水晶の見る夢5
三人での生活がはじまった。
日の出とともに目覚め、夜には星空を眺めて眠る。電気もネットもないけど、退屈はない。毎日がキャンプみたいなものだと思えば楽しい。
食事は、おじいさんが作ってくれる。
ベンチから立ち上がり、大きな岩の向こう側に通り抜けるように消える。しばらくすると帰ってくる。古いリュックに新鮮な食材を詰めて。
メニューは、だいたい決まっている。シチュー・カレー・薄味のスープのようなもの。食材を洗ったり煮込んだりするのに小川の水を使う。
焚き火で燃やす枝や枯草は、ぼくと少女で拾って集める。まつぼっくりは着火剤として使い勝手がいい。
野菜がたっぷりで、肉は入っていない。素朴だけど、どれも心がこもっていて美味しい。
それにぼくも少女も、不思議とお腹がすくことはなかった。習慣として食事をする。寝る前に歯磨きをするのと同じだ。
原っぱに少女と並んで座って、しゃべりながらスプーンを使って食べる。行儀は悪いけど、ここには注意する親はいない。ときどき吹き抜ける風の音で、話し声がかき消される。話題は尽きることがない。
おじいさんは、ぼくらが食事をするのを眺めるだけで、ほとんど食事には手をつけない。
「年を取ると、あまり食べる必要がないのです。食べている姿を眺めているだけでお腹が一杯になります」と、柳のように眼鏡の淵に乗っかった眉毛(眉毛も真っ白だ)を揺らしてにこやかに話す。
昼間は少女と草原を駆け回って遊ぶ。影踏みをしたり、斜面を麻袋を使って滑り下りたり、丘のてっぺんから手作りの紙飛行機を飛ばしたりした。声を合わせて、歌を歌うこともある。どうやって遊ぶかは、少女のその日の気分によって変わる。ぼくは、それに従うだけだ。
かけっこ勝負は、大切な日課だ。時間はたっぷりとある。
いつものようにスタートから飛ばして、いつものように負けた。
インコースを塞ぐように意地悪をしても、読んでたみたいに外側をサッと追い抜く。運動神経の良さを認めないわけにはいかない。
「今日も私の勝ち。つぎはハンデあげる?」と、白いワンピースの胸を反らして勝ち誇った顔をする。そういう態度が憎たらしいぐらい似合っている。
あとすこしで勝てそうなだけに余計に悔しい。ぼくは、どうにかして鼻を明かしてやりたいと思う。
喉が渇くとベンチに行って、冷たい麦茶を飲む。麦茶は、いつでも飲めるようにヤカンを小川に浸してある。
いっしょに銀紙に包まれたチョコレートをくれる。おじいさんが子供の時代には、チョコレートのような甘いお菓子はなかったらしい。
少女は、受け取ったチョコレートを半分に割って片方をぼくに渡す。チョコレートは、ほっぺたが落ちそうなほど甘い。疲れが消えて元気が回復するような気がする。
「どうしたら勝てるのかな。毎回、あとちょっとなのに」
ぼくは、おじいさんに相談した。隣では少女が鼻歌を歌う。
「むずかしく考えすぎて、体に余分な力が入っております。気持ちを楽にして、走ることを楽しんでみてはいかがでしょうか。勝つよりも大切なことに気づくかもしれません」
ぼくは、がっかりした。具体的に勝てる方法を教えてほしかった。
午後は、木陰で本を読む。
おじいさんは、たくさんの本がある場所(それがどこだかぼくらは知らない)に出入りしていて、毎日いろいろな本を運んできてくれた。図鑑・児童文学・科学雑誌・伝記。古い本から新しい本まで。
少女も本を読むのが大好きだった。
ぼくらは読み終わった本の感想を話した。
少女のお気に入りの一冊が赤毛のアンだ。
「失敗しても前向きなところが好き。私もアンみたいになりたい。辛いことがあってくよくよしてたら、悲しくなるだけでしょ。みんな読むべきよ」
ぼくは「二年間の休暇」をすすめた。でも、少女には刺さらなかったみたいだった。理由は主人公が女の子じゃないからかもしれない。
むずかしい漢字や意味のわからない箇所は、おじいさんに聞いた。
おじいさんはとても物知りで、漢字以外にも勉強を教えてくれた。テストで使える便利な計算方法や、理科の実験。遊びを織り交ぜて、道具を使って学ぶ。滑車や振り子。二重振り子はとても不思議な運動法則で、少女もくぎ付けになった。
「大事なのは実際に体験して、自分の頭で考えることです。たくさん失敗するといい。かならず将来の糧になります。ワタシも料理を何度も失敗して上達しました」
ぼくらは、おじいさんの話には興味津々で耳を傾けた。
