第8話
レトルトのビーフシチューで簡単な昼食を終わらせた後の食卓は、なんだか変な感じだった。昨日の夜と比べて、どちらの側にも一人ずつ欠席がいる。一人は永遠に埋まらない欠席で、もう一人は、帰ってくるかどうかが判らない欠席だ。
お皿も下げられないままのそこで、あたしは潮おじさんと美咲おばさん、そしてみなもちゃんと優子ちゃん氷空ちゃんの視線に晒されている。隣の慧天は余っているレーズンバターロールを口元に当てて、もそもそと咀嚼していた。口を塞いでいると言う行為が好きなのか、ただ単に空腹なのか。あれだけクッキー食べておいて、それはないと思いたい。
オレンジジュースで口唇を湿らせて、あたしは深呼吸をする。
「あの、静紅さん、さっきの続きなんだけど――どうして、先生が犯人じゃないって、判ったの? あれで、何が確認できたの?」
それは責める様子じゃなく、ただ単純に疑問そうな声音だった。膝に手を付いて背をしゃんと伸ばし、だけど少し前屈みになっているみなもちゃんの言葉に、あたしも思わず姿勢を正す。潮おじさんは手をテーブルの上で組み、美咲おばさんは不安そうに、瞬きを繰り返す。慧天は、いつものように丸まった背中で膝をもぞもぞさせている。膝を抱えたいんだろう、いつものように。
「私にはあの質問、あんまり意味が判らなかったから――先生のこと、ちゃんと信じられないのは不安で、だから、怖い。判ったことがあるなら、ちゃんと教えて欲しいの。ご飯の間中ずっと黙ってたし、もう纏まってるんだよね? ちゃんと、説明、してくれるんだよね……?」
ぽそぽそと言葉を繋げるみなもちゃんの視線は、だけど慧天にもちらちらと向けられていた。その意味はあまり考えないものにして、あたしは唾を飲み込む。何度飲んでもすぐに乾いてしまう喉が、煩わしい。ジュースだってそう。喉に刺さって痛いだけだ。だけどこくんっと嚥下することは、必要だと思う。頭の中を、整理するためには。
「あたしは三つの質問をしました」
キシッと、誰かの椅子が鳴った。
「その回答で、先生が犯人じゃないって論理的な説明は、一応出来ます。でもそこには証拠がないから、なんとも言えません。先生が釈放される要素は満たしてない、論理は破綻してないけど、役には立たないと思って、下さい。つまり――過大評価禁止ってことです」
潮おじさんが、こくり頷くのを確認する。
ぽすっと、膝に置いた手に何かが触れた。
慧天が、あたしの手を握って、とんとんと叩いている。
滲んでいた汗が、少し引いた。
「最初の質問の答え、先生はお酒に弱かった。それが昔からのことでごく最近もそうだったなら、流さんを殺そうとしていた状況でお酒を飲むのは控えたはずです」
あたしの声に美咲おばさんが小さく首を振って、言葉を挟む。
「それは最初から、その……殺そうって、考えてた場合でのことでしょう? 酔った勢いとか、そういうのだったのなら、当て嵌まらないと思いますけど」
「計画的じゃなく突発的なことだとしたら、部屋の配置が問題になります。美咲おばさんの前で二階まで行くって……隣の部屋に戻るって、危険だったと思います。あまり突発的とは言えない状況です。それに、潮おじさんと美咲おばさんの部屋は二階なんですよね? 後ろから階段を上ってくる二人に、気付かないはずない」
「……そっか、そう、なんだ」
「不自然だって言うだけで、それだけのことなんですけど――先生は保健の教師で、自分でも理系だと自負していた。だから論理的でない行動をするのは、論理的じゃない」
「でも客観的な証拠はない」
潮おじさんの言葉に、あたしは頷く。
「警察に言っても、それだけじゃ先生は釈放してもらえないだろうね……『それを見越して、敢えて行動したのだ』って言われたら、言い返せない。僕達は彦浮を知っているからそれが信用できるロジックだと思ってしまうけど、あちらさんはそう行かないからね。それに、僕と流だって折り合いの悪い兄弟だった。それは調べれば分かるだろう。容疑者は増えるばかりだ。勿論、中学生組は外れるけれどね」
美咲おばさんも俯いたままきゅぅっと手を握り締めている。
みなもちゃんはこくこくと何度か頷いて、言葉を咀嚼するように眼を伏せた。氷空ちゃんも、優子ちゃんも。他人の家で起こった騒動に、彼女たちはあまり口出しが出来ないんだろう。多分早く家に帰ってしまいたいはずだ。だから黙って、事の成り行きを見守っている。あたし達だってさっさと家でお茶会がしたかった。パイと紅茶。いつもの時間を、本当なら過ごしているはずだったのに。
みなもちゃんが顔を上げる。
慧天は、あたしの手を軽く叩いた。
お疲れ様、と言うように。
「それで、これからどうするつもりなの? 静紅さん――慧天君」
「ああ、うん。何かこれを裏付けられるような証拠を見付けたいから、少し屋敷を回りたいと思ってるの。もしかしたら、本当の犯人に繋がることか、実は事故だったって言う証拠が出るかもしれないから」
「なら私、また案内するよ。ね、慧天君も、良いよね?」
慧天はあたしの手をぎゅぅっと握る。
あむあむと齧っているだけのレーズンパンは、やっぱり口元を隠したいだけらしかった。
「あの……本条さん」
昼食の片付け、ワゴンを押していたあたしを引き止めたのは、美咲おばさんだった。ちらちらと焦点の安定していない眼差しが大体あたしの方を向いているのに、首を傾げる。みなもちゃんはキッチンにいるのかざばざばと水音がしていた。慧天は部屋でヘッドホンの充電中、潮おじさんはリビングで、新聞を読んでいたはずだった。まだ事件の事は載っていないだろう。お祖父さんは気分が悪いからと朝からぐったり寝込んでいる。
ぱちぱちと数度瞬きをしてから、美咲おばさんはあたしの眼を見ようとして、一瞬だけそうするけれど――結局、逸れてしまう。
「どうかしました? 美咲おばさん。何か持ってくるもの、ありましたっけ。テーブルクロス代えるとか、そのぐらいならしますけど」
「い、いいえ、そうじゃないのごめんなさい。その、西園君――彼の、ことなんだけど」
「慧天ならお部屋に」
「いいえ」
ふるふるっと、彼女は軽く頭を振る。くるりとシニョンを作られた後ろ頭から、はらりと一筋髪が解れる様子が見えた。やっぱり良いな、長い髪。空言を思いながらあたしはどうしたのかと思う、どうしてこんな廊下で呼び止めて、そんなに手を震わせているのか。胸の前で握られた両手は、握り締められて真っ白になっている。その顔と、同じように。
「そうじゃなく、その――ああ、何て言ったら良いのか判らないのだけど、その、私、彼を見て」
「見た? 慧天をですか?」
「そう、彼を、庭で、昨日の夜に」
夜に、庭?
