第12話

「しずく、しず、く! 静紅、ってば!」

「ん……ぅ?」


 呼ばれる声が煩くてあたしは重い瞼を上げる。眠いという感覚はまるでないのに、どうしてだか頭がぼんやりして気分が悪かった。風邪とかそういう気配でなく――薄目のままに頭を動かして、走った痛みに顔を顰める。後頭部、首に近い辺りが、妙に痛い。物理的に。

 覗き込んで来る慧天の顔は、真っ赤になっていた。眼は涙が滲んで今にも零れそうになっている。なんだってこいつがこんな顔をしてるのか、そもそもどうして覗き込まれているのか、よく判らない。自分が何をしていたんだかもよく思い出せない、たしか、みなもちゃんの家に来てて、なんだっけ。


「本条さん、眼が覚めたの? 大丈夫、流さんのお部屋で倒れていて――」

「ながれ――? えっと――あ、あッ!」


 聞こえた美咲おばさんの声にあたしは慌てて身体を起こす。頭の中身が揺れる気持ち悪さがあったけれどそれを堪えて、辺りを見回した。どうやらリビングのソファーに寝かされていたらしい、隣には慧天がいて、美咲おばさんは洗面器を持って立っている。その後ろにはみなもちゃんが、毛布とタオルを持っているらしかった。

 慧天に肩を押されて、横になるよう促される。抵抗しようとするけれど、珍しいぐらいの眼で強く睨まれた。仕方なく、身体を倒す。頭の鈍痛に顔を顰めると、慧天は途端にまた泣きそうな顔に戻った。そもそも後頭部が痛いのに仰向けになるってどうなのか、あたしはごろごろと、うつ伏せになる。慧天が絞ったタオルをあたしの手に触れさせた。受け取って頭にあてると、気持ちが良い。一息吐いて、顔を上げる。


「あの、あたしどうなってたんですか?」

「どうなってた、って」

「えっと、二人と分かれてから、三階を調べたりしてたんです。それからもう一度流さんの部屋に戻ったんですけど、そしたら誰かに棒みたいなので殴られて」


 多分鈍器の類じゃなかったと思う、それにしてはたんこぶも小さいし。遠心力の付けられる棒状のものだった――殴られた感触と感覚では。

 あたしの言葉に美咲おばさんは眼を見開く。そりゃ、倒れてるのを見付けただけじゃ、殴られたなんて思いもしないだろう。突発的な発作とか、あとは慢性的な病気――そういうものの有無は慧天が説明、出来るわけないか。こいつと説明と言う単語の間には、黒部ダムなみの溝と幅の空隙を感じる。

 絨毯に膝を付いて、美咲おばさんはおろおろと視線を落ち着き無く彷徨わせた。混乱は別に構わないけど、今はあたしだって色々と質問したいことがあるのだ。立ち尽くして口唇を半分開きながらあたしを見下ろすみなもちゃんに視線を向ける、彼女は、はっと我に返るように身体を震わせた。


「あ、あの――お母さんが、見付けたの、静紅さんのことッ」

「美咲おばさんが?」

「あの、お父さんが買い出しに行った後に、お茶にしようって――だから静紅さんのことも呼びに行って、それで」

「それまでに二階に行ったの――違う、このリビングを出たのは?」

「お父さんが上着取りに部屋に行って、あと、お母さんは台所を行ったり来たり――私も部屋にメモとか筆記具取りに行ったし、西園君も、部屋にヘッドホンの充電器取りに」


 つまりは誰でも出来た、ってことか。何処に行った、なんて言ってもそれが嘘で、全然違う行動をしていたと考えられる。潮おじさんも美咲おばさんも、みなもちゃんも――慧天も、例外じゃなく。うーッと小さく唸ると、髪をぺたぺた撫でられた。慧天が涙を堪えながら、必死になってあたしの頭を撫でている。

 触られたら痛いし、撫でてるところは、ずれている。

 ただ髪を撫でてるだけだ。

 何がしたいのかは判らないけれど、取り敢えずは、心地が良い。


「ほ、本当に殴られた――の? 転んでどこかにぶつけたとか、そういうものじゃなくて?」

「無理ですよ、あたしがどんなにドジだったとしても、後頭部をぶつけるのは難易度が高いです……腫れてるから、判りますよ、たんこぶ。それに流さんの部屋って家具の殆どが脇に寄せられてますよね。窓際は完全にフリースペースです。あそこで転んでも、ぶつかるのは床だけ。私、仰向けに倒れてました?」

「いいえ、うつ伏せで……でも、殴るなんて誰が、そんな」

「少なくとも、保志先生と氷空ちゃんや優子ちゃんでないことは確か、です」


 あたしは今度こそ身体を起こす、慧天には、軽く笑い掛けておいた。鈍痛はあるけれど、やっぱりただのたんこぶレベルだろう。頭があんまり働かないけど、それを無理に振ってみる。警察に連絡して、先生を出してもらって――


「慧天君、じゃない……よね?」


 小さく呟いたのは、みなもちゃんだった。

 その声にあたし達は一斉に彼女の顔を見る。その顔は青ざめて、さらさらの髪が余計に悲壮さを滲ませているようだった。真っ黒な髪と真っ白な顔のコントラストに一瞬見蕩れて、それからやっと言葉の意味を頭に落とし込む。慧天が、何を――慧天が?

