第7話
死体を見るのは二度目だった。
「間違いありませんか?」
「……はい」
「そうですか――笠原流さん。苗字が違うようですが」
「弟は、婿養子に出ていましたから。今は離婚協議中と聞いています、奥さんとあまり上手くいっていないとかで」
転落死体を見るのは二度目だった。
「お部屋は二階だったんですね。はあ、なるほど――天井が高い作りなんですね。二階でも、結構高さがある」
「ええ、父が、天井が低いのは狭苦しくて嫌だと言いまして」
「お父様ですか? 失礼ですが、ご存命で?」
「はい、部屋に居るはずです」
死体を、見るのは、
赤い、色が、
芝生の、真ん中に、
いたい、いたい、
のどが、ひりひり、かわいて、いたい
「……、……静紅!」
慧天の声、眩暈を起こしたあたしの身体を支えたのは、保志先生だった。しっかりと肩を掴みながら無表情に、運び出されていく流おじさんを眺めている。慧天はぱくぱくと金魚みたいに口を動かしながら、あたしの顔を覗き込んでいた。平気、と言おうとして、込み上げて来る吐き気に襲われる。気持悪い。乾いた喉が痛くて、声が出ない。
氷空ちゃんと優子ちゃんは刺激が強いとのことでリビングに退避していた。あたし達は朝一番の悲鳴に付いて来てしまったから、自業自得なんだけれど、それでも死体を見たショックは強い。それも二度目だ。赤黒い血が白髪の僅かに混じったグレイの髪を染めている。顔はシートで覆われて見えなかったけれど、それで良かったんだろうと思う。死体の顔は、出来ればもう、見たいものじゃない。
死体を見付けたのはみなもちゃんだった。朝一番、閉じていた部屋のカーテンを開けた所で、外の芝生に倒れている流おじさんを見付けたらしい。彼女の部屋は流おじさんの部屋の真下で、晴れの海に面していた。頭から血を流して仰向けになって倒れている彼に、みなもちゃんは、悲鳴を上げた。
駆け付けて来たのは、二階の寝室にいた潮おじさんだった。同じ一階にいたあたしと慧天は起き抜けで、優子ちゃんと氷空ちゃんは着替えていた。先生は二日酔いに寝こけていたとか。みなもちゃんの話を聞くなり潮おじさんは、リビングの窓から出て駆け寄った。でももう身体は冷たくて、死んでいるのは、明らかだった。警察に連絡して、そして、今、現場が調べられている。
遅れてみなもちゃんの部屋に来たあたし達も、見た。
全面の窓から、それを見た。
転がって、力が無い、手足が放られた、身体。
「本条、平気か?」
「……はい、だいじょ、ぶです」
返事はしたけれど、やっぱり上手く立つことは出来なかった。だから先生はあたしの身体を支えてくれている。とんとんっと落ち着くように背中を叩いてくれているのが嬉しいようで、嘔吐感に障るのが少し煩わしい。
全面の窓を見上げる。昨日はコロッセオの中にいるみたいなんて感想を抱いたそれには、青空が綺麗に写っていた。庭に出ていた制服のお巡りさんがあたし達の方に近付いて来て、ぺこりと頭を下げる。まだ若い人らしくて慣れないのか、口篭りながら声を掛けて来た。
「後で色々質問があるかもしれませんので、皆さんはリビングに集まっておいて下さい」
「あの、死因は」
「まだ詳しく調べられてはいないのですが、全身を強く打っての転落死と見られています。死斑の様子から、動かされてはいないだろうと」
誰かがホッと溜息を吐いたのを、私は聞き逃さなかった。誰かが。お祖父さん。潮おじさん。美咲おばさん。優子ちゃん。氷空ちゃん。みなもちゃん。保志先生。
みなもちゃん達三人は容疑者から外しても良いだろう。三人揃ってでも、流おじさんを落とすには無理がある。上を見ると、窓が僅かに開いていた。一階と同じで一番下の窓が開く仕組みだったようだ。ますます子供三人には出来ない事だろう。それに、誰も、悲鳴すら聞いていない。ばたばた不自然な足音がしなかったのだって、あたし達は確認済みだ。
