第4話

 夕飯までの間、時間が出来る。あたし達は一緒の部屋に通されて、それは一番端だった。ツインの部屋。重そうなリュックをお互い下ろして、リビングに戻ろうとしたところで、次の慧天の希望は外だった。とは言っても玄関のある正面側じゃなくて、裏側が見たいらしい。それならとみなもちゃんは玄関から靴を取って来て、あたし達もそれに続いた。バルコニーから出るのが早いらしい。キィ、と車の停まる音にドアを開けると、夕焼けの色が落ちていて、そこには買い出しに一緒に行った先生がいた。隣には今帰ってきた所なのか、潮おじさんもいる。


「あ、お父さんお帰りなさいー」

「はいただいま。言われてた材料は買ってきたよ、あとでお母さんに確認しなさい?」

「はーい、ありがとうっ」


 近付くと潮おじさんは、ぽん、ぽん、ぽんッとあたし達の頭を三様に撫でた。慧天はやっぱり逃げないで、ぺこりと頭を下げる。その様子を眺めていた先生が、珍しそうにくつくつと肩を揺らして笑った。


「なんだ西園、犬みたいだな」

「彦浮、そんなこと言うもんじゃないよ」

「いやいや誉めてんのよ? 初対面の人間にぽんぽん撫でられて隠れないのも珍しいなーとねー、俺の時なんて校庭三周するぐらい逃げたのに」

「それは先生がアフロにする勢いで撫でたからだったと思います」


 入学式で担任に突然わしわしされたら、逃げる。

 さらに追いかけられたら、もう必死で逃げる。

 慧天だけじゃなく、それはあたしでも逃げるわ。


 先生はけらけら笑って、んな昔の事は忘れた、なんて言う。慧天は腕を広げてちたちたと振る、どうやらちょっと怒って抗議しているみたいだ。あの時の慧天は半泣きで逃げてたし、そうしたいのも分からなくはない。でも抗議するならまず口を開け、口を。


「おや靴だね……庭に出るのかい? 外は冷えるから、あんまり長くいたらいけないよ?」

「判ってるよ、大丈夫っ。西園君、こっちね」


 真っ赤に染められたリビングの窓の真ん中には、ドアがあった。格子から浮かずに融合しているそれは観音開きで、片側だけをみなもちゃんは開けてみせる。バルコニーは元々白かったのだろうけれど今は色褪せて、ちょっと茶色くなっていた。そこからは、庭が広がっている。


「ふあ……」


 あたしは思わず、声を漏らした。

 正面から見た月光屋敷はごく普通の四角形をしていたけれど、裏から見るとそれはまったく違う形をしているらしい。テレビで見たことがある、ローマのコロッセオをあたしは思い出していた。庭はぐるりと光の壁に丸く囲まれていて、その一角だけが欠けている。ガラス張りの壁が、夕日を赤く反射していた。庭の中は殆ど手入れがされていないけれど、ブロックで作られた道と芝生は、それでも独特の空気を作り出している。

「月影屋敷の形はね、こんな感じなの」

 みなもちゃんは空中に指先で、『【』のような形を書いてみせる。

「正面から見ても横から見ても普通の四角い形なんだけれど、裏から見ると、丸く抉れた形になってるのね。客間や広間は全部こっちに面してて、全面ガラス張りなの。ほら」


 バルコニーを出て広間を振り向くと、そこにもガラスの壁が立ちはだかっていた。広間は丁度真ん中にあって、左右にぐるりと光の壁が伸びている。開いた口を塞げないあたしを見て、慧天は長い前髪の奥の眼を細めていた。

 なるほど、慧天の言ってた見所って、これのこと――か。


「上からはガラスの反射で、三日月が浮いて見えるんだって。もっとも昔うちでヘリコプター所有してた時の写真でしか、今は残ってないけれど」

「ヘリコプター!? 個人所有で!?」

「うちって葬儀屋さんでね、羽振りの良い時もあったんだって。今は競争相手も増えて来ちゃって全然だけどさ。昔は市の葬儀を一手に引き受けてたから、この館も建てられたぐらいで――夜もカーテンを開けて全部の部屋に光を灯すと三日月型なるんだよ。庭も照らされて、浮かんで見えるの」

