スケープゴート その5


 赤羽は俺に説明を求めたが、嫌疑の晴れた以上、最早ここに拘束されるいわれはない。彼女の抱いた疑問を解消してやることより、この軟膏くさい部屋を抜け出すほうを優先させてもらう。

 俺は床の荷物をまとめて雑に鞄に詰めると、彼らを残して部屋を後にした。


 外はすっかり夜の色に染まっていた。街路を抜けてきた北風が顔を撫でて、目許がキリキリと痛む。

 駅のホームにつくと、俺はベンチに腰掛けて携帯電話を開いた。液晶の時計は19時前を示している。着信はない。

 携帯電話をしまい、背もたれに深く座ると、煙草で煙遊びでもするときのように、フーッと息を吐いた。女子生徒らの猜疑の目に晒されこわばっていた熱が、白い息になって冬の夜気へ融けていくのが心地いい。

 下りホームにいるのは俺だけだ。向かいの上り線には、ちらほら部活帰りの生徒が見える。上屋のあちこちに雨漏り対策のビニールが貼られた粗末な駅だが、ダイヤの本数は少なくない。

 目の前に閑散とした六両の列車が滑り込む。電子ベルの発車音は聞き覚えがあるのに、いつも曲名が思い出せない。誰一人乗車も降車もしないまま扉は閉じ、ディーゼル排気の名状しがたい臭気を残して駅を発つそれを、俺は見送った。

 それからまた少しして、改札側に人の気配を感じ、ちらと視線を向けた。ホームの灯りの影の下で不安げな顔をした葛西が、俺を見据えながらこちらに歩いてきていた。


「葛西さんもこっちだったんだな」

「知ってたくせに……」

 下り列車を使う生徒は多くない。今まで特段気に留めたことはないが、葛西とは車内で何度か顔を合わせている。

 葛西はベンチに来ると、ひとつ席を空けて腰を下ろした。それからしばらく無言のままだった。

 数分ほどしてまた列車が来たが、俺も葛西も動かず見送った。

「乗らないの?」

 俺は答えない。

「ねぇ……何か言ってよ……」

 葛西は席を詰めると、俺の顔を覗き込んでくる。その表情までは、見て取れない。

「つまり、俺から何か聞き出したいと思っているわけだな?」

 俺は葛西に目を合わせないまま言った。

「それは……あんなこと言い残していかれたら、誰だって……」

 上屋の上を風が吹くと、薄いトタンがどこかで鳴った。頭上の電灯が痛いほどにまぶしく感じる。

「俺は善意の探偵じゃないし、探偵ごっこもやめたつもりだ。それでもあんなことを申し出たには理由がある。分かるか?」

 答えが返ってこないので、俺は短く言い切った。

「俺は怒っている」

 葛西の方を見た。目が合うと、彼女はそっと視線をそらした。

「……確かに、無実の菅原を疑ったのは悪かったわ。でも……」

「ただ疑われるだけならかまわない。結果的に疑いが晴れるのなら、嫌疑をかける方も、かけられる方も、どちらも悪いということにはならない。裁判そのものが悪ではないからな。……問題は別にある」

「あなたのこと、目つきが悪いって言ったこと?」

 せっかく忘れかけていたのに、この女は余計なことを蒸し返す。俺は鼻を鳴らした。

「俺の目つきの悪さは誰のせいでもないし、だれがどう思おうと自由だ。そればかりのために下着泥棒の汚名を着せられたのなら怒って然るべきだが、結局そういうわけでもなかったしな……しかし、今回のはもっと悪いかもしれない」