しいて言うなら昨日の夜に踊り狂っていたみなもちゃんを見ただけ。
だけどそれこそ関係ないだろう。
バレリーナの細足は針のようで、とても男の人一人落とせやしない。
一旦部屋に戻って、換気をしながらカセットコンロの火を点ける。お湯を沸かして、ワン・フォー・ポットを捧げる。クッキー缶は重かったけれど、中もぎっしり詰まっていたので、とりあえず甘いものを食べて心を落ち着かせるようにした。
転落死。また。紅茶の時間を計る砂時計を見ながら、あたし達は無言でいる。慧天はヘッドホンを外していた。外から聞こえる警察の話し声を聞くためだろう。カクテルパーティー効果で都合の良い言葉しか出て来ないとは思うけれど、それはそれで構わない。ダージリンを注ぐ。ミルクを入れて、掻き混ぜる。
「多分、自殺じゃない」
「そうだね。でもどうやって落としたのかが分からないんじゃないかな。窓、そこと同じで一番下しか開かないようになってるみたいだし」
「それなんだよねぇ」
ふうーっと紅茶の表面を吹いて、慧天はいつかと同じ顔になる。
『名探偵』の、顔になる。
ならあたしは泣いてるだけの関係者だろうか。
否、それはもう御免だ。どっちかって言うとヒーローになりたい。アメコミみたいな。犯罪者をパワーで片付けるだけの、強い強いヒーローに。
コンコンコンコン、とノックされる。ベッドの下にカップやコンロを隠し、はあい、と声を上げる。
入って来たのは、みなもちゃんだった。
慧天はさっと、ヘッドホンを付ける。
「あの、警察の人がリビングに集まって欲しいって」
「警察が呼んでるってさ、慧天」
こくんっと頷いた慧天は、一緒に部屋を出て行った。ガスはちゃんと消したよね、と無駄に気になるのは現実逃避だろうか。
約十人の集まったリビングに、警察の人も立っている。あたしと慧天は昨日と同じカウチに腰掛け、刑事さんを見上げる。三十前ぐらいの若い彼は見覚えがあった。向こうも覚えていたんだろう、ちょっと驚いてから、まず、と話し始めた。
「被害者の死亡時刻は昨夜十時から十二時。飲酒もしていないのでこのぐらいが妥当だそうだ。その間に彼に会った人は? 話によれば、夕飯を途中で放り出して部屋に向かったのが八時ごろと聞いているが」
「その後はもう、こちらには接触して来ませんでしたよ。私は酔っ払って彦浮と父と一緒にいました。それが十一時ぐらいかな。飲みすぎて嘔吐の処理をして、それから彦浮は客間に、私達は寝室に」
「客間は流さんの部屋の隣でしたね」
「……ええ」
「お二人の仲はどうでした?」
「最悪ですよ」
自己申告する保志先生。コーヒーを飲んで、ぷぴ、と息を吐く。
「元々折り合いが悪いんです、あいつとは。昔色々ありましてね。許せないことも色々諸々抱えている」
「彦浮、やめないか」
「潮と美咲さんの寝室は渡り廊下を挟んで向こう側ですからね。俺が一番流の近い所にいた」
「彦浮!」
「そうなんですか? 潮さん」
頭を掻いて熊みたいなお髭を揺らし、言い辛そうに潮おじさんは頷いた。
「でも私達は何も不審な音なんて聞いていませんよ。叫び声も」
「二階から落ちる程度では叫ぶ暇もないでしょう。――保志彦浮さん、ちょっと署まで同行願えますか?」
「任意?」
「任意です」
「じゃ、ちょっくら行って来るわ。論理的に考えて俺が一番怪しいのは確かだからな。まあ所詮はここも、須田屋敷だったってだけだろ」
「彦浮!」
「だーいじょうぶだって。ここには『名探偵』がいるからな」
全員がきょとんとして、慧天だけは聞こえない程度の溜息を吐いた。
「俺の……俺の所為で、彦浮が……上手く誤魔化していれば、彦浮は」