「…………、……」


 慧天は下を指差す。ブロックで作られた道、庭は丸く作られたスペースに芝生や花壇があった。丸く――あ。


「もしかして、庭はクレーター?」

「そういうデザインらしいよ。私の部屋の前が晴れの海で……西園君達の部屋の前は、氷の海。バルコニーは静かの海だったかな。他は忘れちゃったけど、昔は言えたんだよ」


 ぺろ、と舌を出してみなもちゃんは笑う。そう言えば月のクレーターは海って言う名前が付いていたんだっけ――海渡お祖父さん、潮おじさん、流おじさん、みなもちゃん。そういう繋がりの名前なのかな。美咲おばさんも、岬になる。面白い偶然だ。

 指差された海を、あたしは順番に眺めた。晴れの海はバルコニーのすぐ隣で、間には細い木が立っている。枝を伸ばしているのにそれは線のように華奢で窓を殆ど遮らない、まるで屋敷に遠慮でもしているみたいで、少し面白い。庭も手入れはされていないのに、石畳が浮いている箇所や、それを突き破って顔を出している草はまるで無かった。何もかもが、空間に取り込まれている――玄関ホール、汚れのくず星みたいに。どれだけ頑張っても、調和が乱れないようにされているみたい。

 もっとも、石畳に殆ど隙間がないだけのことかもしれないけれど。でもすごいな、この眺望は。赤く照らされた庭に、飲み込まれそうだ。月と言うよりは太陽のようなイメージがある。焼き尽くされる。


「石とガラスって、たしか須田建築の基本だったわよね」

「…………、……!」


 こくこく、慧天が激しく頷くと、前髪がぱさぱさ音を立てて揺れた。須田屋敷に限らず、須田星志が関わったすべての建築には、このコンセプトが付き物だった。どこまでも滑らかに透き通ったガラスと、どこまでも頑強に、かつ美しく並べられた石が、その建築の基盤になっている。最初期の月影屋敷も、この庭を見ればそれが充分に判った。

 ぐいぐいあたしの上着を引っ張って慧天は庭の中を進む、そこには倒れた男の人のスタチューがあった。頭を背中から矢で貫かれている。


「オリオンだよ、静紅」

「オリオン? 冬の星座のあのオリオン?」

「そう、月の女神のアルテミスと両想いだったんだけど、双子のアポロンに陥れられてアルテミス自らが射殺してしまったって言われてる。そのワンシーンだね。どこかにアルテミス像もあるんじゃないかな」

「それなら屋上に、弓を持った女神像があるよ。危ないから立ち入り禁止なんだけど、昔一回だけ見たことがある。綺麗な女神様だった」

「屋上にアルテミスがいるって。弓を持ってる」

「……!」

「見たいの? でも駄目だよ、あんたすぐはしゃいで危なっかしい」

「はしゃぐ西園君は、ちょっと見たい……」


 ぽつりと呟くみなもちゃんである。恋する乙女の求めるものは難しい。

 しょぼん、とした慧天に、はぁっと息を吐く。しかし眩しいな、夕焼け。そろそろ夜も近いからこれもなくなるだろう。秋の日はつるべ落とし、と冬だっけ? それは。どっちにしろあんまり時間がないな、と、あたしは精々良い人面を作って笑う。


「みなもちゃん、携帯端末持ってる?」

「え、うん、あるけど」

「夕日をライト代わりに、慧天と写真撮らない? カメラマンはあたしがやるからさ」

「い、良いの?」


 俄然食いついて来る少女である。女の子のこう言う所は歳を取っても同じなんだろう。多分。あたしは慧天との写真なんて飽きちゃってるけど。ちょっと緊張した顔でみなもちゃんに手を繋がれている姿は、滑稽だった。あたしと一緒の時はいつもヘラヘラしているくせに。まったく、仕方のないやつだ。

 縦横一枚ずつ取って、綺麗な赤いスポットライトは段々暗くなっていく。ちょっと風が出て来たので、ぶるっと震えてしまった。そろそろ中に入った方が良いよ、とみなもちゃんに促されて、バルコニーに向かうと、そこではニヤニヤしている優子ちゃんと氷空ちゃんが待っている。


「ミナ、写真撮ってもらうとはやるね~?」

「そう言えばお二人はどうしてみなもちゃんの事をミナって呼ぶんです?」

「ああ、去年の誕生日にも流おじさんが来てね。その時にミナ、って呼んでからその真似」

「やめて欲しいんだけどなあ……ミナ・ハーカーみたいで」


 ミナ・ハーカー。吸血鬼ドラキュラに出て来る、ドラキュラに嚙まれながらもそれを克服して人間に戻った人だっけ。確かに夜の眷属っぽくて嫌かも。慧天なんてぼけぼけした幸せそうな名前なのになあ。西にあるエデン。西園慧天。慧天のご両親は、息子の幸せを願って名付けた。

