神官スェス

 瞬く間に時は過ぎた。

 天窓から覗く酔いどれ星を見上げながら、神官はぼんやりとそう思った。門の方から、交代を告げる鐘が鳴った。婚礼の鐘を思い出させる荘厳な音。今夜はまた一段と乾いた空によく響く。

 陽が沈んだ後とはいえ、まだまだ暑い気温だった。神官は王宮の、風が通らない造りを憎んだ。そうしてひたひた足を進めた。夜に向けて忙しくなる宮殿を、一人だけ反対方向へ。人の流れを割くように。

「セプデト」

 思わず足が止まった。明けの王だ。あの低く鳴る声色には何年経っても体がぎくつく。目の下に刻まれたが余計に凄味を増していた。神官が割いていた人の流れが、今度は逆方向から開けてゆく。王が通るといつもこうだった。

「星見か?」

 彼の視線の先に佇んでいるのは、月影の隣人。シンの谷の妖女まじょだ。彼女をセプデトと明けの王は呼ぶ。

 寝室に向かうところだったらしい王に対して、彼女は今から出かけるような装いをしていた。食事も浴も済ませたのだろうか。彼女の活動時間は他の人間とはかけ離れていて、生活も不規則だった。

「なんだ、聴こえん」

 明けの王は呟くと、セプデトにずんずん歩み寄る。彼の落とす影に入ると、ほとんど姿は見えなくなる。王の大きな手で持ち上げられたセプデトは、小さく足を揺らした。足首に装着された宝飾の数が増えていることに神官は気がついた。

「何も言ってない」

「ああ、道理で……都へは下りるな。門は使わず、北から行け」

「そのつもりだった」

「ならばよし」

 明けの王が腕を下ろし、床に着地したセプデトが彼を見上げる。ちょうど彼女の頭のてっぺん辺りに胸があって、神官はよくもあんなに近くで平然としていられるものだと身震いした。王の体に青く刻まれた目の紋様と視線が合っているようで落ち着かないのだ、多くの人間は。

