Zombie stomp (2)

 ヨルと平は呆然としていた。

 パトカーの赤色灯が、押し寄せた野次馬の顔を赤く照らしていた。群衆の隙間から垣間見えたのは、件の社長だった。彼は立膝をついた状態で口から血を流し、宙を仰いでいた。その横では派手な女が狂ったように叫んでいた。警察官が話しかけていたが、社長は何の反応も示さず、女はまともに話が出来ない状態だった。二人はやがて救急車に乗せられた。

「間に合わなかったか……」

 呟いた平の横で、ヨルが舌打ちをした。しかしながら平は、複雑な心境だった。ミサキを失うのは辛いことだし、学校にとっても痛手だ。だが、彼女はいずれこうなる運命だったのではないのか。彼女は、彼女の宿命を果たしたのではないのか。

 と、群衆の隙間を縫うように、見慣れた人影が出てきた。平の顔がパッと明るくなる。

「ミサキ先生!」

 平に声を掛けられ、ミサキはハッと顔を上げた。その顔は涙で乱れていた。彼女はゆっくりと平たちに歩み寄る。

「平先生、ご心配をお掛けしてごめんなさい。だけど、私はまだ死に切れないみたいです」

 そう呟くと、いつもの淋しい笑顔を浮かべた。


   ※ 


 突然現れたミサキの姿に、男は当惑している様子だった。隣で男の腕に手を回している若い女は、突然足を止めた男の顔をボンヤリと見ていた。彼女にはミサキの姿が見えていないのだ。

「久しぶりね。私のこと、覚えていて下さったみたいで光栄です」

 ミサキはそう言うと、男に微笑みかけた。だが、ミサキが思っている何倍も、男は下衆だった。

「あん? 誰だね、アンタは」

 その一言は、ミサキに何の驚きももたらさなかった。代わりに彼女は、若い女をチラリと見た。


 そう、この人はこういう人。

 あなたもいずれ、忘却された女の一人になるだけ。


「あはは、そうよね。覚えてないですよね……貴方らしいわ」

 ポツリこぼすと同時に、ミサキの背後から黒い影が這い出てくる。地面からうねうねと盛り上がるそれが目の錯覚ではないと分かると、男は途端に顔色を失った。

「な、何だお前は。まさか、あのメギツネの仲間か?」


 あら、あんなに可愛いクーちゃんをメギツネ呼ばわりなんて、このクソ野郎……


 せり上がる影はみるみる六人の人型となり、男に迫っていく。彼はようやく自分に相対している女がこの世のものではないことに気が付いたのだろう。ダンディズムに輝いていた顔が一気に血の気を失っていく。彼は慌てて愛人の手を振り払うと、踵を返した。

 だが、逃亡は三歩で終わった。ドンッと何かにぶつかり、男が顔を上げる。そこには既に黒い影が回りこみ、男を見下ろしていた。男は声にならない叫びをあげ、再び踵を返す。と、すぐ後ろまで迫ったミサキと目が合う。有無も言わさぬまま、七人が彼を取り囲んだ。

「ま、待ってくれ。ああ、思い出した。その薄の幸そうな顔。そうだそうだ。あ、ユメカだろう。ガールズバーの……」

 不正解だった。

「本当に、救いのない人」

 ミサキの言葉を皮切りに、六体の影が何かを呟き始める。彼らの言葉は濛々として何を言っているのか聞き取れなかったが、男の頭蓋に響くそれは明確に怨嗟の念を彼の脳幹へと焼き付けていく。

「や、やめろ……」

 ミサキも六人に加わり、絶望を口にし始める。彼女の言葉がボンヤリとしていた六人の声に輪郭を与え、次第に凶暴な呪怨となって男の精神を蝕む。

「た、頼む。やめてくれ。やめてくれ……」

 その懇願をミサキが受け入れるはずもなく、七人は呪詛を吐き続ける。男の脳内で呪いが共鳴し、共振し、頭蓋を鳴動させる。脳の皺の隅々にまでどす黒い呪詛が染み込んでいく。男はとうとう膝を折り、白目を剥き始めた。

