第2話
金曜日の放課後、月影屋敷の場所は慧天が知っていたので、郊外まで二人自転車で行けた。慧天はやたら大きなリュックを担いで、私は街で買った『星に願いを』のオルゴールをプレゼントに、パジャマ用のガーゼワンピと二日分の着替えを背負っている。ロードバイクはお揃い、ビアンキのチェレスタだ。あたしの方が若干小さい。
二人で中学に上がった時にお祝いで買ってもらったものだ。早いけれどよく転ぶのがあたしである。足が届かなかった頃は本当にそう。写真に撮るレベルの傷を作っては、父母を心配させたけれど、慧天がスイスイ乗っているんだから負けるわけにはいかなかった。勝ち負けの問題ではない気もするけれど。
首に掛けているのはヘッドホン、道路で自転車に乗る時は流石に外す。慧天、と呼び掛けると、なーに静紅、と呑気に返される。これで結構持久力はあるのだ、こいつ。肺も強い。あたしなんかぜえぜえしてるけれど。真に優れた短距離ランナーなのだ、あたしは。空手とか試合に一分も掛からないし。ちなみにあたしは空手部である。三級。まだまだだ。慧天に至っては帰宅部なのに、なんでこんなに差が出るんだろう。歌うのが好きだからかな。二人でよく、QUEENとか歌ってるし。もちん慧天の部屋で。
二年前に防音処理がされた部屋は、外の音が入って来ないし中の音も窓から以外出て行かない。だからたまに夜に歌ってるのは聞こえる。二重サッシのガラスじゃないからな。北国みたいな。あれは暑さ寒さにも対応しているから結構良い。うちのリビングの窓がそうだ。
天気は良くて、秋風をよく服の中に入れてくれる。涼しいけれど、風で襟がバタバタして鬱陶しい。親しくないから礼儀を重んじてカフスもネクタイもある服にしたのだ。慧天は普段着だけど、まあおめかしとか男には求められてないだろうしな。
「あんたちゃんとプレゼント持って来たんでしょうねえー?」
「うん、須田建築の図録」
「あんたしか喜ばないものを持って来てどうする」
「僕の趣味知ってるぐらいなら彼女も知ってるのかと思って」
そりゃ好きな人に趣味合わせてるだけだよ。とは言えず、はあーっとあたしは息を吐く。酸欠になりかかった。いけない。有酸素運動中はやばい、溜息。頭が真っ白になってよろけそうになる。
やがて見えて来たのは、長方形の屋敷だ。ここかなっと止まり、慧天は綺麗に着地する。あたしもよろよろ足をついた。門は開いてるから入っても良いって事なんだろう。一応鍵を掛けて、自転車を庭の隅に置いておく。
ピンポン、とレンガ造りの外観に似合わない電子的な音が鳴ると同時に、はーいっとみなもちゃんの声が聞こえた。
「西園と本条です」
珍しく慧天が答える。わ、わっと声がして、ぱたぱた走る音。開いた門扉の奥では、おめかしワンピ姿のみなもちゃんがいる。長い髪を複雑に、だけど綺麗にまとめているのが可愛らしかった。あたしも小学生の頃に切ってしまわなければ、このぐらいの長さになったのかなあと思う。やっぱり髪が長い方が女の子らしい楽しみが出来て良い。ちょっと羨ましい。
「優子と氷空はもう来てるよっ。二人で父さんとチェスしてるところっ」
「チェス出来るのか、すごいな。あたし将棋も分からないよ。慧天は囲碁が得意だけど」
「じゃあお祖父ちゃんと対戦できるねっ!」
玄関ホールの臙脂色の絨毯にはにはなぜか黄色や青のペンキの色みたいなのが散らばっている。なんだろうな、ときょろきょろする。
みなもちゃんがけらけら笑って、それからヘッドホンを戻す直前――
かこーんっと頭ぐらいある缶が、慧天を直撃した。
ノーテン直撃。っていつのCMだ。
「おや、お客さんの頭に当たってしまったか」
水面ちゃんに似たけらけら笑う声に、あたし達は上を見る。玄関ホールの上を渡り廊下が走っていて、その上には頬のこけた芸術家気質っぽい中年男性が影を背負って立っていた。影。違う。ステンドグラスだ。月を見上げる男の姿。一応調べておいた須田建築の基礎の本に書いていた。彼はモチーフになった星を必ずテーマとして入れている。月影屋敷はこれなんだろう。
それより慧天の頭だ。しゃがみ込んで頭を押さえているけれど、血は出ていないらしい。良かった、ほっとすると。もーッ! みなもちゃんが起こって腕を振り回す。ロックのコンサートのタオル回しみたいだな、なんて思った。
「中身は入っていないよ。安心して良い、ミナ。しかし丁度当たったのが唯一の男の子とはねえ。偶然とは恐ろしい」
けらけらけらけら。怒っても良いのかな、これ。ごめんね、とみなもちゃんは慧天の頭を撫でる。平気、と言って、慧天はヘッドホンを掛けた。やっぱり他人の声なんてろくなもんじゃないと思ってしまったのだろうか。立ち上がった慧天は、ぺこりと男の人に頭を下げる。
