19.残骸


 よお、とヤサカは呑気そうに笑ってこちらに向けて手を振っていた。


「大体話は聞けた? というかそっちの女の人は?」

「ミヤマです、職場の後輩です」


 ミヤマは姿勢を正すと彼に向けてそう言った。


 彼の実家にいた時と少し違う、その過度なまでの丁寧さに少し軽蔑じみた感情が混じっていることがすぐに分かった。彼女もそれを隠すつもりはなく、ヤサカも彼女の露骨な態度には気づいている様子だった。だが彼は特に気にすることなく「よろしくね」と返事をして爽やかに笑っていた。


「来ないと思ってたよ」

「流石にそれはな、義理じゃないなって思ってさ。ま、実家に帰る勇気まではなかったけどさ」


 そう言って彼は肩を竦めて笑う。こんな時に限ってもおどけてみせる彼に僕はため息をついた。


 彼から連絡が来たのは、彼らの両親と別れ、丁度車に戻った頃だった。彼はもう来ないだろうと諦め、帰宅を考え始めていた頃に携帯に通知が入った。彼から飛んできたSNSメッセージにはアドレスが貼ってあって、開くとピンの刺されたマップが表示されていた。それから続けてただ一言「待ってる」とだけ。


 マップの位置はここからそう遠くない場所で、歩いて十数分もすればたどり着く距離だった。


 ミヤマは、もう行く必要はないんじゃないかと言っていた。事の発端の一因でもある彼だけが一人逃げ、その告白を両親にだけさせたことが気に入らないようだった。


 僕も正直、あの場に彼がいなかったことは不満だったし、失望もしていた。ただ、ヤサカマサトのことを知れたとて、それだけで帰宅してもそこから先、何かに繋がるような想像が正直できなかった。



 結局、彼がどういうつもりで実家ではなく別の場所を選んだのか聞く以外、道はなかった。



 優秀さを演じ続けた兄の陰に隠れ続けていた弟が、何を思って生きてきたのか。



 僕はそれが知りたかった。



   ○



 リョウヘイが待っていたのは、住宅街の並びにひっそりと開かれた小さな駄菓子屋だった。


 ヤサカはその店の外に置かれたベンチに座り、きなこ棒を食べながら僕たちを待っていた。お前らも何か買ってこいよ、と半ば強引に手渡された二百円に戸惑いながら僕たちは店内に足を踏み入れた。


 店内はがらんとしていて、レジの奥に見える和室で老人が一人こたつで船を漕いでいるのが見えた。


 子供たちの下校時刻からが本番なのだろうか。店の端には入荷したばかりのお菓子が積み上げられているが、開封された様子はない。ただ単純にこの店がこういうスタイルなだけかもしれなかった。


「あ、このグミ見たことあります。当たり付きなんですよね」

「食べたことはないの?」

「ないですね、大体お菓子ってスーパーとかコンビニだったし。最近ショッピングモールとかでこういうお菓子のコーナーあるじゃないですか、そこで見ました」

「そっか、僕は家の近くにあったからなぁ」

「あ、私が都会っ子だったからかもしれないですね」


 そう言って笑うミヤマに呆れながら僕はレトロな店内の空気を味わう。恐らく僕が子供の頃ですら駄菓子屋という存在は末期に近かっただろう。放課後に時々集合することはあれど、毎日通うような憩いの場とまではいかなかった。子供の需要や遊び方が変わったこと、そして何より店を継ぐ人がいなかったことも相まって、しばらくしてその店は閉店した。


 僕は店の端に置かれた冷蔵庫から適当なアイスバーを一つ手に取る。ミヤマを見ると、物珍しさに興奮したのだろう、両手にたくさんのお菓子を抱えて目を輝かせていた。僕は彼女の買いっぷりに少し呆れつつも、こういう子なんだよな、と飲み込んだ。


「そんなに買うの?」


 声をかけると彼女ははい、と張り切った声で返事をした。


「レトロ感があって面白いじゃないですか。しかもちょっと食べには丁度いいし。仕事中に気分転換によくお菓子食べるんですけど、ついつ開けた袋分全部食べちゃうんですよね。だからこれくらい個包装にしてくれるとすごくありがたくって」


