水晶の見る夢6
おどろかせようと、隠れて様子をうかがっているのだと考えた。
これまでにもそういういたずらをすることがあった。足音を消して背後に回り込んで、ひんやりとした手で目隠しをする。
丘の上から周囲を見回す。見慣れた風景。草が揺れる原っぱと、人を寄せ付けない森が延々と広がる。
草原の隅々に響き渡る声で名前を呼ぶ。返事はない。
だんだんと気持ちが焦る。
斜面を駆けおりて、走り回る。隠れるような場所は限られている。大きな岩の影や、樹木の幹に出来た空洞の中を探した。
どこにも彼女の姿はない。影さえも。すべてが幻のように霧が少女を連れ去ってしまった。
(もしかすると、一人で森に入ったのかも)
ぼくの脳裏に、切実に帰りたがっていた姿が浮かぶ。向こう側に光が見えると話していた。
あるとすれば、森の奥深くにあるという秘密の泉だ。一年中、清らかな水が湧き出している。ずっと以前に少女が話してくれた。上流に向かって、森を歩けばたどり着くはずだ。
迷路のような森と対峙する。
食事の準備をしていたおじいさんが慌てた様子で駆け寄って来た。
ぼくの腕を掴んで引き止める。老人とは思えない力強さにびっくりした。
「大人の足でも歩くのも困難な樹海です。二度とこちら側に戻れなくなります。雨水の浸食によって出来た縦穴が、下草に隠れていたるところにあります。まるで落とし穴のように口を開けていて、地下深くに繋がっている。地面の下は、光の届かない場所です。うまくよけたとしてもすぐに方角を見失い、暗闇に取り込まれてしまいます。どこまでも暗闇が続く世界です。助けを呼ぶ声も吸い込まれる。そうなれば手の施しようがありません」
「あのコがいないんだ、どこにも。森で迷子になっているのかも」
「一足先にあちらの世界に帰りました。いまごろ、家で両親にたくさんあまえております。母親が作ってくれた料理を食べて」
ぼくはホッとした。
一言ぐらい挨拶してくれればよかったのにと、残念に思う。
青いベンチに座り、おじいさんが淹れてくれた麦茶に口をつける。いつもより苦い気がした。草原の丘がなにかいいたそうにぼくを見下ろしている。
「あとしばらくの辛抱です。地下深くにある水晶が総力をあげて計算しています。休みなく、台風よりも猛烈な勢いで。耳をすませばあなたにも聞こえるはずです、こんこんと水の流れる音が」
ためしに目を閉じて耳に意識を集中してみた。
聞こえる。頭の奥底で、よどみなく流れる音が。
それはすぐそばを流れる、小川の音にしか思えなかった。
「なにをしているの」
「ゆで卵を生卵に戻す作業です。二人同時は骨が折れる。症状の軽いほうから順番です」
おじいさんは、ゆっくりと目じりにしわを寄せて笑った。乾いた瞳の奥に、ほんのわずかに瑞々しさが残っている。
「そんなことが可能なの?」
「分子と分子の結合をひとつひとつ解読して、細胞を再構成する。砂漠に落ちたゴマツブを見つけるようなものです。演算処理の桁がいくつあっても足りない。蓄えてきた力を使い果たすことになるでしょう。すべて水晶の望んだことなのです。もしかすると悠久の時を待ち続けるのに飽いだのかもしれません」
ぼくは、ふーんと答えた。
ゆで卵を生卵に戻すのは、普通ではとても難しいということだけわかった。
ぼくは、あちらの世界で少女と会う約束したことを、おじいさんに話した。
「申し上げにくいのですが、ここで起きたことはすべて忘れてしまいます。きれいさっぱり。まるで砂浜に書いた文字のように。そういう決まりなのです」
「すごくまずいよ。絶対に怒られる」
「そのうち忘れたことも忘れます。気を病む必要はありません」
それはとても寂しい気がした。
草原でじゃれ合って遊んだことも、寝転がって星を眺めたことも、協力して花かんむりを作ったことも、すべてがなかったことになる。記憶が消えるということは、繋がりが消えるということだ。ふたたび出会うことがあっても、知らない相手だとしか思わない。
「二度と会えない?」
「会えるかもしれないし、会えないかもしれない。正しい道を進めば、いずれ道は交わります。大切なことは、むやみに森に入らないことです」
「顔も名前も覚えてなかったら、だれだかわからないよ」
「記憶はなくとも体は覚えています。姿を見れば目を離せなくなり、指を触れれば電流が走ったように痺れる。人生の踏切のようなものです。意識しないようにすればするほど強く意識する。なん人も抗うことはできません」
おじいさんのいったとおり、数日後には、少女の顔も名前も忘れてしまっていた。何度も復唱して覚えていた学校や住所もすべて。
ここにもう一人いて、親しみのある声でぼくの名前を読んでた気がする。ぼくと同じ年頃で、黒い髪をした面影だけうっすらと。
たまに楽しかった気持ちを思い出して、よけいに寂しくなる。
