第5話

 やっぱり食堂はあって、夕飯はハンバーグにポテトサラダ、茹でたブロッコリーに人参のグラッセとブルスケッタだった。いつの間にか降りて来た流おじさんからは、シンナーの匂いがしている。もしかしてこれで酔っての犯行だったんだろうか、慧天の頭は。触ってみるとたんこぶが出来てて、ヘッドホンを直す前で良かったと思う。春の誕生日にあたしがプレゼントしたものなのだ。もっともこの中では誰も知らないだろうけれど。


 各々プレゼントを持って集まった食堂、食事に入らないように気を付けながら鳴らすのはクラッカーだ。長い髪にちょっとくっ付けながらも、親戚と友人に囲まれてみなもちゃんは嬉しそうだった。


「ハンバーグは私が作ったんだよ、メインディッシュだからね!」


 慧天に話し掛けるように言葉を発せられて、慧天はきょとんとする。何を言われたのか分からないんだろう。こんな時でも外さないのがヘッドホンだ。そしてあたしの、咽喉マイクだ。


「ハンバーグはみなもちゃんの手作りなんだって。心して食べるように」

「ほ、本条さん!」

「あとあたしのことは静紅で良いよ。慧天のことも慧天で。学校でも名前で呼んでくれる人は少ないし」


 すかさずあたしはヘッドホンを引っ張って隙間を作る。


「え、慧天君」

「なに? 城金さん」

「な、何でもないです……」


 ふしゅーっと赤くなっているのが可愛い。慧天は早速ハンバーグを一口食べた。デミグラスソース仕立てのそれは、十人近くの物を作るのが大変だっただろう、ちょっとだけ冷たくなりかかってるけれど美味しかった。美味しいね、と慧天に声を掛けると、うん、と頷かれる。喜ぶのはみなもちゃんだ。良かった良かった。ブルスケッタも美味しい。そちらはトマトの角切りが上手だから、お母さんが作ったのかもしれない。


 うちの母親いわく、面倒くさい時にはハンバーグに限る、だからなあ。お肉百パーセントの時もたまにあった。今は落ち着いた部署に配属されて、料理も楽しんでいる。ただしお茶会用のパイはあたし担当だ。あたしと慧天の。二人っきりのお茶会の時には。


 かしゃんっとフォークとナイフを皿に置いたのは、流おじさんだった。


「いーねえこんなに人が集まるなんて、兄貴が学生時代の頃以来じゃないか?」

「流」

「ミナは友達もいっぱいか。ちょっと毛色の変わったのもいるみたいだが、悪くはない。悪くはないねえ」

「流!」


 おじさんの次にお祖父さんが厳しい声を出したへいへい、と言って、流おじさんはA1ぐらいの丸まった紙をみなもちゃんにあげる。受け取ったみなもちゃんは、きょとん、としていた。


「価値はないけどあげるよ、ミナ。ハンバーグご馳走様」


 そうしてハンバーグだけを完食して、流おじさんはトントン音を立てて階段を上り、二階の部屋に下がって行ったようだった。


 ちょっと沈黙。

 みなもちゃんは貰った丸められた紙を広げる。


「わあっ、見て見て!」


 はしゃいだ声でみなもちゃんが出したのは、彼女のポートレートらしかった。長い髪の可愛らしい女の子。ちょっとあどけないどんぐり型の目。白黒のクロッキーだけど、それはよく出来ていたと思う。大きくて大変だったろうに、多分ここに来た一週間の間に描き上げたんだろう。そう思うとそんなに悪い人じゃないのかな、なんて思う。

 否、慧天に仇なすものはあたしの敵だけど。それこそがあたしの、通訳たる所以だけど。余計な言葉は耳に入れないように。


 食後はプレゼントを渡す段になった。バレリーナのフィギュアに、慧天が珍しく口を開ける。そう言えばお祖父さんとの会話は慧天の耳に入っていなかっただろうから、バレエの事も聞いていなかったのかもしれない。磁器で出来た小さく綺麗なお人形は、脚を高く上げている。