「ご、ごめ、なさ……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 ミサキは泡を吹き始めた男の姿を見てほくそ笑む。人を呪い殺すということに快感を覚え始めていた。

 なんだ、こんなに簡単なんだ。

 なんだ、こんなに気持ちいいんだ。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごべんなさいごべんなざいごえんなあいおえんなあいおえんああいおえんああい」

 男の活舌がおかしくなっていく。ミサキがふと見ると、半開きになった口から舌が飛び出していた。そしてゆっくりと、男の前歯が舌に向かって閉じられていく。ミサキは冷たい笑みを浮かべたまま、その様子を見ていた。

 

 この人が死ねば、私は七人ミサキを抜けることになる。

 そうしたら、私はどうなるのだろうか。

 成仏したとしても地獄行きか。

 それとも、またこの世を彷徨い続けるのだろうか。

 まあ、いずれにしても、私にはお似合いかな。


 私なんて、どうせ……


「ミサキ先生は、凄くいい先生だと思います」


 それは突然のことだった。ふと、平の顔がミサキの脳裏に浮かぶ。彼女は懸命にその不愉快な笑顔を振り払おうとしたが、無駄だった。それどころか、次から次へと学校でのことが思い浮かんでくる。自分を教員として迎え入れてくれた教頭や同僚、食堂に行くとなんだかんだ話しかけてくれる小池さん。そして何よりも、自分の酷い授業をサボらずに受けてくれていた生徒たち……


 何なのよ。今さら何を考えているの、私は……

 もう消えるって決めたじゃない。

 年貢の納め時だって諦めたじゃない。

 何を、今さら……


 今さら……


「ごじぇんざざい……ごげんざじゃい……」

 湿った濁音がミサキの耳を突く。男の舌に前歯が食い込み、ダクダクと血が流れだしていた。

 男が声を発するごとに、ジュブジュブと薄赤い泡が口の周りに溢れる。

 真っ赤な海の中、千切れかかった舌が奇妙な動きでのたうち回る。

 連れ添いの女が悲鳴を上げる。集まってきた野次馬が騒ぎ出す。


 私は……


「やめなさい」

 

 ふと、聞き覚えのある声が囁いた。優しい声。ミサキはハッと我に帰る。

「やっぱりダメッ!」

 彼女は咄嗟に叫んでいた。

 六人の影が一斉に怨嗟の声をやめ、ミサキの方を見る。自分でも気付かぬうち、ミサキの頬には幾筋もの涙が流れていた。彼女は必死に頭を下げると、言った。

「ごめんなさい。でも、まだ私……まだ……」

 六人は口々に何か言い合っていたが、やがて呆れたような溜息をつくと、ふっと姿を消した。

 ミサキはしばらく頭を下げたままの体勢だったが、ふと視線を感じて体勢を戻す。

 だがそこには馬鹿な男と馬鹿な女と馬鹿な野次馬がいるだけだった。


   ※


「んだよ、心配させやがって。死ぬほど走って損したぜ」

「でも良かった。これからもミサキ先生の授業が受けられるじゃないか」

 平の言葉にヨルが青ざめる。ミサキは苦笑して「頑張ります」と小さく言った。

 やがて喧騒が落ち着き、赤色灯とサイレンの余韻が消えて無くなると、野次馬たちはめいめいの方角へと散り始めた。

「じゃあ、僕らも帰りますか」

 平の声に二人が頷き、歩き始めたときだった。

「平先生! 平先生じゃないですか!」

 背後から声が掛けられた。聞き馴染みのある声。そして、平があまり聞きたくない声でもあった。平が振り向くと、白池が嬉しそうに手を振っていた。

「いやあ、奇遇ですね」駆け寄りながら、白池は頭を掻く。

 ふと、かすかに厭な臭いがした。平の全身が引き攣る。

「実は、サークル仲間で飲み会に来てまして。いやあ、飲んだ飲んだ」

 嘘だ。平は胃がせり上がるような感覚を覚えた。酒の臭いなどしない。だいいち白池は下戸で、一滴でも飲めば顔が真っ赤になる。だが、彼の顔面はいつもと変わらぬ小麦色だった。

――どうして……どうしてそんな嘘をつくんだ?


