第9話
流さんの部屋を見せて貰いに行くと、警察はもう邸内に居ないらしかった。多分保志先生の尋問をしているんだろう。第一容疑者がいるだけに、現場の警備は手薄だった。みなもちゃんの友達二人も取り敢えずは家に帰されたけれど、あたし達は残ることを選んだ。微妙な顔をされたけれど、知った事じゃない。
潮おじさんがドアを開けると、そこからはむわっとしたシンナーの臭いが立ち込めていた。油絵の具のものだろう。何枚かキャンパスが出ていて、どれも統一感がないようにも感じられたけれど、それぞれへの拘りもあるように感じられた。日曜画家、と言うには、些か本格的なイメージだ。ニオイが染み付くぐらいだからかなり恒常的に絵を描いていたんだろう――ソッポを向いているイーゼルを、覗き込む。
そこには庭の風景が、広がっていた。
「あいつは、この部屋が気に入っててね」
潮おじさんは窓から庭を見下ろして、そう呟く。慧天はその隣に脚を進めて窓に向かおうとするけれど、その身体はおじさんにやんわり止められた。
「窓には、近付いちゃ駄目だよ。警察の人が触っちゃいけないって言っていたからね」
こくんと頷いた慧天は、ヘッドホンの音量を下げていた。はっきりとはでなくても、他人の言っていることが聞こえる程度にしている。そのぐらいにはおじさん達を信頼の枠に留めることにしたんだろう。自分を傷付ける相手じゃないと認識したんだろう。そもそも理由がない。娘の好きな人を殺す理由は、傷付ける理由は、この人にはない。
だから慧天はおじさんの隣で庭を見る。その隣にはみなもちゃんが佇んでいた。あたしは少し三人から距離を取って、やっぱり、窓を見る。向かいに部屋は無くて、屋敷の途切れ目の虚空に向かっていた。その向こうは森になっているのか、木で見えない。何だか場所が切り取られているみたいだ。
真下の見えない月面地図の庭、丸く作られたクレーターの芝生は海、少しだけ草がはみ出しているのはブロックの道。手入れがされていない野生的な風景。緑に埋もれるように、オリオンの矢が少しだけ見える。
愛する人に殺されたオリオン。彼はそれを、知っていたのだろうか。星になって、知ったのだろうか。恨まなかったのだろうか。アポロンを、或いはアルテミスを。太陽と月。どちらも届かない場所に追いやられて。月なんて見えやしない天空の果てに張り付けられて、今もさそりに怯えている。勇敢な猟師だった過去はもう見えない。さそりから逃げ回る、一年をずっと繰り返している。
そう思うとちょっと可哀想だな。ただでさえ恋人に殺されてるのに、一年中気の休まらない回天を続けているのはしんどいだろう。ちょっと慧天みたいだな、なんて思う。あたしの所為で傷付けられて、周りの言葉全てから逃げることを強いられている。あたしは慧天のアルテミスなのか。月は女の顔の横顔をしている、と西洋では言うらしいからな。
そうあの人も――。
「みなもが話しているかな、うちの家系は、みんな月狂いなんだよ。僕も満月の夜はどうにも酒を飲みたくなるし、うちの父親――みなもの祖父は、こんな屋敷を立てるぐらいだった。三日月でも満月でも新月でも、月を肴にして夜を明かしているのが好きでね。典型的な夜型だった、と言うだけのことかもしれないが」
お陰で今は身体を壊しているけれどね、と苦笑いで潮おじさんが言う。
廊下の写真を思い出す。
楽しそうに、須田星志と肩を組んでいたっけ。
今は流石に寝込んでいるらしいけれど、大丈夫だろうか。
「流なんかはそんな僕や親父を見下していたものだけどね、やっぱり、あいつも月狂いなんだよ。この庭を描くってことはつまり、月を描いてるんだ」
「なんで、月だったんですか?」
あたしの言葉に、潮おじさんはやんわりと首を傾げる。
「お祖父さんはどうして、この屋敷を月にしたんでしょう。須田星志の設計に任せたと言うよりは、お祖父さんの意向で月になったみたいですけれど、どうして、月だったんですか?」
「好きなものは、好きだったんだろうね。でも、親父はいつも言っていたよ。月は面白いものだって、どんな星のことを知ったって、月ほど神秘に包まれたものはないんだって」
「月の神秘……ですか?」
「そう、神秘。月が自転をしないのは理科か何かで習っていると思うけれど、だから、月の裏側と言うのは、地球から絶対に見えないものだったんだよ。一番に身近な星だと言うのにね。何億年もずっと片面しか向けていない。親しい隣人の裏側、みたいなものだ」
彼は眼を閉じる。
親しい隣人の裏側。
あたしと慧天にはないものだ、それは。
互いに晒し合って生きて来た。隠し事は見付からなかった。何でも話して、何でも二人で乗り越えて来た。残っているのはヘッドホンぐらいだろう。残してしまったのは、それぐらいだろう。それからあたし達は、隠し事が『出来なく』なった。慧天を怒鳴りつけたのだってその名残だ。
あたしが知らない間に庭に出ていた。それがあたしには気に入らなかった。大したことじゃなくても、言っておいて欲しかった。どんな下らないことでも、そうしておいて欲しかった。