「バレエ長いの?」

「えっ!? あ、うん、幼稚園からずっと」

「幼稚園からずっとやってるんだって」

「それは凄い。根気と集中力だね」

「え、えへへ」

「僕からのプレゼントはこれ。須田建築の触りみたいな本だけど、そのものに住んでる城金さんには今更のものかも」

「そんなことない、そんなことないよ、そんなことない」


 はわはわ受け取ってぎゅっと抱き締める笑顔の、なんと可愛らしいものか。あたしの渡したオルゴールも喜んでくれた。水の中に銀色の折り紙が入っていて、それを傾けて覗き込むと万華鏡のように動くものだった。ふわーっと期待してなかっただろうあたしにプレゼントを貰えたこと自体が嬉しかったのか、ありがとう静紅さん、とお礼を言われる。

 ちょっとくすぐったかったけれど、まあお気に召してくれたならそれで良い。星に願いを。写真なんかでは月に明度を合わせるとほかの星が暗くて見えなくなってしまい、星に明度を合わせると月が白飛びしてしまうらしい。月も星だけど衛星だからな。正確にはどうなんだろう。星を見上げて願いを掛けて、だから、月は入らないのだろうか。moonじゃなくてstarだからな、原詩。


 そんなよしなしごとを考えつつ食事の時間が終わる。先にリビングに行ったおじさん組は、お酒を飲んでいるらしい。潮おじさんががははと景気良く笑う声が聞こえた。食事の片づけを手伝っていたのはあたしと優子ちゃんと氷空ちゃんだった。自分の食べたものは自分で片付けなさい、と言われて育っている。二人は、まあ、酔っ払いに慣れていないんだろう。しかも他所のおうちの酔っぱらいだ。どこまで遠慮したら良いのか分からない。

 それにあたしをこっちに引き付けておきたい所だろうしね。みなもちゃんはお酌に、慧天はおじさん達の肴にされている。ある意味二人っきりだ。あたし以外の女の子を知る、いい機会だろう。


 洗い物が終わると、ペットボトルのジュースを何本かお皿に持って、美咲おばさんがリビングに向かった。あたし達の分のジュースなんて二リットルでも一杯ずつにならないだろう。チョコレートボンボンも載せる。そっちも、多分私達用だ。子供だってちょっとぐらい酔っ払っても良いだろう。まして娘の誕生日だ、明るい方が良い。


「んあああ星々を建築であらわすその手腕、国内外を問わずに放浪するその執着のなさ! 横着のなさ! 頓着のなさ! 矮小に現世をせこせこと生きる俺達が、まるでちっぽけな隕石みたいじゃないか! いんや、俺達はデブリだ! 宇宙のゴミみたいなもんだ! 彼の最初の建築であるこの屋敷に関われたのを親父は誇っている、俺も誇っている! それを汚そうと流がいくら暴れようが、何もかもが取り込まれて、障害にすらならない! 彼はブラックホールでありホワイトホールだ、あらゆるものを飲み込み結果あらゆるものを吐き出す!」

「はいはい須田須田。ところでスダじゃなくてスタな」

「この月光の屋敷を見ろ! 地球は太陽に照らされて青く美しく浮かぶが、その中に住む我々にはそれを知る由もない! 屋敷の中からは、この三日月がどれほど美しい可能性に光るのかなど判らない! 今月今夜のこの月よ、肥え太り繁栄を表す満月よ、もっともっと光れ! 地球の裏側の須田星志に届かせろ!」

「向こう昼だから見えねんじゃね?」

「んぁああああロマンがない、圧倒的かつ絶望的にロマンがない! 須田星志の偉大なロマンに三つ指付いて謝れこの地方公務員、税金泥棒! 図書室の本借りたまま返さないのお前だろ!」