 ミヤマにとっては需要に満ち溢れた店だったようだ。これを機に沢山の駄菓子を買い込むようになりそうだが、個包装と油断して食べすぎる彼女の姿も想像に易い。


「いいけど、リョウヘイに渡された二百円を超えてないか?」


 僕の言葉に彼女はきょとんとしていた。


「え、あの人のお金は使う気ないんで、返しておいてください」

「いや、せっかくだからミヤマが使っときな。僕はいらないから」

「いえ、返しておいてください」

「そんなに嫌いか、あいつのこと」


 そう言うと彼女はお菓子を抱えて不思議そうに首を傾げる。


「……嫌いっていうんですかね、これ」

「違うの?」

「どういえばいいんでしょう。そうですね……私はヨドノさんほど彼のことを知らないですし、言ってしまえば他人です。それにあの人の態度とか、雰囲気とか、斜に構えようと頑張ってる感じとかが正直苦手で、なんていうか……そう、恩を作りたくないんですよ」

「恩を?」


 彼女は頷いた。


「あの人多分、恩を売るの上手いんじゃないんですか? ちょっと気さくな振りをして、踏み込み過ぎず、丁度いいところから気のいい感じで近寄ってくる。でも自分のことは何も打ち明けない。なんか、そういう感じがして。これは合う合わないの問題だと思うんですけども、色んな状況から、彼から受け取った百円を使って恩を受けたくないって、そう判断しました」


 随分な言われようだと思った。ただ同時に、彼女の言うことも確かだと思った。


 彼は人が良い。自由奔放に見えて、気遣いができて、彼の雑さに呆れる人はいるが、嫌う人はいない。そんな感じの人間だった。ただ、それは彼らの家のことを知らず、彼という単体を正面から見て受けていた印象だ。


 改めて僕は、彼の内面を何も理解していなかったことを思い知った。


 ミヤマのこういう人を見る目は、僕も参考にしないといけない。


「じゃあ僕が奢るよ。せっかく来てもらってるし、言うほど他人でもないだろ」

「え、じゃああと二、三個追加していいですか?」


 そう言ってにっこり笑う彼女に僕は肩を落とす。僕に対してなら何の遠慮もいらないとでも思っているのだろう。これはこれで、問題だ。


 ミヤマが抱えたお菓子と僕のアイスバーをレジに置くと、奥の部屋で船を漕いでいた老人が目を覚まし、目を細めてこちらを見た。それから重だるい身体をテーブルを使って持ち上げ、ゆっくりとこちらにやってくる。彼ほどの歳になるとこの数メートルも厄介なのだろう。


「いらっしゃい……結構買うねアンタ」


 レジに山盛りになった駄菓子を見て彼は目を見開く。思わず漏れたであろう彼のその言葉を聞いて、少しはしゃぎ過ぎてしまったことを自覚したのか、ミヤマは顔を赤らめて下を向いていた。


「ここ、随分前からあるんですか?」

「七十年くらいかね。まあ、俺の代で最後だろうな、倅も普通に街の外出て仕事して、定年を迎えた今も別の仕事見つけてのんびりやってるから。こんな街に戻ってくることなんてないだろうね」


 そう言って彼は遠くを見つめていた。


「まあ、昔ほどじゃないけど今も子供が遊び場にしてくれてるし、儲けたくてやってる仕事でもないし、ほとんど趣味みたいなもんだから、死ぬまでは開いているだろうね」

「こんなに面白いお菓子が沢山あるから、もしなくなったら寂しいでしょうね、子供達」


 ミヤマの残念そうな声に彼は微かに口元に笑みを湛えた。嬉しそうで、少し寂しそうに見える表情だった。


「まあ、継ぐ人がいないんじゃね。しょうがない。昔ほど親の決めた道に収まる子供もそう多くないからね。俺の代なんかだと、大抵反発しても結局はそこに落ち着くもんだったけど、今じゃ選ばなくても道は沢山あるから」

「店主さんも反発とかってしたんですか?」


 彼はこっくりと頷く。


「前は駄菓子屋ってよりはスーパーに近かったんだけどね、俺はその店を継ぐのが嫌だったんだよ。だって世のサラリーマンはものすごい勢いで稼いで、夜の街で盛り上がっていたんだから、俺もそうなりたいって思った。で、家出同然で都会の会社に転がり込んだけど、てんでダメだったね。稼げる分、金もすぐに出て行ったし、そのうち自分がどこで何をしているか分からなくなった。道を見失って、でも拾ってもらった恩もあるから必死に働いて。いよいよ生きるために仕事をしているのか、仕事をするために生きているのか分からなくなった頃に、親父が死んだんだ。葬式の時に店を継がないかって相談をされて。無意識だったんだけど、すぐに頷いたよ」

