第15話
「流さんが転落死だって言うのは警察の所見でも確実だった、でも落ちた場所は部屋じゃない――ううん、どこの窓でもなかった。どこの窓も開いてなかったのはあたしが覚えてるし、外に出て死体を移動させるなら、このリビングを通らなきゃいけない。昨日の夜、あたしとみなもちゃんと優子ちゃんと氷空ちゃん、慧天とがここにいたけど、通って外に出た人なんていなかった」
みなもちゃんは頷く。
「階段から落ちたとしたら、それは音がすると思う。一階から二階に向かう階段も、二階から三階に向かう階段も、玄関ホールに面した場所にあるから響くもの。じゃあ、どこか」
カップを傾けてちろりとコーヒーを舐める。砂糖が足りない、ついでに、まだ熱かった。舌がひりひり痛いのを顔に出さないように、それをソーサーに下ろす。
「この屋敷は須田星志の建築として最初期のもので、築年数は三十年以上――正確には、三十三年、だったかな。最近は使用頻度が高くなくて、手入れもされてない。庭も放置してるし、渡り廊下の手摺りは大分錆びて、折れやすい」
「それが、どう」
「手摺りが、錆びてるんだよ」
あたしは繰り返した。
「『宇宙人』の趣味で、渡り廊下の手摺りは真ん中の約三十本がポールしかない。その上に月のオブジェを置きたかったから。ポールは一つ一つが独立しているから、相互に干渉して強度を保つことも出来ない」
「あ――」
「流おじさんって細身だったけど、身長は高かったし、結構体重もあったと思う。何かの拍子にそこに体重を掛けて落ちたんだよ」
みなもちゃんはカップを両手に持って、ぎゅうっと握り締めた。
「下は毛足の長い絨毯だったから、音もそんなに響かなかったし、頭が派手に割れたりもしなかった。でも探せば、少しぐらい血痕が残ってると思う。これ自体は事故だった可能性もあるんだけど、その場にいた――犯人、は、その死体を庭に運んだ。部屋の下、自殺に見せかけるために。それがあまりにも中途半端だったのは、多分本人も混乱してた所為だと思う――そうですよね」
あたしは顔を上げた。
「美咲おばさん」
おばさんはやっぱり、動かなかった。
俯いたままだった。
みなもちゃんの顔から血の気が引いて、真っ白になった。
「昨日の夜、おばさんはバルコニーにいましたよね。でも、さっき言った通り、あたし達はこの広間を通って庭に出る人なんか一人も見なかったんです。でもおばさんは外にいた。バルコニーになってる静かの海と、死体のあった晴れの海はかなり近い。あの時あなたは、マスターキーを使って開けた一階の空き部屋のどこかから、死体を運んで来たところだった」
「でもあの時死体なんか――」
「あったんだよ。あたし達は見てなかっただけで、多分もうあの場所にあった。おばさんに釣られて、あたし達はずっと月を見てたでしょ? 下なんか見なかったし、芝生は草が深い、何より暗かった。出て来たあたし達に驚いて、おばさんは慌ててバルコニーに上がったの」
言いながらあたしはまっすぐに美咲おばさんを見付めるけれど、やっぱり彼女は微動だにしなかった。ただ項を晒しながら座っていて、動く気配がまるで無い。冷や汗がドッと流れて来て気持悪い、乾いた喉に唾を飲む。ぺたりと、手に手が覆い被さる感覚がした。
慧天が、あたしの手を握っていた。
相変わらず俯いて、ヘッドホンからはロックの音漏れが響いている。
あたしはそれに、少しだけ安堵する。
「多分、潮おじさんを部屋に運んで寝かし付けた後で一階に下りようとした時に、渡り廊下で流おじさんに会ったんですよね。この屋敷はあそこを渡らせるように、偏執的な設計されてる。何があったとか、動機とか、そんなのは全然判らないけれど――その時に、落としてしまった。落ちたポールは慌てて付けたものだから、あたしが触れただけで落ちてしまった」
「ま、待ってよ静紅さん、そんな、お母さんッ」
「それしか――考えられない。あの時どうしておばさんがバルコニーにいたのか、どうして広間を通らずに庭に向かったのか。人目を避けた理由があるとしたら、なんなのか。……昼に案内された時はあたし達の部屋、カーテンが開いてたけど――夜に戻った時は、閉じられてた。あの間に、そうされてたんだよ」
みなもちゃんは美咲おばさんを見る。
おばさんは、動かない。
反論もしない。
否定もしない。
少しだけ重なるのは、二年前。
ただ、笑った――『せんせい』の、姿。
ぎゅうっとあたしは慧天の手を握る。汗ばんで気持悪いだろうけど、そのぐらいは我慢してもらいたい。こうやって問い詰める形になるのは、通訳してるあたしの方がしんどいんだから――喉が乾く、まだ少し熱いコーヒーを飲む。甘くない。いや、本当は、味も判らない。熱いのかどうかも、感覚が、知覚が、ぐるぐる掻き回されてる。乱暴に繋げられた全然違う神経同士が反発して、情報が何も伝達されてこないような。