 セプデトは星図や書物を抱え直し、裸足を足踏みした。

「おやすみ、ネブラトゥム」

「……ああ。良き夜を、セプデト」

 そう言い残し、明けの王は彼女を解放すると、来た道をのしのし戻っていった。

 セプデトは王を見送ってから、踵を返すと王宮へ吹き込んできた砂の上を滑るように駆け出した。彼女の行く手に立っている、神官の方へ。

「スェス」

「ひっ」

 名を呼ばれ、砂鳴きのような嗚咽が漏れる。

「あっあっ、セプデトさん、ご機嫌よう」

「うん」

 相変わらず感情の読めない顔でセプデトは頷いた。

「仕事、これから?」

「あはあは、今日はもう、おしまいです」

 スェスはおどおどとしながら俯いた。彼女に距離を縮められると、否が応でも肩がびくりと跳ねてしまう。そんな情けない自分の肩を抱いたスェスはそっと、彼女を見やった。

「星を見に行かれるんですか?」

「うん」

「で、ですよね。すごいなぁ」

 スェスの視線は落ち着きなく彷徨っていた。体格差は言うまでもないのに、なぜか彼女には気圧されてしまうのだ。彼自身が生来の小心者であることを差し引いても。

 スェスが陽光の民の中で彼女を歓迎している数少ない人物だからか、セプデトの眼光はわずかに和らいだ。彼女は顎で外を指した。

「一緒に」

「えっ?」

 スェスの目が輝き、そして曇る。

「で、でも、そのう、お邪魔でしょうし、ボク、お話し上手じゃないですし」

 彼が御託を並べる間、セプデトは何も言わず、彼をじっと見上げていた。不自然なほどに大きな瞳で。

 しばし流れた沈黙の後、彼女の無言に耐えられなくなったスェスはとうとう、降参のポーズをとった。

「ヒ、ヒイーッ、ごめんなさい、ごめんなさい、でもボク、夜出歩けるほどの勇気はないんですぅ!」

「……そうか」

 セプデトは気にしてない、と首を振った。

「お前を、大変な目に遭わせては。神官たちから大目玉だろうからな」

 纏ったヴェールを翻し、セプデトがスェスと入れ替わるようにして廊下を進む。外へ通じる北の抜け穴へ向かうのだ、明けの王の言いつけを守って。

 小さな体が遠のいて、さらに小さくなっていくのをじっと見つめる。

「スェスどの」

「ヒッ!」

 背後から声をかけられたスェスは跳び上がった。重たい袖が腿を打つ。

 振り返ったそこには、別の神官が立っていた。スェスを最高位へ斡旋した内の一人だった。彼はスェスのずっと先にいるセプデトを睨むかのごとく見据えていた。

「お目付けの役割、しかと果たして頂いているようで」

「ああ、はは……皆さんの意見はごもっともですから」

「それで…何かありましたかな…王妃どのの妖女まじょがこの暁都の災いとなるような兆しは?」

「い、いいえ」

「まだ尻尾を出さないか。まあいい、じきに時はやって来るはずだ。あの妖女まじょが本性を現したその時こそ、我ら神官の力を民に示し……さすれば玉座も夢ではない」

「宮殿内で王を貶めるような発言は」

「なに、気にすることはない。宮殿の者らは神官の力を呪いの類と誤解しているのだ、我らの不利になることがあろうとも明かすことはないだろうよ。ともかく。妖女まじょへの注意を怠らないように願いますよ、最高官」

 それだけ告げると、神官はさっさと廊下を渡って暗がりに消えていった。

 スェスの、肩を抱いていた手が白んでいた。

「……ネブラトゥム様の御身の心配が先でしょう」

 それを、面と向かって言えない自分を恥じるかのごとく。

 スェスが最高官として推薦されたのは、他の野心溢れる神官の傀儡として申し分ないからである。本人も重々承知していた。王宮殿を後にし、とぼとぼ歩いて神殿へ向かう途中、スェスは己の不甲斐なさをいつものように悔いていた。近衛兵に言って砂鯨を出してもらい、北の砂漠を抜ける間もずっと。

 明けの王ネブラトゥム、歴代で最も若き暁光の都の王。彼が即位してからというもの、王宮殿では息苦しさが続いていた。多くの陰謀が渦を巻いて、玉座を手中に収めようとしているのだ。神官として王を支えるべき立場にあるスェスだが、彼がそんな勇敢な行動を取れたことは今まで一度たりともなかった。彼にできたのは、ただ王の妨げとならぬよう、肩書きを盾に周囲を諌め、宴や贈り物で高官たちの機嫌を取り、なんとか丸く収めることくらいであった。

「神官様、着きました」

「ありがとうございます。これはお礼です」

「謹んで頂戴します」

 賄賂も汚れ仕事も、スェスにとっての理由は明けの王であった。だが他は違う。保身か、成り上がりかである。それがスェスには心地悪かった。気持ちが悪い、不快だと思っても、口にできたことはないが。

 都とうってかわって、夜の神殿は人気もなく静かだった。考え事にはもってこいの場所だ。神殿の開けた部分からは、暁光の都が一望できた。灯りが燃え上がる炎のように夜空に昇る様を眺めるのが、スェスは好きだった。夜闇を跳ね返す強さを表しているようで。

 スェスが見惚れて腰を下ろす前に、都の街並みに、影が躍った。

「えっ?」

 見間違いかと思い目をこする。しかし何度瞬きをしてみても、影は都と夜空の間を縫うように踊っていた。驚いたことに、屋根から屋根へ、塀や櫓にも跳び移るそれは、間違いなく人影だった。

 スェスは慌てて懐から望遠鏡を取り出した。覗いた光景の周囲の音声や匂いまで分かる優れものだ。最高神官に着任した祝いの席で、列強に名を連ねる王から贈呈された。

 動き回っていた人影が落ち着いたのを見計らい、望遠鏡を向ける。

 番兵の目を盗むように塀の上に座り込み、砂埃を払った大男は、顔に幅広の布を巻いていた。くつろいだ様子の男の腕には何かが抱えられていた。

「……うそ」

 目を凝らしたスェスの首筋に冷や汗が伝った。

「セプデト、さん」

 望遠鏡を向けた先は、都の西側であった。

「ゆ、誘拐」

 スェスは身体を強張らせたが、セプデトはどういうわけか大男と同じように胡座をかいて、ゆったりと空を見上げていた。スェスは懐疑に顔を歪めた。友人でもできたたのだろうか。都の住民には夜も活発な者が多い。しかし大男のあの身のこなしはただの人間ではない。あれはまるで。

「まるで盗賊の」

 口走った自身の言葉にスェスは息を呑んだ。仮にも王妃が、盗賊とつるんでいることが知れたら。それこそ王妃の品格が疑われる。例えそれをセプデトが知らなかったとしてもだ。臣下からも民からも、明けの王への忠誠が揺らぐことになるだろう。それになんだか二人は仲睦まじそうに見える。

「ま、まさか、不貞を働いているなんてこと」

 それはもっとまずい。

 何か言葉を交わす彼らに、さらに倍率を寄せる。盗み聞きは気が引けるがやむなしと自分に言い聞かせた。だが聴こえてくるのはスェスには耳慣れない音ばかりで、なんと言っているのかはさっぱりだった。暁都の公用語でないことだけが明らかであった。抑揚から恐らく東の言語であろうことは予測できた。

