第3話

 リビングのドアを開けると、恰幅の良い老人と同じく恰幅の良い中年男性、そして並べると余計細く見える痩せぎすの中年女性の姿が見えた。お祖父さんとお父さんお母さんだろう、お父さんらしきおじさんは熊みたいな髭を生やしていた。それがなんとも人懐っこい。氷空ちゃんと優子ちゃんは彼の向かいで真剣な顔でチェス盤を眺めていた。と、おじさんが私達に気付く。やあ、とどっしり構えていたソファーから腰を上げて、あたし達の方にやって来る。背が高い。百八十センチはあるだろう。あたしや慧天とは、頭一つ分ぐらい違う。

 ほわーっと見上げてしまうと、やっぱり人懐っこい顔で、おじさんは笑って見せてくれた。森の熊さんって言う感じだな、なんて適当に印象付ける。おばさんはさしずめお嬢さんか。対比しても細いおばさんとのっしりしたおじさんは、似合っている気がする。勿論白い貝殻の小さなイヤリング、なんか付けていないけれど。


「みなもの父で、うしおと言うんだ。よろしくしておくれ、二人とも」

「潮さん、って言うんだって。みなもちゃんのお父さん」


 ぺこりと頭を下げた慧天に、あたしも続く。お母さんは美咲みさきさんと言って、お祖父さんは海渡かいとさん。順番にお辞儀をしていくと、あーっと優子ちゃんが頭を掻きむしってソファーにどっかり腰掛けた。


「リザイン! 全然敵わないなー潮おじさんには。あ、本条さん、西園君、やっほー」


 ぺこりと頭を下げて、こちらもご挨拶。手を振られたから話しかけたのが分かったんだろう。聞こえてはいない。聞いてはいない。ただ慣れているだけ。こう言う場面に、人の輪に入って行くことに。本当は手が震えていても、でもそうでなきゃ生きてはいけないんだから。手を握ってあたしはそれを抑えてあげる、と、やっぱり殺気を感じた。あーもう、これは病気の一つだから仕方ないんだってば、と説明したくなる。

 だけど慧天はどんな誤解を受けてもそれを潔しとしないだろう。心身症。PTSD。トラウマ。色んな言葉で説明が出来て、あたしが傍にいる理由も周知することは出来る。だけどそんなのは逃げだと思っちゃう辺り、男の子は男の子なのだ。自分より小柄な女の子に隠れる理由なんて、晒したくはないだろう。あの頃より背が伸びた。目線の高さが変わった。それでも慧天は変わらない。あたしと言う、本条静紅の隣にいることは変わらない。通訳としても、そうじゃなくても。


 でなかったらあたしと同じ部屋にして欲しいなんて言わないだろう。基本的にはお喋りな奴だったのだ、こいつは。だから誰もいない所ではあたしとぺちゃくちゃ喋る。ヘッドホンを外してそうしていられる時間が、必要なのだ。あたしと話す時間が、必要なのだ。

 でないと言えない言葉ではち切れてしまうから。西園慧天はそれほどまでに、弱いものだから。

 おっと忘れていた。


「本条静紅と、西園慧天です。この度はお招き頂きありがとうございます。私はただの通訳なので、お構いなく」

「構うよーめっちゃ構う。本条さんにも興味はあるし。西園君とはいつからのお付き合い? 小学校は学区的に私達と違ったんだよね、だから中学からしか知らないんだけど、小学校から? ご近所さんとか?」

「付き合いは生まれた時からですかね。あたしは早生まれだったし、家は隣同士だったし。今も週末はお茶会したりするぐらいには、ご近所付き合いとしても良好です。今週はその準備しなくて良いから楽で、慧天もいつもと違う過ごし方にうきうきしてます」