麻痺、しているような。
でもそんなの本当は嘘だ。ちゃんと理解している。ちゃんと分かっている。今あたしはみなもちゃんと美咲おばさんを傷付けている。自覚的なだけに性質が悪い。誰の言葉だとかそう言うの以前の問題だ。真実だとしても、そうでなかったとしても、彼女たちは傷付く。
私が傷付けている。慧天の言葉で。だってあたしは通訳だから、慧天の言葉を外に出さなきゃならない。『名探偵』としての言葉を、伝えなきゃならない。あたしは外道だろうか。本当の所、慧天の言葉に救われているのはあたしなんじゃないのか。殴られて倒れていた。そんな事をした犯人への意趣返しでは、ないのか。
こうして追い詰めることが、問い詰めることが、慧天なりの意地悪だとしたら。
それを言わされてるあたしは何なんだろう。
『ヒーロー』でないことは確実だな、と、コーヒーカップに口を付けて自嘲の笑みを殺す。熱い。苦い。酸っぱい。甘い。全部入り混じっている。本当の味が見えない。星の光が正しいのか、明るい月が正しいのか、露出はどちらに合わせるべきなのか。ルナとアルテミス。母子のクロッキー。月に露出を固定していた、流さんの風景画。慧天が開いたものも、月ばかりだったな、そう言えば。
「お、お母さん、そんな――なんで、そんな、じゃあ静紅さんのこと殴ったのも――」
呆然として眼を見開きながらうわ言のように呟くみなもちゃんに、あたしは頷いた。美咲おばさんは相変わらずに顔を伏せたままでいる、でも、その肩がほんの少し揺れたような気がした。引っ掛かっていた後れ毛が一筋落ちて、白い項に影を落とす。
「あたしのこと殴ったのは、窓に近付いた所為だと思う。あの部屋から下を覗きこまれたら、落ちる場所が変だってことに気付かれるかもしれないから――二人の寝室は、ガラスにシールを張ってスモークにしてたから心配は無かったのね。一人で三階を調べてからもう一度流おじさんの部屋に行った時、カーテンが閉められてたのもその所為かな」
三人で行った時は開いていて、潮おじさんは窓の外を眺めていた。
だけど二度目に行った時は、カーテンが閉められていた。
「凶器は多分、落ちた手摺りの支柱だと思う。直すために二階に上がってきて、それであたしが流おじさんの部屋に向かうのを見付けた。咄嗟に持っていたそれを使ったんだね。後頭部を自然にぶつけるのが難しいのと同じで、項に蚯蚓腫れを作るのも難しい。三日月のオブジェが引っ掛かって、その痕だね。その後で慌てて修理した所為だろうけど――」
言い掛けて止まったあたしの言葉に、みなもちゃんが怪訝そうに見る。ハッとした顔をしたのは慧天だった。駄目、と言うようにあたしの手をぎゅっと握りしめる。でもあたしは気付いてしまう。気付いてしまった。その違和感を、覚えてしまった。
「違う」
自分で自分の言葉を否定する。慧天の言葉を否定する。
「流さんは細身だけど男の人だ。体重差で美咲おばさんが一人でバルコニーまで運べるはずがない。あたしを殴ったのも、美咲おばさんじゃない。あの時ポールの修理に二階まで上がって来たのは、上着を取りに来た潮おじさんだった。そしてもう一度流さんの部屋に入ったあたしの行動に、危機感を覚えた。何か見つけられるかもしれない。だからそれを防がなきゃいけない。致命傷にはならないように、気を付けて殴った。そしてポールを修理して、出掛けた。……そうですよね、潮おじさん。おじさんなら、流さんを運べるし草も踏み均せる」
ああ、とお祖父さんは顔を覆ってぐったりとソファーに深く沈みこんだ。
慧天はおそらく分かっていた。
みなもちゃんの両親が、犯人だと言う事に。
そしてそれを少しでも減らすために、お母さんだけを追求した。
それがせめてもの優しさだったんだろう。
私がぶち壊しにしてしまった、優しさだったんだろう。
息子を殺人犯と被害者にしてしまったお祖父さん。両親が殺人犯になってしまったみなもちゃん。優子ちゃんと氷空ちゃんがいないのがせめてもの救いだ。否、絶望なのかな。ここに彼女を慰められる人は誰もいない。断罪したあたしが、真相に辿り着いてしまった慧天が、何を出来るって言うんだろう?
何も言えない。何も言えない時に言う言葉なんて、映画でしか知らない。そしてそれは慰めの言葉にはならない。慰める資格なんてない。あたしは。本当のことが分からなくて、嘘っぱちを並べ立てていたあたしが、何を出来るって。
「……君が流の部屋にもう一度行かなければ。勝機は、あったんだろうなあ」
潮おじさんは、曖昧な笑みと諦めで口元を緩めながら、それを認めてしまった。
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