蒸し暑い日には、小川が最高の遊び場になった。深いところでも膝ぐらいしかなく、いつも同じ水量だけ流れている。大雨が降っても水が濁ったりすることはない。
水辺に足を浸けて伸ばしたり、川底の石を動かして水生昆虫を探した。泳いでいる魚をふたりで追いかけた。
魚は身をくねらせるようにして指の隙間をすり抜ける。まるで夜空の星のように捕まえることはできない。岩陰から岩陰へ、すばしっこく泳いで逃げる。
小川の底には、角の取れた碁石のような石がたくさんある。どれも表面がツルッとして、水から取り出すとキラキラと輝いていて、とても美しい。ぼくらは、それを拾って集めてコレクションのように地面に並べた。
広場には小鳥が飛んできて地面に落ちている赤い実をついばむ。ぼくは、その実がなんの実か知らない。図鑑を見ても載ってなかった。森には、たくさん赤い実がついた樹木があり、その下にはバラバラと落ちている。試しに食べてみると、苦みがあってとても酸っぱい。
ウサギやリス、テンなどの小動物も、頻繁にやって来る。近づいても逃げたりしない。夢中で草を食べている。少女はウサギの背中をやさしく撫でて「このウサギ、あなたにすこし似てるかも」と笑う。
ぼくは「どこが?」とたずねる。
とっておきは、東の空が白みはじめた時間帯。丘は床暖房のようにポカポカと暖かい(おかげで夜はぐっすりと眠れる)。霧が小川の上流から流れてきて、広場全体を覆う。そこだけ雲の上に浮かんでいるような神秘的な光景が広がる。
深い霧をかき分けるように鹿の群れが水を飲みにやってくる。美しい毛並みをした体には白い斑点がある。
立派な角を生やした鹿が、なにかに気づいたように丘の上にいるぼくたちを見上げる。ピンと立てた耳を動かして気配を探る。それから安心したように細長い首を下げて小川の水に口をつける。
おどろいたのは、大きな熊が森の奥から姿を現したときのことだ。コブのように盛り上がった背中が鈍い銀色をして、動物園で見たのより迫力があった。
ぼくは、食べられるんじゃないかと緊張した。
「襲われる心配はありません。ここでの争いはご法度です。熊もよくわかっております。こちらから不用意に近づかないことです。そのうち自分の住処に帰っていきます」
熊は地面の匂いを入念に嗅ぐ。ぼくらには興味がないみたいにゴロリと転がる。大きな前足で顔をかく。それだけ見ると大きなぬいぐるみのように見えなくもないが、爪は一本一本が太い釘のように鋭く尖っている。
水を飲み終えた熊が霧に吸い込まれて消えると、ぼくと少女は大きな息を吐いた。
夜空には夏の大三角形が輝き続けていた。
ぼくは、かけっこで負け続けていた、あいかわらず。
毎日、すこし前を走る背中を観察していて気づいた。腕と足が流れるように連動して、走りにムダがない。その姿に、ぼくは思わず見とれてしまう。
いつしかぼくは、勝つことよりも少女と走るのが目的になった。
終わりのない夏の日差しの中、無心になって草原を全力疾走する。余計なことを考える必要はない。
森の奥から乾いた風が吹いて、背中を押されてるみたいに体が軽くなった。
少女の息づかいが聞こえる。腕と腕が軽く接触して、チラっと横目でぼくを見る。
ぼくの体が半分だけ前に出たところがゴールだった。
「あなたの勝ち。かけっこで、はじめて負けた」
少女はあっさりと自分の負けを認めた。どこか嬉しそうに。
「いまのは風のせいだよ。耳の後ろで音が聞こえた」
「だとしたら、あなたが風を味方につけた。あきらめずに挑み続けた結果ね」
まだ呼吸の整わないぼくの手を握る。すぐ目の前に少女の顔があった。
おでこで熱を測るようにキスをした。
「一着になれたご褒美。勝てたら、またしてあげる」
前髪に手を当てて、ちょっと照れくさそうにはにかむ。
ぼくはモゴモゴとして「つぎは実力で勝つ」とかなんとか返事をする。
「私、家に帰りたい」
その言葉に、ぼくは動揺をする。
暗黙の了解みたいなものが、ぼくらの中で存在していたからだ。もしかすると、ぼくを困らせないように我慢していたのかもしれない。
「どうやって。道もないのに」
「方法はあるはず。向こう側から光のようなものを感じる」
「なにも見えないけど」
ぼくは、少女が指をさした方角を見た。迷路のような深い森があるだけだ。
