぐいと口元に近づくまで。

「……」

「なんだよ、いいだろ。何が不満なんだよ?」

 かすかに機嫌を損ねたようなセプデトに、ル・タが背筋を伸ばす。

「酌み交わせばお前も風抜かざぬきだ。俺様たちは民が退屈しないための息抜きで、窒息しないよう風通しを良くするための穴…なあ、お前の答えを聞いてみてえんだ…どこに行きたい、何が欲しい。凄腕の女盗賊、お前の次の獲物は一体なんだ?」

「させませんよ」

「あ?」

 セプデトとはあからさまに違う声がル・タに答えた。耳をぴくりと動かしたセプデトの、星時計に触れる指先が力む。

 くつろいだ体勢は崩さずに、頭だけで背後を窺う。酒に酔っていても、彼の動きには無駄がない。

 砂の地平を背景に男が立っていた。ル・タは驚き半分、好奇心半分に手を叩いて喜んだ。

「へえ、俺様以外にここに来れるやつがいるとはな。大したもんだ、どうやった?」

「見過ごせませんから。セプデトさんを風抜に入れるなど」

 ル・タは口をつぐみ、突如として現れた男を見据えた。音もなく現れた彼を怪しむように、されど襲いかかるそぶりは取らなかった。余裕綽々といった調子で、男に問いかける。

「なんでこいつの名を知ってる?」

「……スェス」

 それまでル・タの体が壁となっていたセプデトにも男の姿が確認できたらしく、彼女は呼吸と変わらない声をあげた。唇の使い方が、それまで使っていた東方の言語から、暁都の公用語に変わっていた。

 ル・タの目線が、スェスと呼ばれた男とセプデトとを行き来する。

「おいおい知り合いかよ。お仲間?」

「セプデトさん、貴方を妃として迎えたのは紛れもなく我らが王、明けの王その人です」

 スェスはル・タを無視して続けた。

「英明なる彼の真意には我々臣下は到達できない。ですが、だからこそ、彼の決定を、その想いを裏切るおつもりなら。ボクは神官として裁きを下す。貴方が王妃だろうと、関わりなく」

「王妃?」

 驚いたのはル・タの方だ。

「神官だと?」

「……」

 懐疑を飛ばした先のセプデトは何も答えない。

 スェスは、苦悶の表情を浮かべた。

「初めから狙いはそれだったんですね…星時計…それを手に入れるために、我らが王に」

「……っはは、マジかよ!」

 ル・タが腹を抱えると、スェスの眉間が顰められた。

「あのご冷血をオトしたってのか。やるなぁ、お前!」

 笑い過ぎたせいで息苦しくなったル・タは緩慢な動作で顔の半分を覆う布に空気を取り込む。鼻から下を完全に隠しているそれのおかげで砂埃を吸わずに済むのだ。酒に酔った頬に夜風が心地良かった。

 ル・タの大きな手がセプデトの顎を掬い上げる。

「王様なんかより英雄と一緒になろうぜ」

「英雄じゃない」

 スェスが口を挟んだ。

「ただの犯罪組織のまとめ役です、貴方は」

「お前らにとっちゃそうでも、民はなんて言ってるかな」

 ル・タは耳に手をかざし、夜の賑わいに向けて傾けてみせた。

「風抜こそ自由の象徴、落日の街の希望。陽光の民の誇り」

「義賊気取りもいいところだ。貴方は犯罪者たちを同盟と称して体よくまとめあげただけ、被害を減らしてはいないというのに」

「減らしただろうが。風抜の連中は平民から奪うことはしねえと誓ってる、俺様が誓わせた。だがその前はどうだった。暁都のあちこちで暴動だ乱闘だと荒れ放題だったよな。都の外でもだ、どこの国家くにでも。女子供も関わりなく理性の箍を外したもん勝ちの、酷い有り様だったぜ。悪事の限りを尽くしたような」

