第14話

 鍵を開けて屋上に向かうと、その上には手すりもなく、一見ただの殺風景な場所に見えた。でもその舞台の上、真ん中にはアルテミスの像が飾られてある。わあっと俄然はしゃぎ出したのは慧天だ。幸いブロンズのそれは錆が浮いていることもなく、細い弓も矢も綺麗に残っている。その差す方を見ると、草に埋もれたオリオンがいた。

 愛する人を自分で殺してしまうってどんな気分なんだろうな、なんて思う。愛してなきゃ良いとは言わないけれど、それでもその悲しみはどこに行ってしまうんだろうと思う。実の兄弟によって仄めかされた恋人殺し。誰も恨めないとしたら、きりりとした厳しい顔付きのブロンズの女神は何を思っただろう。


 怒り? 悲しみ? 処女神としての誇りを保たれた安堵? 解らないな、ギリシャ神話はそんなに詳しくないのだ。昔もらい物の本で、エコーとかナルキッソスとか覚えたものだけど、今はほとんど忘れている。ローマ神話とぐっちゃぐちゃになってるところも多いし、マイナーな所でトルコ神話も昔読んでたからどれがどこの神だったか覚えていないのだ。意味ないなあ、雑学にもならない。

 ルナとアルテミス。流さんが描いていたって言う、月の女神に模された母子の肖像。みなもちゃんは姪っ子として可愛がっていたけれど、その両親とは不和だったという。じゃあどうして、美咲おばさんまで描いていたんだろう。潮おじさんは省かれていたんだろう。折り合いの悪い兄弟だったと、潮おじさんは言っていた。どうして?

 ある意味で処女神を守ったアポロン。神を穢そうとしていたオリオン。ルナとアルテミス。美咲おばさんとみなもちゃん。空き缶をぶつけられた慧天。何かが繋がりそうで繋がらない。って言うか手すり無しの屋上は三十年前の規制的にありだったんだろうか。


 と、慧天はその手すりの無い下を覗き込む。きゃあっとみなもちゃんが叫んで、あたしは走り出していた。シャツを掴んでぐいぐい引き戻す。あーもうお気に入りのシャツなのに、伸びたらどうしてくれるのよ、このスカポンタン。


「あんた馬鹿!? こんなところから落ちたら」

「ガラスに当たる」

「え?」

「静紅、言ってたよね。コロッセオみたいだって」

「言った、けど、それが何か」


 硝子に当たる?

 地面に落ちるじゃなくて?


「城金さん、ありがとう。ロジックはこれで完成した――と思う。君の願う通りには、ならないと思うけれど」


 言ってあたし達を置いて、慧天はあっさり淵から離れ階段に向かっていく。その後ろを追うあたしとみなもちゃんは、顔に疑問符をくっ付けたまま、その後を追って行った。

 そしてまたあたしの袖を取り、ちょっと待ってて、とみなもちゃんとリビングの前で分かれ部屋に戻る。その前に念入りに、壁に飾られた建設当時の写真を見ながら。


「いい、静紅。これから僕の言う事を覚えて」


 部屋に戻るなり真剣な顔をされて、あたしはこくりと頷いた。


「まず三つの可能性があります。自殺、事故、他殺」


 リビングに集まった城金家の面々は、鬱々とした表情を見せた。無理して降りて来たお祖父さんも、美咲おばさんも、買い物から帰って来た潮おじさんも。


「自殺は窓が閉まっていたからありえないでしょう。それにみなもちゃんの部屋近くには若木が生えてて、その下に死体はありました。でもその枝に傷がある事もなく、おまけに草は人型に踏みしめられていた。そこが現場だと思わせるかのようにです。それが余計に違和感を呼び、まず窓からの部屋からの自殺説は消えます」


 誰も何も言わない。

 あたしは続ける。慧天に言われたように。


「屋上に向かう二つある出入り口のどちらも、施錠されていた。その鍵は外側からしか掛けられないもので、流おじさんはマスターキーを持っていた一人。一メートル以上もある扉を無理に乗り越える必要はないし、鍵を持っていて使わないことはないでしょう。そして鍵は両側からとも掛かっていた。これで事故死の可能性も消える。屋上からの自殺も勿論」