「それが、この店ですか?」


 彼は頷いた。やがて重たそうに頭を上げ、周囲を見て回る。その瞳には過去を懐かしむような、しかしどこか悔いるような色が滲んでいた。それを僕も、そして恐らくはミヤマも察していた。


 彼は、本当にこれで良かったのだろうかと思っている。全てを惜しんで働き続けて、栄光で煌めいていたあの光景を思い出しながら、本当にあの選択が正しかったのか、と。もし命を賭けてでも走り続けることを選択していたなら、もっと色鮮やかで、美しい光景が待っていたのではないかと。こうして街の片隅で日々を謳歌する子供たちを眺めながら、色彩を失っていくことはなかったのではないかと。


「一体何が、正解だと決めてくれるんでしょうね」


 僕の呟きに、彼は首を振った。


「それは、死ぬ間際まで分からないもんだろうよ。走馬灯って言うだろう、瞼の裏に浮かんだこれまでの景色。それを眺めて、初めて正しい生き方ができていたかどうかを判断できるんじゃないかね」


 彼はミヤマの買った駄菓子をビニール袋に詰めると、彼女に手渡した。


「俺が死ぬ間際に見る景色が、ここから子供たちを眺めている景色だったらいいんだけど」


 そう言って笑う彼の刻まれた皺が、笑顔に引っ張られて引き攣っていた。僕らは彼にお辞儀をして店を出る。振り返ると、彼は機械的に立ち上がり、奥の部屋へと戻っていった。彼にとって、世界と繋がる唯一の場所が、ここなのだろう。

 誰もいなくなった寂しい店内を眺め、やがて前を向くとベンチに座るヤサカへと歩み寄る。


「お、何買った?」


 呑気そうな態度でそう聞く彼に、無言で渡された二百円を渡した。

 それからミヤマとベンチに座り、アイスキャンディーの袋を開けて一口齧る。冷たいアイスに口先がツンとしみる。爽やかなソーダの香りと味よりも先に刺激がくるのを感じて、年齢の積み重ねを感じた。


「なんだよ、せっかく奢ってやろうとしたのに」

「たかが二百円で喜ぶ歳でもないから。それにこの先会うこともなくなるだろうし、ここで借りを作ってもしょうがないだろ」


 僕の言葉に、ヤサカが顔を上げた。僕は続けて彼に吐き捨てるように言った。


「兄さんが死んで、何か変わるとでも思ってたんだろ。結果はどうだった?」


 彼の目が細くなる。睨んでいるわけではないが、その強張りを見る限り彼の触れられたくない琴線に触れたのだろう。僕はアイスキャンディーをもう一口齧る。


「マサトさんが死んだ理由、大体理解したよ。お前の家族が彼の死と、そこに至ったいくつもの選択に深い後悔を抱いていることも」

「……兄貴がこのまま生き続けていたら、こんなことにならなかったと思うか?」

「まさか」


 ヤサカの問いに僕は首を振った。


「あんな生き方、綱渡みたいなもんだし、きっとどこかで似たような状況になっていたと思うよ。僕からしたら、唯一の救いはミシマと結婚する前だったこと、結婚して子供が産まれた後でなかったことだと思うよ。守るべきものが増えれば増えるほど、マサトさんはギリギリになっていっただろうし、その分彼が壊れた時の被害も大きかっただろうから」

「だよな、俺もそう思ってる」


 僕の言葉に彼は頷いた。それから背中を丸め、気だるそうに両肘を膝に置き、組んだ両手の上に自分の顎を置き、考え込むような顔で僕に言った。


「親父とか母さんは気が付いてなかったけど、俺はなんとなく兄貴がヤバい状態になっているのは分かってた。いつも何かに追われるみたいに必死に勉強しててさ、寝る間も惜しんでやるくせに学校だとそんな様子全く見せなくて、放課後とか周りに勉強教えてたりしててさ。とにかく人の目が一つでもある時は、非の打ち所のない人を演じ続けていた」


 彼は呆れるように笑う。


「兄貴さ、親父とか俺らが出掛けると、いつも必ず寝てるんだよ。勉強の合間で仮眠してたとか適当に言ってさ。初めはそれを信じてたけど、ある時一度だけ、家族で出かけるのを理由つけて途中で帰ってみたんだ。そしたらさ、兄貴、俺たちが出掛けた瞬間から寝てたんだよ。部屋を真っ暗にして。険しい顔のまま熟睡してる兄貴を見て、めちゃくちゃ怖くなった。完璧な兄を演じる為に、ここまでしなくちゃいけないのかって。家ですら自分を曝け出せなくなるのかって」