「まじか。勝てねーわそれは。って言うかうきうきとかどうやって解るの? 私達のいない所で言ってた?」

「他所様にお呼ばれして喜ばない歳じゃないからかな、まだ。って慧天、そで引っ張らないの。恥ずかしいなら恥ずかしいなりのジェスチャーをしなさい」

「ほんとだ西園君赤くなってる。かわいー」

「赤くなってて可愛いって言われてるわよ」

「……! ………!」

「あはは、可愛くないって」

「喋らなくても通じてるんじゃん……ほんと勝てねーわ」

「勝ち負けの問題じゃないよー? 愛だよ愛、恋だよ恋。乗り越えて行くのが乙女のポリシーと言うものじゃない?」

「で、肝心の愛はどのぐらいあるの? 本条さん的に」

「マリオ一機分ぐらいかな……」

「ギリギリだね!? 二人って付き合ってるんじゃないの? だからいつも本条さんが西園君のラブレターお断りに来てるんだと思ってた」


 それは誤解である。全校生徒に周知したい誤解の一つである。あたしは別に関係ないのだ、その事に関しては。ひと気のない所に呼んでもらってるんだから、ヘッドホンは外せるはずなのに、それすらも嫌であたしに縋りついて来るのだ、こいつが。


「いや、本当にただの通訳です。色々あって慧天喋るのも聞くのも苦手だから」

「静紅相手なら平気だけどね。咽喉マイクとヘッドホン、電波で繋がってるんだ」

「うわっいきなり流暢に喋った! 西園君が!」

「いきなり流暢になられて驚かれてるわよ、慧天」

「僕だって喋れない訳じゃないからね。静紅越しなら」

「きゃー、マウント取られてるー! しかも違う方にー! ミナ、頑張れ! 二人の結束は強いぞ! 引き剥がして行け!」


 きゃっきゃとやっぱり思春期の女の子らしい話題で笑う優子ちゃんと氷空ちゃん。顔を赤くしているのはみなもちゃんだ。おそらくこの二人は私隔離用だろう。慧天とみなもちゃんを二人っきりにするための。つくづく邪魔者扱いされてるなあと、今更虚しくなる。でも二人部屋用意してもらってるから、そこは感謝するべきなんだろうな。

 普通嫌だろう。幼馴染で恋人かも知れない相手と同室にさせるなんて。自分のテリトリーで。いかがわしい想像をされても仕方ないぐらいだ。だけど彼女は慧天の希望を優先した。惚れた弱味って奴だろうか。だとしたら本当、申し訳ない。


 と、開いたドアから香るのはコーヒー。ワゴンにカップを二つ乗せて来たのは美咲おばさんだ。カウチソファーの前にソーサーを二つ置いた彼女は、ちょっと神経質そうな笑みで、どうぞ、と私達にそれを促した。お口に合うと良いんだけれど。

 いえいえこちらこそ、マグカップでないコーヒー様にどれだけ口が合うものかと。豆の匂いがするそれは単純に美味しそうだけれど、苦かったり酸っぱかったり甘かったりでコーヒーには慣れていないのだ、あたし達は。


 紅茶党のお互いとしてはちょっと困ったけれど、砂糖とミルクでどうにかした。コーヒーゼリーは好きなのだ。だから飲む振りをして、冷ましている。床に置いた慧天の大きなリュックがガチャリと音を立てた。機械? なんだろう。携帯端末にしては音が重い。自撮りなんてやんないのに。タブレットだって持ってない。ヘッドホンの充電器だって大した重さじゃない。あたしも咽喉マイクの充電器は持って来てるけれど、リュックのサイドポケットに入る程度だ。まあそれは置いておくとしよう。


「美味しい? 慧天」


 ここで一応訊いておかなければなるまい。こくんっと頷く様子に、美咲おばさんはホッとしたようだ。その様子にあたし達もホッとする。コーヒー派と紅茶派と緑茶派は超えられない壁があるのだ。もし慧天が自分の趣味を最優先してプレゼントにディンブラでも持って来ていたら大変な所だった。修羅だわ。修羅の鐘が鳴るわ。大体道具が無ければコーヒーも紅茶も飲めないものだし。

 お茶請けもナッツの香ばしい匂いのクッキーで、やっぱりコーヒー向けだった。でも一緒に食べてみるとこれが美味い。コーヒーも豆だもんね、ナッツに合うのは当然か。ぱくぱく食べる慧天に、えへへ、と笑ったのはみなもちゃんだ。


「作ったのはこの子なんですよ。気に入って貰えたみたいで良かったわね、みなも」

「お母さんばらすの速いよ! で、どうかな、クッキー。美味しい?」

「クッキー美味しいかって」

「美味しいです」

「みなもちゃんが作ったんだって」

「すごく、美味しいです」


 珍しく他人をあからさまに気遣う慧天に、かーっと顔を赤くして、みなもちゃんは笑う。唇がふにゃふにゃしてて上手く閉じられないようにも見えて、あたしはそーっと食べる量を減らしていく。酸っぱいコーヒーの味だけになったところで、くっと飲み込んだ。お代わりは、と訊かれたので、結構です、と笑う。紅茶は平気なんだけどコーヒーは眠れなくなったりお手洗い行きたくなったり合わないのだ、あたしは。カフェインに弱いと言うか、何と言うか。


