スケープゴート その6
葛西は微かに震えていた。それは寒さのせいではないだろう。
北風が止むと、不気味なほどに静かになった。俺は声を低く、しかしはっきりと言葉を続けた。
「仮定として、“内部犯”であった場合を考えてみる。さらに、これは簡単のためだが、森の受けた被害は今日の分を含めて二回だったとも仮定してみたい。すると、さっき挙げた疑問にはこう説明がつく。たまたま森だけが被害を受けたのではなく、初めから狙われていたのは森だけだった、と。犯人が部の内側の人間なら、動機は性的関心よりも森に心理的危害を与えることだったとする方が自然だ。実際には盗んだのではなく、破いたり汚したりしたのかもしれない。だとすれば、森と村上が『犯人は内部にいる』と確信していた理由も腑に落ちる。仮に盗難だったとしても、今日の騒動によって、それが内部犯の犯行であることはほぼ確実になる。そして俺が、森の被害が過去に遡る可能性を考えたのもこれに関係している。もし今日が初めての被害だったとすれば、はやり彼女の『替えの下着』が無事だったのはやや不自然だし、一方で、もし今日の被害がそもそも嘘であったとしたら、こんな茶番を演じる理由が全くなくなってしまう。だがもし一回目の被害が実際に盗難だったとしたらどうだろうか。恐らく森は部員たちに被害を隠したまま、信頼できる村上にだけ相談しただろう。その場合、村上がいつもの習慣に背いて、早い時間から女子更衣室の前で張っていた理由も想像がつく。つまり、練習中に再び不審人物が現れないかを警戒していたとか、そんなところだ。それにもかかわらず、彼の目を掻い潜って、またもや下着の盗難が発生したのなら、いよいよ内部犯の疑いは濃厚になる。となると、一回目の被害が盗難だったとすれば、今日についても森は実際に盗難の被害にあった可能性が高くなる。なぜなら、村上が厳しく警戒していたという前提で、それでも何の被害もなかったのなら、今日このタイミングであえて騒ぎを起こす理由がどこにもないからな」
膝の上の指が、いつの間にか拍を刻んでいた。呼気が細くなるのを自覚しながら、足を組み替えて続ける。
「いずれにせよ、森と村上は、犯人が部の内側にいると踏んでいたのはほぼ間違いない。しかし、仮にそうだとしたら問題が生じる。犯行は女子更衣室という半密室で行われるわけだし、そのような内部犯の疑いが濃い状況での犯人捜しは、特に森のような女子からしたら気重な仕事だ。顧問や教師のような大人に助けを求めたとしても、事件解決の保証はなく、一騒ぎした挙句に犯人を警戒させて事件を迷宮入りさせるリスクもある。それに、そもそも犯人が単独なのか複数なのかということも不明だ。……しかし、それでもやはり、犯人を突き止めるための手段は他にいくらでもあったはずだ。……だが、あいつらは、よりにもよって最悪の方法を採用した。そして、俺が哀れなスケープゴートに選ばれたというわけだ」
そこまで言葉にして、俺は自分を見舞った理不尽を改めて思い返し、怒りより先に笑いが込み上げるのを感じた。怒りの手前のその笑いを、俺はわざと嘲りに寄せて、続けた。
「おそらく計画はこうだ。もし最初の被害が下着の損壊だったとしたら、その時点で二人は内部犯を確信し、任意のタイミングを待って被害を訴え、外部犯に見立てるために容疑者として俺を引っ張り出した。一方、最初の被害が窃盗だったとしたら少し厄介だが、それでも次の犯行が起きるまで待機し、内部犯の疑いが濃厚になった時点で俺を容疑者として差し出した。では、なぜ俺に容疑がかけられたのか……理由は幾つか考えられる。まず俺は放課後は大抵図書室にいて、特に金曜日は数学の宿題のために遅くまで残っている。森は俺と同じクラスだし、村上も俺と顔見知りだから、その行動パターンを把握していてもそこまで不思議はない。さらに重要なのは、無実の人間を容疑者として差し出すにしても、冤罪のまま話が進んでは困るわけだから、少なくとも自分のアリバイをしっかり証明できる人間でなければならないということだ。その意味で村上は、中学時代の俺を知っているからな……。俺に白羽の矢を立てたのも理由のないことではないだろう」
視界の周辺が少し曇り、周囲の気配が遠のいていく。推理の線が頭の中で次々につながって、その勢いのまま語りが自走する。