「それを正したのは我が王であり、列強の王たちです」

「ああ、法を敷いたな。連中はただでさえ疲れてたってのに、だ」

「政は綺麗事ではありません」

「民がなくちゃ、せっかくのご命令も意味ねえけどな」

「国の内情を立て直したのは我が王に他なりません」

「人の心は簡単には治らねえ」

 スェスが言葉に詰まったのをいいことにル・タが畳みかける。

「そもそもあのご冷血はハナから市民よりも国のことだろ。国力をつけて潤えば民に楽をさせるだろうが、潤うまではその国の力ってのは全部民衆任せじゃねえか。みんなそれくらいお見通しだぜ、なんせ商売人ばっかりだからな……陽光の民が好むのは、どんちゃん騒ぎと英雄譚。あんな仏頂面よりこの酔っ払いのがよっぽどいいんだろうよ」

 豪快に笑ってから酒を飲み干す。悔しげに唇を引き結ぶスェスを見るに、もう口答えはしてこないだろう。ル・タは上機嫌で手をひらひらとさせた。

「それに執政官どのとは、よくよく話をつけてある。落日街については特に。政は綺麗事じゃねえ、仰る通りだ。腐りきってる」

 スェスが眉を顰めたので、そんなことも知らないのかと小馬鹿にしたように指をくるくる遊ばせた。

「世の中、金で回ってるってこった。お綺麗な儀式ばっかりやってる神官様には分からねえかもしれねえが」

 スェスは絶句し、ル・タは勝ち誇った。都の底から怒号が聞こえた。落日街の喧騒は他の賑わいと比べると少し物騒だ。スェスが石壁を背に後ずさりした理由が嫌悪から来るものだと、ル・タは分かっていた。だから余計に笑みは深まった。

 西を向いていた月は東の地平に沈む。

 二人のやりとりをただじっと眺めていたセプデトが不意に、空に吸い込まれるようにして立ち上がった。

 スェスに向いていたル・タの上体が正面に戻ってくる。

「セプデト?」

 既に彼女の意識は上空に集中しているようだった。その後も何度かル・タが呼びかけるも、セプデトは彼に一瞥もくれなかった。

 彼女が纏った漆黒のヴェールが鈍く輝る。

「“圧倒のきたるは東”」

 久々に口を開いたセプデトの呪文めいた言葉に、スェスがハッと一歩、踏み出す。ル・タは素早く腰に提げた剣に手をかけた。

「神託を、スェス。もう一度」

 真剣な眼差しは未だ空にあった。

「なんと言ったんだった、神は」

 スェスが息を吸ったのが聞こえたが、それきり何も発さない。振り仰ぐと彼は随分青ざめているように見えた。

 逡巡する彼を急かすよう、セプデトが指先を向けたところでようやく観念したのか、視線を落としてスェスは言った。

「“東より来たる侵略者が暁都に翳りを齎すであろう”」

「……うん」

 セプデトが瞼で頷いた途端、背後の気配が大きく動く。

 ル・タは目にも止まらぬ速さで剣を抜いた。鎌状の切先がスェスを難なく切り裂く。悲鳴をあげる暇も与えず。

「もっとこっそりやるもんだぜ、盗みってのは」

 しかし刃から伝わる感触の違和感にル・タが膝を緩めた時、神官の体はただ砂の塊が崩れるようにバラバラと足元に散らばった。鮮血が噴き出すこともなかった。最後には塵のように細かくなって、石積みの地面に消えてゆく。疑問を抱くより早く、ル・タは唸った。