フン、とつまらなそうに痩せた身体を翻し、手すりに手を付けて鳴らしながら去っていく。よく見ると、手すりの真ん中辺りは月の満ち欠けのようだった。新月から始まって、二十八本かな。
ぷんっとした顔を引っ込めたみなもちゃんは、本当にごめんね、と慧天に再度謝る。
「あれは叔父さんで、
「叔父さんで流さんって言うんだって。絵描きさんしてるみたい。離婚調停中でピリピリしてるみたいなんだってさ」
こくこく、慧天は頷く。
「えっと、何処から案内したら良いのかな……こういうの初めてだから判らないんだけど、西園君は何が見たいの?」
「何が見たいの、って」
さっきから確実に慧天にのみ話し掛けているのがありありと判るみなもちゃんに、慧天は手をぱたぱたさせる簡単なジェスチャーをみせた。手話とかそういうものじゃないから初めて見る人には分からない、でもあたしには判ってしまう仕種。手で空中にすいすいと縦線を書いて行く様子に、ああ、とあたしは頷いて、みなもちゃんに向き直る。
「渡り廊下が見たい、って」
むごむご開きそうで開かない慧天の口元を見ていた彼女はハッとして、やっぱり判りやすい作り笑顔をあたしに向けた。そう言うのだけ向ける矛先があたしになってる辺り、非常に居心地が悪い。喋れや慧天。
「判った、こっちだね」
ひらりと鉤編みのストールを翻してみなもちゃんは脚を進める。あまり歩き慣れないスリッパだから、あたし達はその後姿に遅れないよう付いて行くのが精一杯だった。なのに慧天の足取りは鈍くて、歩く度にくいくいと、上着が引っ張られてしまう。
振り向くと奴は壁を見ていた。何の変哲も無い白黒写真が並んでいるばかりなのに、とあたしも壁を見る。それはどうやら、この屋敷を建築している様子みたいだった。ここを作ってる、なんて、赤印のある設計図のコピーまで隣にある。
たまに人の写真もあって、それは仲の良さそうな二人の男の人だった。四十代ぐらいのおじさんと、二十代ぐらいのお兄さんが、肩を組んだり図面を眺めたりしている。若い方には比較的見覚えがあって、だから、あたしはつられて足を止めたみなもちゃんに声を掛けた。
「これって、須田星志?」
「え? あ、うん、須田さんと、うちのお祖父ちゃんだよ。二人とも結構歳が離れてるのに、すごく仲が良かったんだって。私は会ったことないんだけど、お父さんとかは結構よく会ってたって言ってたかな」
「へえ、すごいね……」
隣を見ると、慧天は目を輝かせて写真を眺めている。建築途中の屋敷の様子と言うのが珍しいんだろう。丸まりがちな背筋がしゃんとかしこまっているのが、ちょっとおかしい。写真相手だって言うのに。
屋敷の正面の様子、ステンドグラスを嵌める場面。庭を眺めてあれこれ指示している様子もあって、いつも二人は隣同士に笑っている。相当に仲が良さそうで、気の置けない友人同士という気配が、強く伝わっていた。パトロンと芸術家、みたいな関係だと思っていたけれど、これは純粋に仲が良かったのかもしれない。世代を超えた友情、って言うか。
「建築家って、庭の造園もするんだっけ?」
あたしは慧天に問い掛けると、奴はこくこく頷いて見せた。それから口元をもごもごと緩ませて何かを言い掛ける、開きそうだけど、開かない。ぱたぱた手を振って笑う、髪の奥の目は楽しそうに細められていた。指先を口元に立てて、『後でね』、なんて子供みたいに。しかしこんなに傾倒してるなんて、知らなかったかも。
慧天にも音楽以外の趣味があるんだなあ。良かった良かった。でも図書室ではちょっとの音漏れも響くだろうから、ヘッドホンは外して欲しい。あたし達もいつも一緒に居る訳ではないのだ。友達とバレーをしたりもするし、バスケットをしたりもする。慧天は音楽室で耳で憶えたロックなんかをピアノで弾いたり、図書室で好きな建築家の本を読んだりもするみたいだ。
と言うか中学二年で建築家のファンになるって結構コアじゃないだろうか。サグラダファミリア建設の歴史とかなら、分からないでもないけど。ガウディ強い。でもあたし達の生きている間に完成するかもしれないって前にニュースで見たから、それは楽しみかも知れない。でも土地の立ち退き要請してるって書いてたからなあ。最初から確保しておけよ、と思わんでもない。
「お祖父ちゃんは今も須田さんとは文通してて、ずっと友達なんだって」
「今はペルーにいるんだっけ? 本に書いてた気がするな、諸国放浪してあちこち気ままに建築仕事してるって」
「ペルーにいたのは三年前だったかな? 首都のリマに。引っ越すたびにうちに絵葉書が来てね、去年はシドニーにいたみたい……今はどうなんだろ。あ、こっちね」
