第11話

 慧天が人の声を聞けなくなったのには、理由があり原因がある。そのどちらにも属しているのはあたしだ。

 二年前の小学生六年生の時、生き物係が管理していたはずのウサギが全頭殺される事件があった。その日の当番はあたしで、あたしが檻の鍵を掛け忘れた所為だと言われた。あたしはちゃんと鍵は掛けた、と言った。でも物的証拠は何も無い。あたしはやっぱり虐められた。お前の所為だと言われた。

 だけど慧天は言ってくれた。


 犯人を探そう。


 あたしは鍵を掛けて、その鍵を『せんせい』に返した。誰かが『せんせい』から鍵を盗むことは出来るか。答えはNO、『せんせい』は、受け取った鍵をすぐにキーホルダーにくっ付ける。車や家の鍵がぶら下がってるホルダーで、いつもポケットに入れていた。放課後は教室か、職員室にいる。どっちにいても、ポケットに手を突っ込んでそれを奪うことは出来ない。

 あたしから鍵を取ることも、勿論出来ない。鍵を渡されるのは放課後になってからで、今日の当番だと言われてその時初めて気付くようなものだ。預けられるのはいつも六年生の当番の子。掃除の間中ずっと手に握っていたし、『せんせい』に渡すまで、一度も手放したりしなかった。文字通りに、手から離さなかった。


 スペアの鍵が存在する確率はあるか。それも無理だった。ウサギ小屋を作ったのは前の用務員さんで、鍵になっている南京錠は昔からずっと使っている、かなり古いもの。鍵も所々錆びていたし、それに、鍵屋さんでも南京錠の複製はしていないと言われた。


 だから、慧天は言った。

 放課後の誰もいない、六年生の教室で。

 担任の『せんせい』を、目の前に。


 先生が、ウサギを殺したんだ。


 鍵を持っているのが『せんせい』だけで、スペアも無く、あたしがちゃんと施錠を確認したのなら、残っているのは『せんせい』しかいない。鍵が行き着く先で、管理しているの人間。持っていなくておかしいことはあっても、持っていて怪しいことはない。理由なんて判らない、それでも、犯人は『せんせい』しかいない。


 女の人だった。まだ若くて笑顔の綺麗な、ちょっと授業中は厳しいけれど休み時間にはみんなと遊んでくれる、優しい、そんな『せんせい』だった。いつもきちんと纏めた長い髪、いつも綺麗にびっしりと着込んだスーツ。ちょっと厚いお化粧、口紅は、黒っぽい赤。柘榴色。人を食べたような。人を食ったように。彼女は笑っていた。慧天の言葉を聞いて笑っていた。微笑を浮かべていた。優しそうに笑っていた。

 口唇が開いた。小さく開いた。くすくす笑った。小さく吐息を漏らして笑った。肩を揺らせて笑った。窓に寄り掛かりながら笑った。段々大きくなって行った。声が大きくなって行った。口が大きく開かれて行った。肩が大きく揺らされて行った。


 大笑いになった。


 げらげらげらげらげらげらげらげら。

 知らない人みたいに、笑った。

 あたし達は怖くなった。

 慧天はあたしの手を引っ張った。

 逃げるみたいに、逃げた。

 玄関に向かって、内履きを上履きと取り替えるのも面倒で。

 三つ編みが背中を叩いて煩わしかった。

 だから髪を解いた。

 ふわふわ長いクセッ毛が揺れた。

 よく判らないけど泣いていた。

 よく分からないから泣いていた。

 怖くて泣いていた。

 石畳の上を走った。

 慧天に手を引かれて走った。

 バレッタが落ちてきた。

 足を止めた。


 『せんせい』が落ちてきた。


 眼を見開いて。

 髪を広げさせて。

 口を開いて。

 笑いながら。

 頭から。

 石畳に。

 ぐしゃり。


 血が。

 髪に、べったり、飛んだ。

 あたしも慧天も、赤かった。


 目の前に死体があって。

 あたしは逃げて、

 慧天は近付いた。


 あの時から慧天は人の声を聞けなくなった。


 一日中部屋に篭って、好きな歌をずっと流し続けて。友達も学校の先生も警察も勿論、親でも部屋の中に入れなかった。声がすると音量を一杯に上げて、何もかも押し流すように音の洪水にして、頭を抱えて耳を塞いでシーツに包まって。叫んで耳を塞いで、それでも怖くて、カーテンに包まって、隠れるみたいに。

 それでもあたしが部屋に入ると、顔を出してくれた。

 持ち込んだのは、紅茶とミルク。重いクッキーの缶とシュガーポット。


 大音量のブリティッシュ・ロックのナンバーの中で、あたし達は、お茶をした。

 泣きながら食べて、泣きながら飲んだ。泣きながら話をして、泣きながら話を聞いた。彼女が押し付けられる仕事の量にノイローゼになってたとか、大人から漏れ聞いた理由を、よく判りもしないのに反芻して伝えた。『せんせい』の持ち物から動物の脂にまみれたアーミーナイフが見つかったとか、掘り返したウサギの腹は全部鋭利な刃物で切り裂かれ野生動物に食べやすいようにされていたとか。