 また臭いがした。今度は強烈に、平の鼻腔を突く。途端、全身が粟立つ。


 犬の臭い……


 拙い!


 平が本能的に危険を察知した瞬間、白池の背後から何かが飛び出した。それは恐ろしい速さで平に襲い掛かる。見開いた平の目に鋭い爪のようなものが映る。振りかざされた爪が容赦なく振り下ろされる。突然のことに、平は為す術もなく固まっていた。

 強烈な衝撃が走り、平は地面へ叩きつけられた。だが、爪で切り裂かれたような痛みは無い。その理由を、平は絶望とともに理解した。仰向けに倒れた彼の体に、ミサキが覆いかぶさっていたのだ。そしてその背中は、バックリと割れて……

――え?

 先を歩いていたヨルが、異変に気付いて駆け寄ってくる。平は頭が真っ白になっていた。途端、白池が狂った哄笑をあげた。

「アハハハアハハハハアハハアハアハアハハハハハハハ! 平先生、また他人に庇ってもらっちゃって。アハアハハ、全く情けないですね、先生は! 他力他力、他力本願の人生ですねぇ!」

 地面に冷たいものが広がっていく。それが逃げ出した平自身の体温なのか、それともミサキの体から去り行く何かなのか……平にはもはや考えることが出来なかった。全ての思考が停止していた。

「おいコラてめぇ! 何やってやがる!」

 白池はヨルを一瞥すると、嘲笑を浮かべて指を一つ鳴らした。途端、その場に残っていた野次馬たちが、ふつと糸が切れた操り人形のように頭を垂れる。やがて彼らはやにわに顔を上げると、血走った目で涎を垂らしながら歩き出した。ゆっくりと、ふらふらと、しかし狙いを澄ました足取りで平とミサキの方へ向かっていく。一帯に強烈な犬の匂いが充満していく。

「んだとぉ! 何が起きてやがる!」

 喚くヨルを尻目に、白池は野次馬の群れの中へと姿を消した。

 白池を見失ったヨルは平とミサキの元へ駆けつけようとしたが、次々に正気を失った野次馬たちが行く手を阻む。ヨルは野次馬たちを殴り飛ばし投げ飛ばし進んでいったが、彼らはゾンビの如く次々と湧いてくる上、倒した者もすぐに復活してくるのでキリが無い。とうとう平とミサキは完全に囲まれた。無数の手が二人に伸びる。ヨルの咆哮が響く。

 と、ヨルの目の前に巨大なものが落下してきた。次の瞬間、辺り一帯を揺るがすほどの地響きとともに、土埃が舞い上がる。失われた視界の中、何かが転がる轟音が鳴り響く。その合間、立て続けに何かが衝突する音と低い断末魔、そしてドサリドサリと、何かが地面に打ち付けられる音が混ざる。

 やがて土埃が落ち着き、視界がぼんやりと晴れてくると、地面に伸びた野次馬たちの中に巨大な車輪の影が浮かび上がった。その両輪から生えた右腕には平、左腕にはミサキが担がれていた。

「ワッカ! てめえ、余計な手出ししてんじゃねぇぞ!」

 ヨルが埃に咽びながら叫ぶ。

「とにかく今は退散だ、ヨル」

 再び起き上がってきた野次馬を蹴散らし、輪入道がヨルの目の前スレスレを駆け抜ける。ヨルが不本意極まりないという顔で車軸に飛び乗るのを確認して、車輪は一気に回転数を上げた。

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