 あたしは息を呑む。


「三つの可能性のうち二つが否定されたら、残るのは他殺です。その犯人は、保志先生じゃない。昼間にも説明しましたけど、不自然すぎるからです――酔った勢いで送り届けられた部屋から出て行くのは変だし、計画的だったならお酒を飲むことをしなかったはず。それと」


 あたしは自分の後頭部を撫でる。まだ鈍痛のおさまらないたんこぶの感触を掌に押し当てた。蚯蚓腫れもちりちり痛んで、髪が触れるたびにくすぐったい。


「あたしが殴られた時、当たり前だけど先生はこの屋敷にいませんでした。だから犯人は他にいて、それは、その時屋敷にいた人達の中に居ます」


 本条静紅。

 西園慧天。

 城金潮。

 城金美咲。

 城金みなも。

 城金海渡。


 あたしは一つ息を吐いた。頭の中で慧天に聞かされたことを反芻する。その場で聞いたことを伝えるのとは違って、これは記憶力の勝負のようにも思えた。自分がちゃんと説明出来るのか自信が無いし、反論があったとして、それを論破出来るかも判らない。頭がよく働かないのは、まだ殴られた余韻が残っているからだろうか。じりじりと、入ってくる陽光が髪を焼く錯覚。強くは無いし直射でもないのに、掌に汗が浮かんで気持悪い。


 あの時の慧天も、こんな風に、先生に詰め寄っていたのかな。

 泣き続けるあたしを、止めるために。

 転落死体を見るのは――二度目だった。


「流さんが亡くなっていたのは庭でした。みなもちゃんの部屋の前で、流さんの部屋の真下、晴れの海になっている箇所。全身打撲の転落死体だと言うのは警察の人も言ってました」


 みなもちゃんがこくんっと頷く。


「おじさんの部屋の窓は殆ど閉まっていて、屋上の鍵も施錠されてた。三階はあたしが調べたけど、埃が積もってて、人が入った気配はなし。窓の鍵にも、均等に埃が積もってた」

「でも落ちる場所なんて部屋の窓しか――あ」


 彼女は自分の言葉に違和感を覚えたのか、言葉を止めて口元を押さえる。あたしは頷いた。そう、それは、おかしくなる。


「自殺に見せるなら、開けた窓は開けっ放しにしておけば良かった。そうでなくても、あの窓から落として殺そうとすること自体が不自然になる。でも他の場所は使われてない、それは確か」

「それって、どういう」

「見たものを単純に考えれば良いんだよ。流さんの転落死体が芝生にあった、それがあったのは流おじさんの部屋の下だった。でも、


 あたしは唾を飲み込む。


「転落死体とその場所の因果関係の有無――もっと具体的に言うなら、


 


 転落死体を見たのは二度目だった。

 真っ逆さまに落ちてきた身体。

 弾けるように潰れた頭。

 せんせい。


「あの芝生って手入れをしていないから、相当草が深くなってるんだよね。その中に流さんの死体があった。今もその跡が残ってる、くっきり人の形になって」

「そうだよ、だからやっぱりあそこに落ちて、」

「違うよみなもちゃん、転落死体って空中に投げ出されるから、その状態で一番重いところから落ちる。頭から真っ逆さまに。でもあれは満遍なく人の形がくっきりと残ってるんだ、あれだけ歩き回ってた警察の人の足跡は殆ど残ってないのに、そこだけ残ってる。草も茫々だったし、手足なんかは重力もそんなに掛からないから、痕跡が残るのは不自然なの」

「え? え、それって、何? どう言う」

「ミステリーサークルの作り方だよ。あそこに落ちて死んだって見せ掛ける為に、誰かが草を踏み均して、死体を置いた」


 息を呑む音が聞こえた。

 誰が飲んだのかは判らなかった。

 みなもちゃんかもしれないし、

 美咲おばさんかもしれない。

 もしかしたら、あたしかも。


「それと、屋上に上って気付いたことだけど、この屋敷って上からは三日月形に見えるんだよね。ガラス張りになってる、庭の方」

「う――うん」

「つまり、ガラスの面は傾斜してるってことなんだ。下から見上げるだけだと判り難いけど、廊下にあった設計図でもそう言うオーダーだったし……床と窓の接点見ると、判るよ。直角じゃない。流さんの部屋にあった絵でも、風景の下部分が白く残ってた。壁の曲面を描こうとしてたからだね。二階から見下ろすと視界に入る、ここって全体的に天井が高く作ってあるから尚更に」