 伝えながら頑張って理解しようとして、でもやっぱり、判らなかった。悩んでるとか辛いとかそういう事と、ウサギを殺す事を繋げることが出来なくて、慧天に何度も訊いた。自分が辛いのと、他を痛め付けるのと、繋げて考えることがどうしても出来なかった。慧天も解んないと泣いていた。その時のあたし達はまだ幼かったんだろうと思う。八つ当たりなんてしたことも考えたことも無いぐらい、子供だったんだと思う。『せんせい』は生き物を殺すことでストレスを解消していた。保健所で貰った何匹かの猫の死体も、借家の庭から見つかったと後で聞いた。

 そうして最後には自分を殺すことを選んでしまったのだ。誰かに相談することも出来ず、自殺するしかなかった。でもそれはあくまで切っ掛けがあっただけで、処分を受けてまた仕事を押し付けられるぐらいなら、と飛び降りてしまったんだろう。警察の人はそう言っていた。


 あたし達が先生を追い詰めたの? 訊ねると刑事さんはあたしのざんばらに短くなった髪を撫でて、違うよ、と言ってくれた。だけどあたしは内心、確信してしまっていた。誰が言わなくても、誰が否定しても、誰が肯定しても、あたしの中に芽吹いた罪悪感は眠れないほどに育って行った。


 判ったのは、『せんせい』が死んだこと。

 それがあたしの所為だってこと。


 何にも言わなきゃ良かった。何にも言わないで、ただクラスのみんなに謝って、ただ泣いてれば良かった。少なくともそうだったらあの人は死ななかったし、慧天も喋れなくなったりしなかった。吃音交じりの言葉、慧天の声。ミルクたっぷりの紅茶と、砂糖いっぱいのダージリン。

 二人でなら眠ることが出来た。QUEENの音楽に包まれて、目に作ったクマが無くなるまで、二人一緒に眠っていた。両親は仕事だったし、慧天の所はお母さんが専業主婦だったから、時々紅茶やクッキー缶の差し入れを持って来てくれたけれど、正直あたしはその時嫌われたんだと思う。


 今も週末のお茶会をする時にはクッキー缶を持たせてくれるけれど、内心よく思われていないのは確かだ。母親は男の子が大事だって言う。そんな子を奪われたんだ。良い気分じゃないのは当たり前だろう。毎日一緒に登校して、毎日一緒に帰って来る。週末はお茶会をして一週間分のお喋りをする。

 慧天はまだ両親とも上手く話せない。筆談なら平気だからと、冷蔵庫にホワイトボードを貼り付けて、それで会話をしているらしい。ヘッドホンは外さず。あたしのあげたヘッドホンは、母親の声さえ通さない。取り上げられたこともあるらしいけれど、隣のうちまで聞こえる大絶叫が響いた事もある。


 慧天にとって、まだ音楽以外の言葉や音は怖いものなのだろう。

 あたし以外に通訳が出来ないぐらい、恐ろしいものなのだろう。

 体育の時間だって外せない。取り上げられたら絶叫する。体育教師に取り上げられた時、慧天は暴れて叫んだ。そしてあたしを呼んだ。静紅。静紅静紅静紅。学校中響くぐらいのそれは、外の世界への拒絶だ。同時にあたしに対しての信頼だ。あたしにだけは、許してくれる。あたしにだけは、頼ってくれる。


 だからあたし達はよく恋人同士だと勘違いされる。でも違うと、あたしは思う。あたしは慧天が好きだけど、慧天のあたしに対する信頼とは違うものだろう。あたしは所詮、通訳だ。ただ言いたいことが分かるだけだ。あたしより付き合いの長い友人が出来たりしたら、或いはもっとメッセージアプリが進化したら、あたしはいらなくなるだろう。この咽喉マイクは必要なくなるだろう。ヘッドホンだけで構わない。いつかあたしの声も要らなくなる。科学の進歩か退化によって。


 今はまだ、ちょっと意味の分からない所がある洋楽の声が安心するだけだ。意味は分からないけれど人の声は聞いていたい、孤独になるのは嫌だから音楽に頼っている。あたしが声を掛けるとぱっと笑って顔を上げる。あたしの言葉は慧天を傷付けない。通訳は自分の言葉を話さない。だから平気?

 それは寂しいなあ。

 あたしとだけ話してくれるお茶会なんかは、リハビリだ。吃音癖はちょっとあるけれど、たまにお客さんが来た時は自分から話をする。そうすることで外の世界への恐怖をちょっとずつ克服して行っている。歩みはのろいが確かに進んでいる、亀のように。あたしの通訳が必要なのは、それ以外の時だ。でも口唇を読むことは出来るから、それもあくまで補助でしかないのかもしれない。


 絶対に必要な相手じゃない。

 苦しくて辛くて堪らない時の、一助。

 一助の一つ。

 今は携帯端末のメッセージアプリでどうにか出来る時代だ。それも一助の一つ。そうやって増えて行けば、あたしの言葉はやがて要らないものになる。あたしはそれを望んでいるのだろうか? 寂しく思っているのだろうか?


「静紅ちゃん」


 あの時からあたしの事を呼び捨てにするようになった慧天。

 あの時から通訳として隣にいることに甘えていたあたし。

 息が詰まって喉が渇いて、赤くて怖くて泣きたくて。

 月が出てた。

 真っ白な月が、笑う先生の肩越し、窓の奥に見えていた。


「所詮ここも、須田屋敷だってこと」


 せんせいの、こえが。

 違う――これは。

 保志先生の言葉だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る