第43話 手伝い

 七沢の家に到着し、彼の着替えを手伝ったりと色々なことをしていたら、夕飯を食べてもおかしくない時間になっていた。夏生はスマホのアプリを立ち上げる。


「七沢。夕飯は出前にでもしようぜ。何食べたい?」

「そうですね……では、カレーをお願いします」

「カレー? カレーでいいのか?」

「こんな状態なので、スプーンのほうが食べやすそうですから」

「……あ」


 そうだ。右手は怪我をしているのだった。そのことにもう一度気づかされる。


 夏生は自分の夕飯もカレーを選んだ。七沢に「好きなものをどうぞ」と言われたが、なんだか気が引けてしまった。


 しばらくすると、インターホンが鳴った。七沢の代わりに自分が玄関を開け、届いたカレーを受け取る。リビングの食卓テーブルへ運んで、向かい合わせにカレーを並べた。そして、ふたりで手を合わせて「いただきます」と言って食べ始める。


 七沢がカレーを口に運ぶ。その姿は、とてもぎこちないものだった。スプーンひとつで食べられるとはいえ、左手で、ものを食べるのは難しそうだ。

 ぎこちない仕草で食べ進める七沢を見て、夏生のカレーを食べる手が止まる。そして、包帯が巻かれている右手を、こっそりと盗み見た。


(…………)


 夏生は少し考え込む。

 動かなくなった自分に気づいた七沢が、スプーンを置き、左手を軽く振ってみせた。


「夏生さん? どうかしましたか?」


 手を振っても、気づいてないと思ったのか、七沢は声をかけてきた。夏生は、顔を上げると彼に向かって「決めた」と告げる。


「俺、通うわ」

「え……? 通う、とは?」

「お前の手、その状態だとご飯も風呂も大変だろ? だから、俺が……期間はそうだな。ビニール手袋がいらなくなるまで、この家に通うよ」

「えっ!? でも、それは大変じゃないですか……? 平日は仕事でしょうし、通うのは厳しくないですか?」

「お前、いつも何時ごろ帰ってきてるの?」

「帰宅は大体、七時とかそれくらいですが……」

「だったら……まぁ」


 大丈夫だろう。終電にさえ間に合えば、どうにかなる。

 そう考えていると、七沢が遠慮がちに声をかけてきた。


「本当に手伝ってもらえるのなら、すごくありがたいので、お願いしたいんですけど……その……」


 七沢は包帯が巻いてある右手を持ち上げ、口元に当てるような仕草をした。語尾はモゴモゴとして不明瞭で聞き取れない。なんて言ったのか気になる。

 夏生はその続きをせっついた。

 

「なんだよ? はっきり言えよ」

「俺の家に泊まりませんか……? 手伝ってもらってる間、つまり、その……数日間、一緒に暮らすってことになるんですけど」

「……え」

「そのほうが、通うよりも楽じゃないですか? あ、でも、本当に、夏生さんが良ければ、なんですが……」


 それまでお互いの顔を見ながら話していたが、どちらともなく視線を少し横にずらした。七沢が躊躇することなく、提案してきたら、きっと「うん」と即答していただろう。彼にしては珍しく、戸惑っているような言い方に、夏生自身も気づいてしまった。


 ──この人のことが好きだ。

 ──あなたは、俺の初恋だから。


(俺のことを好きな相手と一つ屋根の下で暮らす……)


「……藤崎夏生さん」

「……はい」

「俺は、あなたのことが好きです」

「……はい」

「だから、きっと俺は、あなたがこの家に来たら、アプローチします」

「……はい」

「もし、少しでも嫌だとか、戸惑う気持ちがあったら、断ってくれて構いませんから」


 部屋の中は、チクタクと時計の音だけが響く。

 ふたりとも食事の手は止まったままだ。夏生は横にずらして、外していた視線を戻した。


「あの、さ。その……多分だけど、俺もお前のこと、気になっていると……思う。七沢のことを、自分の演奏で殴ってやろうって思って、それで今まで行ったことないところにまで足を運んで、ずっとお前を探してた」

「……それは、初耳ですね」

「俺もお前と同じようなことをやってたってことだよ。お前が動画で俺を探したように、俺はピアノのある場所を巡って、お前を探してたんだ」

「そうだったんですか」

「ただ、それがお前と同じ気持ちなのかと問われるとわからない。だから、その、返事は、お前の手が治るまでの間、一緒にいて、それで答えが出せないかなって思ってる」


 七沢がこちらをじっと見つめる。その真剣な眼差しに、心臓がドキドキと音を立てた。


「わかりました。返事は、今は保留。でも、この家には泊まってくれて、俺の手伝いをしてくれるってことで、いいですか?」

「うん。そんな感じで……」


 そう返事をすると、七沢が立ち上がった。そして、怪我をしていない左手を差し出してくる。


「ありがとうございます。夏生さん。よろしくお願いしますね」

「あ、いや、そもそも俺のせいだし……」


 七沢の左手を、自分の左手で握り返す。ぎゅっと強く握り返した七沢は、満面の笑みを浮かべていた。


「それじゃあ、これ食べ終わったら、夏生さんの家に荷物を取りに行きましょうか。俺も念のため、ついて行きます」

「え、別に俺一人でも……」

「もう一度言いますが、念のためです。右手はこんなですけど、別にまったく使えないわけじゃないですから。医者には濡らすなとしか言われてませんし」

「……いや、そもそも極力使ったらダメなんじゃ」


 七沢の言い分を呆れ気味に返す。畑中さんは自分のマンションの場所を知っている。彼が訪れることはないだろうと思うが、それでも不安はゼロではない。誰かがそばにいてくれる、それだけで安心できそうだ。そのことを七沢に伝えると、「ここでヤキモキしながら、待ってるのが嫌なんです」と返ってきた。


 彼の言葉に甘えて、一緒に自宅まで荷物を取りに行く。

 そして、またこの家へ戻ってきた。時計は午後十時を超えており、帰ってきて早々に、七沢に風呂に入るかと尋ねた。


「頭と背中を洗ってやるよ。他は左手でも、できるよな?」

「そうですね。やりづらいところがあったら、夏生さんにお願いしますね」

「わかった」


 七沢が、夏だしシャワーだけでいいと言う。あまり濡らすなと言われているのだから、湯船に浸かって汗をかくのも、怪我にはあまり良くないのかもしれない。

 

 服を脱ぎ、風呂用の椅子に座った七沢を見下ろす。柔らかく、くせのある髪の毛をたっぷりの泡で、わしゃわしゃと洗った。それを一度シャワーで流してから、広い背中を洗う。

 その背中を見て、抱きしめられたときのことを思い出した。強い力で抱きすくめられ、伝わってきた体温は温かかった。


 夏生は頭を軽く振る。そして、背中を洗い終わると、自分の手の泡を洗い流して、残りは七沢自身に任せて、浴室を出た。洗面所の鏡が目に入る。鏡に映る自分の顔は……赤く染まっていた。



 こうして、七沢との共同生活が始まった。

 告白してきた相手と、その返事を保留している相手が一緒に暮らすという、期間限定の奇妙な同棲生活のようなものが、始まったのだった。

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