歩き出したみなもちゃんは階段を上がる。手摺りの端っこには三日月を横にした形のオブジェが付いていた。月影屋敷と言う名前の通り、あちこちに月があしらっているけれど――よく見ると壁紙は、月の満ち欠けを繰り返してる模様だ――これじゃただのインテリア止まりにも、見える。慧天が言ってた『見所』って、一体なんなんだろう。
月影。古典で習ったことによると、月光と意味は同じらしい。敢えて影を取ったのは何故だろう。みなもちゃんに訊いてみると彼女もそれは知らないらしかった。
と、慧天がぱたぱた手を言わせる。
「夜になると、明かりが灯った部屋が光って見えるんだ。夜に見るのが乙な屋敷だから、月影屋敷」
ちょっと掠れた声は、声変わりの途中なのか単に声帯を使っていないからなのか分からない。でも珍しく長文を言えたので、頭をてちてち撫でてあげる。一瞬ジェラシーのような物を感じ、やべっと思う。ここは彼女のフィールドだ。私はお呼びでない。
にこっと笑い直したみなもちゃんが、ひらっとスカートをはためかせて渡り廊下の真ん中に立つ。
「玄関とリビングと、どっちも三階まで吹き抜けなんだ。だから屋敷の南側と北側が半分に分かれちゃっててね、一階は大丈夫だけど、二階と三階はここの渡り廊下でしか行き来が出来ないの」
つり橋めいた印象の渡り廊下からは、玄関ホールが見下ろせた。日が傾き始めたのかステンドグラスの影はさっき見たより少し赤味がかって、夕焼けの色が強い。満月と夜空、それを見上げる人の群れが、臙脂色っぽい絨毯のキャンパスに広がっている。
気になっていた手摺りは随分とくたびれて、錆が浮いていた。手入れが出来ていないんだろうと、あたしは支柱を手で撫でながら進む。断続的に指先をノックする様子が少し面白い。
中央部分でレーンが途切れ、支柱だけになる。その上に並んだオブジェは一本一本で形が違う、でもそれが何を表しているのかは判った。線のように細い弧がゆっくりと太って球体に、そしてまた痩せ細る。
「月の満ち欠けだね」
「うん、一ヶ月の様子。二十八日周期で最初と最後は同じだから、二十九本あるの。反対側は逆になってて、満月から満月まで」
「芸が細かいねー、さすがは『宇宙人』」
図鑑からの引用で呼んでみると、くいくいと慧天に袖を引っ張られて指差されたオブジェを見せられる。月齢が掘ってあった。満月には小さく『15』の文字、細かいと言うより、偏執的。みなもちゃんのお祖父さんなのか須田星志なのか判らないけど、どっちもどっちで宇宙人っぽかったのかもしれない。ついでに、それに目敏く気付く慧天も。
「二階は殆ど客間で……おじさんの部屋とか、主寝室? があるけど」
「おじさんって、あの絵描きさん?」
「うん。なんかごめんね」
「あ、いや」
ふっと、みなもちゃんは少し表情を曇らせる。
「絵描きさんって言っても趣味でやってるだけなんだけどね、ちょっと、色々……本当は呼んでなかったんだけど、一週間前も夜中にいきなり来て。芸術家体質ってあんなのなのかもだけどさ」
声を落として、みなもちゃんは満月を掌で撫でた。金属のそれは少し揺れる、錆もかなり浮いているし、結構脆いのかもしれない。彼女は眼を伏せる、長い髪がさらりと肩から零れた。その様子が綺麗――しかし慧天は見ても聞いてもいないらしくて、相変わらずポールを眺めている。とりあえず足を踏んだ。泣かれた。
「あんまり、好きじゃないんだ。お母さんやお父さんとも兄弟なのに仲良くないし。私には色々描いてくれたりして優しいんだけど、なんか……あ、ごめん、こんなの話しても仕方ないよね」
「あ、えっと」
「三階は物置みたいな感じで、今は何にもないの。鍵も掛かってるし――昔は色んな人が集まったらしいけど、今は全然で。お父さん、あんまり余裕ないらしくてね」
「そう言えばここは別荘だって」
「うん、そう。持ってても使わないからね、私達も普段はマンションで暮らしてるの。……だからここで誕生日迎えるの、最後なんだ」
取り壊しは決定してないみたいだけど、好事家にでも買われない限りは残されることも無いだろう。伝えると慧天は残念そうに少し眉を寄せてポールの月を撫でる。やっぱり、それは揺れた。
床に広がる月が、夕焼けの色で赤くなっていた。
地平線に近いと月って赤くなるんだっけな。夜が近いって事だろう。もう九月だし、少しは涼しくなってきている所だ。日の入りも早い。
慧天は身を乗り出して、映るステンドグラスの影に入りたそうにしていた。
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