砂人形ゴーレム……!」

「そ、その通り、貴方の攻撃は効きません。この身はここにはない」

 震えたスェスの声と共に砂塵が再び形を成し、セプデトに向いた。

「なぜ星時計を盗んだのか。教えてください、貴方は聡明な方…されど分からないことが多すぎる…我が王に似て」

「……鍵を。持つのは誰だ」

「えっ?」

「宝物庫の鍵。持つことを、許されているのは」

「代々の明けの王、それから最高神官」

 呆気に取られるスェスとは対照的に、ル・タは淡々と答えた。

「列強が一、香炉の王に作らせた面倒な細工だ、どっちも……待てよ。そういやそうだ、お前も持ってるんだよな」

 詰め寄られたスェスが訝しみつつも首を縦に振る。

「ならお前を狙う方がスマートだ」

 ル・タの言葉には、真摯な響きが秘められていた。ただスェスを馬鹿にしたのではない、様々な要因や障害を鑑みた上での見解であることを示すための。

「物理的にもだ。王宮殿に籠りきりのやつよりも、神殿に籠ってるやつのがまだ狙い目だろ。宝物庫はそっちにあるんだ、待ってりゃいずれ機会は巡ってくる」

「た、確かに。星時計のためだけにわざわざ王妃になるというのは、あまりにも」

 感心するように頷いたスェスはそう言ったところで突然、ル・タを見つめていた顔を顰め、何かを探るかのように目を細めた。

「……」

「なんだよ?」

「……ま、待ってください、そんな。まさか」

 要領を得ないだけの彼にうんざりとし、釈然としないままル・タが視線をセプデトに戻すと、彼女は広げていた星見用の荷物を綺麗にまとめ、腕に抱えていた。擦り切れてところどころに穴が見える、ずたぼろの麻の袋だ。

 ル・タは彼女がきつく抱いた袋の隙間から覗く星時計に問いかける。

「どうやって盗んだ」

「盗んでない」

 セプデトは呼吸をおいてから東の言語でこう告げた。

「王妃として自らの監視下におくこと。それがネブラトゥムにとっての、星時計をわたしに預ける理由。わたしが星時計を欲したから…欲しいものはなんでも揃う…それが暁光の都。ネブラトゥムはそれを守った」

 全てを聞き終える前に、ル・タは剣を振りかぶっていた。自身とセプデトの間に砂塵が舞い、スェスが彼女を庇ったのだと悟る。

 ル・タは忌々しげに舌打ちをした。

「つまり、つまりだ。騙してたんだな、俺様を?」

「わたしは盗んだとは言ってない。おまえが勝手に勘違いしてただけ」

「訂正しなかった」

 じりじりとセプデトを追い詰めて、逃げ場を奪う。

「わざと」

 これ以上行けば足を踏み外して真っ逆さまというところまで来た。スェスが彼女の盾になろうとしてももう無駄だ。剣を遊ばせながら、セプデトの額に突きつける。皮のすぐ向こうに骨がある感触がした。ひ弱な身体だ。

「寄越せ」

 もう片方の手で麻袋を示す。

 セプデトは感情の読めない黒い瞳をそれに向け、スェスに向けてから、切先越しにル・タを見た。

「王は自ら秤に乗った」

 彼女がわずかに屈み、足裏に力を込めた。

「ならばわたしを、王妃として」

 言うや否やセプデトは軽く地を蹴った。

 ル・タが目を見開き、咄嗟に麻袋へ手を延ばす。しかし届くことはなかった。

 渇いた風が弾ける。

 跳び下りたのだ、セプデトは。暁都を囲う塀の頂上から、なんの躊躇いもなく。彼女の痩せ身は夜を盛りと煌々賑わう街並みへ落下し、ル・タの剣撃は空振りに終わった。

 聴き取りづらいセプデトの掠れた声が、この時ばかりはいやに耳に残った。

「誰にも解けなかった謎が解かれたらこうするものだろ」

 まるで挑発のような視線がル・タのそれと絡んだ。

 彼女の落ちる先は奇しくも都の南西部。玉座より225°、落日の街。ル・タはかすかな焦燥を滲ませた。

 一刻も早くセプデトを見つけ、星時計を回収しなくては。ル・タといえどもあの街での失せ物は帰ってこない。この手に掴むまでは決して安心できないことを、彼は痛いほどに知っている。獲物を横取りされるのがル・タの最も嫌うことだった。

 ル・タは膝を屈伸させて、力強い指をパキパキ鳴らした。革の水筒を傾けても酒はもう一滴も残っていなかった。

「ああ、クソ」

 いつ間にかスェスの気配は消えていたが、もはや彼にとってはどうでもいい。細く息を吐き、鋭く吸った。

 瞬間、彼の頭部をくるむ絹布が風を切る。

 盗賊の頭領はその身を闇に翻した。

「欲しいものは……手に入れる」

 その体躯は一直線の弧を描く。セプデトめがけて。

 見慣れた夜空がやけに騒がしい気がした。

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