「声、かけたのか?」


 ヤサカは首を横に振る。


「かけられるわけないだろ。兄貴が絶対に見られたくないところだってすぐに理解したし、ここで兄貴のことを起こしたらヤバいって思ったんだ……まあ、結局行き着くところはきっと同じだったんだろうけど」


 彼は前を真っ直ぐに見つめる。年季の入った一軒家が立ち並ぶ住宅街の遥か先に緑が生い茂った山が見え、それを境に見える空は鈍いグレーと青が滲んだ色で、その褪せた空を切り裂くかのように対応の光が一筋見えていた。


「ずっと考えてるんだ。兄貴はどこで転けても死ぬ運命だったのかなって」

「それは……」

「いや、多分どこで転けてもそうなってたと思う。これは予想じゃなくて確信なんだ。執拗に親父たちの理想を演じるようになった時点で、兄貴はもう壊れてて、元には戻らなかった。だから、どこで壊れようが同じなんだよ」


 彼の言葉に、僕は躊躇うように一言付け足した。


「……転勤の話がなければ?」


 僕の言葉に彼は力なく笑った。


「結局は、そこに行き着くんだ」


 彼は深いため息をつくと、諦めたような表情を浮かべ、ベンチに背中を預けた。


「……兄貴の成績が落ちたことを悪く伝えたの、俺なんだ」

「どうしてです?」


 それまで僕たちの会話を黙って聞いていたミヤマが割って入るように尋ねた。信じられない、とでも言ったような顔をして、彼女はヤサカのことを軽蔑の眼差しで見つめていた。


「なんでそんなことができるんですか? なんとなく思っていたなら、どうして、そんな、お兄さんの唯一の支えになっていた海を奪うなんて選択できないじゃないですか。なんで、そんな……」

「ミヤマ」


 僕の声に彼女が黙り込んだ。でもヤサカは構わないとでも言うように首を横に振っていた。


「いや、ミヤマさんの言う通りだよ。当時もガキながらなんとなく理解していたよ。兄貴が大変な目に遭ってるってことくらい。でも、それ以上に俺は当時欲しかったものがあったんだ」

「欲しかったものって?」


 彼は笑った。いつもの不敵な、自信に満ちた笑みではなく、憑き物がとれたような虚脱した顔で、僕にはそれがとても不快に見えた。まるで、自分だけ先に救いに辿り着いたとでも言うような、ずっと胸の内に隠したものをようやく告白できるとでもいうような表情だった。


「親父たちの目だよ。兄貴がずっと抱えてきたあの目」


 ミヤマがひゅっと喉を鳴らした。僕も同時に溜め込んだ息を吐いた。


 その一言で、ヤサカのほとんどを理解できた気がした。


「……そうか、お前は憧れてたんだな、マサトさんに」


 ヤサカは僕を恐らく見た。僕はその視線を感じながら、目を合わせることはせず視線を伏せる。


「つきっきりで面倒見られていた兄がずっと羨ましかったんだろう? 周囲から立派な人だと言われているのが羨ましかったんだろう? あとはそうだな、寂しかったんだろ、目にかけてもらえないことが」



 ヤサカリョウヘイの本質は、そう。

 寂しさだ。



 ずっと兄という光り輝く存在の影で何不自由なく過ごしてきて、苦労もなければ挫折もない。兄が切り開いた道を同じように辿るだけで無駄なく安定した日々が待っていた。兄がその道を邁進している限り、両親たちも自分には過度の期待をかけない。勿論それなりのプレッシャーはかけられたとしても、ヤサカマサトという存在に比べたら大したものではない。


 好きな本も読めた。映画も観られた。ゲームも楽しんだし、友人たちとの交友も楽しめた。兄が触れられなかった全てを、リョウヘイは享受して生きてきた。 



 だからこそ、足りなかった。



 名声を、地位を積み重ねている兄に比べたら、どんな時も彼の残す成績には敵わない。その分両親から評価されるのもそれなりで、兄のように誇らしいとでもいうかのような評価をされることは決してない。そんな小さな不満がゆっくりと、彼を侵食していった。



--自分も兄のようになりたい、と。



「……何やっても俺が言われたのは、その調子でマサトみたいに頑張れだったよ」


 僕の言葉に彼はそう答えた。


「あの日さ、珍しくかなり良い点数が取れたんだよ。順位もそれなりでさ。過去の兄貴よりも良い点数だったし、兄貴の点数がいつもより少し伸び悩んでたんだ。見え方によっては、俺が兄貴よりも調子が良いように見える成績だったんだ」