「ねえ!」

 俺の言い回しをもどかしく感じたのか、葛西は俺の腕を引き寄せてそう言った(短気なやつだ……)。

 その手を振り払うと、俺は乱れた襟元を正した。

「ごめんなさい……」

 そんな俺からの拒絶を受けて、葛西は一転しおらしくなる。

 俺は足を組み、深く息を吐いて気持ちを整えた。

「帰りが遅くなるのはご免だろ? 手短に済ませるぞ」

 遠くで踏切が鳴る。これは上りの列車だ。次の列車が来るまでに片づけたいが、どうだろうか。

 俺は指を組んで膝に置き、そのままゆっくりと目を閉じて語り始めた。



「まずは、村上と森のした偽証からだな……」

 俺が静かに口を開くと、“偽証”という言葉に葛西が小さく息をのんだのが分かった。

「あいつらの話した目撃証言のことだ。確かこうだった。村上は『北口から俺に似た男子が出てくるのを見た』と言い、森は『更衣室で俺に似た人影を見た』と言った。普通に考えれば、ここには時系列の相違がある。森が人影を見たのは部活の休憩中のことだと言っていた。だとしたら、そのタイミングで村上が北口から出る俺を見たというのは不自然だ」

「……言いたいことは分かるわ。休憩ということは、まだ練習が続いていたってことだから、村上くんが部活の終わりに森さんを迎えに来ていたのだとしたら、確かに目撃証言の時刻が合わない。でも、村上くんが少し早く来ていたという可能性だってあるじゃない?」

「その通りだ。だから俺はあの時、村上にこう聞いたんだ。『部活がない日はどうしているんだ』とな」

 俺は目を閉じたまま、ことさら平板な調子で言葉を続けた。

「あの質問の仕方には、わざとファジーさを仕組んでいた。俺はその『部活』という言葉が指すものが、森の部活か、村上の部活かを、あえてぼかしておいたわけだ。それに対してあいつは、何ら疑問を挟むことなく『その時は先に帰る』と言ったな。素直に考えれば、村上は俺の発した『部活』という言葉を、自分自身の部活だと捉えたことになる。つまり、今日はあいつ自身の部活があったということだ」

 そこまで話すと俺はわずかに言葉を止め、隣に座る葛西の様子を窺った。葛西は、当たり前のことを言う俺を訝るような表情をしながら、黙って次の言葉を待った。


「しかし、これだけではまだ、村上の部活が早く終わっただけ、という可能性を捨てきれない。そこで別のパターンも考えてみる。もしあいつが、俺の言った『部活』を森の部活、つまり女子水泳部のことだと解釈した場合はどうなるか。その場合、村上はおそらく『一緒に帰る』なり、『自分の部活次第だ』なり、あるいは、そんなことを改めて聞くことへの疑問を投げ返してきただろう。また、村上がもう少し慎重な奴だったら、『部活』という言葉を森の部活だと断定せずに、それが誰の部活を指しているのかを確認したはずだ」

 俺は、段々と語りに熱中しそうになる自分に気づきつつあった。ギヤの操作を誤らないように、少し俯瞰した位置で、そんな自分を自嘲気味に見下ろす。

「そう考えると、他の可能性を一切顧みない『その時は先に帰る』という即答は、自分の習慣がそのまま口を突いた反応だったと言えそうだ。そして、それは同時に別のことも意味している。つまり村上は、女子水泳部の活動日には、自分も部活があり、かつその終了時刻がほぼ同じな場合は、森を迎えに行くという行動パターンだ。いくら自分も部活があるとはいえ、仮にその日の活動が極端に短時間で終わっていたとしたら、それでも森の下校を待つというゼロイチの行動分岐は不自然だ。そうなると、村上の今日の行動として考えられるパターンは二択に絞られる。一つは、村上がいつも通り本当に部活終わりに森を迎えに行ったパターン。この場合は、村上と森の証言のどちらかが嘘だということになる。実際に二人が別々の人物を目撃した可能性もゼロではないが、まあ、これについては結果的に俺は考慮しなくてもいいと判断した」

