水晶の見る夢4
まぶしい日差しに目を開ける。ぼくは、原っぱの真ん中に仰向けになって寝転がっていた。
晴れ渡った青空が広がる。やわらかな草の感触が頬をくすぐり、涼やかな風が髪をそっと撫でる。静かで、とても気持ちがいい。どこからともなく、せせらぎが聞こえる。
うちの近所に、川は流れていないはずなのに、とぼくは思う。
「やっと起きた」
まっすぐな黒髪をした、白いワンピースの少女が横に立っていた。耳元の髪を片手で押さえ、あどけない表情でぼくを見下ろす。少女の指は、爪の先が丸っこくて繊細そうな形をしていた。
ぼくは体を起こした。
ビルや家は一軒もない。工場の煙突、電柱や電線も見えなかった。車の音も聞こえない。黄色や水色の蝶々がヒラヒラと舞う。
「ここは静かな森の一番奥にある聖域。世界のどこにもあるけど、普通の人は行くことのできないところ。森は、何日かかっても歩ききれないぐらい広大なの。危険な猛獣もいる。途中、流れが激しい川と、底の見えない崖がある。そこを無事に渡れたとしても、どこも似たような景色だし道もないから、ここまで来ることはできない。上を見ても樹が生い茂っていて太陽は見えない。自分がどこを歩いてるか方角もわからない。コンパスも地図も通用しない」
黒い瞳がランランと輝いて、ぼくがどういう反応をするかたしかめるように観察している。
「危険な猛獣は、トラやライオン?」
「もいるかも」
「迷子になりそう。ぼくは、ここまでどうやって来たんだろう」
少女は、「さあ」と肩をすくめた。
「本当は、私もよく知らないの。ちょうどよかった。遊び相手がほしいと思っていたところだったの。ここには私とあなたの他に、おじいさんしかいない」
ぼくは、少女の視線を目で追う。
草原の切れ目には、青いベンチがあり、南国風のカラフルなシャツに砂色の半ズボン姿をした老人がひとり、景色に溶け込むようにして座っていた。雪が降り積もったような真っ白な髪に丸い黒ぶちの眼鏡。痩せていて、まるで仙人みたいだと思う。そこに居るといわれなければ、気づかない感じだ。
「きみのおじいさん?」
「ということは、あなたのでもないのね」
ぼくは、首を横に振った。
「一日中、ああして丘を眺めてる」
「丘?」
「ついてきて、紹介してあげる」
白いワンピースの少女の後ろを、草原の斜面を下る。
振り返ると、小さな山のような緑の丘があった。
周囲を平らな原っぱが取り囲み、さらにその外側を樹々と深い藪が自然のバリケードを作っている。森の奥は日の光が届かなくて、不気味なほど薄暗い。
ぼくは、おじいさんに挨拶をした。ベンチは、昨日青いペンキを塗り直したばかりのように新しい。
「長い間、お待ちしておりました」
まるで遠い昔の自分を重ねるように、ぼくを見ていった。
「ながいあいだ?」
「昔、お会いしたことがあります。1945年に一度」
「ぼくが生まれるずっとまえだ」
「ワタシにとって忘れることのできない年です。まるで昨日のことのように覚えております」
おじいさんの目じりにシワが増える。
近所に住んでいる顔なじみのおじいさんのような親しみを感じる。すくなくとも悪い人ではなさそうだ。
「気がついたら、ここにいました。ぼくは、どうやって来たのかも覚えてません。森の奥にある草原みたいだけど」
「さようでございます。街から遠く離れた、人が足を踏み入れることのできない未開の地です。行きたいと思っても、みな気づかないうちに通りすぎる。列車の停まらない駅のようなものです」
「どうやったら家に戻れますか」
「そうしてあげたいのは山々ですが、ごらんの通り、道という物がございません。携帯電話やコンビニもない。しばらく、ここに逗留することになります」
「一日? それとも二日?」
「ワタシにもなんとも。それに、ここでは時間というものにあまり意味がありません。こちらで1日でも、あちらでは1時間もたっていない。その逆も。時計の針の進み具合が根本的に異なっているのです」
ぼくは、「話してる意味がよくわからない」と正直に伝えた。
「心配にはおよびません。いまは、待つことが肝要なのです。良き知らせは必ず来ます。それまで、ゆるりとされるとよい。遊ぶのに十分広い。遊びは子供にとって仕事のような物です。困ったことがあれば、声をおかけください。いささか耳は遠くなりましたが、暇だけはたんとあります」
おじいさんの話を聞いているうちに、なぜか帰りたいという気持ちは薄れてしまった。