「まちがいない。私には見える。日に日に強くなってる。誤解しないで、あなたといるのが嫌になったとかじゃない。ここはとても穏やかだけど、穏やかすぎる。ここにいる限り、私たちはいつまでも成長できない。あなたがずっと勝てなかった理由はそのせい。永遠に子供のまま。そんなの不自然だと思わない? あっちの世界には辛いことや悲しいこともたくさんあったけど、それでも私はクラスのみんなに会っておしゃべりしたい。まだ知らない世界をこの目で見たい。いっぱい笑ったり泣いたり。中学生になれば、あたらしい出会いがあるはず。
それに、ママが泣いてる。ママは、見えっぱりなの。私が居ないとダメ。パパと二人だと家の中がお葬式みたいに暗くなっちゃう。私ね、ママのことが世界で一番大好き。それが私が帰りたいと思う理由」
「ぼくも会いたい、お父さんやお母さん、生意気な妹。晩飯はみんなでテーブルを囲んで、ベッドでぐっすり眠りたい」
「私たち、似たもの同士ね。私が悲しいとあなたまで悲しくなる。はじめて見たときから感じてた」
「よくわからないけど、そうかもしれない」
「おじいさんがいった、私とあなたは同じ河原に流れ着いた小石だって。共鳴する。すべて偶然だけど偶然じゃない。気づいてないだけで、道で何回もすれちがっているような……ねえ、あっちに戻ったらデートしましょう。いろんなところに遊びに行くの。映画館や遊園地。可愛い服を着て、手を繋いで」
「会いに行くよ、帰れたらだけど」
「絶対の絶対?」
「約束する。学校の名前も場所も覚えてある。校門のところで立ってる」
「私、ずっと待ってる。あなたが私を見つけてくれることを。もし来てくれなかったら本気で怒る」
少女は、脅すような視線でぼくを見つめる。
遠くにクジラのような雲が浮かんだ空の下、丸い丘でぼくらは約束した。
ある日、少女の提案で、花を編んで作った冠をおじいさんにプレゼントしようという話になった。お世話になっているお礼だ。
ぼくは、草原に咲いている黄色い花を見つけて、少女のところにたくさん運んだ。
「どんな高価な贈り物よりもうれしい。気持ちは一生の宝です。部屋の目立つ場所に飾っておきます」
おじいさんは、花かんむりをとても喜んで受け取ってくれた。雪のように白い頭に乗せる。
「二人で作ったの。お花には可哀想なことをしたけど」
「花はまた生えてきます。ここではあらゆる命が回りめぐっているのです」
「星座みたいに?」
「星も花も似たようなものです。夜空に輝くか地上に咲くかの違いでしかありません」
「おじいさんは守り人なの? この丘が踏み荒らされないように守ってる」
「人にはそれぞれ役割があります。ワタシはここが好きなのです。できることなら、永遠に残しておきたい。ワタシが生きてきた証なのかもしれません。あなたにも、そういう場所がいずれ見つかるはずです」
「いろいろとありがとう。よくわからないけど、いまいわなきゃいけない気がした」
少女は、大好きな祖父にするようにハグをしていた。
ぼくは、その様子を隣で眺めていた。
(まるでお別れの挨拶みたいだ)
なんとなく、邪魔をしてはいけないような気がした。
影が横切る。空を見上げると長い尾羽をした鳥が飛んでいた。優雅に舞うように丘の頂上にとまる。
ぼくは、綺麗な鳥だと思った。とても神々しい。クジャクに似ているけど、クジャクとはちがう。風にたなびく冠羽、光沢のあるオレンジ色の羽毛をして、胸のところが燃えるように赤い。首を斜めに動かして、やさしそうな目をパチパチとさせる。
「めずらしい。灰色鳥です」
おじいさんがベンチから立ち上がる。
「灰色鳥?」
「黒でも白でもない。あちら側とこちら側の境界を行き来できる希少な鳥です。はるか北にある氷の山で暮らしている。ワタシもひさしぶりに見ました。吉兆です」
灰色鳥は羽毛を逆立てるように胸を膨らませ、冠羽をブワッとさせる。美しい姿からは想像できない、けたたましい鳴き声をあげる。
それは目覚めの合図となって森に響き渡る。
灰色鳥は役目が終わったようにオレンジ色の翼を広げる。頭上を旋回して森の奥へと飛び去っていった。
「どうしたの?」
「なんでもない……遠くで名前を呼ばれたような気がしたの」
ぼくの声が聞こえないように固まっていた。灰色鳥が飛んで行った方角を見つめ続ける。
翌朝、少女の姿は消えていた。
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