「俺だけどな。地方公務員を馬鹿にすんなよ。大変なんだぞテスト作り。めんどくさいから採点は生徒にさせてるけどな」


 そんな理由だったのかよ。


「んあああもう、矮小だ卑小だ何もかもちっぽけだ! 宇宙は広い! 広すぎて吐き気がする! むしろ吐く!」

「ちゅーわけで美咲さん、潮リタイアさせるわ。洗面所でゲロらせてくる。じーさんは先に部屋に戻ってるから、後で水でも持ってってやってくれや。しかし潮、また太ったんじゃないのか。えらい重いぞ」

「あ、それなら私が」

「良いって良いって、お客にはホストが必要でしょ。俺もちょっとやばい気配だし」


 パタン、とドアが閉じられる。

 うげぇえぇぇ、と世にも恐ろしい呻き声が聞こえた。


「…………私、少し行ってきますね。みなも、ホストをお願い」

「はーい」

「ご武運を」


 美咲おばさんが立ち上がると同時に、先生の悲鳴が聞こえたけれど、とりあえず無視しておくことにしようと思った。


「本当、お父さんいつもはあんなに飲んだり騒いだりする人じゃないんだけれどね。今日は満月だからかな」

「満月だとああなるの?」

「うちの家系って月狂いが多いんだよ。満月の日はタガが外れちゃうの」


 苦笑混じりに言って、みなもちゃんはドアを見る。カウチソファーでふるふる慧天が震えているのを見るに、あたし達が洗い物をしている間、ずっとああだったと言うことだろう。そんなに長く掛かってはいなかったと思うのに、それだけピッチが早かったのか。


「西園君のお父さんは、お酒とか飲む人?」


 みなもちゃんは慧天を覗き込む。慧天はあたしを見たけれど、ヘッドホンは、ずれている。つまり彼女の声は聞こえている。イエスノーで答えられる事まで通訳するつもりはなかった。そもそもこいつ、声――音を聞くのが嫌なだけで、口唇は読める。こんこんっとヘッドホンをノックしてやれば、俯いたままに奴はふるふると頭を振った。そうなんだ、とみなもちゃんは頷く。


「お母さんも飲まない人?」


 こくん。


「酔っ払いって苦手?」


 こくん。


「うちのお父さんも苦手かな」


 んー、と迷ってから、慧天はふるふる頭を振った。ちらちらとあたしを見ているのは判るけど、大きな窓から見える月を眺めたりしながら無視しておく。暗い庭の奥には錆び付いた矢に倒れたオリオン。キューピットを連想させるのかもしれない。可愛らしい恋の矢じゃなく、本物の弓矢なのが、文字通りに致命的な違いだ。


 慧天と会話をするコツは割と簡単で、要するにジェスチャーで伝えられる範囲に留めていれば良い。複雑な会話をせずに、単調ながらもゆっくりと、根気強くするのが肝心だ。みなもちゃんもそれが判ってきたらしくて、あたし無しでも会話を続けて行っている。となると、本当にあたしは保護者としているだけになってしまう。居心地が悪くないといったら嘘だ、なんてったって、隣でそんな遣り取りされてるんだし。慧天はあたしを見てる、みなもちゃんは慧天を見てる。あたしは月を見上げる。ここに生まれる擦れ違いの連鎖。


 優子ちゃんと氷空ちゃんはボンボンを食べてほろ酔いになっているのか、あたし達の方を見る気配はない。食べ過ぎると二日酔いになるわよ中学生。流石にそれはよろしくない。

 あたしは月を見上げ、ボンボンを一つ取った。じゃりじゃり言うお砂糖と、ブランデーの味。ブランデーの味を知っている理由は話せない。ちょっとね、お酌ついでにね、うん。チョコレートと合ってて良いよね。その間も慧天はあたしを見ている。


 視線に含まれるものは、どれも違う。恋の視線、救助要請の視線、明後日を見る眼。壁の時計が十一時を告げる音を鳴らすのを合図に、慧天はあたしの上着を引っ張った。視線を向けると、ぱく、と口唇が動く。そろそろ寝るのかなと腰を浮かしかけた所で、外のバルコニーの向こうに、影が見えた。