死体を見た時のことを思い出す。
喉がぴりぴりして、気持悪い。こくんっと小さく喉を鳴らして、あたしは唾液を飲み込む。
「その――誤魔化すとかそういうの、違うと思います。本当のことを言うのは悪いことじゃないし、それで先生が連れて行かれるのは、当たり前だと思います。でも、先生が何もしてないなら、すぐ戻ってくるのも当たり前です。だから、後悔とか、いらないはずです」
判ってる、潮おじさんだってそんな事はちゃんと理解している。それでも、と後悔してしまうのは、自分の不用意な証言の所為で先生が連れて行かれてしまったという事実があるからだろう。どんなに言葉を重ねてもそれは覆らないんだから、後悔は消したり出来ない。せめて言葉にすることでそれを和らげているんだから、……正論なんか、言う必要も無い。
なのに余計なことを言ったあたしに、潮おじさんは柔らかい様子の笑顔を向けてくれる。熊さんみたいな髭の奥、やんわり口元を緩ませる苦笑い。
「そう言って貰えると、少し楽になれるね。静紅ちゃんは真っ直ぐで、良い子だ」
判りやすいぐらいに、気を使われている。
あたしは何だか恥ずかしくなって、顔を俯かせた。
「せ、せんせい」
ひっく、としゃくり上げながら、みなもちゃんが言葉を零す。
「せんせい、おじさんころしてなんか、ないもん」
搾り出すような、声だった。
慧天がぎゅうっと、ヘッドホンを押さえる。
先生が流さんを殺したのか、殺してないのか。あたしには正直判らない、先生と接するのは学校の授業やホームルームでが殆どだし、みなもちゃんの家族とも、昨日が初対面。みなもちゃん自身と知り合ったのも、ほんの三日前だった。優子ちゃんと氷空ちゃんだってそう。殆ど知らない人達だと言っても良い。でも、誰も人を殺したりなんかする人じゃないとも思う。
美咲おばさんは物静かで優しいし、潮おじさんは慧天が逃げないぐらいだった。みなもちゃんだって、悪い子なんかじゃない。呼んでないお客さんのあたしでも、邪険にしたりしなかった。優子ちゃんと氷空ちゃんは友達の恋愛に協力的な、仲の良い子達。それでもあたしを邪険にしたりはしなかった。ごく自然に自分達に引き付けようとしていた。むしろ三人揃って殺す動機があるとしたら被害者はあたしだろう。先生だって、人なんか、殺したりは。
「おじさん、事故だよぉ……誰も犯人なんか、いないんだもん、事故だったんだもん……」
「みなも、あなたは少し休みましょう? お母さんも一緒にいるから、ね?」
「大丈夫だもん、平気――何にも怖くないもん、先生だってきっとすぐ、帰って来るんだからッ」
けほけほとみなもちゃんが咳き込むのに、美咲おばさんが立ち上がってその背中を撫でた。優子ちゃんと氷空ちゃんも、その隣で涙目になっている。誕生日にまさかの事件だ。やってられないだろう。最後の誕生日だったのだ、しかも。好きな男の子も来てくれた。仲の良い友達もいる。そんな時に。そんな日に。
潮おじさんは背中を丸くして膝の上に肘を付く。両手を組んで、眼を閉じていた。一面の窓から青い空が白々しいぐらいに綺麗に見える。柔らかく、光が差し込んでいる。庭も青々と照らされて、その奥では、オリオンが死んでいる。
先生は犯人じゃないと、あたしだって思いたい。でもそれを証明するためには先生が自分で言っていたように、論理が必要だ。今のままでそれを立てることは出来ない、でも、しなきゃいけないのはあたしだと思う。
くいくい、と慧天が袖を引っ張るのを、やんわりと離す。
あたしは、あたしの言葉を繋がなきゃいけない――あたしの責任で。
眼を閉じて、深呼吸。それからあたしは顔を上げて、全員を見た。
「すみません、確認したいことが――あるんです」
「確認? 静紅さん、一体何を」
