Dear agony (1)
重苦しい空気が保健室に満ちていた。誰も口を開こうとしなかった。クズハ、ヨル、篠田の三人が沈んだ顔でミサキの横たわるベッドを囲んでいる。ワッチは見ていられないのか、入り口付近の壁に寄り掛かって俯いていた。平はいなかった。戻ってくるなり、教頭とカガミによって茫然自失のまま連行されたのだ。
ミサキの背中を切り裂いた傷は深かったが、クズハの処置によって一命は取り留めていた。だが、ベッドの上に横たわるミサキは余喘をかこつのみで、目を開こうとはしなかった。
圧し掛かる空気を押しのけるようにして、クズハがポツリと漏らす。
「……犬神の毒気が回っています」
瞬間、篠田がギリ……と唇を噛んだ。
「治せねえのかよ」
ヨルの言葉に、クズハが頭を振った。
「私に治せるのは怪我や病だけ。犬神というのは人間が作為的に作りだした呪詛です。残念ながら、私はそれを解く術を持ち合わせていません。そして……」
クズハは苦い顔をすると、付け加えた。
「以前、平先生を襲った教え子の母親だという女性……恐らく彼女も、犬神の毒に冒されていました。ミサキ先生も幽霊とはいえ、もとは人間。あの女性と同じようになってしまう可能性も……いえ、彼女の持つ怨念と犬神の毒気が結びつけば、もっと恐ろしい事態になるかもしれません」
ヨルは目を見開いたまま絶句した。ワッチの小さな溜息が響く。
「僕がやるよ」
篠田が不意に口を開き、そこにいた全員が彼を見た。
「撫で物……いわば形代を使って穢れを払う儀式は僕の領分だ。それに……」
篠田はまたしばらく唇を噛んでから、付け足した。
「それに、これは僕がやらなきゃいけないことなんだ」
彼の口調はいつになく静かだった。ヨルがにじり寄る。
「あ? テメエみたいなヘタレに何が出来るんだ? それに俺はテメエのことなんか、これっぽっちも信用してねえんだよ。この場所で妙な術なんぞ使わせるわけにはいかねえ」
胸ぐらを掴んで凄むヨルを、篠田が無表情に見つめ返す。空気が張り詰めたが、ふとヨルの肩に大きな手が置かれた。
「なあ、ヨル。そんなこと言ってる場合じゃないだろう。俺らに何も出来ない以上、そいつを信用するしかねえ。意地で命は助からねえぞ」
ヨルはしばらく黙っていたが、小さく舌打ちをして篠田を離すと、ワッチの手を振り払った。
「しくじりやがったら承知しねえからな……」
捨て台詞に、篠田は小さく頷いた。
決まるが早いか、篠田は準備に取り掛かった。懐には退魔用の形代しかないため、クズハに半紙をもらって撫で物用のものを作らねばならなかった。事務机に向かい、手際よく長方形に近い人型を切り抜いていく。そして人型に向かって何やらブツブツと唱える。しばらくすると、次第に形代がボンヤリと淡い光を放ち始めた。
篠田は一つ深呼吸すると立ち上がり、ベッドへと歩み寄った。皆が固唾を呑んで見守る中、彼は呪を唱えながらクズハの体に形代をかざしていく。うう……とミサキが小さな呻きを漏らす。しばらくして、クズハの体からどす黒い
――よし、上手くいっている。あと少し……いや、ダメだ、気を抜くな。
篠田が緩みかけた気を引き締めようとした、その途端……
保健室に犬の臭いが充満した。
次の瞬間、篠田の体は壁まで吹き飛ばされていた。膨張した形代は彼の手を離れ、空中で決裂した。解き放たれた瘴気がベッドの方へと舞い戻っていく。その先では、ミサキがベッドの上に立っていた。いつの間に立ち上がったのか、誰にも見えていなかった。