「あれ」

「どうしたの、静紅さん」

「ううん、なんか外に誰かいたような気がして」


 チラッとした影が、外で動いた気がした。あたしは窓の中央にある観音開きのドアに向かう、サムターンで施錠されていたそれを外して、片側だけを開けてみた。置きっぱなしだった靴を踏んで、視線を巡らす。


「あら、どうしたの?」


 バルコニーの端には、美咲おばさんが佇んでいた。


「あ、誰かいたような気がして……おばさんだったんですね、びっくりした」

「酔っ払いの介抱に疲れてね、ちょっと外に出ていたの。今日の満月は綺麗でしょう? 雲が全然無いのね、星がよく見えて。大学では天文部で、昔は色んな星を言えたのに、今は殆ど言えなくなってしまっているわ」

「潮おじさんとの出会いもそこですか?」


 くすっと笑うと、ええ、と美咲おばさんは笑う。この人もやっぱり月狂いの一族に感化されているのかもしれない、思うぐらいの満面の笑顔だった。


「その頃にもここにお邪魔させてもらったことがあってね。サークルのみんなで天体観測なんかをしていたものよ。このバルコニーに望遠鏡を立てて、月の観測をしたり、運が良いと水星が見えたりしてね」

「運が良いと、ってことは、水星の観測って難しいんですか?」

「地平線近くにしか出ないんだよ。この屋敷は広いから、どこか別の場所なんかからは観測できたかもね」


 口を挟んでくるのは慧天だ。こいつ天文学なんかに詳しかったのか。知らなかった。多分須田建築を知る上でついでの知識だったんだろうけれど、へー、とみなもちゃんや優子ちゃん達が感嘆の声を出す。そうなのよねぇ、と美咲おばさんは笑っていた。懐かしい思い出なんだろう。十五・六年前だろうか。あたし達はまだ、そんな思い出と呼べるようなものは経験していない世代だ。因縁、ならあるかもしれないけれど。


 須田屋敷。まさかここまで付き纏って来るとは思ってなかった。あれからもう二年だ。小学校は遠くなりにけり。だけど忘れられないことはある。あたし達があたし達になった出来事が、そこにはある。

 思い出じゃない。思い出したくない事だ。三人が別の小学校で良かったと、今更思う。尾ひれ背びれが付いたあの噂を知らないと言う事を、幸運に思う。


 バルコニーの端はカーテンに隠れているから見えなかったんだろう。あたしは美咲おばさんの言葉に釣られて空を見上げる。後ろに付いて来ていたみなもちゃんと慧天も、同じように首を上げていた。雲がないと空気が冴えて、少し冷える。でも確かに、月は、綺麗に見えた。

 オリオンは見えない。まだ季節じゃない。さそり座のアンタレスは赤色巨星。オリオンも確か、どこかが無くなるって聞いた事があるな。それもいつか観測できるようになるのだろうか。光の速さでも届かない。アルテミスの矢が届かない距離。


「満月の日って、穴の中にいるみたいで、ちょっと不安になるわ」


 ぽつりと、美咲おばさんは呟く。


「穴の中? 考えたこと無かったな、私……ただ綺麗だなーっと思ってた。お母さんも、お父さん達の月狂い、うつっちゃったの?」

「そりゃあ随分一緒にいるからね、そうなっちゃうのも仕方ないと思うわ。さ、冷えるからもう中に入りましょう? 西園君、ちょっと眠そうね」

「……、…………」

「寝るの? それじゃ、あたし達そろそろ部屋に戻ります。おやすみなさいみなもちゃん、美咲おばさん。優子ちゃんに氷空ちゃんも」

「ええ、おやすみなさい」


 ふっと、美咲おばさんは軽く笑う。

 それは何だか今日見たどの顔よりも、自然な笑みだった。

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