ぼく自身、いまは帰れないんだろうなというのが、頭のどこかでわかっていた。下校のチャイムが鳴るまで、学校を出てはいけないように。
白いワンピースの少女と原っぱを歩きながら、少女も気がついたらここにいて、どうやって来たのか記憶がないこと、今日の朝、ぼくが突然現れた話を聞いた。偶然にも、ぼくらは同学年だった。同じ市内にある小学校に通っている。学校の名前を聞いてもピンとこなかったけど、バスに乗って行けそうな距離だということはわかった。
ぼくらは、お気に入りの文房具を交換するみたいに自己紹介をした。
少女は、ぼくの名前をかみ砕くようにつぶやいて、「覚えやすくていい名前ね」と褒めてくれた。
とても上品な響きのする、勉強のできそうな名前だと、ぼくは伝えた。
「ありがとう」と、照れくさそうにはにかむ。
丘の南側には、森の奥から小川が流れていた。
川幅は、思いっきりジャンプすればギリギリ超えられるぐらい。澄んだ水の中を、銀色に輝く小魚が数匹泳いでいる。手を触れるとかなり冷たい。
その先、丘の斜面には明るい土色をしたヤモリが這う車よりも大きな岩があり、ゆったりとした流れがぶつかると岩の下に吸い込まれるようにして消えていた。
(水の流れる音は、この音だったのか)
とぼくは思う。
「森の奥には、枯れることのない泉があって、そこの湧き水が流れてきてるの」
少女はしゃべり方はとても簡潔でハキハキしていた。泉は淡いエメラルドグリーンの色をしている、と付け加えた。
「見たことあるの?」
「ううん。なんとなくわかる。こんなに綺麗な水は見たことがない」
ぼくは「ふーん」と思った。
「あなたの小学校は、どんな感じ? ドッジボールは得意? 私、足元を狙うのが得意なの」
ぼくらは、すぐに友達になった。
子供はぼくたちしかいなかったし、少女はずっと退屈していて話し相手を求めていた。
ここには宿題もテストもない。冷やかす男子も、噂好きの女子も、口うるさい先生も。
「ねえ、かけっこしましょう。丘を一周して、小川がゴール。負けたら相手のいうことを聞くの」
ぼくは、いいよと返事をした。小学校の運動場と同じぐらいなので、ちょうどいい距離だ。
そのまえに、少女の提案で川の近くにある大きな石を動かすことにした。
「足を引っかけて、転倒したら危険でしょ」
大きな石の横には、錆びた鉄の棒が地面に突き刺さっている。
ふたりで協力して持ち上げた瞬間、爆弾が爆発したような大きな音がして、ぼくと少女はおどろいた。もうすこしで石を足の上に落っことしそうになった。
「雷が落っこちたみたいな大きな音。向こう側から聞こえたみたいだけど」
丘の正面にある巨大な岩を見つめたまま固まる。
「動かしたらまずかったのかな。この石」
おじいさんが、慌てた様子でこちらに来た。
ぼくは、叱られるかと思った。
「この石を持ち上げたら、ものすごい音がしたの」
少女は悪びれたふうもなく説明した。
「ワタシも危ういのではないかと思案していたところです。転んで頭をぶつけでもしたら大変です。さてさて、どうしたものか」
おじいさんは雪のように白い髪に手を当てて考え込んでいた。
とりあえず、大きな石と錆びた鉄の棒は、邪魔にならない原っぱの端っこに運んだ。
「あとこれも。川底に落ちてたの」
少女は、南京錠をおじいさんに渡した。
古くて、とても頑丈そうな南京錠だ。鍵穴には鍵が刺さったままになっていた。
「すこし様子を見に行ってまいります。ふたりはここで遊んでいてください。すぐに戻ってきます」
おじいさんは、南京錠を半ズボンのポケットにしまう。
濃いからし色をした、ボロボロの帽子を取り出して頭にかぶる。星のマークがついた、とても大事そうな帽子だ。
流れの淀みに入ると、よく日焼けしたしわだらけの手で巨大な岩に触れた。
「大事なことを、伝えるのを忘れておりました。ワタシが留守の間、けしてこの広場から出ないよう。森で迷子になると二度と戻れません。お約束ください」
それだけ言い残して、岩の向こう側に通り抜けるようにして消えた。
「いまの見た? 一瞬、若返ったみたい」
目をまん丸にしておどろいていた。
「何者なんだろう」
「ここの管理人よ、きっと。公園みたいでしょ」
少女の意見の通りだ。ここは森林公園みたいだと、ぼくは思う。
森があって、草原があって、緑の丘がある。小川には綺麗な水の流れ、時々、草原を波のように揺らす気持ちのいい風が吹く。
