第6話
シャワーを借りて洗面台でドライヤーを使い髪を乾かして出てくると、慧天の姿が見えなかった。ベッドの上にも下にもいない、充電中のヘッドホンが転がってるだけ。まさか一人で外には出ないだろうと思って見回してみると、閉じられたカーテンの隅に盛り上がりが小さく見えた。捲ってみると、窓が外側に開いて風が入っている。格子状に区切られたその最下段が、開閉できるらしかった。かなり分厚い硝子だな、台風が来ても大丈夫そうだ。風で缶や瓶が飛ばされたら厄介だけど、コロッセオの内側みたいなガラス面にはそんなものも迷い込んでこないだろう。木なんかもあんまり植わってないし、折れたそれが激突することもなさそうだ。
そして、その外に、慧天が座っている。
あたしは溜息を吐いて、顔を出した。
「あんたはなんでそう寂しいとこにいたがるの、もう」
「落ち着くんだよ、良いでしょ別に……ちょっと寝そうだったけど」
「そんなところで寝られてもベッドには運べないからね。風邪引いても知らないわよ、季節の変わり目で冷えるようになってきたんだから。大体なんでこんなとこ」
「あれ見てた」
つい、と慧天が指差したのは、バルコニーの方角だった。言われてあたしは身体を乗り出す、眼を眇めて暗闇に視界を慣れさせるより前に、あたしも気がついた。誰かが立っている、いや――
踊ってる。
小柄で細身な人影が、さらさらの髪を流しながらくるくると踊っていた。足を高く上げるポーズから適当に判断して、多分バレエだと思う。流石に曲目までは判らないけど、彼女はそのステージで舞っていた。少し高いバルコニー、窓ガラスに反射してうっすらと照らし出す月光。彼女は、みなもちゃんは、踊ってる。
一心不乱に、くるくると。
「……何してんのかしら」
「踊ってるんだと思うよ」
「それは見れば判るわよ。なんで踊ってるのかってこと」
「満月だからじゃないかな」
慧天の言葉に、あたしは彼女自身が言っていた事を思い出す。月狂いの家系だと言っていた。おじさんもあんなに演説を打っていたし、流さんも閉じ篭っている。お祖父さんだって早めに休んだぐらいだ。老人だからかもしれないけれど、それは。
そもそも彼――流さんがあんなに玄関に色物を投げ捨てるのは、屋敷に対する対抗だとかおじさんが言っていた。完璧な作りをしているだけに壊したくてたまらない。お祖父さんは、屋敷を建てた『宇宙人』との交流――美咲おばさんは、直系じゃないから除外か。でもさっきは結構よく喋ってたな。十年以上も家族をしていると、うつるものがあるのかもしれない。なんてったってあたし達が生まれる前からのお付き合いなんだから。その辺り、やっぱりまだまだあたし達は子供だと思う。
あたしと慧天だって毎日顔を合わせて十四年近くだ。家族と言っても良い。慧天の音楽趣味やアメコミ収集と言った趣味は、うつっていないけれど影響は受けていると言えるだろう。読むし聞くし、入り浸る。そして慧天のお母さんには、嫌な顔をされる。だから週末はあたしの家でのお茶会で庭に出るのだ。環境音の方が強い道路に面した庭は、慧天のヘッドホンを外させる。パイと紅茶とクッキー缶。偶にお客様がいたりいなかったり。その時は慧天も笑って過ごせる。最もCDは掛かっているけれど。CDラジカセでQUEENを垂れ流しだ。最近はメイド・イン・ヘヴンを聞いては感傷に浸っている。秋はそんな季節だ。
夏や冬と言った季節は、あたしの部屋でお茶会をしている。暑いのも寒いのも苦手だ。最近の夏の気温はおかしいとしか思えない。やっぱり音楽を垂れ流してお茶菓子をつつくのは変わらないけれど。偶にはスコーンも作ったりする。英国式にプチケーキを揃えたり。近所のお菓子屋さんで取り扱ってるから、買いに行くのだ、二人折半で。三つ四つが良い所で、半分こにして食べたりすることが多い。
夏は夜まで部屋にいて、星を見上げながら色んな星座を覚えるのも楽しかった。美咲おばさんみたいに天文部じゃないけれど、だからあたしも知っている星座は今の所結構ある。月――アルテミスとオリオンも。正直冬の星座で一番最初に覚えたのはオリオンだ。あんなに覚えやすいのもそうはないだろう。あとは北斗七星とか、メジャーな所だ。