 ふと俺は片目を開けて隣の葛西の方へ視線を送った。彼女は、真剣な眼差しでただ俺を見つめていた。

「もう一つは、何らかの特別な理由で、いつもの習慣に反して村上が早い時間に更衣室前まで森を迎えに行ったというパターンだ。だが、仮に気まぐれだったとしても、そんな例外がありえるとしたら、俺の質問に対しても“その時は先に帰る”とは答えなさそうだ……」

 そこまで話したところで、俺は少し表情を崩して、語気にわずかに冷笑じみた空気を絡めた。


「次に、俺が森にした質問を覚えているか? 『下着が盗まれたのなら、今はどうしているのか』というやつだ。それに対し、彼女は『いつも替えを持ってきているから、それを着ている』と答えた。ここで一つ疑問が生じる。犯人はなぜ、その替えの下着には手をつけなかったのか、という疑問だ。変態の考えることはよく分からないが、どうせなら両方盗んだほうが得というものだろう。それだけじゃない。盗まれたのは森の下着だけだ。俺たちの高校のプールは屋内施設だが、ロッカーは古びていて鍵もついていない。女子更衣室がどうかは知らないが、おそらく男子更衣室と大差ないだろう。水泳部員がどんなふうに貴重品管理をしているのかまでは知らないが、そもそも誰でも自由に下着を持ち去れるような環境でなければ、盗難など最初から起きようがないわけだ。とにかく真犯人は、わざわざ女子更衣室に忍び込んで、他の部員のものには目もくれず、森の下着だけを盗んだことになる。仮に急いで犯行に及んだとしても、替えの下着ではなく、脱いだ後の下着だけをピンポイントで狙えたというのは、少しばかり違和感のある話のように思える」

 ホームに吹き抜ける北風がひときわ強まり、俺は思わず制服の襟元に首を縮めた。視界の端で、葛西の肩先の髪が小さく揺れた。


「それ以外にも、二人の言動には不自然な点がいくつかあった。村上のことを思い出してみてくれ。最初は威勢よく俺に飛びかかってきたくせに、結局ただの虚仮脅しに終わったばかりか、その後すぐに俺の無実をあっさり認めてしまった。森に関しても、自分の証言をずいぶん簡単に覆しただろう。何より決定的なのは、そんな簡単にひっくり返せるような薄弱な根拠だけを頼りに、名指しで俺を容疑者に仕立て上げたことだ。こればかりは、どんな理屈をこねても正当な道理にはならないし……まぁ、そんな道理があってもらっても困るわけだが……」

 そこまで言い終えたところで、ホームにまた列車が入ってきた。俺も葛西も、当然のようにそれを見過ごす。気づかぬ間にホームにいたのだろう、今しがた乗車した数人の生徒が、車窓から不思議そうにこちらを眺めつつ去っていった。

「ここまでの話は謂わば疑問の提示だが、不可解な事実も数が揃えば自ずとひとつの道筋を示すようになる。これから話す内容は、俺が現状を矛盾なく説明できるように整理した仮説、つまり憶測に過ぎないが、そこまで的を外しているとも思えない」

 踏切がまた鳴り始める。今度は下りだ。足元のレールが、遠いところから薄く唸りを運んでくる。


「村上と森の証言については、さっき述べた通り『偽証』だと仮定しよう。そうだとして、次に考えるべきは、なぜ彼らはそんな嘘をついたのか、ということだ。俺の推測ではこうなる。まず、下着泥棒の真犯人は女子水泳部の内部にいる。そして村上と森の二人は、そのことを既に知っていた。それだけじゃない。森が被害にあったのは今日が初めてではない、もしくは、実際に被害にあったのは今日ではなく過去のことだった。そう考えることで、ここまで指摘してきた矛盾や疑問の大半に説明がつく」

 言い切ると、風が一段強くなり、吐いた白い息が、闇に消えるが先か、薄くほどけていった。葛西の髪が耳元で揺れ、カルキの匂いが一瞬だけ立った。

 彼女はしばらく黙っていたが、やがて手の甲で目許を押さえるようにして、小さく言った。

「……続き、聞かせて」


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