 ――それをぶち壊しにしたのはあたしだ。あたしがあの時。否、それは良い。ちょんちょん、と慧天に肩を叩かれて、結局由来は? と訊ねられる。


「ミナ・ハーカー由来っぽいよ」


 こくこく慧天は頷いた。結構ホラーも好きな慧天なので、すぐにピンと来たのだろう。CDラックにはQUEENが並び、本棚には古いアメコミと古いホラー小説が並ぶ。フランケンシュタインの怪物とか。読むまで怪物の方をフランケンシュタインだと思っていたのは秘密である。でもあれ、作者が女性なのはびっくりしたっけ。


「私はそろそろお母さんの手伝いに行かなきゃ。二人も氷空達と遊んでて! オセロもあるから、それだったらみんなで出来るでしょ?」


 にこっと笑って、とてちたた、と走って行ったみなもちゃんがドアを開けて閉める。この人数だと、食堂とかあるのかな。昔は人も集まってって言うから、あっても不思議じゃない。


「じゃ、西園君、オセロやろーよ!」


 優子さんの元気な声に、オセロしようって、と通訳になる。引っ込み思案なところのある慧天にしては、珍しく素直にこくりと頷いた。庭も見れてテンションが上がっているのだろう。少しヘッドホンをずらして、少し外界に耳を傾けて、慧天は楽しそうに二人と勝負する。ここでも無視されるのがあたしであるが、ようは最初に端っこに付いてしまったら勝ち、と言う絶対法則は知っているので、それはそれで良かった。

 囲碁と違ってばっちり負けこんでいたけれど。


 思わず笑ってしまうと、お祖父さんが覗きに来て、なんじゃこりゃあと笑っていた。囲碁の上手さに比べて惨敗のオセロに、そっちの方が簡単じゃろうに、と言われ、面目ないです、と小さく慧天は返す。

 ここには慧天を傷付けるものはいないだろうから、ちょっと油断してるのかな。それは大いに歓迎すべきことだ。あの流おじさんさえいなければ、だけど。加速度ついて結構痛かっただろう。空のペンキ缶でも。大体なんであの人あそこにいたのかな。


 謎に思いながら、あたしはお祖父さんと囲碁をする。

 導くように打ってくれるから、負けても清々しさしか残らなかった。


「静紅ちゃんと言ったかの。お前さんは筋が良いぞ。慧天君由来かね」

「いえ、父とです。父と慧天は囲碁仲間なので」

「良いのう、潮も流もわしの相手は全然してくれん。女の子が生まれたと思ったらバレエやピアノなんかの教室に通わせて、やっぱりこっちの趣味は覚えてくれなんだ。寂しいのう」

「ピアノは去年の合唱大会で知ってましたけど、バレエも出来るんですか? みなもちゃん」

「おお、わしらと違って美咲さんゆずりの細い身体でのう。それはそれは綺麗に踊るんじゃ、あの子は。自慢の孫じゃよ」


 かんらかんらと笑うお祖父さん。良いなあ、温かい家族みたいで。自分の家族に恵まれていないと思ったことは一度もないけれど、こんなに誇ってくれる家族がいるのは良い事だろう。少なくとも空手三級のあたしはあんまり褒めてもらったことがない。人間凶器とか同級生に言われたことがある。慧天を苛めてた奴にだけど。

 良いんだ、あたしは慧天の為のナイフみたいなもんだから。少年はいつも心にナイフを持っている。それがあたしだ。と、そこまで突っ込んだ関係だとも思ってはいない。お隣さんで、幼馴染で、通訳だ。愛情は命懸けのマリオ一機分。一度しか助けられない。慧天は何機でも掛けてあたしを守ってくれるだろうと思うだけに、ちょっと後ろめたい。


 だけどその身体を、心を傷付ける人間が現れたら、案外スター取ってあたしも頑張っちゃうのかな。星に願いを。祈れば寂しい日々も照らされる。寂しい日々だとは、思っていない。慧天といるのは楽しい。こんな風に一緒にお呼ばれするのは初めてだけど、基本インドアなので、部屋で本を読んだり音楽を聴いたりするのも好きだ。慧天にだって色んな趣味があることを知った。今回の収穫は、それだけでも、十分だろう。須田建築が好き。一体いつからなのかな。そのうち訊いてみよう。

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