第3作 ネズミのシガーキス

 ...小雨が続いている暗めの曇り空。テレビから流れている夕方の天気予報によれば、この雨は明後日のお昼まで続くようだ。僕は窓際にだらけるようにふらふらと歩いていく。そこから目に見えたのは、雨が中に溜まっている紺色の灰皿と、つゆに濡れている窓に反射した僕の惨めな顔だった。


 「はぁ...君は今、どこにいるんだろうか。」僕はカーテンを握りしめながらぽつりと呟いた。暗くて薄汚れたこの部屋には、少し異質なベリーの香りが残り香のように漂っていた。僕がうなだれるように見た写真には、二人の輝いている日々を撮った写真があった。


 __あれは嘘だったのだろうか?あの時の僕は、春風に誘われて鮮やかに咲いていた花だったのだろうか?僕の頭の中に染み付いたあの香りを思い出すたびに、僕は行き場のない怒りを抱いていった。君といた時は、本当に互いを全て分かり合っていると思っていた。けれどもあれは、僕だけが感じていた思い違いだったのだろうか?


 僕は震える手で、空き缶やゴミ袋が散乱していた机からセブンスターの箱とオイルが少ないライターを拾い上げた。そしてライターを何度も鳴らして、ようやく火を付ける。僕の体がニコチンを欲しているのか、あの子を欲しているのか、それはどちらか分からない。煙草を咥えて大きく息を吸い、僕の体に悪煙を流し込んでいく。くらくらしている頭の中からは、前の儚く華やかな記憶が過ぎる。


 __晩春のあの夜。僕が上裸で薄暗い四畳半の寝室で煙草を吸っている時だった。椅子に座っている僕の背後から、カチャッとドアが開く音がする。彼女はまだしっとりと濡れている身体で僕の背中から首に腕を回して覆いかかる。僕の身体に彼女の濡れた長い髪の毛がかかる。彼女は耳元で優しく僕に語りかける。

「ねぇ...今日は早く、ゆっくり長くしよ。」彼女はそう言って僕が咥えていた煙草の火を吹いて消し、横に敷かれていたベッドに横たわった。僕は椅子から立ち上がって、一糸まとわない彼女に覆いかかった。...今では物が沢山溜まってしまって入れない物置部屋にはあの時、甘酸っぱい大人の匂いが充満して蒸れていたのだ。


 僕は持っていたセブンスターの箱を見た。すでに中の煙草は残り一本となってしまった。

「あぁ...もう終わりか。また買いに行かないと...」火種もつかなくなったライターをゴミ袋に投げ捨てながら僕は呟く。ねずみ色のジャージに着替えて、無精髭を切らずにそのまま玄関のドアを開けた。周囲は一気に暗くなっていて、空から降っている雨は少しずつ強くなっていた。僕は小走りして車に乗り込む。車のエンジンをかけて、窓のワイパーを動かす。そしてポケットに入れていた煙草の残りの一本を取り出して、車に付いていたシガレットライターに押し付けて口に運んでいった。僕は煙草を吸いながら運転席にもたれかかる。部屋から出たのにもかかわらず、あの甘い香りが漂っていた。


 __いつのときだったか、深夜に春雨が降っていた時だ。僕は彼女に呼ばれて終電の駅に向かった。彼女はバス停の屋根の下に立って外着や傘に付いた雨粒を落としていた。僕はハザードを付けて横に止めて、彼女を助手席に招いた。彼女は助手席のドアを開けて、深いため息をつきながら髪を整えていた。

「はぁ...大変だった...」

「大丈夫?ほら...タオルあるよ。」

「うん、ありがと。」彼女はタオルを髪や服に押し当てて水気を取る。大胆に開いていた胸元からは少しだけ透けて淡い色の下着が見えた。彼女はバックからベリー系の煙草を取り出し、車のライターで火をつけた。そしてカプセルを噛むと、車の中にこびりつくような強く甘い香りが充満した。僕はハンドルに手を添えながら、外の暗い夜の街を微かにニヤけながら見ていた。...今でも同じように周りを見ているが、あの時のように彼女はいない。

 

 僕は咥えていた煙草を抜いて、車の窓から雨の外に投げる。水面が飛び跳ねている水たまりに短くなった吸い殻が沈んでいく。僕は天井を再び見上げながら、目を腕で覆った。ジャージの胸ポケットに入れていたセブンスターの空箱を握りしめるたびに虚しさが僕を襲った。空っぽの心がぐしゃっと音を立てて潰れてしまったかのような苦しさが僕を一気に絞め上げていく。僕は口から震える声を吐き出す。ラジオからは、AM放送の音質の悪いジャズ音楽が流れていた。