 スェスの舌が疑問を呟いた。

「盗賊が東の言葉なんて」

「ル・タ」

 途端、スェスの喉笛が夜風を吸った。耳に飛び込んできた、砂の上を撫でる掠れた風のような響き。セプデトが言ったのだ、隣の大男に。

 スェスはあまりに驚愕した勢いで望遠鏡を下げた。都の灯りは先ほどまでとなんら変わらない眩さをしていた。

 ぼんやりと都を眺める。

「ル・タだって……?」

 事実を確認するため繰り返したスェスは、次の瞬間、重たい衣装を大きく揺らして神殿の中へと走っていた。望遠鏡を握りしめ、神殿の最奥、宝物庫へ。手をもたつかせながら首飾りの仕掛けを解くと、宝物庫の巨大な扉を控えめに開けた。

 宝物庫の中は灯火なしでは相当暗かったが、苦手だなんだと言っている場合ではない。灯火を準備する時間すら惜しい。スェスは己を奮い立たせて足を踏み入れた。

 そして愕然とした。

 暁光の都の至宝が納められているはずの台座はもぬけの殻だった。あの星時計のない今、先ほどの光景が意味することは、スェスには信じ難い事実であった。

 宝物庫に人の気配を感じてか、宝の山に混じった檻から甲高い鳴き声がした。この地域では見ない珍しい生き物だ。これも明けの王への贈り物の一つだった。いつも世話をしているので、遊んでもらえると勘違いしたようだった。

「そうだ、この子に連れてってもらえばすぐに」

 向けたつま先はしかし二の足を踏めない。

「すぐに…行ったとして…何ができる……」

 スェスはただの神官であり、秘密裏に事を済ませられるような戦う力や武器など無論のこと持ち合わせていない。それも最高位の神官が空を飛んだとなれば確実に都の誰かの目に留まり、追求されれば隠し通すことは難しいだろう。だからといって周りに助力を乞えば最後、セプデトの行いが白日の元に晒され、明けの王の地位が揺らいでしまう。

 王宮殿が寝支度に勤しむなか、行動に起こすことができるのはスェスだけだった。だというのに彼の身体は時が止まったように固まって動けなくなっていた。スェスは視界を涙で滲ませた。

「臆病者」

 恨めしげに囁き、両手を力ませる。

 その際、握ったままだった望遠鏡がやけに明るく感じたのを不思議に思ったスェスは視線を落とした。鏡面が光を反射して、床に道筋を作っていた。思わずその行く先を目で追って、ハッとした。スェスは直感した。

「神よ、それが貴方の導きなれば」

 彼は口早に言うや否や駆け寄って、宝の山からそれを丁寧に取り上げた。

「あの子よりも時間はかかるけど」

 ちらと見やった檻の中では、甘えるような鳴き声が変わらずこだましていた。

「確かにこっちが適役かもしれない」

 少しだけ皮肉ったように笑って、スェスは俯く。

 胸の前に包み込むようにして掲げた彼の手にあるのは、糸巻きのような…それも、糸の巻かれていない…宝物庫に納められるにしてはあまりにも場違いに思える物だった。しかし開いた扉の隙間から、宝物庫の床から、砂の粒がさらさらと集まってきたかと思うと、ひとりでに撚られて糸巻きに吸い寄せられていく。

 スェスは早鐘を打つ鼓動を落ち着けようと目を瞑る。

 暁光の都は貿易によって栄えた列強だ。莫大な財を有し、資金力で右に出るものはないと言われる。その心臓部ともいえる宝物庫には、他勢力から贈られた珍しい品や、献上された略奪品などが大量に納められていた。赤い土地デシエルトに存在する宝、あるいはそう呼べる価値ある品物はほとんど暁光の都の保有であるとまで囁かれるほどだ、ここに足を踏み入れれば、黄金郷の異名が伊達ではないことを思い知るだろう。

 光の筋に照らされた砂粒が輝きを増し、スェスの震える指先に力が込もる。彼の手にする糸巻きは宝物庫の古株。高位の神官にしか扱えないとされる神器であった。

 きつく目を閉じ、再び開いたスェスは、臆病さを微塵も感じさせない決意を宿していた。

 輝く砂は糸巻きに絡め取られ、暗闇にあって陽光のごとく。

 あかあかと照らされたスェスの表情は、穏やかな神秘さに満ちていた。

神威しんいに応えよ、砂の繰糸くりいとよ」

 黄金色の糸束が、ひときわ強く煌めいた。

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