月は年中こちらに顔を向けている。だから今更覚えるまでもないけれど、神話がいくつかあるのは知っていた。一つの星に女神が何人もいてどうするんだろうと思ったこともある。ギリシャ神話、ローマ神話、トルコ神話、ウェールズ神話。大体代表的なのがその辺りだろう。
みなもちゃんもやっぱり見ていると気分が高揚するとか、そういうバイオリズムが一緒なんだろう。優性遺伝の極端な形なのかな、なんて先生みたいに理屈を捏ねてみる。ふるっと慧天の肩が震えるのに、あたしはその上着を引っ張って、部屋の中に引き込んだ。
「ったくこんな冷えて……ほれ、さっさとお風呂入りなさい」
「いらないよ、もう寝る」
「なんで」
「着替え、無いから」
…………。
あたしは慧天のベッドの下、そこに突っ込まれている荷物のバッグを引き出した。重い。あたしのバッグより明らかに重い。ベッドの上に乗せてファスナーを開く。
「…………」
何故に、カセットコンロが見えるのかしら。
「慧天、あんた何持って来たの」
「えっとね、カセットコンロと、代えのボンベと、ミネラルウォーターと、ポーションミルクと、紅茶の葉っぱと、茶漉しと、ポットと、カップとソーサーを二セットと、クッキーと」
一つ一つ出しながら説明する頭に、チョップを入れてみた。
泣かれた。
「痛い、関節当たってすごく痛いよ静紅……」
「安心しなさい、あたしも空手部としては予想外にちょっとかなり痛かったから。この石頭め。そうじゃなくて、なんでこんなもん持って来てるの! お泊りに行くって言ったら普通着替えとかシャンプーとかそういうもの持ってくるでしょうが!」
「だって着替えは無くても死なないけど!」
「死なないけど何?」
「紅茶は無いと死ぬよ!」
もう一発チョップを入れてみた。
大泣きされた。
ああもう頭が痛い、変な奴だとは思ってたけどここまでとは思ってなかった。うちに泊まりに来る時も大体こんな荷物しか持って来ないけど、それは許す。お隣だから、別に良い。でもここは他所様の家で、借りれるようなものは殆ど無いと言っても過言じゃない。一人娘は当然女の子だし、お祖父さんやおじさん達の下着はサイズが合わないだろうし、保志先生も目立った荷物は持って来てなかったし。
にも関わらず持ってくるのが、三日分の紅茶とミルクとクッキーだけって……幼馴染ながら、その訳のわからなさは嘆息に値する。
そう言えば小学校の修学旅行でもクッキー缶一キロだけでおやつ代全部使ってたな。現金はコンビニで二リットルサイズの紅茶を買っていた。全部で三キロ近い荷物を背負ってふうふうしながら、それでも笑顔は輝いていたんだから、どうしようもない。しょうもないと言っても良い。まあ大部屋でティーパーティーするのは楽しかったけど、先生には怒られた。東京茶会事件だ、と喚いていたけれど、クッキーは没収され、帰りに戻ってきた時にはしおしおだった。あの時ぐらい沈んでいるのを見たのは、他に一回しかない。
「とにかく頭だけでも洗ってらっしゃい、シャンプーとタオルはあたしの貸してあげるから。着替えは、えーと、ジーンズぐらいなら貸せるかな……明日はあたしはワンピのまんまで過ごすとして。あんたウェストいくつ?」
「五十五ぐらい」
地味にむかついた。
良いのよ、女の子の方がお腹周りにお肉付きやすいんだし、下半身太りしやすいんだから。何より入らないよりマシなんだから。あたしは自分の荷物を漁って慧天にも入りそうなものを探す、ジーンズと、ミントグリーンのギンガムチェックのシャツがあった。合わせ目が女の子用だけど、別に良いだろう。流石に下着はない、パジャマはどうしよう。
「静紅、シャンプー二つある」
「片方はコンディショナーでしょ。あーもう、パジャマ無いからそのまんま寝ちゃいなさいね、寝苦しくても知らないんだから」
「ねー」
「何よばか」
「静紅ちゃん、だいじょぶ?」
ぞく、と。
背筋に悪寒が走った。
赤い。
赤い色が、眼の奥に、浮かぶ。
「何がよ、いきなり」
「なんかずっと顔色悪かったから、今日。さっきもさ。やっぱりここが須田屋敷だからかなって」
「平気。良いから早く、済ませちゃいなさい」