 「いらっしゃいませ〜。」僕はコンビニについて直ぐにレジへ歩いていく。僕は指を指しながら呟くような声で言った。

「えぇっと...102番を一つ。」

「はい、こちらで。年齢確認ボタンをお願いしまーす。」僕は慣れた手つきでボタンを押し、ポケットからくしゃくしゃの千円札をトレーに出す。店員は相変わらずの感情のない顔で、流れ作業のように会計を済ませる。僕はもらったレシートと買ったセブンスターをポケットにしまって店の外へ歩いて行った。外は更に暗く雨脚も強まっていた。


 僕は車に乗り込み、繁華街の中を気晴らしに走っていく。丁度渋滞にかかってしまい、僕は逸る気持ちを抑える為に、さっき買った煙草を咥えて火をつけた。心の中に貯まる気持ちがすっきりする。そして何気なく窓を開けて燃えカスを外に捨てようと思った。その時、僕は目を見開いた。反対車線の歩道であの傘をさしていた、あの長い髪をしていた彼女を見つけたのだ。彼女はあの時と変わらない姿で、雨の街の中を我が物顔で歩いていた。

「え...ちょ、クッソ...!!」僕は歩き去っていく彼女を振り返りながら、混んでいる道を反対に出ようとウインカーを出す。しかし前も後ろも動けない様子で、僕は荒れる呼吸を上げた。


 そして少し広くなった所で、僕は路肩に駐車して外に飛び出した。多く降れる雨を気にもとめず、僕は彼女が向かった方向へ走り出した。運動もしていないので、僕は直ぐに息を荒げる。でも僕は死に物狂いで走り出した。しかし僕は彼女に会って、どうしようかと思い立っていた訳ではない。何かを問いただしたり、何かを謝ろうとしている訳でもない。端から見れば何かに取り憑かれていたかのように見えただろう。でもあながち間違ってはいない。なぜなら彼女の髪、身体、匂い...触れ合った短い時間で、僕はその全てに狂ったように依存してしまったのだから。


 そうして暫く走っていたが、僕はとうとう力を使い果たして路地裏にしゃがみ込んでしまった。咥えていた煙草の火は雨の湿気に消されてしまい、ふやけて湿気てしまった。僕はそのしけもくを直ぐ側にあった排水溝に投げ落とした。路地に置かれていたゴミ箱や換気扇からはむせかえる匂いが漂っていた。僕はふらふらした身体を落ち着かせる為に屋根のある所まで行って、壁に寄りかかり座った。すると物陰にいたネズミやゴキブリが僕を避けてはけていく。僕は呟いた。

「...ハハ、お似合いだな。僕がやっていた愛、泡みたいにすぐ割れたあの恋は、汚いドブネズミの僕には毒だったんだ。短命で、儚くて、バカバカしい。」僕はポケットでびしょびしょになったセブンスターの箱から煙草を一本取り出し、ライターを探す。しかしさっき走っていた時に落としたのか、何処にも見当たらなかった。僕の顔からは水が滴っていた。


 「はぁ...ライター...」僕は疲れてしまって、煙草を咥えたまま上を向いて目を瞑った。屋根にあたって耳に響く雨音は、孤独の心を埋めるにはあのジャズ音楽よりも心地よかった。僕が眠気に誘われてウトウトしてしまった時、湿気と生ゴミの匂いの中から甘い香りがした。


「(っ...なんだ、こんな時でも彼女を思い出しているのか僕は?本当に駄目なやつだ。)」僕は自分のどうしようもなさにうんざりしてしまった。すると、目を瞑った時の暗闇が仄かに明るくなった。僕はゆっくりと目を開ける。すると目の前には、咥えていた煙草の小さい火で僕の煙草に火を付けている女性がいたのだ。

「大丈夫ですか?」女性は僕に語りかける。僕は息を吸って、煙草の煙を体内に取り込みながら思う。

「(あぁ...駄目だ。いけないと分かっているのに、また...また僕は目の前の温もりに見惚れてしまうんだ...)」


 ...暗い路地からは、2つの小さな明かりが紫煙を立ち上らせていた。

 


 

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短編小説集「色」 川野 毬藻 @kawano_marimo

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