あたしは小さく口唇を引き締める。美咲おばさんは視線をあたしから逸らしたままで、ふるふると肩を震わせたままで、不明瞭な言葉を重ねる。
「昨日の夜、戸締りの確認をしていたら、彼の姿が見えたの。庭の中をうろうろしていて、どうしたのかと思って――その、でも今朝、流さんが見付かって、おかしいと思って、だから」
「待って下さい、美咲おばさん。慧天が昨日庭を歩き回ってたとして、それはいつ頃なんですか? 私達が部屋に戻ってすぐか、それとも、もっと深夜に?」
「すぐ、すぐ――だったと、思うの。だから私、彼が何を考えているのか判らなくて、ごめんなさい……夫にも言ったのだけど、やっぱり、あなたにも伝えておきたくて、ごめんなさい」
「謝らないで下さい、大丈夫ですよ。大丈夫です」
あたしはワゴンに掛けていた手を離して、美咲おばさんの肩を叩く。取り乱しているのがどっちだか分からないな、と思った。慧天。勝手に部屋を出ていた。多分あたしがお風呂に入っている間だろう。でもどうして?
庭に興味があったらしかった慧天は、あの窓から余裕で出られる程度には華奢だ。オリオンをもう一度見に行ったのだろうか。それはもう流さんが亡くなってても良い時間帯だった。
あの『名探偵』が、死体を見逃すことなんてあるだろうか。草茫々で覆われた死体を見付けることは出来なかったかもしれない。でも血の匂いとかは解ったんじゃないだろうか。それに慧天には動機もある。投げ付けられたペンキの空き缶。大きなコブ。だけど慧天は、流さんの部屋を知らない。はずだ。否、夕食の時に階段を上がる音は聞こえていた。そしてすぐにドアの開く音がしていたのが聞こえていたなら、一番渡り廊下に近い部屋だったことも解るだろう。
でも慧天は、自分が傷つけられることには慣れている。不本意ながら、自分の傷に鈍感だ。だから怒ったり根に持ったりしない。それに慧天だって中学二年生だ。細長い身体をしていた流さんを、わざわざあの低い窓から突き落とすのはロジカルじゃない。
あたしは昼食の片づけを終えて、部屋に戻る。
慧天はまたダージリンを飲んでいた。
ちゃっかりあたしの分も用意されているのが、嬉しいやら呑気で苛立つやら。
「静紅? どうしたの、そんな肩上下させて」
どうしたじゃねーよ、この幼馴染は。
あんたのことであたしが知らないことはいっぱいある。
でも他人の方が知ってることは、ちょっとだけ苛立つのだ。
「慧天。あんた昨日の夜、その窓から外に出たわね?」
「えぅ」
「どうして? なんであたしに隠してたの?」
「だって、静紅には関係ないかと思って」
ぷちん、と頭の奥で糸が切れる。
「あんたのことであたしに関係ない事なんかあるか! あたし達、何年の付き合いだと思ってるのよ!」
「じゅ、十四年」
「そうよ! あんたのことで知らないことなんて、無かったんだからね!? 美咲おばさんが言ってたの、あんたが外にいたって。なんで靴も履かずにそんな事したの!? そんなのそれこそ全然、ロジカルじゃない!」
どばっと降りかかる感情の波に慧天はその、ともじもじしている。良いから吐け。あたしのこの激情を静まらせろ。
「アルテミスが、見たくて」
「は?」
きょとんっとすると、涙目になった慧天はあたしを真っ直ぐに見る。
「オリオンの先にアルテミスがいるはずだから、シルエットぐらいは見えないかなって。見えなかったけど、でもそれだけだよ。ほら、静紅には関係のない事だったでしょ? 須田星志好きな僕の勝手な行動だった」
「あんたって子は……」
閉じられたドアの前ではーっと息を吐いてへたり込むと、はいっと慧天があたしの分のティーカップを持って来る。一気飲みしたら、慣れたダージリンの匂いでほっとした。良かった。ただの建築馬鹿で、本当に良かった。
でも死体があった時間なのには関係ないから、依然容疑者のままではある。それはあたしも同じだけれど。
取り敢えず、慧天は圏外でも良いだろう。
あたしの勝手な願いでも。
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