「そう考えると、あの時間に俺が図書室にいることが確定していなければならないわけだから、結果論的ではあるが、やはり一回目の被害は盗難ではなく損壊で、二回目の被害はそれ自体が虚偽であった可能性が出てくる。そもそも、もし外部犯を本気で疑っていたのなら、『次に来るかもしれない』不審者を延々と見張り続けるという選択は、普通に考えて現実的ではないし、何より、退屈すぎる」
それに、と、俺は念を押すように、やや語気を強調しつつ付け加えた。
「十中八九、村上は野球部員だ。あのときはまだ、野球部は校庭で練習をしていた。つまり、村上が敢えて金曜日の今日を選んで部活を休み、その曜日はいつも学校に残っている俺を犯人に仕立てようとしたのでなければ、この偶然に納得のいく別の説明を与えなければならない……。ともあれ、二人は俺を法廷に引き出すことに成功した。そこでの展開は、改めて説明するまでもないだろう。俺は予定通り自分のアリバイを証明し、あの場は一旦お開きとなった」
没我が俺の舌を滑らかにし、文脈が前のめりになる。俺はその勢いに、抗わず乗った。
「……しかし、最大の謎はまだ残されている。なぜ、何のために無実の人間に濡れ衣を着せるなんてことをしたのか、という謎だ。その答えも、二人が内部犯を疑っていたのだとしたら納得がいく。無実の第三者を立て、部員たちの反応や動揺を観察すれば、内部の犯人を炙り出す手がかりくらい掴めるかもしれない。実際、村上がわざと矛盾する言動を見せたのも、周囲の動揺を誘い、その揺れを測るためだったと考えれば辻褄は合う」
そこでいったん言葉を切り、俺は肩をひとつすくめた。風が再び強まり、上屋の端がまたも軋んだ。
「犯人が複数いた可能性だが、これはかなり早い段階で排除できたはずだ。村上たちがどんな手を用意をしていたかは分からないが、最初に赤羽さんが俺への疑いを部員に問うた際、赤羽さんと葛西さん以外の部員は、はっきりとは言わずとも、俺への猜疑を暗黙のうちに肯定していたからだ。もし彼女たちが事件にまったく関与していなかったとすれば、村上と森の証言以外に判断材料がない以上、まさか二人が嘘をついているとは思わないだろうから、これは無理もないことだ。一方で、彼女たちこそが真犯人だったとしても、二回目の犯行が虚偽だった以上、『本当に俺が犯人なのか』、あるいは『なぜ村上たちが嘘をついているのか』と言うことを、まずは確認しようとするはずだが、その色は見えなかった。絶対にそうだとは断言できないが、あの時の皆の反応を見る限り、これはある程度整合的だ」
徐々に話す速度が上がり、それにつられて心なしか語気も強まっていく。
「犯人が単独だった場合も、状況はそれほど変わらない。二回目の被害が虚偽であり、目の前に思わぬ容疑者が差し出された状況なら、後ろ暗いことがある人間ほど、『本当にその容疑者が犯人か』あるいは『なぜ村上たちは嘘をついているのか』ということが気になって仕方ないはずだ。それだけではない、その容疑者とされる人物が、村上たちと結託している可能性も捨てきれない。もしかすると、真犯人は容疑者の素性を先んじて確かめようとしたかもしれない……。このとき、真犯人には慎重さが求められる。なぜなら、目の前の容疑者の嫌疑を肯定するか否かという判断は、すなわち事件を部内だけで処理するか、あるいは外部まで巻き込むかという選択にも直結しているからだ。犯人が内部の複数人による犯行だったとしたら、犯人同士で話し合って妙案でも出さない限りは、その場はよくある部内のいざこざとして内々に片付ける方へ仕向けるのが安全だ。警察はもとより、外部の介入を独断で歓迎することはできないだろうからな」
俺はほとんど息継ぎすら忘れて、喉に熱が差した。短い咳で一瞬流れを切ると、すぐに前方へ語りを押し戻した。
「一方で単独犯の場合は、自分の犯行が知られていないのなら、目の前に容疑者がいるのを良いことに、事件を外部に広げて捜査の焦点を発散させることも、選択肢として残して良い。いずれにせよ、目の前の容疑者の素性が分からない以上は、すぐには断定し難い。つまり、『内部だけで処理するか外部に出すか』という逡巡を見せる時点で、その当人は自分の事件への関与を暗に仄めかしていることになる。もしそいつが真犯人なら、事態が明確になるまで判断を留保することは理にかなっているわけだからな。逆に完全に無関係なら、冤罪を気に掛ける理由はそこまでないわけだ」