 だから、チャンスだったんだ、と彼は呟いた。


「兄貴よりも良かったって言ったら、お前もたまにはやるもんだって言ってもらえると思ったんだよ。だから俺、少し盛ったんだ。兄貴がウインドサーフィンなんかに気を取られてるから俺なんかに抜かれちゃうんじゃないの? ってさ。間違っても兄貴から海を取るつもりなんかなかった。ただ、俺が兄貴よりも珍しく良かったところを褒めて欲しかっただけなんだ。マサトもたまにはリョウヘイを見習えよって、そんなことを言ってもらえるんじゃないかって想像していただけなんだよ」


 その後に起きた出来事は、既に僕とミヤマはもう知っている。彼の想像する求めた未来は来なかったし、ヤサカマサトは心の拠り所としていた海を奪われ、ただ“完璧である”ということにだけに縋らざるを得なくなった。


 彼が必ずしも悪いわけではない。彼は、彼なりに自分の存在を認められたかっただけだ。ヤサカマサトの弟ではなく、ヤサカリョウヘイとして見てもらいたかっただけなのだ。


 ただ、その伝え方がうまくいかなかった。そしてその“うまくいかなかった”たった一言が彼の家族の全てを変えることになってしまった。


「ほんと、言わなきゃよかったよ」

「でも、言わなかったら、お前はずっとモヤモヤしていたんだろう?」

「……そうだな、その通りだ」

「お前と兄さんとのことは、お前たち家族の中のことだから、僕は何も言えない。この先もずっと抱え続けながら、解消していくしかない。どうしたら良かったのかって……。例え、この地から逃げたとしても」

「だろうな」

「結婚も、引っ越したのも、全部抜け出したかったからなんだろ」


 ヤサカは頷いた。これ以上隠す必要がなくなったからか、彼は僕の質問に従順に答えてくれた。


 それがまた僕を苛つかせていた。彼は今、救われつつある気になっている。


「……ミシマを僕と引き合わせたのは、どうしてだ」


 彼は少し考えた後、苦笑しながら言った。


「お前が、良い奴だったからだよ」


 その一言にミヤマが思い切り立ち上がったが、僕は彼女を制し、座らせ、何度か深く呼吸を繰り返した。自分も思ったより興奮しているようだった。彼がそういう奴だというのはもう理解していたはずだ。


 彼はミヤマやトニムラたちとは違う。僕がずっと悩んできた友人と同じように、僕のことを印象でしか見ていない人なのだから。


「お前だったら、ジュンちゃんのちょうどいいポジションに収まってくれると思ったんだ。穏やかなお前の雰囲気が兄貴に似てたし、その人を受け入れるのが上手いところとかも、そつなくこなすところとかも、いろんなところがジュンちゃんの好みに似てると思った。お前だったら、兄貴の穴を埋めてくれると思ったんだ。だから、お前を紹介した」

「付き合いはじめた時に、兄さんの話を出したのは、どうしてだ?」

「……ホッとしたんだろうな、ようやくジュンちゃんのことも落ち着いてきた時で。言うべきじゃないことも分かってた。でもいつかは知っていたことだとも思ったし、なんとかなるだろうとも思ってた。その結果が、これなんだけどな」


 そう言って肩を竦める彼を見て、僕は目を閉じた。


「リョウヘイは、何もすべきじゃなかった」

「何も?」

「お前を含めて、家族がミシマに対してできたのは、見守ることだけだったんだよ。恋人の死んだ姿を見て、彼女が深く傷ついていたとしても、思い詰めていたことに気がつけなかったことを責めていたとしても、お前にできるのはただ見守って、自責の念に追い込まれないようフォローする。それだけだったんだよ」

「だから、フォローしたじゃないか」

「“ヤサカマサトの代わりになる”僕をあてがってか?」


 彼が息を呑むのが見えた。手にしていたアイスキャンディーは既に溶け切って、床に流れ落ちていた。


「ミシマは、どこかできっと別の恋人を見つけたよ。彼のことは忘れられなくても、それすらも包み込んで愛してもらえるような人を」


 そう、ミシマは、きっとそうやって生きる道を選んでいたと思う。


 彼女は強い人だから。深い責任と後悔と、自分を残して行ってしまったことに傷つきながらも、いつかは前を向いていたと思う。そしてそれは、他人が介入して治癒すべきものではなく、彼女自身が行うべきものだった。