グルルルル……と、獣の唸りが響く。それは明らかにミサキの喉から聞こえていたが、彼女が発したとは信じ難い低い咆哮だった。彼女は肩をそびやかせ、俯いて唸り声を上げていたが、やがて四つん這いになると、目にも止まらぬ速さで篠田に飛びかかった。
上体を起こそうとした篠田があっと言う間に組み伏せられる。ミサキは少年の頭を両手で掴み、爪をめり込ませると、彼の顔をねめつけた。ミサキの顔はまさに狂犬と化していた。眉間から鼻筋にかけて深い皺が刻まれ、だらしなく開いた口からは涎が垂れている。強烈な唾液の臭いがその場にいた全員の鼻を突いた。
「馬鹿が! 言わんこっちゃねえ!」
ヨルが駆け出し、ワッチもそれに続く。だが、篠田がそれを掌で制止した。
「ダメだ。これは僕の仕事だ。僕がやらなきゃならないんだ」
「うるせえ! そのザマで意地張ってんじゃねえぞ。それとも何か? チビやワッカへの罪滅ぼしのつもりか? それならとんだ見当違いだぜ」
「違うんだ!」
やおら篠田が叫ぶ。
「この子は……この子は、僕が……」
篠田の声が震えていた。ギリギリと食い込む指の間から、小さな雫が漏れる。その異様な迫力に、ヨルとワッチは思わずたじろいだ。それでもなお食って掛かろうとする二人をクズハが制する。
「ああ言っているのです。彼に任せましょう」
静かな口調だった。ともすれば冷徹とも取れるその態度には、しかしながら、どこか確信めいたものがあった。
「畜生、何だってんだ。死ぬなら勝手に死にやがれ」
吐き捨てたヨルに向かって、篠田は親指を立てた。
と、かっこよくキメてみたものの、特に策はなかった。もはや撫で物に使う形代はない。懐にはあと一枚だけ攻撃用の形代が忍ばせてあったが、それを使えばミサキのことも傷付けることになる。それは避けなければならなかった。あくまでミサキの体を動かしているのは犬神の邪気であって、彼女自身はまだ瀕死状態なのだ(幽霊に瀕死という表現が適切かは分からないが)。今攻撃すれば、彼女を傷付けるだけでは済まないだろう。
――さあ、どうしたもんかな……
考えている間にも、信太の頭には圧力が掛かっていく。恐ろしいほどの握力だった。篠田はミサキの腕を掴んで何とか耐えていたが、彼の非力な腕が限界を迎え、頭蓋骨が砕かれるのは時間の問題だった。しかしながら、狂犬はその時間を待つことさえ我慢できないらしい。ミサキは再び信太の顔から首筋にかけてをねめまわすと、ネチョリと音を立てて口を開いた。
――クッソ……万事休すってやつですか
篠田は身を捩り、首筋に噛みつこうとするミサキから何とか逃れようとする。だが、頭を抑えられた状態では大した抵抗も出来ない。首筋に生暖かい息がかかり、彼は目を閉じた。と……
「ウガアァァァッ!」
けたたましい咆哮が耳をつんざく。篠田は最期の時を覚悟して目を閉じた。が、その首筋に痛みがやってくることはなかった。それどころか、頭と体に掛かっていた圧力がふと消える。しばらく間を置いて、再び強烈な咆哮が響く。
――いけない! まさか、他に標的を変えたのか?
信太は咄嗟に目を開いて立ち上がった。
だが、そこには思いもよらぬ光景が広がっていた。
男。恐らくミサキと同じ幽霊なのだろう。華奢な初老の男がミサキを羽交い絞めにしていた。ミサキは尚も咆え、暴れまわる。男は明らかに非力で、彼女に振り回されながらも、必死に食らいついて離れようとしなかった。
男が、一瞬だけ信太に顔を向けた。
「少年、私を形代にしなさい」
唖然とした信太の前で、彼は再び振り回され始めた。
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