自分の声に、かすかな震えが混じるのが分かった。夜気が乾いた喉に刺さる。
「そして極めつけは、村上が最後に口にした『警察』の一語だ。内部か外部かという観点で言えば、警察の介入は『外部を巻き込む』という意味での最終手段になる。村上がその札を切った時点で、すでにアリバイを示し終えていた俺の無実はほぼ確定的だった。内部犯を前提にすれば、真犯人を含む部員側から見て、これ以上無闇に外部を巻き込むことのメリットはほとんどない。例えば部室には水泳大会のポスターがあったが、警察沙汰になれば練習停止や出場見合わせ、ひいては推薦や内申にも影が射す。影響は部員全員に及びかねない。それが部内いじめなら尚更、責任は部そのものに降りかかる。それでも赤羽さんは村上の提案に頷いた。勿論これは、赤羽さんの部長という職責で説明できる。ほかの部員が何も言わなかったのは、そもそも内部犯の線を思いもしなかったからだとしたら、その無関心な態度も自然だ。その訴えは正当な権利であって、自分たちに不利益を及ぼすものではあり得ないからな。では、責任感にも無関心にも還元できない反射を見せたのは誰だったか? 赤羽さんの人柄を踏まえれば、そもそも容疑者のリストには含まれていたかは怪しいが、とにかく外部化をはっきり退けた人物は一人に絞られる……」
そこまで言い切ったところで、俺はようやく我に返った。
隣では葛西が静かに泣き始めていた。
「……もちろん、今話したのはあくまで推測にすぎない。村上と森が本当にそうした意図で騒ぎを起こしたとしても、それだけで犯人を断定できるわけじゃないからな。それでも、二人が騒ぎを起こしたこと、偽証までして俺を犯人に仕立てようとしたことは恐らく事実だ。にもかかわらず、俺のアリバイをあっさり認めてしまったこともまた事実だ。これら一連の不自然な事実を突き合せれば、あり得そうな真相の輪郭線は自ずと結ばれてくる」
冷たい夜風がまた吹き抜け、俺は軽く身震いした。もしかすると汗をかいたのかもしれない。背中がずいぶん冷たい。
「村上と森の本音は、怪しい人間を絞るだけでも十分だったんだろう。少なくとも、犯人が複数存在するとか、部員全員が森のいじめに加担しているとか、そういう最悪を否定できるだけでも、二人にとっては価値のあることだ。その後は、マークした人物が尻尾を出すのを待てばよいし、以降何も起こらなくなるのであれば、それはそれで良い……。そう考えれば、俺が最後に切った啖呵は、真犯人にとってはずいぶん具合の悪いものだったかもしれないな。俺が大人しく引き下がれば、何事もなく済んだかもしれないのに……。まあ、赤羽さんの反応を見る限り、どのみち穏便には済まなかったかもしれないが」
俺が葛西の方を見ると、それに応じて彼女は袖口で顔を拭った。それでも肩の震えまでは止まらないようだった。
俺は葛西のこの様子に、少しく同情心を煽られたが、罪悪感は抱かなかった。
その涙は俺のせいではないと分かっている。
「もっとも、森はすぐに犯人を追い詰めようとしていたわけでもなさそうだ。何しろ、彼女自身から『大事にしないでほしい』と言い出したわけだからな。真犯人にしてみれば、これは必ずしも悲観すべき状況ではない。素性が割れても、森に頭を下げて当事者間で収めれば、赤羽さんも深追いはしないはずだ」
俺はちょっと顔を歪めた。自分でも名付けにくい感情が、表情の端に出たのだ。彼女がそれに気づいたかどうかは分からない。
「だが、やっぱり俺としてはひとつ言っておきたい。こんな馬鹿げた計画に、無関係の人間を引きずり込むやり方は間違っている。森も被害者面だけでは済まない。まあ……、共感するというほどではないが、あんな性根の女に一杯食わせてやりたいと思った奴の気持ちも、理解できないわけではないということだ……」
俺が最後の言葉を言い終えると同時に、列車がゆっくりとホームに滑り込んできた。
ブレーキの鈍い音が一時ホームに満ちた後で、エアバルブの吐息が夜を割った。
「とにかく、俺の“役目”はここまでだ」
そう告げて俺は立ち上がった。背中がさらに冷たくなる。
その背後の冷感に彼女の気配が混ざるのを感じながら、俺はホームを後にした。
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