時間を忘れて話したり、いっしょに木の実を拾って歩く相手はいない。ぼくだけ取り残されてしまった。
昼には本を読んだり、暇つぶしに丘の周りをランニングしたり、たまにやってくる動物たちを観察した。
そうやってぼくは、ひとりぼっちの時間に馴染むようになった。
夜には星空を眺めた。宇宙が音のない世界であることを教えてくれる。話しかけても、なにも答えてくれない。それか返事が届くまで時間がかかりすぎているか。流れ星が光の線を引いてスッと消える。
おじいさんは、ぼくが興味のありそうな話をいろいろとしてくれた。これ以上、寂しくならないように気を使ってくれてたと思う。おかげで、ぼくも気がまぎれたというか、必要以上に孤独を抱え込むことはなかった。
歴史上の人物の話や恐竜の話。恐竜たちが絶滅して、ネアンデルタール人はどこに消えたか。摩擦がないと人は歩くことができない。お風呂の栓を抜いた時に出来る渦の回転は、北半球と南半球で逆になる。
暗くてこわい戦争の話も。
たくさんの人が意味もなく殺される不条理さ。善人も悪人もない。上官の命令、殺さないと自分や味方が殺されるという理屈だ。一番恐ろしいのは、感覚が麻痺して異常な状況にすこしずつ慣れていくことだ。自分が自分でなくなる。
兵士は、田舎出身の若者が多かった。みんな地元の期待を背負って出兵したわけだ。
冬になると凍結する河を挟んだ先のロシア軍がいつ侵攻してくるのかわからない、死と隣り合わせの毎日。そんな中、月明かりのない夜に偵察に出た雪原で見上げた星空の美しさが、いまも忘れられないと教えてくれた。
気に入ったのは、ウィリアム・ハーシェルとキャロラインの兄妹の話だ。
「昔の人は、太陽系が天の川の中にあるのを、どうやってわかったんだろう。外から眺められるわけないし」
「観測して、星をひとつひとつ記録したのです。星の数が多い方向が銀河の中心だと考え、ちょうど円盤を横から眺めている形だと推測したわけですな」
「夜空の星を全部? どれがどの星か見分けるだけでも難しそうなのに」
「地道でとても根気のいる作業です。献身的な協力がなければ難しかったでしょう。もともと勤勉で几帳面な性格をしていたのです。キャロラインは最高の助手となり、観測のたびに、正確な日時と位置、星の数、明るさなどを手作業で記録しました。そうやって、星の分布が徐々に形になっていったのです」
ドイツの音楽一家に生まれたキャロラインは、幼少期のチフス(どういう病気かは知らない)によって成長が止まり、とても不遇な子供時代を送っていたみたいだ。10人兄弟で、家では女中のような生活をして、厳しい母親の方針でまともに勉強をする機会も与えられなかった。母親は母親なりに彼女の将来のことを考えていた。考えがすこし古かっただけだ。
4番目の兄のウィリアムは、そんな妹を見て不憫に思ったのだろう。キャロラインに音楽を教えて(ウィリアムはプロの音楽家だった)、自分の暮らすイギリスに連れていって同居し、いっしょに音楽活動をはじめた。
ウィリアムは多才で、天文観測を趣味にしていた。当時、最先端の科学だ。キャロラインは、自然と観測を手伝うようになった。
没頭して望遠鏡を眺める兄の隣で、コツコツとノートに記録をつけている、キャロラインの実直で小柄な姿を想像した。
ぼくがすごいなと思うのは、ウィリアムが同情するだけでなく、妹が自立できるように援助し続けたことだ。キャロラインは、見事その期待に応えた。
兄妹で、協力してなにかを成し遂げるのは、音楽家として成功するよりも素晴らしいことだと思う。
ぼくにも、妹がいるけどちょっと想像がつかない。いつか、そんなふうになれたらいいのになとは思うけど。ぼくは、いい兄になれるだろうか。
「よっぽど兄妹の仲が良かったんだ」
「ウィリアムは天王星を見つけたのです。フランス革命の8年前に。後にキャロラインは王立天文学会から金メダルを授与されました。独身を貫き、97歳で天寿を全うしました」
「死ぬまで星を眺めてたわけだ。兄が死んでも一人きり」
夕方になると、ランタンを並べて灯りをつけるのがぼくの仕事になった。
まだ明るいうちに布巾で煤の汚れを拭いてピカピカに磨いて燃料を充填する。燃料の缶は、おじいさんが定期的に補充してくれる。芯が短くなっているのは横のノブを回して、調節する必要がある。
森と原っぱの境界に等間隔で置いていく。ランタンは全部で28個あった。28はとても縁起のいい数字ですと、おじいさんがいった。完全数で月の公転周期だ。
マッチを使い、火を順番に着けて回る。火をつけてからランタンを置くのではない。先にすべての配置してから灯りをつける。理由はとくにない。これは儀式だ。弱い炎は、風もないのにユラユラと揺れる。ランタンの灯りに照らされ、森の闇が怯えたように後退する。