 部屋で確認した事は、それだった。慧天が気付いた切っ掛けは、あたしが言った『コロッセオみたい』という言葉だったらしい。確かにあれは野球場みたいに段差を作って観客を収容している。つまり、そういう印象だってことは、窓が斜面だと感覚は気付いていたってことなんだろう。自覚した知覚では、なくても。


「窓から結構離れてたでしょ、死体の場所。流おじさんの部屋や、もっと上から跳んだら、きっとみなもちゃんの部屋のガラスにぶつかるか――もっと近付いてたはずなんだと思う。そうやって考えても、やっぱりおかしいんだよ」


 あたしは深呼吸で、鼓動の早い心臓を宥める。


「流さんが殺されたのは、もっと別の場所だった」


 みなもちゃんは両手で自分の口元を押さえた。眼は見開いていて、信じられないと、身体全体で表しているようでもある。確かに、大前提の部分が壊れたようなものだから、驚くだろう――あたしだって慧天に説明された時は、正直驚いた。

 そんな考えは、ナシだろうって。

 でも、慧天にとっては当たり前の帰結だったらしい。判らなくなったり行き詰ったりしたら、もっと情報を単純に考える。二年前だってそうだった。誰の手にも鍵が渡らない状況だったなら、本来の持ち主を疑うしか道はない。今回も、直線上のどこから転落したにしても不自然になるなら、違う場所から運ばれた死体だと考えた。それだけの、ことなんだろう。


 そして、その一つで、繋がって行く。

 繋げてしまう。


「それで、流さんがどこで亡くなったか、だけど」

「ま、待って静紅さん、あの」


 制止されてあたしは首を傾げる。みなもちゃんは小さく視線を彷徨わせて、だけど最終的にはあたし――ではなく、傍らに座っている慧天を見た。ぎゅうっと縮こまってヘッドホンを耳に押し当てている姿は、元々の細身も手伝ってひどくコンパクトに見える。


「どうしたの、みなもちゃん」

「その、お茶、飲まないかな。腰折っちゃうみたいだけど、その」


 慧天は完全に無視を決め込んでいる状態だった。仕方ないだろう、耳は完全に塞がっているし、この状態じゃ何も見えないから口唇を読むことだって出来ない。

 きっとみなもちゃんは、問題の解決を少しでも先送りにしたいんだろう。まだ怖いのかもしれない――あたしは、そうだねと頷いた。彼女が立ち上がる気配に、慧天はやっと少しだけ顔を上げる。美咲おばさんの様子も、眺めた。


 相変わらずに俯いている。

 聞いているのか、聞いていないのか判らない。

 起きているのか、起きていないのか判らない。

 生きているのか、生きていないのか、判らない。

 でも、多分、きっと。

 ただ、知覚していないだけなんだろうと思った。


 乾いた喉を潤すように、あたしはこくんっと唾を飲んだ。部屋でもお茶を飲んで水分補給はしたつもりだったのだけど、手の汗もじっとり嫌な感じだし、背中にも冷や汗が酷いから、全然足りなかったみたい。ガーゼワンピで良かった、いくらか汗を吸ってくれる。慧天が持って来てたお水を全部飲んじゃえば良かった、けど――冷蔵庫にも入ってない生温い水を飲んだって、あまり美味しそうじゃない。そう言えば、持参した茶葉は変えてないけど腐ってなかったのかしら。今更心配になってくる。


 思考を少し逃がして緊張を解く。深呼吸をするとドアが開いて、みなもちゃんがコーヒーカップの乗ったワゴンを押してきた。手渡されるけれどあたしは猫舌で飲めないし、慧天はミルクが足りないらしい。仕方ないから黙って自分の分を差し出す、すると、慧天も自分のスティックシュガーをあたしに手渡した。ギブアンドテイクの正しい関係。


 みなもちゃんが椅子に戻ってカップを傾け、一口飲み込んだのを確認してから、あたしは口唇を開く。


「それじゃ、続き、良い?」


 こくんっと神妙な様子で、みなもちゃんは頷いた。そして顔を上げる、曖昧な角度じゃなく、しっかりとあたし達に向かって。美咲おばさんは相変わらず、目の前のカップにも気付いていないような様子で、座っていた。

 慧天はぎゅうっと縮こまっている。

 あたしは続きを始める。

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