「先生が犯人じゃないって証明、したいんです。『誰がやったか』は判らないけど、『誰がやってないか』は、判断材料と仮定が十分に揃ってたら出来るはずですから――だから、そのために、確認をさせてください」
慧天は不安そうに髪を揺らして、あたしの手を握る。
いつもみたいに、裾や袖を引っ張る形じゃない。
あたしは口唇をぎゅぅっと引き結んで、答えを待つ。
潮おじさんはぶるっと頭を振って、あたし達を見ていた。ぱくぱく口唇を動かすけれど言葉は出ないみたいで、ただ、何度も首を横に振る。美咲おばさんは呆然としていた。呆気に取られるみたいに口を軽く開けている。みなもちゃんは涙を拭って鼻を鳴らし、隣に居る慧天の横顔を、じっと見ていた。
「判断材料、と言ったって、静紅さん」
「集めることが出来ればロジックは立てられるはずなんです、あとはそれに沿う形で客観的な証拠が出せれば、きっと先生の誤解もとけます。誤解じゃなくても、それでも――」
美咲おばさんはきょろきょろと、みなもちゃんと潮おじさんの顔を交互に見ていた。みなもちゃんは顔を拭いて慧天を見る、潮おじさんも、姿勢を正す。氷空ちゃんと優子ちゃんは、胡散臭げにあたしを見ていた。
あたしは慧天に手を握られたままに深呼吸をして、身体の中の空気を入れ替えた。喉が渇いてぴりぴり痛い。痛くて泣きそうだ。心臓もうるさい。
自分の言葉を吐くことは、こんなに疲れることだったのだっけ。
あたしは軽く髪を引っ張って、整理されていない頭の中から必要な言葉を探し出す。ごくりと誰かが、唾を飲んだ。
「一つ目に、先生はお酒に強い方だったのか。潮おじさん、判りますか?」
おじさんを見ると、彼はふるふるっと頭を振ってみせた。拍子にぎしっとソファーが軋んだ音を立てる。
「いや……彦浮は殆ど下戸で、飲むとすぐに眠ってしまうぐらいだったよ。昔から全然駄目で、缶ビール一本空けられないような奴だった。だからカクテルなんかを作って誤魔化していたな」
「二つ目、美咲おばさんは昨日おじさんと先生をどう介抱したのか」
「どう、って……彦浮さんは平気だと言って、部屋に戻りましたよ。ドアが閉じるまでも見届けて。主人は殆ど潰れていて、だから寝室まで送り届けました。水を飲ませたりして、眠るまで付いていたんだったと思います。そんなに長い時間じゃ、ありませんでしたけど」
「最後の三つ目、おじさん達の部屋の位置」
「お母さんたちの寝室は、渡り廊下を行ってすぐだよ」
みなもちゃんが、あたしの言葉に被せるように答える。涙は引いていて、その声もしっかりと芯を持っているようだった。慧天はちらりとだけ彼女を見て、だけどいつものように、俯く。
「主寝室って言うのかな、いつもそこに泊まってたの」
あたしは頭の中に、月光屋敷の図を思い浮かべる。
丸く抉れた屋敷は、この広間と玄関ホールの吹き抜けで左右に割れる。一階の右側はみなもちゃんの部屋と、少し離れてあたし達の部屋。反対側には、シングルの部屋が三つ。一つは氷空ちゃん、もう一つは優子ちゃん、そして空き部屋。二階、みなもちゃんの部屋の真上には、流さんの部屋。左側の二階には、潮おじさんと美咲おばさんの寝室。一階と二階を結ぶ階段があったのは確か、右側だけだった。多分『宇宙人』が、なるべく渡り廊下を使わせたかったんだろう。
質問の答えが返ってきたところで、慧天がこくんっと頷く。あたしも頷いて、確認した。
やっぱり――先生は。
「先生は犯人じゃないです」
「それは、一体どういう――」
「ちょっと待って下さい、説明しま」
きゅるるる、と。
慧天のお腹が鳴った。
「…………」
時計はそろそろお昼、十二時に差し掛かっていた。
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