「西園君って好きなものある?」

「好きなものあるかって」

「……、…………」


 手振り身振り、伝えようとするけれど、ちょっとそれは私にも分からない。重ねる仕種。畳む仕種が、ああ、と慣れた私には分かった。


「アップルパイね。りんごは余熱しない方が好き。その方がしゃくしゃくするから」


 こくこくと頷かれる。普通はリンゴを熱したりバターで焼いたりするんだけど、そうすると出来上がりに火が入り過ぎて食べ難いらしい。だからいつもは生のリンゴを並べてそのままオーブンに入れる。まあつまり、あたしのやり方だ。

 ちなみにシナモンは入れない。匂いが苦手だから。それは邪道だと、言われたこともある。主に父に。だってお母さんも苦手じゃん。そのお母さんのレシピで作ってるんだから道を逸れるのは当たり前じゃん。


 そこでまたチャイムが鳴った。


「最後のゲストだな」

「……ああ、そう言えばお祖父さんのお友達って聞いてますね。そっか、まだ一人足りてなかった」


 最初があんまりにも灰汁が強くて数えるのを忘れていた。って言うかあのおじさんも人と話すのには向いていないテンションしてたけど、一緒に夕飯を摂るのだろうか。ちょっと心配だぜ。水とか掛けられそうだもん、慧天。無線ヘッドホンは耐水性だけど、生活防水が精々だ。あたしがプレゼントしたものだから、出来れば壊して欲しくはない。

 それに、ヘッドホンが無いと慧天は自分の声で耳を塞ごうとするからな。指を耳に詰め込んであーあー喋るのを止めたのはもう二年前だ。十四年のお付き合いの中ではたったの七分の一だけど、そんな時期があたし達にもあったのだ。今も続いている、そんな時期があるのだ。

 パニックさえ起こさなければ、本当はいつだって喋ったり笑ったり出来るはずなんだけれど。そこはそれ、色々あったのだ。たった半日の事で、二年も続いている、色々が。


 それはともかくとして、ドアを開けて入って来た顔に、驚かされる。


「よっ。西園、本条ー」

「保志先生!?」


 担任の、保志彦浮ほし・ひこうき先生だった。


「あ、そっか、先生二人の担任だもんね。びっくりさせちゃった」

「確信犯的な犯行にも思えるぞーミナ。ま、そう言うわけで、俺がゲスト最終か? 流の奴も帰って来てるって聞いてるが」

「うんまあ、いつも通り。部屋に籠ってる。あ、お父さん、そろそろ夕飯の買い出し行くよね? 追加で買ってきて欲しいものがあるんだけど、良いかな」

「冷蔵庫に張ってあるメモに書き足しておけば、買って来るよ」

「ほっほ、我が孫ながら手が早いのー」

「おじーちゃん!」


 パイプをくゆらせて(本物のパイプは初めて見た。そしてちょっと臭いし煙い)、お祖父さんが笑う。まあこのタイミングで追加材料と言われたら、ピンと来るだろう。優子ちゃんと氷空ちゃんもそうだったみたいで、ニヤニヤしながらチェス盤を片付けている。それからみなもちゃんが持って来たのは、折り畳みタイプの碁盤だった。ほ、と驚いたのはお祖父さん。


「西園君、囲碁は出来るんだって。お祖父ちゃん対戦してて!」

「ほう。将棋やチェスならいたが、囲碁は初めてじゃな。どれ、一局」

「慧天、お祖父さんが囲碁の相手しようって」

「……負けるかもしれない勝負はしたくない」

「良いから頑張れ、男の子!」

「男女は関係ないよ~……では、お願いします、お祖父さん」

「ほっほ、掛かってきんしゃい」


 持ち時間は一時間。携帯端末で測りながら、それは始まった。

 意外と慧天の圧勝で、あちこちから拍手が響いた。

 顔を真っ赤にした慧天は、残ったクッキーをぽりぽり食べる。

 それに嬉しそうなみなもちゃんを見てると、ちょっと微笑ましかった。

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