第44話 七日目
──七沢と一緒に住んで七日目。
さすがに一週間も経つと、お互いに生活のすり合わせが、できるようになってきた。
ご飯に関しては仕事帰りに、自分がお弁当を買って帰る。フォークに刺して食べづらいようなおかずは、一度弁当から取り出して、包丁で一口サイズに切ってから、またその器に戻し、それを食卓テーブルに並べた
お風呂は、夏ということもあり、基本はシャワーで済ませる。
七沢の髪と背中は、自分が担当して洗った。
利き手の怪我というのは、なかなか不便なもので、左手では、掃除機も掛けづらいらしい。七沢の家は戸建てなので、掃除機を掛ける時間帯を気にする必要もないので、自分が帰ってきたら、夕飯の弁当をレンジで温めている間に、それをやった。ゴミまとめなどの細々としたものも自分が担当した。
「夏生さん、すみません。思ってたよりも、手伝ってもらうことが多くて……」
「いや、気にしなくていいよ。そのために、ここにいるんだから」
七沢の仕事は、基本的に会社でパソコンを使うらしい。キーボードを叩くとき、手は痛むが、仕事に支障はそこまでないと聞いて、ちょっとホッとした。
七沢は仕事帰りにその足で病院に寄って、毎日ガーゼを交換する。経過の方は良好らしい。
(そろそろお役御免かな……?)
そんなことを考えながら、今日も七沢の背中を洗う。七沢が浴室を出た後、自分も入れ替わるように風呂に入った。さっぱりした後で、少しだけ勝手知ったる家となったこの家の冷蔵庫を開け、中から缶ビールを二本取り出す。
缶をプシュッと開けて、ソファーに座っている七沢にそれを渡した。お互いに缶を軽くコンッと当てて、「お疲れ様」と声をかけ合ってから、それに口をつける。
缶ビールの中身が半分くらい減った頃、七沢が声をかけてきた。
「そうだ。せっかく夏生さんがこの家にいるんだし」
「……ん? なんだ?」
「ピアノ。弾いてくれません? 俺のお世話で時間取られて、ここに来てから、ピアノをまったく弾いてないでしょう?」
「ああ。そういえば、そうだな」
生活のすり合わせで、いっぱいいっぱいになって、ここにグランドピアノがある、ということすら忘れていたかもしれない。掃除機をかけながらピアノを目で捉えているはずなのに、『弾きたい』と思う余裕が生まれていなかった。
缶ビールを勢いよく飲み干す。空になった缶を、目の前のテーブルに置いた。ソファーから立ち上がって、ピアノのある防音室に向かう。防音室のドアを開いて、ピアノの鍵盤蓋を開けながら、七沢に声をかけた。
「なんかリクエストでもあるか?」
「うーん……そうだなぁ……」
七沢が顎先に手を当てる。少し考えている様子だったが、すぐに口を開いた。
「リベルタンゴ……かな? 夏生さんとの思い出の曲ですし」
「……いい思い出じゃないけどな。少なくとも俺にとっては」
そう返すと彼はクスクスと笑う。
ピアノのすぐ横に来て、鍵盤と自分を見下ろせる位置に立っていた。
夏生は、ビールで少しふわついている自分の頬を、両手で軽く叩いた。それから、深呼吸をして、鍵盤に指を落とす。
左手を叩きつける。腹に響くような重低音が辺りに広がった。
七沢とは、この曲から始まった──あの出会った日のことを思い出す。
横に立っているこの男が、突然、演奏に割り込んできた。謎の乱入者に戸惑ったのを覚えている。そして、この人物がピアノが上手いことはすぐにわかった。
音の粒が違う。
レベルが違う。
でも、その挑戦──受けて立ってやる。
祖母の家で、久しぶりにピアノを弾いて、それからたまたま動画サイトで見たストリートピアノに興味を持った。それから、ピアノを再開したけれど、そこには競争相手がいなかった。コンクールのように順位をつけられることもない。
そんなときに現れた挑戦者。
あのときの自分は、一緒に弾いていて、悔しいけど、楽しいと感じていた……はずだ。
(『つまらない』演奏だと言われて、その後で、すべてが悔しいに塗り替えられたんだった……)
そうだ。そうだ。そうだった。
悔しさしかないと思ってた出来事に、楽しかった記憶が蘇る。
七沢の指が鍵盤を走る。自分はそれを追いかけた。
自分が「どうだ?」と彼を追い越して振り返れば、今度は七沢が追いかけてくる。
夏生の頭の中では、男と女が情熱的なタンゴを踊り始めた。ふたりは、お互いの駆け引きを楽しんでいる。くるくると回るふたりに、自分の想いを重ね──〈紡ぐ〉
〈深紅のドレスを着た女は、男に向かって微笑んで見せた。その微笑みは、薔薇にも負けないほど美しい。男は胸元のポケットに飾っている赤い薔薇を手に取ると、跪いて彼女に差し出した。その口の動きは『結婚して欲しい』と言っているように見える〉
──この男は七沢、お前だ。
──告白してきた、お前のイメージ。
夏生は、横に立っている七沢の顔を見ない。ただ白鍵と黒鍵に向き合って、その指先だけを見つめた。
(コイツには、俺の頭の中の絵がダイレクトに伝わっているみたいだから……きっと気づいただろう)
この先に何が待っているのか、七沢にはきっと予想がついているはずだ。
夏生は、まぶたをそっと閉じて、紡いでいる世界へと飛び込む。
〈赤い薔薇を差し出された女は、その薔薇をじっと見つめた。男の指先が少し震えている。彼女は男の手に、自分の手をそっと重ねた。薔薇を受け取ると、女は自分の髪にそれを挿し、『似合う?』と尋ねるように、微笑んでみせた〉
──これが答え。俺の答えだ。
ドクドクと心臓が胸の内側を強く叩く。夏生は自分の頬に熱を感じた。
酒のせいか? ……いや、違う。
〈跪いていた男が立ち上がる。女は男に向かって、しなやかな手を差し出した。男は手を取り、その甲にキスをする。それからふたりは、お互いに身体を寄せ合った。これからは、この人と人生という名のタンゴを踊る。そう告げるように、またくるくると踊り始める〉
最後の一音。
白鍵を右親指で叩いて締めた。全ての指が鍵盤から離れる。
夏生は、深く息を吐いた。すると、横に立っていた七沢が、覆いかぶさるようにして抱きついてきた。その勢いで、椅子の後ろに倒れそうになり、慌てて七沢の服を掴む。彼の背中に手を回して、しがみつくような形になってしまった。
「夏生さん、夏生さん。夏生さん……!」
「あっぶないな……倒れそうになっただろ」
「いいんですか? 本当に……? 嘘、じゃありませんよね?」
七沢が身体を離す。そして、お互いに見つめ合った。
眼鏡の向こう側にある七沢の瞳には、熱が帯びている。
「……伝わったままの意味に取ってもらって、かまわないよ」
「もう、取り消しなんてできませんからね?」
「……うん」
そう言うと七沢と自分の距離がゼロになった。唇を重ねて、お互いの熱を伝え合う。防音室にリップ音だけが響いた。しばらくして、ようやく唇を離すと、この部屋を出て、寝室へ向かうのだった。
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