草原の丘に横になって、たくさんの星を眺める。いっしょに星を眺めてくれる人は、もういない。たぶん、キャロラインも似たような気持ちだったんだろうなと、ぼくは思う。
いつのまにか眠くなって、朝日とともに目を覚ます。ランタンの炎はすべて消えている。1日の役目が終えたように。
毎日が同じことの繰り返しだ。時間の流れが止まったみたいに穏やかな日々。
涼しい風の日。ランタンを磨いていると、名前を呼ばれたような気がした。
雲の切れ間を横切るようにして、見覚えのある鳥が滑空していた。一度見たら忘れられない。光沢のあるオレンジ色の翼に長い尾羽、鋭いくちばし。
丘の天辺に着地した灰色鳥は、まっすぐにぼくを見た。いまにもしゃべりそうな雰囲気。よく見ると、目のところに流星のような模様がある。
美しいマントのような翼を広げる。熱風が顔に当たるのを感じる。一瞬の静寂のあとにけたたましい鳴き声をあげた。
ぼくの頭の奥で小さな泡が弾けるような音がした。
「あちらに戻る準備ができたようです」
灰色鳥が北の空へ飛び去るのを見届けたあとで、おじいさんが話しかけてきた。
「ぼくが居なくなったら、おじいさんは一人ぼっちだ」
「見送るのがワタシの務めです。子供がいつまでも居ていい場所ではありません。動物たちもたくさん来ます。虫や花や星も。それに一人ではありません」
それを聞いてぼくは安心した。
おじいさんは大切な人と、いつまでも穏やかに暮らしていける。この森に囲まれた草原の丘で。夜になれば、その人と星空を見上げている。きっと永遠に。
「ありがとう。いままで面倒を見てくれて。ここに来てよかった」
「礼をいうのはこちらです。お二人は長年の夢を叶えてくださいました。ワタシは教師になりたかったのです。郷里にもどり、学問を広めたかった。学ぶことで生活の質を向上させる。子供の成長を眺めるほど、やりがいのある仕事はありません。さあ、早く行きなさい。両親が待っております」
「うん」
「お二人のためにとっておきの部屋を用意しておきました。気持ちのいい風の吹く、とても眺めの良い場所です。ほかの人間が入れぬよう、まじないをかけて」
「どこのことだろう」
「きっと気に入るはずです。それなりにカネはかかりましたが、たいしたことはありません。こう見えて普通の人より、ほんのすこし裕福なのです。どのみち使うあてのなかったカネです。ワタシにとっての道楽といいましょうか。思えば奇妙なものです。なりたいと思っていたものにはなれなかったのに、なりたくなかったものになってしまった。まるで川の流れに押されるようにして」
「もっと話せたらよかった。おじいさんの子供のころの話とか。忘れるのがもったいない」
「これから学ぶことも多い。新しい友人もできて、たくさんの出会いがあります。長旅は身軽にかぎる。昔を思い出すのは、ワタシのように頭が白くなってからでもできます」
「ひとついい? たぶん、もう質問することはできないから。この場所は天国なの? ぼくは河原で野球をしてた気がする。空が急に暗くなって、目の前に爆弾が落ちたみたいな衝撃のあとで気がついたらここにいた。あの岩の奥で、こっちの世界とあっちの世界が通じている」
ぼくは、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「天国がどのような場所が存じあげません。あるのかないのかも。ここは水晶が作っている夢の世界です。0と1の境界。夢うつつですな。体が軽く感じるのは、そのせいです。ここでは重みがありません。あるのは心の揺れ動きです。この世は、あらゆる事象が振動している。宇宙も物質も光も」
「ぼくは夢を見てる? だとしたら、おじいさんの正体は?」
「ワタシはこちら側の住人です。夢と現実を繋ぐ役割の。たびたび出入りしているうちに居心地がよくなった。しがらみを捨てて、重みを失いました。人生は泡のようなものです。我々は、泡に投影されている映像を見ているにすぎない。そう考えれば、辛い出来事もいくらか救われる。すくなくとも、自分を見失わない。素直な気持ちを大切に。あなたの感情はあなただけの物です。また会える日を楽しみにしております。探してみてください。存外、近くにおるやもしれません」
おじいさんは、フサフサの眉毛を揺らして笑った。
あたりが白くなって、光に包まれる。
体が急に軽くなって、吸い込まれるような不思議な感覚だ。
最後に、おじいさんがとても大事なことをいったような気がする。肝心な部分がうまく聞き取れない。声がだんだんと遠ざかる。
ぼくは、静かにまぶたを開いた。
早川沙織からの手紙 ブルー @fuma_yotarou
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