ぱたんっとバスルームのドアが閉じられる。あたしはベッドに突っ伏して、深呼吸を繰り返す。埃が少し喉に引っかかって、咳が出た。頭が痛い。眼を閉じたくない。
窓を覆うカーテンのワインレッドが嫌で、いっぱいに開けた。
満月が見える。
やっぱり、穴の中にいるみたいだと思った。
「…………ああ」
そういや昔、慧天にそう言ったっけ。
ペシミスティック――厭世的な考え方だって、言われた。
僕は紅茶のカップみたいに見える、と昔の慧天は笑っていたっけ。
風呂上がりの慧天はシャツとトランクス姿だ。今更下着で出られても特別ときめくところはない。ドライヤーもあったのに使わなかったのか、髪はぐしゃぐしゃだった。仕方なく拭いてあげると、犬みたいに心地良さそうに目を細める。さすがにここまでしたのは久し振りで、慧天は何だか喜んでいた。
それからリュックから紅茶セットを出し、鍋にミネラルウォーターを少し入れて、沸騰させる。茶葉をちょっと多めに入れた茶漉し越しにポットに入れて、待つのは三分の砂時計が落ちるまでだ。そんなものまで持ち込んでたのか。携帯端末のタイマー機能で良いでしょうに、まったく。
砂が全部落ちた途端に、慧天は機敏に紅茶をカップに注ぐ。そこは慣れだ、あたしだって出来る。張り合わないけど。ゴールデンドロップをあたしの方に寄越して、窓を開けている所為かちょっと肌寒い部屋で温まるのは悪くなかった。ほうっと息を吐くと、慧天も満足そうにしてクッキー缶を開けバタークッキーを食べる。クッキーには紅茶の方が似合うな、なんて思った。紅茶にはスコーンとプチケーキ、あとはパイなんかも合う。否、もしかするとコーヒーと二刀流なのかもしれない。入れるもので風味が断然に代わる、魔法の食糧だな、これってのは。
あたしもたまにはクッキーを作ってみようか。それはみなもちゃんへの対抗心だろうか。一機しかないぎりぎりの愛情だと思われても良い。あたしは慧天が好きだと思う。だから何でも、してあげたくなる。誰に睨まれても。恨まれても。厭われても。
でもやっぱり、自分の得意分野で勝負するならアップルパイかな。他にもパイのレシピはいっぱい知ってるけれど、そらで作れるのはそれぐらいだ。あの日も焼いた、アップルパイ。一番安心する味なのは、今も同じなのかな。
キドニーパイはいつか試してみたいけれど、挑戦するには難敵だった。やっぱりフルーツのパイやタルトの方が無難で良い。タルトもコーヒー向きか、あの外のカリカリしてる辺りは。やっぱりパイだな。アップルパイに勝るものなし。たまにレモンパイも作るけど、基本はリンゴだ。慧天の強い拘り、紅茶はダージリンに限る、とちょっと似ている。しかも自販機の紅茶は邪道だとも。まあ、勝手にお砂糖とか入ってるのもあるしね。でもミルクティーは作るの面倒だからコンビニで良いなあ。
「それにしても慧天、よく誘われる気になったね。知らない人だらけのパーティーなんかに」
「ご馳走が出るかと思って。あと単純に、この館に入りたくて」
「そんなにすごいの?」
「空撮写真で見ると、すごいよ」
「このコロッセオみたいな屋敷がねえ……」
「夜は本当、三日月みたいに見えるんだ。周りに民家が無いからそこだけ光ってるみたいに見えるの、ちょっと月の写真に似てるかもね。その内に図鑑貸してあげる」
「そりゃ嬉しい」
くすくす笑いながらあたし達のお茶の時間は過ぎ、ガスコンロからちゃんとガスボンベを抜いて蓋を閉めたのを確認してからベッドの下に突っ込む。
クッキーは夜なのに結構食べてしまった。乙女の体重に敵対する奴だと思ったけれど、まあ、あたしも楽しんじゃったから、と洗面台でカップを濯ぎタオルで拭く。それもベッドの下に突っ込んだ。ちょっと埃っぽいけれど、まあ良いだろう。一日二日のことだ、カビる事もあるまい。
紅茶とクッキーで適度にお腹が温まっていたから、眠くなるのは早かった。慧天は先に眠っている。あたしも目を閉じて、ガーゼワンピの温もりに溺れる。温かいな、単純に。秋物だけに。ぷすぷす柔らかいベッドに落ちて行く夢を見る。
次の朝は、悲鳴で眼が覚めた。
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