あたしの下らない欲求だ、それは。
慧天には分からないと思う、こんな苛立ち。
「潮汐力が人体に与える影響、バイオリズム、犯罪発生率と月齢の関係性、各国に伝わる月に関係した神話や占い――親父は事業を起こして、それが当たった。それは親父の才能だった。現実主義者だったけど、半面でそういう身近な不可思議に、豪く傾倒していたっけな。うちは母親が早くに亡くなっていたから、そういうモノを埋める意味もあったのかもしれない。酔っ払った親父が、兄弟二人正座させてね。よくそんな話をしてくれたものだよ。僕は面白かったけど、流は退屈そうだったなあ……」
ふうーっと長い息を吐いてから潮おじさんは、おっと、と小さく声を漏らした。それから、みなもちゃんをぐいっと顔を近付けて覗き込む。そう言えばあたし達に挨拶する時もあんな感じだったっけ。眼が悪いのかもしれない。
「みなも、後でお父さん買出しに行くけれど、何か買ってくるものはあるかい? あるならそれまでにメモでも作っておきなさい、探してくるから」
「あ、うん、昨日の材料で作れると思うから大丈夫。行ってらっしゃい、お父さん」
「そうかい? じゃあ、行って来るよ」
ぽんぽんっと、大きな手で彼はみなもちゃんの頭を撫でる。隣に居る慧天の頭も同じようにして、あたしの頭にも、ぽんぽんっと手を押し当てる。なんだか少し変な感じに、それは照れ臭かった。
のっしのっしと身体を揺らしながらおじさんが出て行った後で、慧天があたしの服を引っ張った。見れば窓の下部を指差している。別段に変わった事は無い、木の枝が少し掛かった景色、あたし達の部屋と同じで、格子状に区切られたそれは下部だけが開閉出来るように鍵が見えた――あ。あたしが口元を押さえると、こくん、と慧天は頷く。
格子の下段は、高さがあたしの腰ぐらいまでで精々一メートルが良いところ。流さんは潮おじさんぐらいには背が高い方だった。事故で落ちるには不自然すぎる位置だと言って良い、やっぱり――事故じゃ、ないんだろう。誰かが。
「どうしたの慧天君、窓がどうかした?」
みなもちゃんの声にヘッドホンをずらした慧天は、ふるふる頭を横に振り、あたしの影に隠れる。こいつ、あたしを盾にするな。
「あ、えっと――鍵、全部開いてるみたいだけど、どうしたのかなって」
しどろもどろになりながら、あたしは窓を指す。多分警察の人が調べた時に施錠しなかっただけだと思ったのだけれど、みなもちゃんは、ああと頷いて苦笑した。
「いつもの事だよ、おじさん日中はいつも窓を開けて換気してたから」
「そうなの?」
「うん、ドアを開けるとニオイが屋敷の方に漏れちゃうから、外に向かって空気の入れ替えしてたの。夜は閉じるんだけど、鍵までは掛けなくて、たまにお母さんがぼやいてたっけ。鍵の確認には私も連れられてね。閉まってるかどうか確認手伝わされてた。……お母さん、叔父さんのことはあんまり好きじゃなかったから、一人で部屋に入るのが怖かったんだと思う」
「ヒグマ避けの犬みたいだね」
「慧天。例えが悪い」
溜息を吐いてこんっとヘッドホンを叩く。
言われて見れば確かに、昨日渡り廊下を見に二階に上がった時は別段刺激臭を感じなかった。傍若無人な印象のある人だったけど、案外細かいところで気を遣うタイプだったのかもしれない。そう思うと、ちょっと慧天に似てるのかもしれなかった。昨日の夕飯、小食な割にみなもちゃんが作ってくれたというハンバーグだけはせめて残さないように頑張ってた、慧天。
あれ。
そう言えばあの時、流さんもハンバーグだけは――
「あ、慧天君、駄目だよっ」
声にあたしは視線を廊下側に向ける。慧天が丸められた絵を開こうとするのを、みなもちゃんが止めているらしかった。
「慧天、亡くなった人の持ち物を勝手にいじっちゃ駄目だよ。警察の人が調べに来るかもしれないから、あんまりべたべた触るのも禁止」
「……、…………」
「絵だったらそこのキャンパスにもあるでしょ? 庭の絵、描き掛けみたいだけど……風景画が好きだったのかな?」
あたしはみなもちゃんを見る。彼女はうーん、と、小さく首を傾げて見せた。
「おじさんが絵を描いてるのは知ってたけど、あんまり見せてもらった事は無くて。クロッキーで人物画を書いてたのは、何度か見たことあったかな。月の女神だよ、なんて言いながら、お母さんと私の絵を描いてたこともある。ルナとアルテミス、って。でも基本的にはずっと部屋に篭ってたし、普段はここから庭を描いてたんじゃないかな。そうだと思う」
ローマ神話とギリシャ神話がごちゃ混ぜだ。慧天を挟む形であたしとみなもちゃんは描き掛けのキャンパスを覗き込んだ。俯瞰されている庭の景色にオリオンの姿が見える。下の部分が白く残っているのと、ブロックも塗り掛けで、描き込まれた緑の庭が変に浮いて見えた。
「…………、……」
ふるふる、慧天が頭を横に振る。
もう良いと言う仕種だった。
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