 ただ彼女は僕と出会ってしまった。そうして自ら癒やせるはずだった傷を長引かせてしまう羽目になってしまった。


 どことなくヤサカマサトに似た面影をした僕と過ごすことで、ヤサカ家とも、死んだ彼への想いも断ち切りきれずに。そして、なんとなく元恋人の影に躊躇いを見せる臆病な僕を見て、その背後にきっと彼を見ていたに違いない。



 もっと僕が、何もかもを拭い去れる人であったなら。



 もっと、彼女を乱暴に奪い去れるだけの度胸があれば。



 彼女が溺れるくらい、僕が幸せを感じさせられていたならば。



 こんなことにはならなかったはずだ。



「リョウヘイは、余計なことしかしてないんだよ」

「余計……?」


 僕は頷く。


「ミシマも、僕も、自分がどうなるかは自分で決められる。お前の兄さんや、お前とは違って。自分の道筋を誰かのせいには絶対にしない」


 言いたいことは、ほぼほぼ言い切れた気がする。僕が立ち上がると、ミヤマも一緒に立ち上がる。ヤサカは項垂れたままベンチに座っていた。


「じゃあ、行くよ。最後にミシマとも話さなくちゃいけないんだ」

「……兄貴はさ、いいよな。もう悩む必要がないんだから」


 ヤサカはそう漏らすと、上を向いた。今にも泣きそうな表情を浮かべているが、目元に涙は浮かんでいない。


「自分で死ぬってどう言う感覚なんだろうな。俺も、どうしてこうなったのか考える度に死にたくなるんだよ。でも死ねない。全部放り投げられたらって思うのに、もし自分が放り投げた後に周りはどうなるんだろうって考えると、踏み切れなくてさ……」

「それが正常な考えですよ」


 滔々と語りはじめたヤサカの言葉に、ミヤマが割り込むように言った。


「死にたいなんて、誰もが思うことですし、それを引き止めるのも現実なんです。あなたのその感情はとても正常です。だから、これからも生き続けられます」


 ヤサカは彼女を見た。これまで僕が見たことがないくらい、切望に満ちた表情をしていた。その顔を見てもミヤマは表情を変えることなく、ただ業務的に言葉を続ける。


「ここで終わりにしていいって考えに至らない限りは、あなたは大丈夫ですよ」

「そっか、俺はまだ生き続けるんだな」


 彼はそう呟く。それからベンチに背を預けると真上を見つめる。


「……この駄菓子屋に呼んだ理由さ、俺と兄貴の思い出の場所だからなんだよ。ここで兄貴がよく飴を買ってくれたんだ。兄貴も勉強一筋で大した小遣いも貰ってなかったのに。俺の方が小遣い貰ってたのに、ここに立ち寄ると必ず十円の飴を買ってくれたんだよ」


 甘かったなあ、と彼は吐息のように言葉を漏らした。



「もうあの飴、二度ともらえないんだよな」



   ○



「でしゃばって、すみませんでした」

「いいよ、気にしなくて」


 車に乗ってミヤマにまず言われたのはそれだった。彼女なりに黙って見届けるつもりだったのだろう。元々自分が外野だと理解した上で同行していたから。ただ、それでも我慢しきれなかったのだろう。ヤサカマサトの末路を知って、その上で弟の話を聞いたことで湧き上がった疑問や怒りが。


「……アイツもさ、相当悩んでたと思うんだ。兄さんを失って、いろんな物事が狂って、自分なりに抱いた責任感でどうにかしようってね。リョウヘイは、その解決策を見誤っただけだから」

「あの人は、これからも悩み続けるんでしょうか」


 運転しながら彼女は言った。僕は肯定も否定もしなかった。


 果たしてあの日、彼の口にした一言がなかったら、兄が海を失うことがなかったのか、眠っている兄を起こしていたら、少しでも彼の負担を減らせたのか。


「結局はさ、振り返った時にしか答えは分からないんだろうね」

「振り返った時ですか?」


 あの駄菓子屋の店主のことを僕は思い浮かべる。いつか終わるその間際に、何を思い浮かべるのか。そこに映ったものこそが自分の奥底にある真実なのではないか。だから生きている間に答えは決して出ない。正解も不正解も、ゴールテープを切って振り返った時にしか分からない。



 ヤサカがその日を迎えた時、果たして何を思うのだろう。



 それは、彼にしか分からない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る