あとはキャンプファイヤーとテントがあれば完璧だ。
「どういう意味かな。ここから出てはいけない」
「私たちが迷子になったら責任問題になるからじゃない」
「それだけなのかな」
「森に入らなければいいだけの話。早くかけっこしましょう」
森はとても不気味だ。入るつもりはなかったし、おじいさんが岩の奥に消えるようにして入っていったのも、不思議な場所だし、そういう物かと思って深く考えなかった。
小川のスタートラインに並んだ。少女がインコースで、ぼくがアウトコースだ。
ダッシュを決めて、ぼくはかっ飛ばした。
草原は柔らかくて、適度にクッションが効いてて、とても走りやすい。
丘の反対側まで、ぼくがリードしていた。
全力で走っても、なかなか引き離せないのに焦ってしまった。ピッタリと背後から足音が聞こえる。
(自信ありそうな顔をしてたのは、こういう理由だったのか)
気づいたときには遅かった。
内側からあっという間にぼくを抜き去り、まっすぐな黒髪をはためかせて、草原を跳ねるようにして駆け抜ける。水しぶきをあげてゴールした。
「なにかスポーツをしてる足の速さだ」
「あなたも足が速いのね。いい勝負だった」
憎たらしいぐらい勝ち誇った顔をしている。
その場で再戦を申し込んだ。
「そうこなくちゃ。そのまえにちょっとまって」
少女は、白いワンピースの裾をたくしあげて横で絞るようにして結んだ。
「ワンピースだとバタついて走りにくくてしょうがない。これで本気を出せる」
結局、5回走って5回とも負けた。
途中まではリードするのに、勝負どころで抜かれてしまう。
最後は原っぱに倒れて全身で息をした。
「今日から私の手下ね。呼んだらすぐに来ること。負けたから文句ないでしょ」
額の汗を手拭う。ケロッとしていた。
どうやらスタミナもかなりあるらしい。
「おじいさんが帰ってきた」
少女が振り向くと、小川のほとりにおじいさんがいた。
サンダルを脱いで、濡れた足を手ぬぐいで拭く。
「あちら側を覗いてまいりましたが、ふたりとも気持ち良さそうに眠っておりました。しばらくすれば目を覚まします。もうなんの心配もいりません。あのふたりなら、自分の足で前へと歩み続けられる」
おじいさんは、ほがらかに笑っていた。
わからないけど、問題は解決したみたいだ。
「そろそろ晩御飯にしましょう。温かいシチューを作ってまいりました」
青いベンチの脇には、登山者が使うような大きなリュックがあり、携帯用のコンロと鍋が置いてあった。
鍋の中には、野菜がゴロゴロと入ったクリームシチューが入っていた。
それを底の深い皿に移す。コップに冷たい麦茶を注いで、ベンチに並んで座ってスプーンですくって食べた。
トロトロで甘くて、とても美味しかった。体の芯から温まる。
少女もすごく美味しいと喜んで食べていた。
「野菜はうちの庭で育てた無農薬の物です。コツというほどではありませんが、時間をかけて煮込んであります」
調理方法は、食堂で働いているコックに教わったと、おじいさんはいっていた。
ぼくらは、二杯ずつおかわりをした。
西の空が夕焼け色に染まりはじめると、おじいさんはリュックの中から年季の入った真鍮製のランタンをたくさん取り出して、森と草原の境界に間隔をあけて並べた。
ぼくらが寝ぼけて森に迷いこまないように、もしくは不吉な暗闇がこちら側の領域に入ってこないよう強固な結界を張るように。おかげで太陽が沈んでも、ちっとも怖くなかった。
暗い森が淡い光によって照らしだされる。まるでイルミネーションのように幻想的で綺麗な光景だ。
虫たちの涼しい鳴き声のする、緑の丘の頂上にマットを敷いて、枕元にランタンを置いて川の字で横になる。
目の前に満天の星空が広がる。ぼくらは、海を眺めるように星空を見上げる。
海と宇宙は似ている。どちらも広くて、吸い込まれるように青くて黒い。星は宇宙を泳ぎ回る魚だ。ぼくは、こんなにたくさんの星があることをはじめて知った。星を散りばめた天の川もくっきりと見えた。
街の灯りがないだけで、こんなにちがうのかと驚いたほどだ。
おじいさんは、とても物知りで、いろんな星座や星について話を聞かせてくれた。
ぼくと少女は、その話を聞きながら、遠い夜空を指さして名もない星を探したり、だれも考えつかないような新しい星座を創作しあった。
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