 あたしは奴を見上げる。

 顔は髪に隠されて、微動だにしない。

 口唇も引き結ばれているわけではなく、ただ、閉じられて。


「みなも、なにを――」

「あ、あたし聞いてたのッ洗い物してるとき、お母さん達が話してたの、聞こえてたのッ」

「みなもちゃん?」

「お母さん昨日の夜、慧天君のこと見たんでしょ? おじさんが死んだの昨日の夜中で、その時もうあそこにおじさんの死体あったのに、そこで慧天君、歩いてたんでしょ?」


 おろおろと、自分が何を言っているのか判らないようにみなもちゃんは言葉を繋ぐ。流した髪の端を両手でぎゅっと握りながら、その肩は震えているようだった。毛先をぐりぐりといじりながら、視線をちらちら彷徨わせて、頬を薄っすらと紅潮させている。あたしと美咲おばさんはただそれを眺めて――

 慧天は、あたしの手を握り続けて。


「それに、慧天君さっきヘッドホンの充電するって出て行ったけど、お昼の後ですぐしたばっかりだったでしょう?」

「あ――」

「それって変だよ、おかしいよ。や、屋敷に来てすぐ、二人は流叔父さんに会ったでしょ? その時慧天君が頭にペンキ缶ぶつけられてる。それで怒ってたとか、慧天君、あの時ほんとは」

「ッ慧天!」


 あたしは慧天の手を握る。

 だけど慧天は無表情に、眼を髪で隠していた。

 弁解しない。否定しない。認めているとも言えるように、慧天は黙ってる。

 あたしは――あたしは、痛い頭を必死に回転させる。違う、慧天はやってない。

 あたしがシャワーを浴びている時間がどれくらいになるか、慧天には計算が出来ない。ドライヤーを使うことは予想出来るだろう、でもそれだって人を殺すのに十分な時間じゃないはずだ。慧天は流さんの部屋の位置だって、今朝まで知らなくて――いや。

 ある程度場所の見当は付けられた。最初に流さんと会った時、彼は、渡り廊下の真ん中にいた。そして消えたのは自分の部屋のある方向。屋敷の南側と北側、どちらにその部屋があるかは判ってる。他の部屋には鍵が掛かってたから、見付けるのは簡単だったろう。突き落として、部屋に戻って、窓から庭に出る。死んでいることを確認する。それは論理的かもしれない。ロジカルかもしれない。


 でも。

 だったら慧天は、窓を閉じたりしない。

 こいつはそんなに非論理的じゃない。

 それにあの時。

 バルコニーには、みなもちゃんが。


「っ」


 開き掛けた口を押さえられる。

 慧天はふるふると、頭を振った。

 あたしは――


「し、静紅さんッ!?」


 慧天の腕を引っ掴んで、リビングを出た。


 昨日より慣れたスリッパでどかどかと廊下を進む。足音が荒い。ぎゅうっと慧天の手を掴む。転びそうになりながら引き摺られるように慧天が付いて来る。写真の前を横切って、図面の前を横切って、突き当たりの部屋のノブに手を掛ける。


「正直に言いなさい!」


 部屋に入って開口一番、ドアを背に寄り掛かるようにしてあたしは怒鳴っていた。

 放り投げられるように部屋に引き込まれた慧天は、掴まれた手をのんきに擦っている。その様子が尚更に苛々した、頭に血が上って、たんこぶがずきずき痛む。こういう時は何も考えずにいたいのに、なんだってこんななってるのか。頭が熱くて顔が熱い。涙が滲んで嫌になる。たんこぶが痛い。ばくばく言ってる心臓も痛い。


「痛い、静紅」

「良いから正直に言いなさい、あんた何してたの」

「……なんにも」

「あたしが二階に居たとき! 部屋に戻って何してたの!?」

「その――」

「その?」

「……クッキー缶を、ちゃんと閉じたか確認していた。


 ……。

 はあ?


「だってだって一キロ缶だよ、湿気ちゃったら悲しいじゃない! 慌てて隠したからどうだったかって、それで」

「このアホ! 今何が起こってるか分かってる!? 殺人事件だよ!? 一人で行動するのがどんなに危険か解ってる!? 実際あんた疑われ掛けてるのよ、みなもちゃんに! 馬鹿、ほんと馬鹿、馬鹿……」


 へたり込むと、慧天があたしを抱き寄せて肩にこつんと額を付けさせられた。

 多分本当なんだろう。本当に、クッキーが心配だったんだろう。こいつにとってのティータイムは、存外に大きい。あたしと一緒に紅茶を飲んでるだけで、心地良いと言ってくれる。嘘でも本当でも。一緒に居るのが自然になっていた、あたし達だから。生まれた時からの、お付き合いだから。まったく本当――頭が痛い。物理的にも、精神的にも。

 下ろしている髪の中に手を入れられて、たんこぶを見付けられる。ここだね、と優しく撫でられた。あたしも慧天の頭を探り、昨日のペンキ缶で出来たたんこぶを撫でてあげる。変な所でお揃いだ。考えて馬鹿馬鹿しくなる。本当、どうしようもない。あたし達は、お互いに信じあう事しか出来ない。疑う事なんて出来ないんだ、本当の所、二年前も、今も。


 信じてやることしか出来ない。どんなにバカげた言い訳でも、前科があるのだし。小学校の頃の修学旅行の時がよっぽどショックだったのかしらねえ。それにしてもクッキー。この、誰かが死んで誰が犯人か分からない所でクッキー。みなもちゃんのを食べなさいよ。彼女喜ぶわよ。

 もっとも紅茶に合うクッキーとコーヒーに合うクッキーは違うから、紅茶気分の時は先にそっちを優先しちゃうんだろうけれど。手軽に飲めるように魔法瓶も持って来てたみたいだし。

 ほんっと呆れるほど馬鹿。

 でも『名探偵』であることも、否定できない。

 あたしは何になれるかしらね。

 腕力担当のヒーローかしら。

 だったら、慧天に心配掛けなくて良いから、お似合いかもだけど。

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